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◆萩藩臼井家[神保氏]

臼井勘左衛門家 ●臼井又右衛門家 ●系譜上不明

 臼井豊後守の嫡男・臼井藤次郎就方が毛利元就に仕え、備中国猿掛城の攻防戦で戦死した。彼には嗣子がなく、遠い一族である神保兵庫助景胤の次男・臼井対馬守就俊が後嗣に入り、臼井家を継承。就俊には元胤・元光・元徳・就胤の4人の子がいて、元胤の次男・臼井十左衛門就常が本家筋にあたる臼井勘左衛門就房の養嗣子となって大組士に抜擢され、次男の元徳も大組士となる。臼井惣兵衛就胤は毛利輝元の直臣となり大組に列した。

 臼井十左衛門就常の子孫・臼井富之祐胤勝は幕末萩藩の奇兵隊(高杉晋作によって創隊)に参加し、稲荷街道の戦いで負傷して自刃して果てた。 

―萩藩臼井氏略系図―

                                         【大組士・臼井勘左衛門家】
                …臼井豊後守                  +―就房―――――娘
                (藤次郎)                   |(勘左衛門)  ∥――常清――――道常
                  ∥―――――就方―――娘          |        ∥ (勘左衛門)(勘三郎)
 臼井常俊……尹胤―――常行――+―娘    (藤次郎) ∥   +―元胤―――+―就常―――+―直常
(称神保氏)(兵庫助)(兵庫頭)|            ∥   |(勘左衛門)|(十左衛門)|(勘兵衛)
                |            ∥   |      |      |
                +―興胤――+―隆常   ∥―――+―元光   +―元甫首座 +―勝次……弥伝次―胤勝
                 (対馬守)|(宗内)  ∥   |(弥左衛門) (長府雲岩寺)        (奇兵隊)
                      |      ∥   |
                      +―景胤―――就俊  |     【大組士・臼井又右衛門家】
                      |(兵庫助)(対馬守)+―元徳―――就之――――説重――――義正―――成重
                      |      ∥    (勘兵衛)(又右衛門)(五右衛門)(弥兵衛)(又右衛門)
                      |      ∥
                      |      ∥―――――就胤……【大組士・臼井惣兵衛家】
                      +―弥七郎 吉賀氏   (惣兵衛)
                      |
                      +―常喜……【継石川氏】
                       (新右衛門)

 

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◆萩藩大組士・臼井勘左衛門家

 萩藩臼井勘左衛門家萩藩臼井家の本家にあたり、下総臼井一族の神保氏から発祥したとみられる一族である。神保氏と中国地方との係わり合いは承久の乱まで遡る。

 承久3(1221)年の「承久の乱」宇治川の戦いで神保氏の一族と考えられる「神保太郎・神保与一・神保与三」の三名の活躍が見られるが(『吾妻鏡』)、神保太郎は負傷、神保与一は宇治川渡河中に死亡、神保与三は敵を討ち取る功績をあげた。おそらくこれらの功績が認められ、恩賞の地として出雲国大東庄・仁和寺庄・近松庄・布施郷など得たと考えられる。

 文永8(1271)年11月付の『関東御教書』出雲一宮杵築神社の三月会に関する文書が遺されているが(『鎌倉遺文』)大東庄南北内九十丁「神保太郎跡」、仁和寺庄五十丁・近松庄三十丁「神保四郎太郎子」、布施郷五丁余「神保二郎」布施社八丁「神保小四郎」が地頭とされている。おなじく、承久の乱によって出雲国久野郷・三所郷・万田庄一部の地頭となった中郡六郎太郎経元の子孫は神保氏の縁戚となっている。

 その出雲神保家との関わりは不明だが、神保常員の九代の孫・神保経胤下総三谷氏の配下として活躍したが、その子・神保信胤は永正年中(1504-1521)に下総から安芸国へ赴き、大内氏に仕えることとなる。

 大内家に仕えたもう一流の神保家は、嘉暦3(1328)年、臼井常俊越中国森山庄神保に移住して神保を称したと伝わる一族。臼井常俊の七代孫・神保左近将監時綱の次男・神保兵庫助尹胤は延徳元(1489)年に十代将軍・足利義尹(のち義材)に仕え、偏諱をたまわる。義尹は明応2(1493)年に管領・細川政元によって京都を追放され、越中に逃れた。その翌年・明応3(1494)年9月、義材は越中で細川政元追討の兵を挙げるが、政元が将軍・足利義高(義澄)を奉じた派遣した軍勢に近江・河内で敗れ、周防・長門守護の大内義興を頼って落ちた。尹胤もこれに供奉し、大内家に仕える事になったようだ。尹胤は永正5(1508)年の舟岡山の戦いで手柄をたてている。

 尹胤の孫・神保対馬守興胤大内義興の偏諱を賜って「興胤」を称し、その子は大内義隆からの偏諱を受けて「隆常」を名乗った。しかし、天文20(1551)年8月、大内義隆が家臣の陶隆房(のち晴賢)に討たれると、これに反発して毛利元就に寝返り、天文23(1554)年の折敷畑合戦では、陶氏の重臣・柿並小平太隆幸を討ち取った。

 子孫は萩藩大組士となり四百四十石を給された。また、子孫・性海妙玄寺の開基となり、神保氏の系譜が伝わる。
 

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神保興胤(????-????)

 大内家家臣。父は神保兵庫頭常行。通称は弥次郎、又右衛門。官途名は対馬守。出家して「宗閑」と号した。

 興胤の「興」大内義興から賜ったものだろう。大内義興の側近として活躍していたことが想像される。天文20(1551)年8月、大内義隆の横死後、毛利氏に従った。

 毛利隆元(毛利元就嫡男)から家臣・粟屋与十郎元種に宛てられた書状に「神保対馬守」の名が見える。

[1] 某年3月8日『毛利元就書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 熊谷左馬助、宗方備後守、申結子細在之由候、太不可然候理非之段ハ不入候、
 両方堪忍候而早々無事候様各異見肝要候、猶従両人所可申候、謹言

     三月八日            元就 御判 

  (表書)「神保対馬守殿
       長沼長門守殿          元就
       市来与三左衛門殿           」

※熊谷左馬助…熊谷直清
 宗方備後守…?

[2] 某年正月14日『毛利隆元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 神保対馬守事、与州江為使急度可差遣之間、内々其支度仕候て 
 一右左次第則可罷渡之由、可申遣候事肝要候、謹言

     正月十四日          隆元 御判

  (表書)「粟屋与十郎殿       隆元」

[3] 某年2月13日『毛利隆元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 神保対馬守事、急用之儀候間、早々可罷下の由、今日可申遣候、
 此飛脚同道候而、可罷下之由申付候へく候、さなく候ハハ、
 為可延引候、謹言

     二月十三日          隆元 御判

  (表書)「粟屋与十郎殿       隆元」

[4] 某年7月9日『毛利隆元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 尚々自然少々故障之儀候共、相押候て急度可罷上之由可申聞候
 就急用之儀、至伯州使者可指上候、然者神保対馬守早々罷上候而くれ候へとの儀、
 明日自其方所可申聞候、来十三日爰許罷越旨儀聞候て、直罷上候様可申付候、
 為此申遣候、謹言

     七月九日             隆元 御判

 (表書)「粟屋与十郎殿       隆元」

 [2]~[4]までの書状がいつのものか、年代は不明だが、神保興胤が天文20(1551)年8月の大内義隆の横死によって毛利家に仕えてから、毛利隆元が亡くなった永禄6(1562)年5月までの間であることがわかる。

[5] 天正2(1574)年閏11月25日『小早川隆景書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其表長々御逗留誠ニ寒中御辛労之至無申計候、平岡方出頭之事以此者申遣候、
 被仰談候て相共御取繰可為肝要候、於旨儀者迚有賀可申候間不能祥候、
 恐々謹言

     壬十一月二十五日           隆景 御判

 (表書)「神保対馬守殿 進之候      左衛 隆景」

※有賀…有田経道

[6] 某年11月10日『小早川隆景書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 与州江之輝元御状両通従我等湯付局方への文、彼是三通進之由、
 今度之御渡海御辛労之至候、於時宜者切々可示給候、重畳従是可申候、
 恐々謹言

     十一月十日            隆景 御判

 (表書)「神 対 参 申給へ      左衛 隆景」

※湯付局…宍戸隆家と元就女の娘か。河野通宣の妻で通直の義母。

 [5][6]の書状をみると、神保興胤は小早川左衛門佐隆景に配属されて、おもに伊予河野氏との関わりを持っていたことが推測される。伊予河野氏の当主は、河野通宣・通直と二代に渡って毛利氏とゆかりの娘を妻としており、山陽地方から瀬戸内海一帯を支配していた小早川隆景が河野氏との外交も担当していた。土佐の長曽我部元親と河野氏との戦いでも、小早川隆景は河野氏への援軍としてたびたび伊予に派遣されている。

 [6]の文書に現れる「湯付局」毛利元就娘(五もし)宍戸安芸守隆家の間に生まれた娘と考えられ、輝元の従姉妹となる。神保興胤は輝元から河野通直に宛てられた書状二通と、隆景から「湯付局」へ宛てられた書状一通、計三通を持って伊予湯築城へ遣わされたことが記されている。

◎毛利・河野氏縁組系譜◎

                         +――娘
                         |  ∥―――――娘【天正9(1581)年婚姻】
                         | 吉見広頼   ∥
                         |        ∥
      吉川国経―――妙玖   +―隆元―――+―輝元     ∥
              ∥   |(大膳大夫) (中納言)   ∥
              ∥   |         ∥     ∥
              ∥―――+―五もじ  +―南ノ大方   ∥
              ∥   |  ∥   |        ∥
              ∥   |  ∥   |        ∥
      毛利弘元    ∥   |  ∥―――+―娘      ∥
        ∥     ∥   |  ∥     ∥      ∥
        ∥――+―元就   | 宍戸隆家  河野通宣====通直
        ∥  |(陸奥守) |(安芸守) (左京大夫)  (伊予守)
        ∥  |      |
        ∥  |      +―吉川元春―――広家
        ∥  |      |(駿河守)  (侍従)
        ∥  |      | 
        ∥  |      +―小早川隆景==秀秋
        ∥  |       (左衛門佐) (左衛門佐)
        ∥  |
        ∥  +―興元―――――幸松丸
      +―娘  |
      |    |
 福原広俊―+―貞俊 +―宮姫(御五もじ)
(式部大輔)        ∥
             武田氏

 

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神保隆常(????-????)

 神保臼井家当主。父は神保対馬守興胤。号は宗円

 大内義隆の側近であったと考えられ、「隆」字大内義隆よりの偏諱と考えられる。天文20(1551)年8月の大内義隆が陶隆房によって討たれたのち、毛利家に仕えたと思われる。その後の目立った活躍はない。

 

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神保景胤(????-????)

 神保臼井家当主。父は神保対馬守興胤。通称は弥次郎。官途名は兵庫助(丞)。

 某年5月15日、毛利元就より「神保兵庫助殿 市来兵部丞殿」へ宛てられた、在陣中の文書が残されている。この文書は景胤がまだ大内家に仕えているうちの文書と思われ、天文20(1551)年8月以前のものだろう。

◎某年5月15日『毛利元就書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其表御在陣御辛労令察候、仍就池上半之儀申入候、誠雖御六借儀候、
 最前以来之儀御存知之辻候之条、可然様御披露所仰候、尚此者可申候、
 恐々謹言

     五月十五日        元就 御判
      神保兵庫助殿
      市来兵部丞殿  御陣所

 

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臼井豊後守(????-????)

 神保臼井家とは別流の臼井家。通称は藤次郎、藤兵衛尉。妻は神保兵庫頭常行娘で、神保対馬守興胤と義兄弟にあたる。

 天文16(1547)年9月1日、「臼井藤兵衛尉」「深川上分」「原田かてう」が安堵された『所領安堵状』。署名は「左衛門太夫(桂元忠)」「三郎右衛門尉(児玉就忠)」の連署で、両名は隠居の元就の四奉行(井上就重・児玉就元・児玉就忠・桂元忠)であり、行政面を担当する人物である。また、桂元忠・児玉就忠は、当主・毛利隆元の五奉行(児玉就忠・桂元忠・国司元相・粟屋元親・赤川元康)にも名を連ねる一門に次ぐ重臣である。

 なお、臼井藤兵衛が安堵された「布川(深川)」は、元就の義弟に当たる吉川治部少輔興経が毛利元就によって隠居させられた地で、天文19(1550)年9月27日、興経は毛利元就の命を受けた熊谷信直・天野隆重によってこの布川で暗殺されている。

 永禄2(1559)年2月1日、毛利元就は臼井豊後守へ、所領として安堵している給地のうち、安芸国安佐郡布川のみは「久豊娘徳松」へ与えるようきつく命じている『毛利元就書状』。「久豊」については不明。

 豊後守の嫡子・臼井藤次郎就方の娘は、神保又右衛門就俊の妻となり、その子である元胤・元徳が臼井氏を継承していく。

【1】天文16(1547)年9月1日『深川上分安堵状』(『萩藩閥閲禄』所収)

     深川上分内

  一 田壱町四反  代六貫目本屋敷分 作人近藤九郎左衛門
 
     原田かてう 

  一 田壱町三反大 代六貫三百五十目 作人彦左衛門
  一 田弐反    代五百目     作人彦左衛門
  一 田三反    代壱貫五百目   作人小三郎
      以上 

   天文十六 九月一日       左衛門太夫
                   三郎右衛門尉
      臼井藤兵衛尉殿

【2】永禄2(1559)年2月15日『毛利元就書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其方給地之事久豊娘徳松ニ可遣置候、殊深川之事、
 いつれの子共遣置候共、給地之事、無相違其人躰江可付置候、
 為後日一筆遣候、仍一行如件

    永禄弐年二月一日      元就 御判
      臼井豊後守殿

 

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臼井就方(????-1553)

 臼井豊後守の嫡男。母は神保兵庫頭常行娘。通称は藤次郎

 毛利元就に仕え、天文22(1553)年3月、元就は備中国成羽城主・三村家親を援けて、猿懸城主・穂井田為資と合戦して、猿懸城を攻め落とした。しかしこの戦いで毛利方の将官として参戦していた就方は討死した。

 就方には嫡男がなかったことから、神保又右衛門就俊が就方の娘と結婚し、元就の命で就俊が臼井家を継承することになった。

 

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神保就俊(????-????)

 父は神保兵庫助景胤。妻は臼井藤次郎就方娘。通称は弥九郎、藤兵衛、又右衛門。官途名は対馬守。毛利元就・隆元・輝元の三代にわたって毛利家に仕えた。毛利元就の三男・小早川隆景の麾下として瀬戸内地方で活躍していたと考えられる。

 六歳のとき毛利元就の小姓として召し出され、天文22(1553)年の穂井田・三村合戦で戦死した臼井藤次郎就方の娘を娶って臼井家を相続。神保から臼井に改めた。しかし、そののち命を受けて、ふたたび「神保」に改めた

 慶長16(1611)年12月13日に毛利輝元入道宗瑞から「神保又右衛門尉殿」に対して「対馬守」に叙する「受領状」が残されている。

◎天正8(1580)年10月11日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 態申遣候、兵粮之儀六七百俵相調、急度至山内指出候由尤可然候、
 能程にも候者益形まて可指出調儀者不相成事候哉、乍去其段者不苦候、
 継夜於日彼表可指出儀肝要候、何と候ても千俵之辻ハ相調指出候ハてハにて候、
 呉々無緩早々可指出儀肝心候、為此申遣候、謹言 

    十月十一日        輝元 御判
     児玉市允殿
     神保又右衛門殿

◎天正11(1583)年3月26日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 就来島一着、書状落去之由太慶此事候、湯付御安堵入御推量候、
 其表之様躰弥具可申越候、謹言

    三月廿六日        輝元 御判
     神 又右

◎天正11(1583)年6月23日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其元長々辛労候、当時通直御出候条直談候、頓而為可帰国候、
 其内御臺別而心を付可申事肝要候、仍銀子壱枚遣候間
 追々可申聞、謹言

    六月廿三日        てる元 御判
     神保又右衛門殿

◎天正12(1584)年正月18日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其元為御伽、粟 惣兵指渡候、何篇可相談候、
 其方事長々逗留辛労之至候、猶此者可申聞候、謹言

    正月十八日        輝元 御判
     神 又右

※粟 惣兵…粟屋元秀

◎天正9(1581)年(?)7月12日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 五もし御事無事に三津浦御渡候由先以可然候、其方心遣之段推量候、
 何とやうにも此節可心付事肝要候、従是為御迎児 蔵太児 市頓差遣候へとも
 風波悪候故延引候、何茂自是追々可申遣候、謹言

    七月十二日        輝元 御判
     神 又右

※五もし …河野通直妻(吉見広頼娘。毛利輝元姪)
 児 蔵太…児玉就英 (児玉就方嫡子)
 児 市 …児玉元貫 (児玉就英弟)

◎天正12(1584)年正月23日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其方事于今逗留辛労之至候、此節之儀候間今少逗留候而
 心遣可為祝着候、替之事軈而可差渡候、謹言

    正月廿三日        輝元 御判
     神 又右

◎天正13(1585)年閏8月8日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其表之儀各打廻候条此者指渡候、方角之儀毎事心遣肝要候、
 御上へも文して申候、可然候様ニ可申候、尚任口上候、謹言

    閏八月八日        てる元 御判
     神 又右

◎慶長16(1611)年12月13日『毛利輝元受領状』(『萩藩閥閲禄』所収)

  任 対馬守

   慶長拾六年十二月十三日 御判(輝元入道宗瑞)

      神保又右衛門尉との

 

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臼井元胤(1582-1614)

 萩藩臼井家初代神保又右衛門就俊の嫡男。母は臼井藤次郎就方娘。通称は清蔵、勘左衛門尉、治兵衛尉。諱の「元」は毛利輝元からの偏諱か。

 某年3月15日、毛利輝元から「大和(堅田大和守元慶)」「神 次兵」を堅田元慶が雇うことを指示している『毛利輝元書状』。この「神 次兵」は治兵衛尉元胤と思われる。なお、「堅田元慶」粟屋備前守元通の次男で、小早川隆景の養嗣子となって小早川家を継ぐ予定だった毛利家中でも屈指の重臣。天正13(1585)年、小早川隆景が豊臣秀吉の命を受けて伊予国主となったため、元慶が小早川家居城・備後三原城を任されている。豊臣秀吉にも気に入られ、「豊臣姓」を与えられた。慶長5(1600)年の「関が原の戦い」でも、毛利秀元・吉川広家の陣中に軍監として参戦し、戦後は吉川広家とともに毛利家の存続に尽力した。

 慶長6(1601)年5月28日、毛利輝元入道宗瑞は「臼井清蔵」に対して「勘左衛門尉」に任ずる官途状を発給した『毛利輝元官途状』。おそらくこの頃、元胤は母方の臼井姓を称しており、「勘左衛門尉」に任じられたのだろう。

 翌慶長17(1612)年11月1日、元胤の嫡男・神保清蔵が藩主・毛利秀就を烏帽子親として元服。「就」字を賜って「就房」と称した。このとき就房わずかに十歳で、元服としては比較的早い年齢だった。この一年半後に元胤が亡くなっていることを考えると、元胤はこのころから健康が芳しくなかったのかもしれない。

 慶長19(1614)年4月3日、三十三歳で亡くなった。

某年3月15日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 神 次兵事、西丸先度罷出候儀神妙候、然者彼者事付而
 其方やとひ可遣候由可然候、申所聞届候、辛労之通可申聞候也

    三月十五          御判(輝元)
  (表書)「大和 」

慶長6(1601)年5月28日『毛利輝元官途状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 任 勘左衛門尉

   慶長六年五月廿八日 御判(輝元入道宗瑞)

      臼井清蔵とのへ 

 

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臼井就房(1603-1660)

 萩藩臼井家二代。臼井勘左衛門元胤の嫡男。通称は清蔵、勘左衛門尉、喜左衛門尉、左近右衛門尉大組士

 慶長17(1612)年11月1日、藩主・毛利秀就の加冠によって十歳で元服。「就」の字を賜って「就房」を称した『元服状』。わずか十歳で元服した理由としては、父・臼井勘左衛門尉元胤が病気であったためとも考えられる。

 父・元胤は、就房の元服から一年半後の慶長19(1614)年4月3日に亡くなり、翌慶長20(1615)年8月2日、秀就・輝元入道の連署で、元胤の跡は、譲状に任せて就房に継承される旨を認めた「知行安堵状」

 元和6(1620)年2月1日、就房は藩主・毛利秀就から「勘左衛門尉」「官途状」を発給され、寛永8(1631)年5月5日には「喜左衛門尉」「官途状」を発給されている。さらに翌寛永9(1632)年元旦、「左近右衛門尉」「官途状」が発給された。

 就房が「神保」から「臼井」に家名を改めたのは、元和6(1620)年2月1日から寛永8(1631)年5月5日までの間であることがわかる。元和6年に「勘左衛門尉」に任じられた直後かもしれない。

 万治3(1660)年11月4日、五十八歳で亡くなった。

◎慶長17(1612)年11月1日『毛利秀就元服状』(『萩藩閥閲禄』所収)

  加冠

    

   慶長拾七年十一月一日 御判(毛利秀就)

      神保清蔵とのへ 

◎慶長20(1615)年8月2日『知行安堵状』(『萩藩閥閲禄』所収)

  父勘左衛門尉一跡之事、任譲之旨宛遣者也、
  全知行、不可有相違之状如件

   慶長廿年八月ニ日    御判(毛利秀就)
               御判(毛利輝元入道宗瑞)
      神保清蔵とのへ 

◎元和6(1620)年2月1日『毛利秀就官途状』(『萩藩閥閲禄』所収)

  任 勘左衛門尉

   元和六年ニ月一日 御判(毛利秀就)

      神保清蔵とのへ 

◎寛永8(1631)年5月5日『毛利秀就官途状』(『萩藩閥閲禄』所収)

  任 喜左衛門尉

   寛永八年五月五日 御判(毛利秀就)

      臼井勘左衛門尉とのへ 

◎寛永9(1632)年1月1日『毛利秀就官途状』(『萩藩閥閲禄』所収)

  任 左近右衛門尉

   寛永九年正月朔日 御判(毛利秀就)

      臼井喜左衛門尉とのへ 

 

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臼井直常(????-????)

 萩藩臼井家三代。臼井十左衛門尉就常(臼井就房弟)の嫡男。妻は臼井勘左衛門尉就房娘。通称は七之助、勘兵衛。就房には男子がなかったため、直常が養嗣子として臼井宗家を継承した。大組士

 直常の弟・勝次の子孫、臼井富之助胤勝は、天保11(1840)年、下級藩士・臼井弥伝次の庶子として萩に生まれた。石高は二十六石。長じて藩校・明倫館に入り、その後、奇兵隊に入隊して幕末の志士として活躍をしたが、元治元(1864)年7月、藩宿老・福原越後隊士として禁門の変で従軍中、稲荷街道で傷を負い、自刃した。享年二十五歳。墓は京都東山の霊山と下関桜山にある。

 

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臼井常清(????-????)

 萩藩臼井家四代。臼井勘兵衛尉直常の嫡男。母は臼井勘左衛門尉就房娘。通称は半七、勘左衛門尉大組士

 

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臼井道常(????-????)

 萩藩臼井家五代。臼井勘左衛門尉常清の嫡男。通称は勘三郎大組士

 

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◆萩藩大組士・臼井又右衛門家◆

  

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臼井元徳(1581-1643)

 又右衛門家初代。神保兵庫助景胤の三男。母は臼井藤次郎就方娘。通称は清十郎、又右衛門、藤兵衛、勘兵衛大組士

 寛永20(1643)年11月25日、六十三歳で没した。

 

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臼井就之(1621-1660)

 又右衛門家二代。臼井勘兵衛元徳の嫡子。通称は清吉、又右衛門大組士

 万治3(1660)年5月20日、四十歳で亡くなった。

 

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臼井説重(1647-1722)

 又右衛門家三代。臼井又右衛門就之の嫡子。通称は清吉、藤兵衛、五右衛門大組士

 享保7(1722)年1月9日、七十六歳で亡くなった。

 

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臼井義正(1667-1703)

 又右衛門家四代。臼井五右衛門説重の嫡子か。通称は弥七郎、弥兵衛大組士

 元禄16(1703)年3月6日、三十七歳で亡くなった。

 

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臼井成重(????-????)

 又右衛門家五代。臼井弥兵衛義正の嫡子か。通称は又右衛門尉大組士

 

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臼井清吉(????-????)

 又右衛門家六代。幕末の臼井又右衛門家当主。大組士

 

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◆系譜上不明の神保氏◆

神保雅楽允(????-????)

 毛利輝元家臣。系譜上の位置づけは不明ながら、天正8(1580)年(?)8月28日の「輝元判物」によると、「右者末家臼井藤兵衛方所持仕候事」という書付があり、大組士・臼井藤兵衛家(又右衛門家)の一族であったことがわかる。また、注記によると「臼井藤兵衛」は「臼井常信」とされており、『萩藩閥閲録』が記された当時の臼井又右衛門家の当主が臼井常信であった。

◎天正8(1580)年(?)8月28日『毛利輝元書状』(『萩藩閥閲禄』所収)

 其方事、飯山、忍、以来在番候而、桂 左太同前辛労祝着候、
 事城山於山下、敵壱人討捕之段神妙候、猶左太可申聞候、謹言

    八月廿八日     輝元 御判

 (表書)「神保雅楽允殿      輝元」

※桂左太・・・桂就宣(桂元澄弟・元忠嫡男。萩藩寄組) 

◎『萩藩閥閲録』

 享保10(1724)年、萩藩が藩士の家に伝わる伝記などを編纂して完成させた史料集。藩士所蔵の系図・文書類が多数納められており、毛利家の研究には欠かせない史料。現在二百四冊が残されている。

◎大内氏の偏諱を受けた豪族(赤:千葉氏流)

大名 豪族
大内義興 周防国:陶興房・山崎興盛
安芸国:毛利興元・小早川興平・小早川興景・吉川興経・天野興定・臼井興胤
石見国:佐波興連
大内義隆 周防国:陶隆房・冷泉隆豊・弘中隆兼・内藤隆世
安芸国:毛利隆元・小早川隆景・野間隆実・阿曽沼隆郷・平賀隆宗・平賀隆保・宍戸隆家・天野隆綱・臼井隆常
    佐和隆秀・天野隆重
石見国:福屋隆兼
備後国:三吉隆亮・山内隆通
出雲国:宍道隆慶
大内義長 周防国:陶長房
陶 隆房 周防国:江井房栄・椙森房康・野上房忠
安芸国:久芳賢直・棚守房顕・白井房胤白井賢胤・三浦房清・久芳賢直・大庭賢兼

 

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その他の臼井家

■奥州臼井家

 葛西氏に養子に入った千葉介頼胤の子・葛西清信に従って臼井三郎左衛門常俊千葉飛騨守胤常千葉左馬助胤氏の三人が奥州に赴いたと伝えられるが、葛西清信の実在の疑問も含めて伝承的要素が大きい。

■蒲生氏郷家臣の臼井家

⇒蒲生氏の家臣に臼井右兵衛の名が見える。

■秋月藩臼井家

 同家の伝承によれば文治3(1187)年、臼井兵衛尉常安が軍功によって筑前国嘉摩郡馬見庄、碓井庄五百町を給わったことにはじまるという。その後、野見氏を称したが、野見次郎左衛門尉安朝の代、安朝の外祖父・門名左近太夫鑑重に子がなかったことから、安朝の長男・六郎が門名氏を継承し、門名次郎左衛門尉実量(入道宗柏)を称した。

 天正15(1587)年、門名実量は筑前領主となった小早川隆景の配下となり、嘉摩郡の代官職に就く。実量の子・門名次郎右衛門安宣小早川秀秋の代官職に就任した。そして、慶長5(1600)年、黒田長政が筑前福岡藩主として入国すると、安宣も召し出されて百五十石を給わり、改めて嘉摩郡・穂波郡の代官職の一人に就任。慶長10(1605)年、門名を改め臼井に復した

 元和9(1623)年、黒田忠之が藩主に就任した際、その弟・黒田長興秋月藩五万石を分けられて支藩として立藩。安宣は長興に附けられて秋月藩士となる。臼井家は安宣の次男・安好が継承し、幕末の臼井次郎左衛門安英通船方米請払役を務めた。

 幕末の秋月藩士・臼井亘理は安宣の長男(分家)・臼井宣辰の末裔。嘉永3(1850)年当時の「用人」に臼井儀左衛門が見えるが、亘理の父・遊翁のことか。亘理は藩命によって「公用人」として上京。早くから兵の洋式化の必要性を説いたが、秋月藩は古来からの伝統を守りつづけていこうとする保守的な考え方をもっている藩士が多く、明治元(1868)年5月、京都から秋月へ帰国した亘理は中島衛屁平とともに干城隊士・一瀬直久らの一党によって惨殺されてしまった。その結果、臼井家は逆臣の悪名を受けた上、減知処分を受けた。一方、一瀬は無罪の評決を受けている。

 亘理の子・臼井六郎は日本最後の仇討ちの士として有名。六郎は父の仇である一瀬直久を討つことに生涯を懸け、北辰一刀流を学んで腕を磨いた。そして明治13(1880)年、東京上等裁判所判事となっていた一瀬を京橋にあった秋月黒田邸において殺害。その後、自首した六郎は終身徒刑の判決を受けるが、11年後に恩赦によって出獄。佐賀県鳥栖に住んだ。

■津和野藩臼井家

 宝永7(1717)年に津和野藩用人・臼井十郎兵衛(藩主・亀井茲長)、元文6(1741)年・延享4(1747)年に用人・臼井十郎兵衛(藩主・亀井茲延、茲胤)と江戸留守居・臼井忠吉が見えるが、こののち「臼井」の名は見ることができない。しかし、時代は幕末になると、臼井氏と同役の江戸留守居に「千葉」を名乗る一族が現れる。

 弘化4(1847)年には江戸留守居・千葉忠太夫(藩主・亀井茲監)、嘉永4(1851)年には用人・千葉忠太夫と城使・千葉一郎が、慶応2(1866)年には千葉五郎が見える。

■仁正寺藩臼井家

 文化元(1804)年、近江国仁正寺藩用人として臼井勘左衛門(藩主・市橋長昭)の名を見ることができる(千葉江州様提供)。

■高知新田藩臼井家

 文久元(1861)年、土佐国高知新田藩の家老に臼井忠作(藩主・山内豊福)の名を見ることができる。高知新田藩は、元禄11(1698)年より上総国武射郡小池村に三千石を給されている。

■大和高取藩臼井家

 寛永17(1640)年、徳川秀忠の側近だった植村出羽守家政大和国高取山城主とされ、二万五千石を知行したが、その植村家の家中に臼井家があった。この臼井家は千葉の妙見寺尊光院に系譜を納めていた経緯があり、おそらく千葉氏の流れを汲んだ一族と思われる。どのような経緯で植村家に仕えるようになったかは不明だが、植村家政の妻は同族で上総国夷隅郡内に所領を有する植村泰忠の娘であり、関わりがあるのかも。

■鳥取藩臼井家

 下総臼井家の末裔と伝わる。鳥取藩の重臣に列する。

●臼井家の家臣

 志津・坂戸・吉岡・小船木・栗山・中臺・山梨・和良比・押田・神保・鹿渡・池尻・小名・小竹・星名・友部・栗田


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