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【天台宗】
円覚院亮運 | 1558-1323 | 東叡山寛永寺凌雲院一世 | 成東千葉氏出身? |
一乗院義弁 | 1654-1685 | 東叡山寛永寺一乗院四世 | 肥前千葉氏出身 |
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円覚院亮運(1558-1623)
天台宗僧侶。東叡山寛永寺凌雲院一世、寛永寺林光院一世。贈大僧正。永禄元(1558)年4月8日、下総国武射郡富田村(山武市富田)に誕生した。父は千葉氏(『東叡山子院現住法脈記』)。富田村は成東千葉家が城主だった成東城から北東1キロ付近であり、成東千葉家の出身と推測される。
千葉介勝胤―+―千葉介昌胤―――千葉介胤富――千葉介邦胤
(千葉介) |(千葉介) (千葉介) (千葉介)
|
+―成東胤定――+―成東将胤―――成東房胤
(兵部少輔) |(兵庫介) (権七郎)
?
+―亮運
(円覚院大僧正)
九歳のとき、村内の天台宗の名刹・光明寺に入り、住職の賢栄に師事した。十五歳にして剃髪し「定賢」の名を与えられ、続けて常陸国河内郡小野村に移って慈雲山逢善寺の定珍のもとで修業し、天台宗の教義を学んだ。そして十九歳にしてその才能が近隣に聞こえた。
文禄3(1594)年、三十七歳のとき光明寺に戻ったが、この当時、周辺地域には日蓮宗が広まっており、亮運はその中心的な人物だった八幡原常楽院、沼田大如房、蓮成大妙房と法論を戦わせて論破したと伝わる。
慶長9(1605)年6月、夷隅郡荻原村(いすみ市荻原)の東頭山行元寺に遷った。定賢がこの住持を務めていた際、干ばつに見舞われたため、領主の大多喜藩主・本多出雲守忠朝の請いによって降雨の法を行い、雨を呼んだ。
元和3(1617)年、常陸国行方郡(茨城県行方市西蓮寺)の尸羅度山西蓮寺に遷り、同郡(行方市玉造乙)の宝幢院主も兼ねた。このとき、百日高座に昇って法華経の要旨を談じ、天海上人が感嘆。寛永2(1625)年、天海上人の命により、下野国佐野(佐野市金井上町)の春日岡山惣宗寺(佐野厄除大師)へ遷り、名を「厳海」と更め、さらに亮運と改める。
さらに寛永6(1629)年には東叡山寛永寺の凌雲院(東京都台東区上野恩賜公園)の院主も兼ねることとなり、寛永10(1633)年、権僧正に任じられた。
寛永20(1643)年、天海上人はその臨終に及んで将軍・徳川家光に、
「吾滅後、台教法要一可問亮運」
と遺言。これにより家光は亮運を篤く敬い、つねに天台の教義を受けた。
正保元(1645)年、亮運は家光より「学頭」に定められ、寛永寺の統括と管理を一任、座主の名代を務めることとなる。このとき凌雲院の寺領として三百石が下賜された。亮運は「東叡山凌雲院元祖」とされ、塔頭筆頭たる凌雲院の一世であるが、林光院一世として数えられている。これは林光院が亮運の法系のためである。
慶安元(1648)年11月4日謝。九十一歳。元禄14(1701)年、弟子の大僧正最純の請いを受けた寛永寺三世の輪王寺門跡公弁法親王の奏請により、大僧正が贈られた。
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一乗院義弁(1654-1685)
天台宗僧侶。東叡山寛永寺子院・一乗院四世。僧階は大僧都。承応3(1654)年、肥前国に生まれた。「千葉氏子」とある(『東叡山子院現住法脈記』)が、父は千葉作兵衛胤仲。母は鍋島玄蕃常貞娘。父方母方両方の高祖父は最後の肥前千葉氏当主・千葉介胤連である。
+=鍋島直茂―――鍋島勝茂―――――鍋島忠直―――鍋島光茂―――――鍋島宗茂――――鍋島治茂―――――――――――鍋島斉直
|(加賀守) (信濃守) (肥前守) (丹後守) (飛騨守) (肥前守) (肥前守)
| ∥
千葉介胤連―+―鍋島胤信―+―長女 ∥
(右馬佐) | ∥――――――――飯篠胤仲 +―石井常豊 +―娘 +―娘 ∥
| 永田利右衛門 (作兵衛) |(二右衛門) |(牧要人妻) |(伊東杢兵衛妻) ∥
| ∥ | | | ∥
+―次女 ∥―――+―娘 +―石井胤陳 +―娘 ∥
| ∥ ∥ |(関平兵衛妻) |(郡左衛門) |(原口隆朗妻) ∥
| 本告作左衛門 ∥ | | | ∥
| ∥ +―義弁 +―晴気胤春――+―晴気胤丘―+―三女 ∥
+―馬場帯刀 ∥ |(一乗院住職) |(作兵衛) (作兵衛) |(今泉新兵衛妻) ∥
|(馬場清兵衛茂周) ∥ | | | ∥
| ∥ +―石井胤之―――+―娘 +―晴気作兵衛 ∥
+=鍋島常貞 +―娘 |(武右衛門) |(広渡雪之進妻) | ∥ +―保九郎
|(玄蕃丞) | | | | ∥ |
| ∥―――――――+ +―娘 +―石井常政 +―始 ∥ |【鹿島藩主】
| ∥ | |(犬塚三兵衛妻)|(六右衛門) |(石田為武妻) ∥ +―鍋島直永
| ∥ | | | | ∥ |(丹波守)
+―三女 | +―娘 +―石井胤清 +―長女 ∥ |
| | (三谷八左衛門妻)(利平次) ∥ ∥――+―豊姫
| | ∥ ∥
+=千葉胤仲 | 石井尚方――+=龍女
(作兵衛) | (数馬) |
| |
| +=石井胤忠
| (権平)
| ∥――――石井胤義
+―千葉常成――千葉常輝――千葉常春==千葉常以……千葉胤明―――千葉胤佐―+―妹 (常次郎)
|(太郎介) (頼母) (八左衛門)(頼母) (三郎右衛門)(八左衛門)|
| |
+―鍋島常治……千葉忠右衛門家 +―千葉胤清―千葉胤脩
(玄蕃) (内匠) (頼母)
寛永17(1640)年、佐嘉藩主・鍋島信濃守勝茂は天海大僧正に東叡山の子院建立を願い出て許され、かねての知己だった武蔵国金鑚寺一乗院(本庄市千代田)住持・慶舜(肥前国七田氏の出)をその主と定め、寺院名は金鑚寺一乗院に因んで「一乗院」とした。以降の院主は、代々佐嘉藩ゆかりの人物が務めている。なお、慶舜は一乗院を退いたのち肥前に戻り、金宝山一乗院を建立してその住持となった。翌慶長18(1641)年2月19日寂。
義弁は肥前出身の一乗院三世・大僧都慶盤(永田氏)の弟子となった。父・千葉作兵衛胤仲は実父が佐賀藩士・永田利右衛門であることから慶盤はその一族と思われ、義弁が慶盤の弟子になった経緯は血縁関係にあったためとも考えられる。そして、師の慶盤が院主を退いて肥前佐嘉郡(佐賀市諸富町大字大堂)の宝光院に遷るにあたり、一乗院大壇越である佐嘉藩主・鍋島丹後守光茂の請いを受け、寛永寺四世の輪王寺門跡天真法親王が義弁を召し、一乗院を継承させている。貞享2(1685)年3月10日寂。三十二歳。
義弁のあとを継いだのは、上野国出身の大僧都円雄であったが、彼は二世・権僧正円義の弟子で、円義は肥前巨勢氏の出身であった。巨勢氏は千葉介胤連に仕え、胤連の養子だった佐嘉藩祖・鍋島直茂が鍋島家に戻るにあたり、胤連から直茂に附けられた家臣の家柄である。
円雄のあとは大僧都守玄が継ぐが、彼は「肥前鍋嶋氏子」とあり、藩主家に連なる一族または賜姓の重臣の子弟と推測される。以降も肥前出身者が院主となっている。
一乗院は寛永寺東端の崖下寺院群の一角であったため、明治の上野駅建設によって取り壊されて移転されることなく消滅した。旧境内地は現在の上野駅舎北端から六十メートル、東西はJR敷地と同じで、敷地面積はおよそ千六百坪あまりと推測される。なお、椿で有名な寺院だったようである。
■一乗院歴代住持
代 | 法名 | 出身 | 俗姓 |
第一世 | 権僧正慶舜 | 肥前国 | 七田氏 |
第二世 | 権僧正正圓 | 肥前国 | 巨勢氏 |
第三世 | 大僧都慶盤 | 肥前国 | 永田氏 |
第四世 | 大僧都義弁 | 肥前国 | 千葉氏 |
第五世 | 大僧都圓雄 | 上野国 | |
第六世 | 大僧都守玄 | 肥前国 | 鍋島氏 |
第七世 | 大僧都慈航 | 上野国 | |
第八世 | 大僧都圓舜 | 肥前国佐嘉郡 | 赤司氏 |
第九世 | 大僧都興舜 | 肥前国佐嘉郡 | 田中氏 |
第十世 | 権大僧都興道 | 肥前国佐嘉郡 | 田中氏(興舜甥) |
第十一世 | 権大僧都興然 | 肥前国佐嘉郡 | 八田氏 |
第十二世 | 大僧都興盛 | 武蔵国 | 月岡氏(鍋島某猶子) |
第十三世 | 大僧都慶格 | 肥前国佐嘉郡 | 仏光寺氏 |
第十四世 | 大僧都真舜 | 肥前国佐嘉郡 | 本實氏 |
第十五世 | 権大僧都圓真 | 肥前国佐嘉郡 | 池田氏 |
第十六世 | 大僧都興譲 | 肥前国佐嘉郡 | 永淵氏 |
第十七世 | 権大僧都圓倫 | 肥前国佐嘉郡 | 副島氏 |
第十八世 | 大僧都舜興 | 肥前国佐嘉郡 | |
第十九世 | 大僧都舜和 | 肥前国小城郡 | 藤島氏 |