千葉忠左衛門

北辰一刀流千葉家

 江戸時代末期、江戸三大道場の一家に数えられた玄武館は、陸奥国本吉郡気仙沼村出身の千葉一族・千葉周作成政を創始者とする北辰一刀流の道場である。

 北辰一刀流とは、千葉家家伝の「北辰流」と周作自身が修業した「一刀流」の合法剣法であり、通説となっている「北辰夢想流」と「一刀流」の合法剣法ではない。また、北辰一刀流は宗教色のない合理的な教法であって「妙見信仰」とも無縁である(周作個人は妙見を守本尊としていた可能性はある)。

 しかし、千葉周作自身の出自については、周作自身が語らなかったこともあり、様々な説がある。これを総合的かつ詳細に検証した佐藤訓雄氏『剣豪千葉周作』(宝文堂)によって、周作にまつわる「謎」が比較検討され、長年疑問が呈されていた出生地や父親の謎に革新的な進展が見られた。さらに、各地に残る千葉周作の出自・伝承を調査した島津兼治氏宮川禎一氏の研究によってさらなる発展があった。

 そして、最近では原典に当たって歴史の掘り起こしをされている研究家あさくらゆう氏によって、周作の出生地が気仙沼市であることやその後の足取り、千葉定吉一族の幕末・明治以降の動向までほぼ明らかにされている。このページでは、先学諸先生の研究を含め、その他の史料もあわせて検証する。

●北辰一刀流千葉周作家(想像略譜)

               +=千葉周作   +―塚越成道―+―塚越成直――+―塚越成男
               |(荒谷村千葉家)|(又右衛門)|(又右衛門) |(鉾五郎?)
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越至
               |        |      |       |
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越三治
               |        |      |
               |        |      +―倉光継胤――――倉光光胤
               |        |       (継之進)   (鐉次郎)
               |        |
               |        |【北辰一刀流】
 千葉常成=?=千葉成勝―――+?=千葉成胤――+―千葉成政―+―千葉孝胤――――千葉一弥太
(吉之丞)  (幸右衛門)    (忠左衛門) |(周作)  |(奇蘇太郎)
                        |      |
                        |      +―きん    +―千葉之胤―――千葉栄一郎
                        |      |(嫁芦田氏) |(周之介)
                        |      |       |
                        |      +―千葉成之――+―千葉鉄之助
                        |      |(栄次郎)   
                        |      |
                        |      +―千葉光胤――+―千葉勝太郎―――千葉和
                        |      |(道三郎)  |
                        |      |       |
                        |      +―千葉政胤  +―千葉次彦
                        |       (多門四郎)
                        |
                        +―千葉政道―+―千葉一胤――+―繁
                         (定吉)  |(重太郎)  | ∥
                               |       | ∥
                               +―梅尾    +=千葉束
                               |       |(喜多六蔵二男)
                               |       |
                               +―さな    +―寅
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 山口菊次郎 +=千葉清光
                               |       |(東一郎)
                               |       |
                               +―りき    +―震(しの)
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 清水小十郎 | 江都一郎
                               |       |
                               +―きく    +―千葉正
                               | ∥
                               | ∥
                               | 岩本惣兵衛
                               |(大伝馬町旅店)
                               |
                               +―はま
                                 ∥
                                 ∥
                                 熊木庄之助

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千葉忠左衛門(1766-1831)

 千葉氏の末裔。諱は成胤。通称は忠左衛門。父(養父?)は千葉幸右衛門成勝(『水府系纂』)。のち「浦山寿貞」を称し、下総国松戸宿千葉県松戸市)で医師となった。伝に拠ればもともとは「南部藩ノ医師」(『東藩史稿』)だったとされる。「浦山」は妻の実家の姓とする(稲本雨休『千葉周作弟子三千人の由来』)「北辰一刀流長刀兵法目録」(島津兼治『月刊秘伝』「古流武術見てある記」)では「北辰夢想流」の目録者となっている。

 陸奥国気仙郡今泉村陸前高田市気仙町中井)の人とされていたが、三男・千葉定吉が生まれたのは気仙郡気仙沼村気仙沼市)と自ら述べている(『千葉定吉身上書』)ことや、長男・又右衛門成道「奥州気仙千葉の男」と自ら称していることから、忠左衛門はこれまで論争のあった陸前高田市や栗原市の出身ではなく、気仙沼市の千葉氏である可能性が高いだろう。

千葉幸右衛門と千葉忠左衛門

 剣豪・千葉周作の父は「千葉幸右衛門」であるという説がこれまで通説としてあったが、佐藤訓雄氏の研究(『剣豪千葉周作』)によって、大正4(1915)年成立の『千葉周作遺稿 剣法秘訣』の編纂時に、調査した今泉篁州、友部伸吉の両名が栗原郡荒谷村(宮城県大崎市古川荒谷)の千葉幸右衛門の子・千葉周作と、千葉忠左衛門の子・千葉周作(北辰一刀流)を同一人物してしまった(明治期には荒谷村でも両周作が同一人物と誤認されており、調査員はこの荒谷村で得た調査資料を使ったために、荒谷村の幸右衛門が父とされた)ために、剣豪・千葉周作の父親も幸右衛門という矛盾を生んでしまったことが判明している。編纂時、今泉・友部両氏も様々な矛盾点には気づいて疑問符をつけながらの編纂作業が行われたが、それを解決することなく『千葉周作遺稿 剣法秘訣』は刊行されている。

 なお、水戸藩士の系譜『水府系纂』(財団法人水府明徳会彰考館文庫本:茨城県立歴史館複製)によれば「千葉周作成政」家の系譜の中で、「忠左衛門成胤」の父親として荒谷村千葉家の「幸右衛門成勝」が記載されている。これは千葉周作が天保12(1841)年6月の水戸藩仕官後に、藩庁に提出が命じられた自家の系譜をつくることができず(父の忠左衛門が浪人として奥州から出てきた時点で周作は五歳であり、祖について認識する以前であったことや、晩年まで仕官することのなかった周作にとって祖先についての興味も薄かったのだろう。しかし、祖について調査が必要になった時点で忠左衛門はすでに亡く、先祖を辿る術はなかったと思われる。周作が子に自らのルーツを一切語らなかったのは、周作自身知らなかったことが一番の理由だろう)自分にとってのルーツである荒谷村の千葉幸右衛門家(北辰夢想流の伝家で当時の当主は千葉周吉か)へ援けを求めた結果と思われる。水戸藩千葉家の周作系譜にみられる「吉之丞常成」と「幸右衛門成勝」は荒谷村千葉家の人であり、父・忠左衛門以前は荒谷村千葉家の系譜を借りた可能性が高い。北辰一刀流千葉周作の父が、荒谷村では明治期に幸右衛門と誤認されていたのも、周作と荒谷村千葉家の間に交流があったために他ならないであろう。

気仙沼から荒谷、江戸へ

 忠左衛門はある時期、気仙沼村を離れて荒谷村(大崎市古川荒谷)を訪れた。その時期については、「周作が四、五歳の頃、父忠左衛門に手を引かれて、荒谷村にやってきた」という口碑が旧荒谷村に遺されており(『剣豪 千葉周作』)、事実とすれば寛政9(1797)年頃ということになる。気仙沼を遠く離れて栗原郡荒谷村へ赴いた理由は定かではなく、史書に拠れば「南部藩ノ医師」(『東藩史稿』)だった忠左衛門は「故アリ亡命シテ荒谷ニ来リ居ル」(『東藩史稿』)とのみ見える。

 この頃、気仙沼では洪水、大火、凶作、蔵王の噴火など自然災害が相次いでおり(『気仙沼市史 Ⅲ』)、こうしたことが忠左衛門が気仙沼を離れた要因なのかもしれない。佐藤訓雄氏は(1)災害と飢饉、(2)貧困、(3)亡命者としての身上の安全ならびに自由な天地への憧憬を挙げられているが(『剣豪 千葉周作』)、(1)と(2)が妥当だろう。

千葉忠左衛門の足取
千葉忠左衛門の気仙沼村からのルート(推測)

 ただ、寛政9(1797)年は三男・千葉定吉が気仙沼村で誕生した年であり、忠左衛門はまだ生まれて間もない乳飲み子を連れて気仙沼から荒谷へ旅したことになる。この旅に妻が同行した伝はなく、想像ではあるが周作らの母親は定吉を生んだ後に亡くなったのかもしれない。これも忠左衛門が気仙沼を離れる一因になった可能性もあろう。

荒谷斗螢稲荷神社
旧荒谷村の斗螢稲荷神社

 忠左衛門は荒谷村(荒谷宿)に滞在中、荒谷村庄屋の千葉幸右衛門(北辰夢想流目録者)のもとに滞在した。これは幸右衛門の子孫にあたる千葉周吉が、千葉周作の孫・勝太郎らと手紙のやり取りをして、「旧誼を温」めたい旨が記されていることからも想像できる。また、忠左衛門は「北辰夢相流(ママ)を江戸で教えたともされ(『東藩史稿』)幸右衛門から北辰夢想流の手ほどきを受けた可能性がある。

 荒谷村は奥州街道(松前道)の宿場町であり、忠左衛門は江戸への旅の途次、一関から奥州街道を南下し、この荒谷宿に宿泊したのだろう。このとき当地の千葉家が「北辰夢想流」剣術の伝承者であったことに興味を抱いたこと、幼子とくに定吉を連れての旅の危険性などの理由があって、幸右衛門のもと荒谷村にしばらく生活したと思われる。

●千葉周作系譜

【北辰夢想流開祖】      
 千葉道胤―――――常成―――良胤――――政胤――常行――――忠胤――――成勝――――成胤――――成政
(平左衛門)   (吉之丞)(周之助) (二郎)(勝右衛門)(平左衛門)(幸右衛門)(忠左衛門)(周作)
|                                        |
←―――――――――――――荒谷村千葉家(北辰夢想流)の系譜―――――――――→

 忠左衛門はもともと家伝の「北辰流」を修めていたと思われるが、「撃剣ヲ以テ教授ス、北辰無双流ト云フ」(『東藩史稿』)とあることから、「北辰夢想流」の目録者である幸右衛門から北辰夢想流を学んだのだろう。安政5(1858)年正月に「坂本龍馬」千葉定吉(周作弟)から受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」(『初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録』)ならびに、安政6(1859)年11月に「伴野鈴」が受けた「北辰一刀流長刀兵法目録」(『月刊秘伝』「古流武術見てある記」)には「北辰夢想流」の八代目に「千葉忠左エ門成胤(成常)」と記載されている。

●安政5(1858)年正月「北辰一刀流長刀兵法目録」(坂本龍馬への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――成勝――――忠胤――――成胤
(平左衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(幸右衛門)(平右衛門)(忠左衛門

●安政6(1859)年11月「北辰一刀流長刀兵法目録」(伴野鈴への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――忠常――――成勝――――成常
(平右衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(平右衛門)(幸右衛門)(忠左衛門

 ただし、これらの目録では「北辰夢相流開祖」として「千葉平右衛門道胤」が記載され、そのあとが「千葉吉之丞常成」、「千葉周之助良胤」と続く。つまり「吉之丞常成」は北辰夢想流創始者ではなく二代目ということになる。

 また、『水府系纂』には「千葉周之助良胤」の項目に「住下総」とあるが、正しいとすればその先代・吉之丞常成もまた奥州の人物ではなかったことになる。そのことについては、吉之丞(または平右衛門道胤)が北辰夢想流を創始した「場所」は北辰夢想流伝書にも一切記されておらず、奥州ではない可能性もある。

千葉忠左衛門の江戸移住

 忠左衛門が気仙沼村を出たのは、これまでは「観年十五」(『東藩史稿』)の年、つまり周作が十五歳になった文化4(1807)年とされていたが、『東藩史稿』においては、江戸へ出立した時期とは一切記されておらず、文意から江戸で浅利又七郎門下になったことが記されているのである。

 忠左衛門一行が江戸に出た時期については、あさくらゆう氏の調査により定吉が「弐歳」のとき(『千葉定吉身上書』)、つまり寛政10(1798)年だったことがわかる。このことから、荒谷村に滞在した期間は一年以内であって、荒谷村は最終目的地ではなかったと推測できる。忠左衛門が気仙沼村を出た理由とは、天災などによって故郷を逃れ、江戸へ赴くため可能性が高いだろう。その途次、奥州街道の宿場であった荒谷村に偶然一時滞在することになり、ここで「北辰夢想流」に出会ったということと思われる。

 忠左衛門がこの荒谷村での一年足らずの間にどれほど北辰夢想流を体得したかは不明だが、のちの北辰一刀流の伝書の中に「北辰夢想流」が見えるので、何らかの技術は習得していると推測される。荒谷村を発った忠左衛門は三人の子(又右衛門周作定吉)とともに同年中に「御当地(江戸)」へ罷り越した(『千葉定吉身上書』)。江戸に出た忠左衛門は「浦山寿貞ト相改医業仕罷有」(『千葉定吉身上書』)「江戸ニ出テ、医ヲ以テ業トシ、又傍ラ撃剣ヲ以テ教授ス」(『東藩史稿』)とあるように、医業と剣術を以て生計を立てていたことが推察される。「浦山寿貞」という名は南部藩での医師名または妻所縁なのかもしれないが、不明である。

 忠左衛門がどのようにして江戸に入ることができたのか、その手法は不明ながら、幕末期の尊攘志士・八木晋太郎「医師に扮して了庵と称し…漸く恙なく江戸に入りしも…」(『千葉の灸』)とあることから、医師となれば、江戸に入ることはさして難しいことではなかったのかもしれない。または、江戸と松戸に道場を有する松戸宿の小野派一刀流・浅利又七郎義信と接触があったと考えられることから、その手形による同道が考えられるか。結論から言えば、後述の通り、忠左衛門自身は往来手形の発向は受けずに江戸に来ている。

 道中で関所へ差し出す「往来手形」について、佐藤訓雄氏は、

「忠左衛門一家は、亡命者故に帳外れとなっており、旅や移住に当たって往来手形の下附は困難だった。…(中略)…まず、周作は自分と子の乕吉の往来手形の下附を受けて、富を周作に、弟を乕吉にそれぞれ仕立て替えをしたようである」(『剣豪千葉周作』抜粋)

 としている。忠左衛門一家は亡命者(浪人)であったことは間違いないが、仕立て替えについては考えにくい。

 まず、往来手形には旅人本人の名、菩提寺・庄屋の証、旅の目的、死後の取り扱いなどが記載されているが、基本的には旅行者一組に一枚の発行であり、同行者は筆頭者との続柄が追記された。場合によってはさらに同行者の名前と年齢を記載する場合もあった。周作は江戸へ着いた時点で六歳、一人で旅する事はありえず、往来手形を用いたとすれば、父・忠左衛門の往来手形に続柄記載となる。ただし、忠左衛門自身には往来手形は発行されていないので、忠左衛門は幸右衛門と養子縁組をし、彼の親族と同道して江戸方面へ向かったと考えるのが妥当か。なお、「乕吉」は「トラキチ(コキチ)」であって、「定吉」に通じる「テイキチ」とは訓まない(「逓」と「乕」は訓は異なる)

 また、忠左衛門自身は「浦山寿貞」の変名で往来手形を受けて江戸へ向ったとする(『剣豪千葉周作』)「知人の仙台藩の藩臣浦山某の往来手形を入手して、浦山寿貞になりすまし…」とも検証されているが、もし仙台藩士「浦山某」が忠左衛門に往来手形を手配したとすると、浦山某は藩庁交付の手形を忠左衛門に渡したことになり、これが発覚した場合には仙台藩士「浦山某」は大変な責任が及ぶことになる。「無宿人(当時の称で非人)である忠左衛門に対し、仙台藩士・浦山某が命懸けで手形を手配することは常識的に考え難いだろう。往来手形の問題については、忠左衛門が江戸に出たとき「浪人」「村方人別」に入っていなかったことが確認できるので(『千葉定吉身上書』)、結局は往来手形の交付はないまま江戸へ出たことがわかる

 なお、「浦山寿貞ト相改医業仕罷有」(『千葉定吉身上書』)と千葉定吉が述べているように、忠左衛門は浦山姓を称して医業を行っている。「浦山」は忠左衛門妻の実家の姓とする説(『千葉周作弟子三千人の由来』)があるが、南部藩の医師だったとも伝わる忠左衛門が、かつて医師だったことに称した姓である可能性もある。忠左衛門の時代から百三十年前の延宝5(1677)年当時になるが、仙台藩には浦山七右衛門浦山彦右衛門の二家の浦山家が存在した(『御知行被下置御牒』:「仙台藩家臣録」)、いずれも山形最上家の譜代家臣より出ている。浦山寿貞とのかかわりは不明である。

【仕最上修理義康:七千石】
 浦山弾正―――――――――与左衛門――善左衛門―+=仲右衛門
                         |
                         +―七右衛門(七貫二百五十文)
                         |
                         +―彦右衛門(三貫五百文)

江戸での忠左衛門と周作

 寛政10(1798)年、江戸に入った忠左衛門(浦山寿貞)の所在地は不明だが、当時の江戸には「八丁堀の七不思議」のひとつとして「儒者、医者、犬の糞」というものがあった。奉行所与力の配下である同心の八丁堀拝領屋敷を浪人儒者や浪人医者、浪人剣術家に貸して賃料をもらっていたという事実を揶揄したもので、忠左衛門(浦山寿貞)もこうした浪人医師(剣術家)の一人だったのかもしれない。そして、神田(千代田区神田錦町)の旗本・喜多村石見守正秀に出入りしていた小野派一刀流浅利又七郎義信と出会ったという(『千葉周作弟子三千人の由来』)

 その後、忠左衛門は次男・周作「小野派一刀流ノ達人ニシテ、聲名都下ニ鳴ル」という浅利又七郎に入門させた。これが「観年十五」(『東藩史稿』)の年、つまり周作が十五歳になった文化4(1807)年であるが、又七郎は周作「非凡ナルヲ愛シ」、自分の師である中西猪太郎(中西忠太子啓)に周作を紹介したとある(『東藩史稿』)。中西猪太郎の道場は下谷練塀小路台東区上野五丁目)にあり、名剣士が在籍する有名な道場であった。

松戸の周作史跡
松戸宿と千葉周作関連

 ただし、中西忠太子啓は享和元(1801)年に病死しており、周作がその門下に加わったのはこれ以前のこととなる。周作は忠太門人の白井亨義謙を「同門」としており、忠太門下だったことは間違いないだろう。このことから、周作が浅利又七郎門下になったのは文化4(1807)年以前のこととなり、中西道場に入門したのは享和元(1801)年の中西忠太死去前となり、七、八歳の頃であったことになる。

 その後、忠左衛門は松戸宿へ住まいを移すが、その時期は不明。子の周作浅利又七郎の縁者(又七郎妻の実家)である松戸宿の豪商巴屋(小森氏)の娘と結婚しており、忠左衛門が松戸へ移ったのがこの結婚を機にしているとすれば、周作の長男・奇蘇太郎(彦太郎)孝胤が生まれた文政8(1825)年以前であろう。

 忠左衛門の子三人は、この頃にはすでに独立して一家をなしており、忠左衛門は子息らの独立にともなって、三兄弟中で最後に結婚した周作と、その師で縁者である浅利又七郎の所縁で、松戸に移ったとみられる。忠左衛門がその後、子息たちとどのように交流したかは不明である。

梅牛山宝光院

 忠左衛門は松戸では医師・浦山寿貞として、医術を以って生計を立てたと思われる。たまには剣術を教えるなどしたかもしれないが、残念ながらその伝はない。

 天保2(1831)年正月17日、六十六歳で亡くなった。戒名は医徳院寿本量貞居士。墓所は周作妻の実家である小森家菩提寺・梅牛山宝光院。忠左衛門の墓石は小森家の墓域に残る。墓碑には「寿貞浦山先生」と刻まれ、「医徳院」という院号からも、松戸宿の医師として人々に慕われた様子がうかがえる。

 宝光院の過去帳に拠れば、忠左衛門の法要(一周忌か)を行なった人物は「浅利又市良」なる人物だったという(『古流武術見てある記』)。実は天保3(1832)年2月から天保5(1834)年10月までの間、周作は師で義叔父の浅利又七郎の養子となり「浅利又一郎」と称しており(『由緒書』小浜市立図書館蔵「酒井家文書」)周作が亡父の法要を行ったとみられる。

 また、「浅利又市良」=「浅利又七郎」であるとし、忠左衛門の法要を行なった人物は、忠左衛門と浅からぬ旧交があった浅利又七郎義信とする説もある(『月刊秘伝』「古流武術見てある記」)。ただ、これが事実とすると、周作が実父の法要を行なわなかった理由の説明がつかない。これについては「周作を避けて浅利又市良の名を使っているのは、凶状持の親の咎が周作に波及しないように、意図的に遺言によって避けたものと推察される」(『剣豪千葉周作』)と検証されているが、同書では、そもそも浦山寿貞と千葉周作は江戸に出てくる時点で「往来手形の偽造」によって別人となり、赤の他人ということになっていると述べており、この説は矛盾している。

 周作はその前半生を語ることがなかったというが、江戸に出たのちの周作と実父・忠左衛門の関係は不思議なほど見えてこない。道場の運営や弟子の育成のために私財を投じ続けたという周作は、みずからの生活は質素だったという。父との交流や法要も質素に行なったという可能性も否定できない。忠左衛門はひっそりと松戸宿に眠っている。


●ありがとうございました

 あさくらゆう様(『千葉の名灸』『鳥取藩政史料』等のご教授ならびに助言をいただきました)

●参考文献

・青木源内「浅利又七郎と千葉周作」(『松戸史談14』松戸史談会)
・あさくらゆう「北辰一刀流千葉家を語る」(『茨城史林35』筑波書林2011)
・あさくらゆう「千葉さなが眠る八柱霊園へ~ご子孫とともに」(『足立史談523』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなと関わった方たち」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「坂本龍馬との恋を目撃した男」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなについて(後編)」(『足立史談514』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「生涯独身の偶像(前編)」(『足立史談512』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなの宅を訪れた根本金太郎」(『足立史談510』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて~千葉定吉家にまつわる誤伝について」(『足立史談508』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて」(『足立史談506』足立区教育委員会2010)
・稲本雨休「千葉周作弟子三千人の由来」(『松戸史談6』松戸史談会)
・小山松勝一郎『清河八郎』:附録「玄武館出席大概」(新人物往来社1974)
・島津兼治「古流武術見てある記」(『月刊秘伝』1994~5 BABジャパン)
・齊藤伊勢松『岡部藩始末』(1997)
・佐藤訓雄『剣豪千葉周作』―生誕地の謎を明かす―(宝文堂1991)
・末満宗治「千葉周作父子江戸への道行」(『松戸史談47』松戸史談会)
・高森智子「千葉一族の羽衣伝承-地方武家による自家高揚伝承の試み-」(『千葉大学日本文化論叢5』千葉大学文学部日本文化学会2004)
・千葉栄一郎『千葉周作遺稿』(桜華社1942)
・千葉勝太郎『剣法秘訣』(1915)
・辻淳「千葉周作研究文献と松戸宿小森家の謎」(『松戸史談48』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(一)」(『松戸史談49』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(二)」(『松戸史談50』松戸史談会)
・土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談170』)
・松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』45)
・西内康浩 『龍馬の剣の師千葉定吉・僚友千葉重太郎の墓確認に寄せて』(『土佐史談170』)
・水口民次郎 『丹波山國隊史』
・宮川禎一 『山国隊と千葉重太郎』(『歴史読本』54)
・渡辺一郎『史料 明治武道史』(新人物往来社1971)
・『一刀流関係史料』(筑波大学武道文化研究会1993)
・『衆臣家譜』(相馬市史資料集特別編)
・『東藩史稿』(宝文堂出版1976:原本は作並清亮著1915)
・『仙台藩家臣録』(歴史図書社)
・『豊岡村誌』(豊岡村誌編纂委員会1963)
・『陸前高田市史』
・『松戸市史』
・「千葉の名灸」(横浜毎日新聞連載1903)
・「北辰一刀流十二個条訳」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「北辰一刀流剣法全書」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「千葉家系図」(財団法人水府明徳会彰考館文庫『水府系纂』茨城県立歴史館複製所蔵)
・「千葉定吉身上書」(『藩政資料』鳥取県立博物館所蔵)
・「耕雲録」(山路愛山編『清河八郎遺著』 民友社 1913)
・「岡部藩主安倍家関係文書」(埼玉県立文書館)
・ 『千葉一胤家譜』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『千葉重太郎一胤略伝』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『組帳』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『藤岡屋日記 近世庶民生活史料』(鈴木棠三、小池章太郎編 三一書房)
・ 『各地地主名鑑』(国立公文書館)
・ 『東京地主案内 区分町鑑』(国立公文書館)
・ 『東京地主細覧』(国立公文書館)
・勝海舟 『海舟日記』(東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編)
・中根雪江 『続再夢紀事』(日本史籍協会編 東京大学出版会)
・ 『水戸藤田家旧蔵書類』(日本史籍協会編 日本史籍協会1934)
・ 『明治五年六月官員全書改』(国立公文書館)
・ 『開拓使日誌 地』(『新北海道史 史料編1』1969)
・ 『職員録 明治十四年』(国立公文書館)
・ 『職員録 明治十五年』(国立公文書館)
・ 『職員録 明治十七年』(国立公文書館)
・ 『東京市及接続部地籍地図』(国立公文書館)
・ 『東京市及接続部地籍台帳』(国立公文書館)
・ 『地所分割買上に付地券書換願』(国立公文書館)
・ 『千葉の名灸』(横浜毎日新聞1903)
・ 『御達留』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・北垣国道 『北垣国道日記 塵海』(塵海研究会編 思文閣出版2010)
・藤野斎 『征東日誌 丹波山国農兵隊日誌』 (仲村研、宇佐美英機編 国書刊行会1980)
・ 『贈従一位池田慶徳公御伝記』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・原邦造 『原六郎翁伝』(板沢武雄、 米林富男共編1937)


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