北辰一刀流 千葉家

北辰一刀流千葉家

 江戸時代末期、江戸三大道場の一家に数えられた玄武館は、陸奥国本吉郡気仙沼村出身の千葉一族・千葉周作成政を創始者とする北辰一刀流の道場である。

 北辰一刀流とは、千葉家家伝の「北辰流」と周作自身が修業した「一刀流」の合法剣法であり、通説となっている「北辰夢想流」と「一刀流」の合法剣法ではない。また、北辰一刀流は宗教色のない合理的な教法であって「妙見信仰」とも無縁である(周作個人は妙見を守本尊としていた可能性はある)。

 しかし、千葉周作自身の出自については、周作自身が語らなかったこともあり、様々な説がある。これを総合的かつ詳細に検証した佐藤訓雄氏『剣豪千葉周作』(宝文堂)によって、周作にまつわる「謎」が比較検討され、長年疑問が呈されていた出生地や父親の謎に革新的な進展が見られた。さらに、各地に残る千葉周作の出自・伝承を調査した島津兼治氏宮川禎一氏の研究によってさらなる発展があった。

 そして、最近では原典に当たって歴史の掘り起こしをされている研究家あさくらゆう氏によって、周作の出生地が気仙沼市であることやその後の足取り、千葉定吉一族の幕末・明治以降の動向までほぼ明らかにされている。このページでは、先学諸先生の研究を含め、その他の史料もあわせて検証する。

●北辰一刀流千葉周作家(想像略譜)

               +=千葉周作   +―塚越成道―+―塚越成直――+―塚越成男
               |(荒谷村千葉家)|(又右衛門)|(又右衛門) |(鉾五郎?)
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越至
               |        |      |       |
               |        |      |       |
               |        |      |       +―塚越三治
               |        |      |
               |        |      +―倉光継胤――――倉光光胤
               |        |       (継之進)   (鐉次郎)
               |        |
               |        |【北辰一刀流】
 千葉常成=?=千葉成勝―――+?=千葉成胤――+―千葉成政―+―千葉孝胤――――千葉一弥太
(吉之丞)  (幸右衛門)    (忠左衛門) |(周作)  |(奇蘇太郎)
                        |      |
                        |      +―きん    +―千葉之胤―――千葉栄一郎
                        |      |(嫁芦田氏) |(周之介)
                        |      |       |
                        |      +―千葉成之――+―千葉鉄之助
                        |      |(栄次郎)   
                        |      |
                        |      +―千葉光胤――+―千葉勝太郎―――千葉和
                        |      |(道三郎)  |
                        |      |       |
                        |      +―千葉政胤  +―千葉次彦
                        |       (多門四郎)
                        |
                        +―千葉政道―+―千葉一胤――+―繁
                         (定吉)  |(重太郎)  | ∥
                               |       | ∥
                               +―梅尾    +=千葉束
                               |       |(喜多六蔵二男)
                               |       |
                               +―さな    +―寅
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 山口菊次郎 +=千葉清光
                               |       |(東一郎)
                               |       |
                               +―りき    +―震(しの)
                               | ∥     | ∥
                               | ∥     | ∥
                               | 清水小十郎 | 江都一郎
                               |       |
                               +―きく    +―千葉正
                               | ∥
                               | ∥
                               | 岩本惣兵衛
                               |(大伝馬町旅店)
                               |
                               +―はま
                                 ∥
                                 ∥
                                 熊木庄之助


                              
             

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【一】北辰一刀流とは

 北辰一刀流の発祥譚はさまざま残っているが、実際はどのような経緯で成立したものか。その発祥譚の根拠となっているのが、千葉周作の孫・千葉勝太郎編著となっている『剣法秘訣』である。それによれば、千葉周作の「祖父」千葉吉之丞が開いた「北辰夢想流」と、周作自身が修業した一刀流を合わせたものとされる。

 ところが、実際はそのような経緯でつくられたものではなく、周作自身が認めた「北辰一刀流兵法伝書」によれば、

 北辰流開祖   千葉之介常胤
 一刀流開祖   伊藤一刀斎景久
 一刀流中興開祖 小野次郎右衛門忠明
  両伝合法
 北辰一刀流開祖 千葉周作成政

とある(『剣豪 千葉周作』)

 また、周作門人・小森庄蔵忠則(周作妻の縁者。弟?)の門人・深山慶治郎忠任が、門弟の豊田玄吉へ発給した「北辰一刀流兵法箇条目録」(『豊岡村誌』)にも、

   千葉之介常胤
    家流
 北辰流
   伊藤 一刀斎景久
   御子神典膳
    家流
 一刀流 
両刀合法
   北辰一刀流開祖 千葉周作成政

 とあることや、『北辰一刀流名号略解』(『千葉周作遺稿』)にも「此剣法当家に伝りたるを一刀流と合法して、北辰一刀流とは号たるなり」と明記されており、北辰一刀流は「北辰夢想流」と「一刀流」の合法流派ではなく、千葉家家伝の「北辰流」と「一刀流」の合法流派であることがわかる。その記し方も、家伝の北辰流を先に記して尊重しつつも、一刀流開祖・伊藤一刀斎ならびに中興の小野次郎右衛門(御子神典膳)の両名を記している点、組太刀の相似点からみても、周作は自ら鍛錬を重ねた一刀流を重んじていることがわかる。

 「家伝」とされる「北辰流」の内容は今となっては知れないが、北辰一刀流の伝では千葉家祖・千葉介常胤の剣術だったとされている。その伝に拠れば、

「元来、千葉家先祖常胤ノ剣法ニシテ其法衆妙ノ理有、其妙用北辰ノ徳ニ齋、北辰ハ北極星ニシテ天地ノ正中ニ位シ南極ニ対シ天地ヲ運転スルノ枢ナリ…」(冑山文庫『北辰一刀流十二個条訳』)
とある。

【ニ】北辰夢想流とは

 北辰夢想流とは、江戸中期に陸奥国栗原郡荒谷村の千葉平右衛門道胤(または吉之丞常成)が開いた剣術である。北極星を通じて「妙現菩薩」から伝授されたことが相伝系図にみられ(『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)、千葉家の守護神である妙見神を拠り所とし、その流派の北辰は北極星を意味するものであることがわかる。

 そして、北辰一刀流がこの「北辰夢想流」と「一刀流」の合法剣術とされたまま、現在に至るまで通説化している理由は、主に小説による影響が強いと思われる。そしてこの小説の北辰一刀流開創部分の資料とされたのが、おそらく坂本龍馬の「北辰一刀流長刀兵法目録」にみられる伝系であろう。坂本龍馬へ与えられた長刀目録では、「北辰流」の次に千葉之介常胤十一代として、「北辰夢想流開祖 千葉平右ヱ門道胤」の名があり、続けて伝系が忠左衛門まで繋がる。そして一刀流との合法により、北辰一刀流が生まれたとある。この目録が夙に著名な坂本龍馬の北辰一刀流の目録であったことが誤解を招くきっかけとなったのだろう。

 では「北辰夢想流」とはいかなる流派だったのだろうか。このあたりは、『剣豪千葉周作』(佐藤訓雄著)『古流武術見てある記(月刊秘伝より)』(島津兼治著)に実地調査と綿密な研究結果が述べられているので、そちらを参考にしながら北辰一刀流との関係を見ていく。

 北辰夢想流の相伝書に拠れば、北辰夢想流開祖(千葉平右衛門または吉之丞)はもともと村雨一流の剣士「君前」での「同門同流」の山上角之進に敗れた。彼は「生良馬家」ながら山上角之進に打ち負けたことは「武門恥辱」と、「穢家名」したことを大いに恥じ、「妙現神社」に参詣して、自らの武術の上達を祈願した。するとある夜、神から剣法の秘訣を授けられた夢を見て、その後、急に剣術に磨きがかかったことから、北辰妙見から授けられた秘法であるとして、北辰夢想流と名づけたという。このとき、吉之丞は和歌を詠んで喜びを表現し、北辰夢想流相伝書に認めている (『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)

何廉に 心のやみの雲はれて てらされ給ふ千葉の星月  (『剣豪千葉周作』佐藤訓雄氏、『秘伝』島津兼治氏)

 これが北辰夢想流伝書にみられる開創譚であるが、この相伝書の記述を誤記(敢えて変えた可能性も)した『千葉周作遺稿』によれば、

「吉之丞といふ人は相馬中村の藩士であつた。ある時、君前で同じ藩士上山角之進と剣法の技を闘はして敗れたことがあった、それがため吉之丞はそれを大いに恥ぢて発奮し、相馬の妙見宮に参篭して、熱心に武術の上達を祈願した。…神霊に剣法の秘訣を授けられた夢を見ると…急に技法がすすみひらけた…自分から命名して北辰夢想流といった。…吉之丞はその後、理由があって職をやめ、荒谷村に来て農業に従つた」

と、内容の根本が変化している。

 『千葉周作遺稿』の北辰夢想流開創譚の核心部分における誤記部分としては、上記の下線部分に相当するが、

(1)相馬中村の藩士であった
 北辰夢想流伝書にある「…迚、村雨一流」「迚、村」と「中村藩」を誤読したものである。

(2)同じ藩士の上山角之進

 北辰夢想流伝書にある「同門同流」を「同じ藩士」と改竄し、「山上角之進」を「上山角之進」と誤記。

(3)吉之丞が「相馬の妙見宮」に参詣したこと

 吉之丞が「相馬中村の藩士」であることを前提に、伝書内の「妙現神社」を「相馬の妙見宮」として辻褄を合わせた。

 まず(1)については、『北辰夢想流伝書』に相馬中村藩との関係を匂わせる記述は一切ない上に、中村藩家中に「千葉」家は存在しない。もちろん藩士の系譜である『衆臣家譜』にも千葉姓の記載はない。中村藩では名字に「千葉」はもちろん千葉六党の名字も認められなかった。とくに「千葉」「東」姓は特別な存在であり、藩侯庶子のみが称した。これは、相馬家の祖とされた平将門と天女との間に生まれた「千葉之助」「相馬」「東少輔」の三人の子にまつわる「羽衣伝説」に肖ったものであろう。千葉氏の羽衣伝説については、高森智子氏の論証に詳しい(高森智子「千葉一族の羽衣伝承-地方武家による自家高揚伝承の試み-」)

 (2)(3)については、(1)の相馬中村藩士となったことを前提にして改竄されたものであり、(1)の前提条件が崩れているので考察に値しない。

 実は、この北辰夢想流開祖とされる荒谷村千葉家の子孫に、千葉周作という北辰一刀流千葉周作と同姓同名の人物が存在したことが混乱のもととなっているが、明治末から大正初期の時点で、荒谷村ではすでに両者は同一人物化されており、『千葉周作遺稿』の草稿調査の段階で調査員が入手した資料ですでに混同が起こっていた(『剣豪 千葉周作』)。ここでの混同が、荒谷村千葉周作の父・千葉幸右衛門(北辰夢想流)が北辰一刀流千葉周作の父とされるに至り、実際の父である千葉忠左衛門と千葉幸右衛門の両人の名が伝わることとなってしまった。

 そして、千葉周作の父が北辰夢想流の千葉幸右衛門であるとされたため、実父の忠左衛門は『千葉周作遺稿』に登場することはない。そして北辰一刀流は、父の幸右衛門が伝えた北辰夢想流と、周作が学んだ一刀流の合法剣術と誤伝されてしまうことになった。これに太鼓判を捺した形となったのが、おそらく坂本龍馬の目録の伝系なのだろう。

 なお、北辰夢想流の千葉幸右衛門については、宝暦2(1752)年正月18日、千葉吉之丞の系を引く桑折市左衛門から伝流された小田嶋幸右衛門がおり、彼の親戚筋に北辰夢想流伝書が伝わっていたことから、この小田嶋幸右衛門が千葉幸右衛門と同一人物で、千葉家を継承したものとみられる。

 ただし、千葉吉之丞が北辰夢想流を開いたのは伝書に拠れば「貞享之頃(1684-88)」であり、幸右衛門への伝流と七十年ほどの開きが生じることから、桑折市左衛門は年齢的にも吉之丞の門弟ではないだろう。幸右衛門も吉之丞から千葉家を継承したわけではなく、数代後に千葉家を継承したと見られる。伝書は北辰夢想流開祖としての吉之丞を載せているのであって、実際の市左衛門の師は吉之丞ではなく、子とされる周之助良胤、または孫・二郎政胤が師であった可能性があろう。

【三】北辰一刀流と北辰夢想流の関係

 ただ、北辰一刀流は北辰夢想流と一刀流の合法ではないが、まったくの無関係というわけではない。

(1)千葉周作の実父で医師の浦山寿貞が「北辰夢双流」を江戸で教えていた可能性がある(『東藩史稿』)
(2)
千葉定吉道場での長刀目録に「北辰夢相流」がみられる(『北辰一刀流長刀兵法目録』)

 上記のように、北辰一刀流には北辰夢想流の影響が考えられるのである。

 ただし、周作の弟・千葉定吉(桶町系)が出した長刀兵法目録(坂本竜馬、伴野鈴への長刀兵法目録)に見られるとおり、「家伝 北辰流」のあとに流れで「北辰夢相流」が続き、「伝流一刀流」との「両伝合法」により北辰一刀流が誕生しているが、この「両伝」とは「家伝」である「北辰流」と、「伝流」である「一刀流」の「両伝」であって、伝とされない北辰夢想流はその基幹ではないことがわかる。

 北辰夢想流については、桶町道場系統の目録だけではなく、玄武館系の目録にもその影響が見られるものがある。慶応2(1866)年10月に仙台藩士・桜田敬助から砂澤常之進へ渡された「北辰一刀流印可」(『一刀流関係史料』)「北辰一刀流開祖 千葉平右衛門道胤」と見える。この「道胤」は桶町道場が発給した長刀目録に名が見える「北辰夢想流開祖 千葉平右ヱ門道胤」と同一人物と思われるが、桜田敬助目録中では千葉周作も「両流合法 北辰一刀流開祖」とあることから、おそらく「北辰夢想流開祖」の誤記であろう。これらのことから、道胤は北辰夢想流の開祖として玄武館、桶町道場の両道場に伝えられていたものと思われる。

 なお、桜田春三郎(敬助の甥)が元治元(1864)年3月に砂澤常之進へ発給した「北辰一刀流刀法初目録伝授」では「北辰流開祖 千葉之介常胤」となっていることから、目録は発給する人物によって系譜の書き方が異なり、厳密な体裁はなかったようである。また、誤記もかなり目立つため、自分が持っている目録の書写時に校正等を行わなかった様子もうかがえる。

【仙台藩士桜田良佐系の北辰一刀流伝流】

千葉周作成政――桜田良佐景廸―+―桜田春三郎景臣――砂澤常之進
               |
               +―桜田敬助景敬―――砂澤常之進

【四】千葉周作の系図と北辰夢想流

 北辰一刀流のうち、北辰夢想流の伝系がはっきりと記載されているのは、周作の弟・千葉定吉の所謂「桶町千葉道場」が出した「長刀目録」である。この伝系は「千葉吉之丞常成」と「千葉幸右衛門成勝」の世代関係から見て、北辰夢想流の荒谷千葉家の系譜と符合する可能性があるが、実はこの系譜は周作が水戸藩士となって藩庁へ提出した系譜とほぼ同一のものとなっている。周作が水戸藩へ召し出されたのは天保12(1841)年6月であるが、系譜提出はそのあたりと思われる。この系譜の提出を命じられた周作は、おそらく頭を抱えたと思われる。

●『水府系纂』の「千葉周作成政」系譜

            【住下総】
   (前無)      千葉良胤―――政胤――常行――――忠胤――――成勝――――成胤――――成政
             (周之助)  (二郎)(勝右衛門)(平左衛門)(幸右衛門)(忠左衛門)(周作)

●安政5(1858)年正月「北辰一刀流長刀兵法目録」(坂本龍馬への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――成勝――――忠胤――――成胤
平左衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(幸右衛門)(平右衛門)(忠左衛門

●安政6(1859)年11月「北辰一刀流長刀兵法目録」(伴野鈴への免許)

【北辰夢想流開祖】
 千葉道胤―――――常成―――良胤―――政胤――常行――――忠常――――成勝――――成常
平右衛門)   (吉之丞)(周之助)(二郎)(勝右衛門)(平右衛門)(幸右衛門)(忠左衛門

 推測ではあるが、もともと周作は自分のルーツを知らなかったと思われる。周作が家の歴史について子にまったく語らなかったのがその現れである。まだ五歳の頃に父・忠左衛門に伴われて逃げるように故郷の奥州気仙沼村を離れて以来、自らのルーツには無縁の半生を過ごしている。

 浪人身分の道場主であればとくに問題はなかったが、水戸藩での身分が雇ではなく藩士としての召抱えとなるにあたり、自家の由緒書や系譜を提出するよう命じられる場合が多かった。とくに水戸藩は義公以来の藩士系譜集約作業が代々行われており、系譜の提出は必須事項だったと思われる。

 周作は急遽ルーツを探すも、すでに父の忠左衛門(浦山寿貞)は十年も前の天保2(1831)年正月に亡くなっており、祖先探訪はもはや不可能だった。そこで、周作は自分にとってのルーツである荒谷村の千葉幸右衛門家(北辰夢想流の伝家)へ援けを求めたのかもしれない。「周之助良胤」以下「平右衛門忠胤」まで実在の人物かを証明する手立てはないが、少なくとも周作系譜にみられる「吉之丞常成」と「幸右衛門成勝」は荒谷村千葉家の人であることから、父・忠左衛門以前は荒谷村千葉家の系譜を借りた可能性もあろう。

 また、北辰一刀流の目録にある「星眼」(流派によって青眼、正眼、清眼など)、「星王剣」等の呼称が北辰夢想流でも用いられていることなどを考えると、北辰一刀流の歴史の中に北辰夢想流の影響があったことは間違いなさそうである。ほかにも、「長刀兵法目録」および『北辰一刀流剣法全書』「薙刀組之事」にみられる組名と北辰夢想流の目録名に一致するものがいくつか見られることから、定吉が目録を発給する際に北辰夢想流の代々を入れた理由は、長刀組が北辰夢想流に由来するものだったからなのかもしれない。

【五】北辰一刀流は妙見信仰とは無関係

 北辰一刀流の冠称「北辰」とは、妙見信仰に基づく命名であるという通説が主流となっている。ところが、北辰一刀流の伝書や目録、印可状には「妙見」の文字は一切見られず、さらには伝書内にも妙見信仰にまつわる文言はない。さらに入門時の誓約書である『北辰一刀流神文誓詞』(『一刀流皆伝史』所収)にも剣術諸流派と同様の神々が見られる一方で「妙見」はみられない。

 また、周作は北辰一刀流の流派興隆祈願のために神社へ扁額掲揚を行っているが、妙見とは関係のない浅草観音堂に掲げている。周作が妙見信仰に基づいて北辰一刀流の祈願を行うとすれば、関東においては秩父神社や引間妙見社、千葉妙見寺への扁額が行われただろう。ところが、周作は千葉妙見の発祥伝説(平良文・将門の染谷川合戦の伝承)もある引間村妙見神社のある佐鳥浦八郎道場を訪れているにもかかわらず、立ち寄った形跡すらないのである。北辰一刀流の道場である「玄武館」、目録などの「星眼」「七曜剣」「星王剣」などの呼称も妙見起源ではなく、おそらく家伝の「北辰流」から想定される「北極星(北辰)」にまつわる呼称であり、北辰一刀流と妙見信仰を結びつけることは困難なのである。

 そもそも、周作が認めた『北辰一刀流名号略解』によれば、北辰一刀流の名号の「北辰」を冠した理由として、

北辰ノ文字ヲ冠シタルハ元来千葉家先祖常胤ノ剣法ニシテ其法衆妙ノ理有、其妙用北辰ノ徳ニ斎、北辰ハ北極星ニシテ、天地ノ正中ニ位シ、南極ニ対シ、天地ヲ運転スルノ枢ナリ」

と周作自身が明記しており、家伝の千葉介常胤以来の「北辰流」を冠したものと断言している。つまり流派名の「北辰」と妙見信仰とはいささかの関係もないのである。

 その「北辰」とは北極星であり、北辰流は「衆妙ノ理」つまり不偏の道理に基づいた剣術で、「妙用北辰ノ徳ニ斎」つまり、孔子が曰くところの、北辰の「為政以徳、譬如北辰居其所衆星共之、君ノ位ニシテ不動、無為ニシテ、能ク衆生ヲ臣トシテ使フ、即チ太極ノ体用ナリ」という立ち位置が生まれる作用を記している。ただし、「能ク衆ヲ服スルノ理、是亦意味深長、容易説尽シ難」いことも述べており、儒教精神が北辰一刀流の精神論の中に流入していることがわかる(『北辰一刀流十二個条訳』)

 対して、北辰一刀流へエッセンスが流入したと思われる北辰夢想流については、「北極星」「妙現菩薩」をその流祖としており、開創譚にも「妙現神社」への参詣によって体得したことが記されていることから、千葉家に伝わる妙見信仰に基づいた神託系の剣術流派としてよいだろう。


●ありがとうございました
 あさくらゆう様(『小浜藩資料』『千葉の名灸』『鳥取藩政史料』等のご教授ならびに助言をいただきました)

●参考文献

・青木源内「浅利又七郎と千葉周作」(『松戸史談14』松戸史談会)
・あさくらゆう「北辰一刀流千葉家を語る」(『茨城史林35』筑波書林2011)
・あさくらゆう「千葉さなが眠る八柱霊園へ~ご子孫とともに」(『足立史談523』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなと関わった方たち」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「坂本龍馬との恋を目撃した男」(『足立史談518』足立区教育委員会2011)
・あさくらゆう「千葉さなについて(後編)」(『足立史談514』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「生涯独身の偶像(前編)」(『足立史談512』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなの宅を訪れた根本金太郎」(『足立史談510』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて~千葉定吉家にまつわる誤伝について」(『足立史談508』足立区教育委員会2010)
・あさくらゆう「千葉さなについて」(『足立史談506』足立区教育委員会2010)
・稲本雨休「千葉周作弟子三千人の由来」(『松戸史談6』松戸史談会)
・小山松勝一郎『清河八郎』:附録「玄武館出席大概」(新人物往来社1974)
・島津兼治「古流武術見てある記」(『月刊秘伝』1994~5 BABジャパン)
・齊藤伊勢松『岡部藩始末』(1997)
・佐藤訓雄『剣豪千葉周作』―生誕地の謎を明かす―(宝文堂1991)
・末満宗治「千葉周作父子江戸への道行」(『松戸史談47』松戸史談会)
・高森智子「千葉一族の羽衣伝承-地方武家による自家高揚伝承の試み-」(『千葉大学日本文化論叢5』千葉大学文学部日本文化学会2004)
・千葉栄一郎『千葉周作遺稿』(桜華社1942)
・千葉勝太郎『剣法秘訣』(1915)
・辻淳「千葉周作研究文献と松戸宿小森家の謎」(『松戸史談48』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(一)」(『松戸史談49』松戸史談会)
・辻淳「松戸宿小森家の謎 庄蔵のその後(二)」(『松戸史談50』松戸史談会)
・土居晴夫「坂本龍馬と「北辰一刀流長刀兵法目録」」(『土佐史談170』)
・松岡司「初見の坂本龍馬書状と北辰一刀流長刀兵法目録」(『日本歴史』45)
・西内康浩 『龍馬の剣の師千葉定吉・僚友千葉重太郎の墓確認に寄せて』(『土佐史談170』)
・水口民次郎 『丹波山國隊史』
・宮川禎一 『山国隊と千葉重太郎』(『歴史読本』54)
・渡辺一郎『史料 明治武道史』(新人物往来社1971)
・『一刀流関係史料』(筑波大学武道文化研究会1993)
・『衆臣家譜』(相馬市史資料集特別編)
・『東藩史稿』(宝文堂出版1976:原本は作並清亮著1915)
・『仙台藩家臣録』(歴史図書社)
・『豊岡村誌』(豊岡村誌編纂委員会1963)
・『陸前高田市史』
・『松戸市史』
・「千葉の名灸」(横浜毎日新聞連載1903)
・「北辰一刀流十二個条訳」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「北辰一刀流剣法全書」(冑山文庫・国立国会図書館蔵)
・「千葉家系図」(財団法人水府明徳会彰考館文庫『水府系纂』茨城県立歴史館複製所蔵)
・「千葉定吉身上書」(『藩政資料』鳥取県立博物館所蔵)
・「耕雲録」(山路愛山編『清河八郎遺著』 民友社 1913)
・「岡部藩主安倍家関係文書」(埼玉県立文書館)
・ 『千葉一胤家譜』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『千葉重太郎一胤略伝』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『組帳』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・ 『藤岡屋日記 近世庶民生活史料』(鈴木棠三、小池章太郎編 三一書房)
・ 『各地地主名鑑』(国立公文書館)
・ 『東京地主案内 区分町鑑』(国立公文書館)
・ 『東京地主細覧』(国立公文書館)
・勝海舟 『海舟日記』(東京都江戸東京博物館都市歴史研究室編)
・中根雪江 『続再夢紀事』(日本史籍協会編 東京大学出版会)
・ 『水戸藤田家旧蔵書類』(日本史籍協会編 日本史籍協会1934)
・ 『明治五年六月官員全書改』(国立公文書館)
・ 『開拓使日誌 地』(『新北海道史 史料編1』1969)
・ 『職員録 明治十四年』(国立公文書館)
・ 『職員録 明治十五年』(国立公文書館)
・ 『職員録 明治十七年』(国立公文書館)
・ 『東京市及接続部地籍地図』(国立公文書館)
・ 『東京市及接続部地籍台帳』(国立公文書館)
・ 『地所分割買上に付地券書換願』(国立公文書館)
・ 『千葉の名灸』(横浜毎日新聞1903)
・ 『御達留』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・北垣国道 『北垣国道日記 塵海』(塵海研究会編 思文閣出版2010)
・藤野斎 『征東日誌 丹波山国農兵隊日誌』 (仲村研、宇佐美英機編 国書刊行会1980)
・ 『贈従一位池田慶徳公御伝記』(鳥取県立博物館所収「鳥取藩政資料」)
・原邦造 『原六郎翁伝』(板沢武雄、 米林富男共編1937)


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