千葉介胤朝

肥前千葉氏

○小城千葉氏の一族○

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千葉介胤朝(1435-1486)

 小城千葉氏十三代。千葉右京大夫胤紹の次男。通称は千葉介

 嘉吉元(1441)年、父・千葉胤紹は中国地方から北九州を勢力下におさめる太守・大内教弘に属して惣領・千葉介胤鎮と戦い、12月27日、小城郡下隈の戦いで胤鎮を破って幕府から千葉家惣領と正式に認められ、小城郡が安堵された。

 千葉介胤基―+―千葉介胤鎮―+―千葉介元胤
(千葉介)  |(千葉介)  |(千葉介)
       |       |
       |       +―千葉介教胤
       |        (千葉介)
       |
       +―千葉胤紹――+―千葉政胤
        (右京大夫) |
               |
               +―千葉介胤朝
               |(千葉介)
               |       【祇園千葉家】
               +―千葉胤盛―――千葉介興常
               |(千葉介)  (千葉介)
               |       
               +―千葉胤将
                (妙法院僧侶)

 ところが、文安2(1445)年8月、胤鎮は旧臣の岩部氏仁戸田氏とともに挙兵し、胤紹川上村西山田(佐賀市大和町)の戦いで大敗し、8月17日、長男の政胤とともに国府城(佐賀市大和町尼寺)で殺害された。こうして胤鎮が再度惣領となり、小城の北・牛頭山(祇園山)に新城を築いて本城とした。 

千葉胤朝の花押
胤朝花押

 当時十一歳の胤朝は国府城を逃れて、おそらく大内家に寄っていたのだろう。二十年あまり雌伏したが、寛正5(1464)年10月、惣領家・千葉介元胤胤鎮嫡子)が急死。元胤の弟・教胤が十四歳で跡を継ぐも家中は混乱しており、胤朝は大内政弘を通じて九州探題・渋川右衛門佐教直と結んで教胤の追い落としを図った。

 そんな中、佐嘉郡新庄の今川伊予守胤秋が探題・渋川教直と組んで小城郡侵攻を企てているとの流言が流れたため、寛正6(1465)年5月20日、教胤家宰・中村胤頼は千葉家由縁の諸氏に触れ回り、「小城には岩部播磨守常楽、岩部備中守、中村弾正少弼胤明、仁戸田阿波守胤範、同左馬助、中村伯耆守、平田将監、山鹿主税助、堀江和泉守、同助三郎、同伊豆守、同常陸介を初として、南里、古川、江口、東郷、粟飯原以下、佐嘉には高木、渋谷、神代等」(『九州治乱記』)が参戦。都合二千騎あまりで新庄の今川館を攻撃した。

 胤秋は23日、中村弾正少弼胤明を離反させ、千葉勢を河上まで押し戻した。翌24日には逆に中村勢へ攻めかかり、千葉勢の大将の一人、中村越前守を討ち取ると、「子息中村弥六郎妙胤を初め、同名伯耆守、武雄加賀守、同大蔵丞、堀江伊豆守、同名常陸介、同彦太郎、同三郎、同三郎、同森太郎、馬郡対馬守、同大膳亮以下」を討ち取った。しかし、今川家も「今河摂津守、同相模守、同近江守、其外究竟の輩十四人」が討たれ、日暮れと同時に両軍は陣に戻った。その後、千葉方では中村胤頼弟・仁戸田中務少輔と、円城寺淡路守、山口肥前守、石井越後守らが相談して今川方と和平を整えることとし、互いに兵を引くこととなる(『九州治乱記』)

 しかし、両者の遺恨は晴れず、早くも翌正元(1466)年には河上で千葉・今川勢が合戦を始める。さらに翌応仁元(1467)年6月20日、胤秋は探題・渋川教直と結んで小城郡に攻め込み各地に放火した。しかし、教胤はすぐさま反撃に転じ、翌21日には今川勢を追い詰め、胤秋を初めとして弟・今川右衛門大夫、今川次郎大夫、江頭摂津守、江頭又太郎、楢富筑前守、高柳周防守以下の諸将が乱戦の中で討死を遂げた。探題・渋川教直の加勢も散々に打ち破られ、小城郡から撤退。教胤は今川領(かつて千葉家の依頼により探題領から今川家に宛がわれた知行)の佐嘉郡与賀庄川副庄を併合した。こうして教胤の勢力はますます強大になり、頼みの探題も小城から撤退してしまったため、胤朝が兵を挙げる隙はなくなってしまう。

 ところが、文明元(1469)年6月、教胤大村日向守家親との戦いで討死を遂げると、執権の中村胤明岩部常楽の要請を受けて胤朝は念願の千葉惣領家の座につき、「国府」に入った。なお、この「国府」とは千葉家の本拠・小城のことである。7月、岩部常楽は佐嘉郡統治のため、本当の「国府」のあった府中尼寺館へと移っている。

■千葉家内紛の勃発

 そんなころ、大内政弘が上洛して留守の間に、大内勢によって対馬へ放逐されていた少弐頼忠(のち政尚、政資)が旧領奪還の活動をはじめる。文明元(1469)年正月、対馬島主・宗刑部大輔貞国は将軍義政に様々に請い、少弐頼忠を「本府へ帰り入るべき旨、安堵の御教書」を手に入れる。そして7月、「対馬島主宗貞国挙兵、奉教頼之子頼忠而往、沿路諸酋護送助之、遂至宰府悉復旧境」(『海東諸国記』)とあるように、少弐頼忠は宗貞国の支援のもと、渡海して筑前国に入り、大内勢を追い払って太宰府を奪還した。そして、「頼忠既至宰府、令貞国守博多、貞国身留愁未要時、遣麾下守博多」と、交易の中心であった博多防衛のため貞国の麾下を派遣させている。

 一方、千葉家では岩部常楽を妬んで、中村胤明常楽を讒言し、胤朝はこれを信じて、常楽の追討を計画する。しかし身に覚えのない常楽は起請文を出して謝罪し、無実を訴えるが胤朝は信じず、常楽はやむなく太宰府の少弐頼忠に仲介を頼んだ。これを承諾した頼忠は胤朝を取りなしたため、その場は収まった。

 ところが、胤朝は9月9日、岩部常楽の誅殺を図り、密かに仁戸田近江守の手勢を府中尼寺館に向かわせた。尼寺館に着いた仁戸田近江守は兵士に鬨の声を揚げさせたが、ちょうどこのとき日ごろから常楽の善政を慕っていた領民たちが重陽を祝って盛大な酒盛りを行っており、仁戸田勢の鬨の声を聞いた領民たちは「爰こそ岩部殿の厚恩を報ずる所よ」と、一万余人がいっせいに咆哮。山河にこだました。これに仁戸田近江守は大軍勢が集結していると勘違いし、「思ひしに相違」して驚き慌て、一戦もすることなく小城へと逃げ落ちた。

 怒った常楽は少弐政尚に胤朝追討を要請するが、政尚は許さず、常楽はやむなく尼寺館から逐電する。

東軍西軍
大友親繁大内政弘(上洛中)
少弐政尚陶弘護
大内道頓(大内教幸) 
今川義秋千葉胤朝
岩部常楽 中村胤明

 文明2(1470)年当時の九州北部は、大内政弘が西軍の主力として上洛中であり、東軍に属する大友親繁や少弐政尚の勢力が優勢であった。そこへ大内政弘の叔父・大内南栄道頓がにわかに東軍に属して挙兵した。2月4日、将軍義政は大友親繁らに対して道頓と協力して大内政弘を追討するよう命じている(『将軍家御教書』)

 7月19日には、東軍に属する今川義秋(今川胤秋の子)が旧臣を集めて胤朝追討の兵をあげた。大内勢を駆逐し、勢力回復著しい少弐氏・大友氏の協力のもと挙兵したと思われるが、佐嘉郡植木(鍋島町植木)の戦いで義秋は討死を遂げ、今川了俊以来の名門・肥前今川氏は滅亡する。ただし、今川家の血統は義秋の叔父・今川秀秋(持永秀秋)が千葉氏に召し出され、その後は龍造寺隆信、鍋島直茂に仕えて、子孫は佐賀藩士として現代に至る。

★肥前今川氏略系図★

 足利義康―…―+―今川範氏【駿河今川家】
        |(上総介)
        |
        +―今川貞世 +―今川直秋        +―今川胤秋―――今川義秋
        |(今川了俊)|             |
        |      |             |
        +―今川仲秋 +―今川貞秋―――今川持貞 +―今川秋弘
         (右衛門佐)|             |
          ∥    |             |
          ∥――――+―今川国秋―――今川国治―+―持永秋秀―…→仕千葉家・竜造寺家・鍋島家
 千葉胤泰―――+―娘     
(大隅次郎)  |
        |             +―千葉元胤
        |             |(千葉介)
        |             |
        +―千葉胤基―+―千葉胤鎮―+―千葉教胤
         (千葉介) |(千葉介)  (千葉介)
               |
               +―千葉胤紹―――千葉胤朝―――娘
                (右京大夫) (千葉介)  (尼日光)
                               ∥
                               ∥
                        少弐教頼―+―千葉胤資
                       (大宰少弐)|(肥前守)
                             |
                             +―少弐政尚
                              (大宰少弐)

 一方、尼寺館から逃れた岩部常楽佐嘉郡高木に雌伏していたが、大内氏の勢力が衰えている機会を狙ってか、10月19日、胤朝の弟の僧侶(佐嘉郡妙法院住僧)を還俗させて千葉胤将と名乗らせ、胤将を奉じて尼寺館を奪って挙兵。少弐政尚も朝日頼永江上資種を援軍として差し遣わした。このことは「肥前州千葉殿与其弟有隙、小二右其弟」(『海東諸国記』)と朝鮮国の史料にも見られ、少弐政尚が「其の弟を右け」たことがわかる。常楽は佐嘉郡各地の反胤朝の豪族たちに檄を飛ばして参陣をうながし、一万人余の土一揆も常楽を支持。常楽勢は一気に強大な勢力に膨れ上がった。胤将常楽挙兵の報を受けた中村胤明は、11月14日、佐嘉郡に攻め入り常楽勢と交戦するが、この戦いで胤明は常楽・土一揆勢に挟撃され、川上西水上で討死を遂げた。

 胤朝は胤明討死の報が届くと、牛頭山城の堀を深くして胤将常楽・少弐勢に備えた。胤将常楽・少弐勢は牛頭山城の東隣、彦島岳に陣を張って牛頭山城を攻めるが、牛頭山城は堅固で落とすことができない。少弐政資宗貞国を援軍として派遣しているが、宗貞国はもともと千葉家の内紛干渉には反対で、「小二右其弟、命貞国往攻之、貞国難之」(『海東諸国記』)と派兵に異を唱えていた。だが、政資は「小二強遣之」(『海東諸国記』)と貞国の出兵を強要。やむなく貞国は出陣することとなる。

 このような中、将軍・足利義政は全国に飛び火した応仁の乱の余波を鎮めるため、諸国に「国々の怱劇を相止め、天下一統すべき旨」の御教書が出され、使者が「肥前へも下向あつて、東国の騒乱を急ぎ静謐すべき由、国分の城中へも、彦島の寄手共へも下知」されたことから、胤朝胤将も和議を調え、12月23日、胤将常楽・少弐勢は彦島岳の陣所に火をかけて府中尼寺へ向けて兵を引いた。ところが、その和平を知らない小城郡の郷民が胤将常楽・少弐勢を追撃して取り囲み、常楽、岩部備中守をはじめ岩部一族三十人ほか、少弐勢の朝日丹後守、窪甲斐守、武藤左近将監、江上肥前守以下百余名、そして宗貞国の百余名、都合四百名が討死を遂げたという。そして宗貞国は陣所としていた府中尼寺で敗戦を聞き、翌24日、密かに対馬を目指して北上するが、「折節小雨交りに雪降りて肌を破り、肉を削ぎて耐へ難し」と雪に見舞われての敗走劇となった(『九州治乱記』)。このことは「値大雪、敗還、対馬島兵千之凍病多死者」(『海東諸国記』)との別記もある。その後、宗貞国は少弐氏とは距離を置くようになり、文明10(1478)年10月には「不可同意少弐之由之御奉書伊勢守貞宗書被付遣候処、今度無渡海候条、御祝着也」と、太宰府を追われた少弐政尚を援けることなく、島に留まったことを大内政弘に賞されている。また、岩部常楽に擁立されていた千葉次郎胤将は聞こえる勇将であったものの、もはや弓を引く力も残らず、主従わずかに成り果てて金立の方へと落ち延びていった。

■千葉介胤朝の牛頭山開城と千葉介胤盛の台頭

 これら領国近辺の騒乱に、上洛中の大内政弘は決して手をこまねいていたわけではなく、謀反を起こした伯父・大内道頓へは重臣・陶尾張守弘護に追討を指示し、文明3(1472)年12月、道頓は豊前国馬岳において自刃した。

 大内義弘――+―大内持世―+―大内教幸
(左京権大夫)|(大内介) |(南栄道頓)
       |      |
       |      +―大内教弘
       |       (周防介)
       |        ↓
       +―大内持盛===大内教弘―――大内政弘
        (新介)   (周防介)  (左京大夫)        

 しかし、少弐政尚の北九州における優位は変わらず、文明3(1472)年9月24日、少弐政尚は「肥前国神埼庄之内、杠山兵部少輔跡」について、「杠日向守」へ知行安堵している(『杠家文書』)。そして、おそらく文明4(1473)年から文明8(1776)年までの間に、胤朝は何らかの理由によって不本意ながら弟・千葉胤盛に牛頭山城を明け渡し、旧城の晴気城に戻っていたと考えられる。弟・胤盛はそれまで表舞台に立つことはなく、胤朝とともに行動していたと思われるが、胤朝が一貫して大内家に加担していた一方で、胤盛は大内家に優勢だった少弐氏に接近していたと見られ、胤朝は胤盛と少弐政尚に千葉惣領家の象徴でもある牛頭山城の明け渡しを要求し、胤朝はやむなく城を下りたと考えられる。

 こうした背景の中、文明8(1476)年2月、「千葉介胤朝」は内田某を藤津郡に派遣して、有尾城に大村家親を破って追放するなど(『九州治乱記』)、胤朝の勢力拡大が見られる一方、千葉胤盛は翌文明9(1477)年10月7日、河上社宝殿に「大宮司千葉介平胤盛」の名で棟札を納めており(『河上社宝殿棟札写』)、胤泰以来の河上社大宮司職に就くなど、牛頭山城に在城して千葉惣領家を自認していたとみられる。

■千葉介胤盛の没落と千葉介胤朝の惣領復帰

 ところが、文明9(1477)年10月3日、応仁の乱の収束に伴い、大内政弘は将軍家より周防国、長門国、豊前国、筑前国の守護職に任じられ、11月、周防国山口へ帰陣。翌文明10(1478)年8月には、守護職を務める豊前国へ少弐氏追討のため自ら出陣した。そして9月25日、少弐政資を太宰府から放逐してふたたび占拠する。

 その後、政弘は肥前へ出立するが、その際、肥前国の多久小太郎弘宗に対し、胤朝に参陣するよう指示したと思われる。また、政弘からは仁保平左衛門頼重「小城春日城」に遣わされており、これに応じた胤朝は「至堺目進発」を弘宗に告げて、10月5日、「自春日城千葉介胤朝使円城寺修理亮」を政弘のもとへ遣わして「御太刀、二千疋」を進上している。なお、「春日」は「ハルケ」と読めることから、佐賀郡の春日山(大和町)ではなく小城郡の晴気城と推測される。当時の胤朝は牛頭山を追われて晴気に在城していた。そして惣領家の象徴である「小城之城(牛頭山城と思われる)は、少弐氏の支援のもと弟・千葉介胤盛が在城していたが、少弐氏は大内氏に敗れて潰走。大内氏に同心する探題・渋川教直が少弐氏の「残党」を追捕していた。こうした状況の中で、胤朝は牛頭山城を取り戻すべく、探題・渋川教直に胤盛への開城指示を要請したと思われる。

 ところが、牛頭山の胤盛は探題・渋川教直の意見に従わず、胤朝が「小城春日城(晴気城)」で政弘の使者・仁保頼重と対面した折、「探題御心中依御同心」として、探題・渋川教直は政弘と同心の意思があること、弟の千葉胤盛と下松浦仁は「遅参云々」であることを語っており、胤盛が参陣を事実上拒絶していることがわかる(『正任記』)

 翌10月6日、探題・渋川教直からの使者・万年寺明範が政弘の陣所を訪れた。「千葉胤盛事」について、政弘の「御内儀」のとおり、「先小城之城事、可去渡之由、被仰遣候処、難叶云々、於和与之儀者、無子細候由也」と、「小城之城」を明け渡すよう命じるも胤盛は拒否。「和与」には応じると返答した。これにより、政弘は同道していた重臣・陶弘護、杉重道の言上によって胤盛追討を決定。また、万年寺明範「於以後被任御当方之儀、可有御合力胤朝由」と、探題・渋川教直は胤朝に合力し、胤盛にはいささかも協力しないことを約束している(『正任記』)

 政弘は胤朝の牛頭山城復帰の戦いに合力することを書状にしたためて胤朝へ遣わすとともに、探題へは胤盛の事は追討することとなったことを伝えた。さらに、上下松浦党にも胤朝へ味方するよう指示している。翌10月7日、胤朝に合力するよう江口余三郎忠郷を秋月太郎種朝、千手越前入道道吽のもとへ遣わした。さらに翌10月8日、政弘のもとに「松浦弾正少弼入道皎達、同肥前源二郎少弼甥云々」からの「源次郎御一字望」の書状が届き、政弘はその返信に「先為胤朝合力、可出陣、追而可有言上」すべきことを指示した(『正任記』)。また、松浦党内部においての「対同名丹後守可及弓矢云々」「小城対治之間、可相待候」とし、まずは小城郡での胤盛追討を優先する指示を出している。9日には、胤朝に合力するべく、波多下野守泰、白石左衛門大夫通顕が下多久を進発、それに加えて松浦後藤兵庫頭、渋江右馬頭が波多・白石勢と合流、さらに少弐勢を駆逐中の探題・渋川教直も五百の兵を胤朝合力のために派遣している(『正任記』)

少弐方大内方
少弐政尚(逐電中) 大内政弘
 渋川教直(探題)
千葉胤盛(牛頭山城) 千葉胤朝(晴気城)
 大友政親(政弘妹婿)
 宗貞国(対馬島主)

 そして10月20日前後に、牛頭山にて合戦が行われたと思われる。しかし、結果としては城は落ちず、10月21日には小城攻めに参戦している秋月太郎種朝、千手越前入道道吽両人の使者が政弘のもとを訪れて「小城之時宜条々言上」している。10月22日には「依千葉両家落居之儀延引、落人等神埼辺少々出張之由」が報告されている(但し、「不実之由風聞」とも)。10月23日、「佐賀郡春日山(府中尼寺の北山)に在陣していた胤朝の使者・菊泉坊玄忠が政弘のもとに参じ、「時宜同篇由」を言上した(『正任記』)。胤朝が小城を離れて「府中」館近くまで出張っていた理由は不明ながら、府中辺りに探題が在陣していた可能性もあるか。

 その後、探題・渋川教直は「千葉両家和与事」を胤朝と胤盛の両者へ提案したところ、胤朝は「不可叶候由申切了」と強硬に拒絶する一方、胤盛は「可任御意之由」と和睦については探題に一任するという柔軟な姿勢を見せている(『正任記』)。教直は万年寺を使者として10月29日に政弘へこれを伝えている。その後、和解交渉はまとまったようで、文明12(1480)年6月29日には、胤朝・胤盛兄弟は河上社の「後座主宰将公殿」へ「肥前国佐嘉郡之内山田三十町」を安堵している。但し、胤盛の独自の活動はその後も見られ、文明18(1486)年4月5日、「平胤盛」が河上山実相院に佐嘉郡内に寺領を安堵している。

 そのような中で、同年10月3日の夜、胤朝は胤将によって「国府(牛頭山か)」において暗殺された。享年五十一。胤朝急死の報を受けた少弐政資は騒乱を惹起した「彼悪党次郎胤将以下の輩誅罰すべし」と激怒する。しかし、胤将や同類はすでに逐電し、胤将与党は散々に消えていた。少弐政資はこの千葉家断絶を嘆き、12月3日に自分の弟を胤朝の娘と娶わせ、千葉肥前守胤資と名乗らせて跡を継がせたという(『九州治乱記』)

 また、胤朝の弟・胤盛は「兄よりいと早く死去しぬ」とあり、胤朝の死去以前に亡くなったとされているが、明応6(1497)年正月23日、「平胤盛」「河上山唯真坊律師」に対して佐嘉郡内の寺領を安堵しており、実際は胤朝の死の直後、少弐政資が混乱する千葉家に介入したのに反発し、胤盛と子・胤棟(興常)は大内家を頼って落ちていったのだろう。そして、胤盛が安堵状を出した月は、大内義興が筑前に攻め入って少弐勢を駆逐したまさにその月であることから、胤盛・興常は大内義興の出陣に同行し、少弐政資・高経親子が肥前へ逃れたのを追って、千葉家の再興を図ったものと見てよいだろう。

 胤盛はおそらくその直後に隠居もしくは亡くなり、3月27日には「平興常」が河上社に対して禁制を出している。そして、胤盛の子孫は千葉家惣領家として牛頭山城を拠点に、少弐氏の流れを汲む晴気城の千葉家と激しく対立することになる。

■参考文献

大塚俊司『戦国期における小城千葉氏の分裂・抗争』「研究紀要」2012.3(佐賀大学地域学歴史文化研究センター編)


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