千葉介教胤

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千葉介教胤(1450-1469)

 小城千葉氏十一代。千葉介胤鎮の子。通称は千葉介

 寛正5(1464)年10月、兄・千葉介元胤が急死したことから、十四歳の若さで千葉家を相続した。幼少の当主のため、中村越前守胤頼が家宰となって補佐することとなるが、従兄の千葉胤朝は、父・千葉右京大夫胤紹と兄・政胤教胤の父・千葉介胤鎮に討たれたことを恨んでおり、大内政弘を通じて九州探題・渋川教直教胤討伐を依頼した。

 そんなとき、佐嘉郡与賀庄・川副庄今川伊予守胤秋も探題と組んで教胤を討つとのうわさが流れた。千葉家家宰・中村胤頼はその噂を信じ、寛正6(1465)年5月20日、岩部常楽・高木氏らを率いて胤秋の館・佐嘉郡新庄(鍋島町)に攻め寄せた。胤秋は防戦するが、中村胤頼の専横に不満を抱いていた中村弾正少弼胤明・岩部播磨守常楽が5月23日、俄かに今川勢に寝返ったため、中村勢は攻めあぐねて河上山に退却。翌24日の激戦も勝負がつかず、和睦となって引き揚げていった。しかし、この戦いで今川勢は今川肥前守・近江守など一族十四人、郎党六十人が戦死しており、胤秋は中村胤頼を烈しく恨む事となる。

 このような中、京都において「応仁の乱」が勃発する。将軍・足利義政と後継に定めた養子・足利左馬頭義視(実は義政異母弟)の争いを通じた管領家、幕府官僚層の諍いは、やがて義政を擁した細川勝元(東軍)と、義視を擁した山名宗全(西軍)を中心とした大きな争いへと発展していく。

 応仁元(1467)年5月10日、西国六か国を支配する太守・大内政弘が周防国山口を出立し、上洛の途についた。義祖父・山名宗全の要請に応えたもので、西軍の主力を成す大部隊であった。これに連動し、西軍・大内政弘と手を結んでいた今川胤秋九州探題・渋川右衛門佐教直と語らい、6月18日、千葉介教胤を小城郡に攻め、城下に放火した。しかし、教胤は今川勢と探題勢を押し返して、今川胤秋を討ち取り、逆に今川領の佐嘉郡与賀庄・川副庄にまで攻め入って、千葉家領に併合した。

 翌応仁2(1468)年には九州探題・渋川教直が東軍に与する宿敵・少弐教頼筑前国高祖城に攻めて自害に追い込んでいる。そして10月、将軍足利義政は西軍・大内家の足元を掬うべく、九州の諸豪族に対し、大内家の領国を攻めるよう命じる御教書を発する。これに応じた東軍・大友親繁は、文明元(1469)年4月、雌伏していた少弐頼忠(教頼子。のちの政資)とともに探題・渋川教直を攻めて放逐し、さらに6月3日には千葉介教胤が一勢を筑前国に派遣、大友勢と合流して原田城を攻め落とし、大友勢と千葉勢、少弐勢は探題家の残党狩りを断行する。

 同じころ、小城郡に残っていた千葉介教胤は、「公方之可立御用」を言い立てていながら、どちらにもつかない日和見の態度を決め込んでいた大村日向守家親を攻めるべく、おそらく将軍家御教書の命のもと、自ら軍勢を率いて藤津郡の「大村住城」に押し寄せたが、「千葉介討負打死」した。さらに「親類被官人数輩打死」するという有様で、千葉勢の大敗に終わったことがわかる。攻められた大村家親はその後も平然と「少も無緩怠由歎申候」と、公方方=東軍への参陣の意思を語っている。享年十九。法名は日教

 なお、教胤は文明元(1469)年6月、大村攻めの帰りに小城の南・大町江(六角江)で嵐に襲われて乗船が転覆し、溺死したことになっている(『歴代鎮西志』)

★肥前関係図6★

千葉(少弐)氏 大内氏
千葉教胤 千葉胤朝
中村胤頼(教胤家宰) 渋川教直(九州探題)
↓対立↑ 今川胤秋(千葉一族)(系図→
岩部常楽(教胤家老)→ →岩部常楽(寝返る)
中村胤明(教胤家老)→ →中村胤明(寝返る)

■参考文献

大塚俊司『戦国期における肥前千葉氏の分裂・抗争』「研究紀要」2012.3(佐賀大学地域学歴史文化研究センター編)


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