千葉介胤鎮

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千葉介胤鎮(1399-1455)

千葉胤鎮の花押
胤鎮花押

 小城千葉氏八代。千葉介胤基の次男。通称は千葉介。初名は胤郷。のち胤鎮に改めた。兄の経胤が若くして亡くなっていたため、嫡男として家督を継いだ。

 永享9(1437)年、突然、家老・中村胤宣大内持世に内通し、胤鎮の弟・千葉弥次郎胤紹を奉じて謀叛を起こした。松尾城にいた胤鎮はわずかな供を連れて落ち延びる他なかった。

 さらに、幕府は翌永享10(1438)年12月29日、胤紹家宰・中村胤宣に対して、大内持世と何事も談合して幕府に忠義を尽くすように指示した。そして翌永享11(1439)年1月21日には、胤鎮を混乱の元凶とし、必ず探し出して厳密に沙汰すべきことを命じた。胤紹らはこの命を受け、血眼になって胤鎮の行方を捜し求めたが見つからず、6月、幕府から早く探し出すよう督促を受けている。そんななかで、大内持世は嘉吉元(1441)年7月急死し、嫡男・大内教弘があとを継いだ。

★肥前関係図2(永享年間)★

千葉氏(少弐氏) 大内氏
少弐教頼 大内持世・教弘
千葉胤鎮 千葉胤紹(胤鎮弟)
中村胤宣→ →中村胤宣(寝返る)

 大内持世の急死に乗じ、嘉吉元(1441)年10月、少弐教頼大友持直大内教幸らとともに大内家に対して兵を挙げた。少弐勢は瞬く間に筑前、豊前、肥前を平らげ、大内勢を九州北部より放逐した。そして大内勢に追放されて雌伏していた胤鎮も少弐氏に応じて兵を挙げた。

 少弐勢の侵攻に対し大内教弘は幕命を奉じて肥前へ攻め込むと、胤鎮は兵を率いて大内勢に攻めかかったが、12月27日、小城郡下隈の戦いで胤鎮は敗北を喫し、東肥前に逃れた。こうして、大内方の胤紹が千葉家惣領と正式に認められ、小城郡が安堵された。また、その家宰・中村胤宣は御家人の待遇となったと伝えられる。胤鎮は力を完全に喪ったかに見えた。

★肥前関係図3(嘉吉年間)★

少弐氏 大内氏
少弐教頼 大内教弘
千葉胤鎮 (敗れて隠れる) 千葉胤紹(幕府から当主に認可)
   中村胤宣(胤紹家宰)

 しかし、胤紹の勢力が伸びることを恐れた胤鎮の旧臣、岩部氏仁戸田氏は文安2(1445)年8月、胤鎮を奉じて挙兵した。胤鎮は破竹の勢いで小城郡に侵攻し、川上村西山田(佐賀市大和町)の戦いで胤紹に大勝、胤鎮甘南備城(佐賀市大和町久池井)に拠った。

 胤鎮は8月17日、国府城へ逃れていた胤紹を追討して殺害。こうして胤鎮は居城だった松尾城に戻ると、松尾城の東隣の牛頭山(祇園山)に新たに城を築いて本城とした。胤鎮は千葉家惣領の座に着くや千葉家領の回復に尽力し、その所領は小城郡・杵島郡・佐賀郡の一部をまたぐ広大なものとなった。亨徳年間(1452-55)には肥前国主と尊称されるまでになる。

 康正元(1455)年6月25日(22日とも)、56歳で亡くなった。法名は日朝

★肥前関係図4(嘉吉年間)★

千葉氏(少弐氏) 大内氏
千葉胤鎮 千葉胤紹(胤鎮軍に斬殺される)
岩部・仁戸田(胤鎮重臣) 中村胤宣(胤紹家宰)

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