●伊勢平氏略系譜
平高望―+―平国香――+―平貞盛――平維衡――+―平正能――+―平貞弘―+―平正弘―+―平宗能
(上総介)|(常陸大掾)|(陸奥守)(左衛門尉)|(刑部少輔)|(下野守)| |(検非違使)
| | | | | |
| +―平繁盛 | +―平維正 +―平正綱 +―平度弘―――平範頼
| (秋田城介) | | |(勾当) |
| | | | | 【歌人】
| | +―平正俊 +―平敦盛 +―平有盛―――覚盛
| | (大学助)|(薩摩守) (修理亮) (大夫公)
| | |
| | +―平兼光
| | (内匠助)
| |
| +―平正輔――+―平正仲
| |(安房守) |(左京進)
| | |
| | +―平成仲
| | |(縫殿允)
| | |
| | +―平正基
| | (安房三郎)
| |
| +―平正度――+―平維盛―+―平貞度
| |(常陸介) |(駿河守)|(筑前守)
| | | |
| | | +―平宗盛―――平盛信
| | | |(下総守) (掃部大夫)
| | | |
| | | +―平盛忠
| | | |(民部大夫)
| | | |
| | | +―平盛基―――平盛時
| | | (信濃守) (伊予守)
| | |
| | |
| | +―平貞季―+―平季範―+―平貞保―――平盛房
| | |(駿河守)|(筑後守)|(庄田太郎)(斎院次官)
| | | | |
| | | | +―平季盛
| | | | |(主殿助)
| | | | |
| | | | +―平範仲―――平季弘
| | | | (山城守) (筑前守)
| | | |
| | | +―平正季―――平範季―――平季房―+―平季宗
| | | |(右京進) (進平太) (三郎) |(兵衛尉)
| | | | |
| | | +―平兼季―+―平季盛 +―平家貞
| | | (上総介)|(平先生) (筑前守)
| | | |
| | | +―平貞兼
| | | |(兵衛尉)
| | | |
| | | +―平盛兼―――平信兼―――平兼高
| | | (大夫尉) (和泉守) (山木判官)
| | |
| | +―平季衡―+―平季遠―――平盛良
| | |(下総守)|(相模守) (大夫尉)
| | | |
| | | +―平盛光―+―平盛行
| | | |(帯刀長)|(兵衛尉)
| | | | |
| | | | +―平貞光
| | | | (木工大夫)
| | | |
| | | +―平盛国―――平盛康―――平盛範
| | | (大夫尉) (伊予守) (兵衛尉)
| | |
| | +―平貞衡―――平貞清―――平清綱―――平維綱
| | |(右衛門尉)(安津三郎)(鷲尾二郎)(右衛門尉)
| | |
| | +―平正衡―――平正盛―――平忠盛―――平清盛―――平宗盛
| | (出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)(内大臣)
| |
| +―平正済――+―平正家―――平資盛―――藤原敦盛――藤原有盛
| (出羽守) |(駿河守) (大学助) (薩摩守) (図書助)
| |
| +―平貞弘―――平正弘―――平家弘―――平頼弘
| (下野守) (大夫尉) (大夫尉) (左衛門尉)
|
+―平良持――――平将門
|(鎮守府将軍)(新皇)
|
+―平良兼――――平公雅
|(下総介) (下総権少掾)
|
+―平良文――――平忠頼
|(村岡五郎) (陸奥介)
|
+―平良正
(水守六郎)
(1096-1153)
備前守平正盛の子。母は不明。妻は「仙院之辺」女、修理大夫藤原宗兼女(藤原宗子)、皇后宮亮源信雅女、大宮権大夫藤原家隆女。官途は左衛門少尉、伯耆守、右馬権頭、越前守、備前守、左馬権頭、中務大輔、美作守、尾張守、右京大夫、播磨守、内蔵頭、刑部卿。
地下人の家に生まれながらも、父正盛以来の白河院の引き立てのもとで、その地位を高める一方、和歌や舞踊などの教養を磨き、公家衆からも一目を置かれるほどの存在となっていく。検非違使や京官、受領を経験し、ついには父正盛を凌いで殿上人となる。盗賊追捕や海賊追討などに武力を用いながら武門の家としても成長、伊勢平氏の名声を世に高めた。
■検非違使・平忠盛
天仁元(1108)年8月29日の大嘗会に際しての除目で長男の平忠盛が「左衛門少尉」に任官した(『中右記』)。ときに十三歳であり、異例の抜擢であった。おそらく同年正月の父・正盛による源義親追討の功績によるもので、正盛が白河院の絶大な信任を受けていたことによる任官であろう。
永久元(1113)年3月13日の雨天の中、「検非違使忠盛」が内裏の「乱林房御倉」を破った犯人を逮捕し、白河院より馬を賜った(『殿暦』)。翌14日、「大蔵卿為房」は院の使者として忠実邸を訪れ、「昨日追捕官人忠盛可被行賞欤、如何」と忠実に確認している(『殿暦』)。忠実は「早可被行」と返答し、さらに立て続けに「頭弁(蔵人頭藤原実行)」を忠実邸に派遣し、「郎等院武者所有其庭捕犯人、可任何官乎」との質問をしている。白河院は自身の武者所とはいえ、忠盛の郎等にまで恩賞を与えようとしていた。忠実としては本心は不明ながら院に反抗することはできず、「兵衛尉、馬允之間能候欤」と返答した(『殿暦』)。この返答から数時間後には除目が行われ、忠盛は「大夫(従五位下)」の「賜冠」り、郎等は「兵衛尉」へ任じられた。なお、この郎等は「院武者所宗友」という人物(『長秋記』)だが、もともと正盛の郎等として活躍していたのかもしれないが、忠盛は十八歳にして院武者所の人物を郎等としていたことがわかる。忠盛が捕えた犯人は「夏焼大夫」と称された賊で、3月12日に「神仁」という賊と組んで「蘭林坊御蔵取御物」り、これを察知した検非違使の「左衛門志明兼(左衛門少志正六位上中原明兼)」が追捕。賊らはそれを見て逃亡するが、明兼郎等が「桂河辺」で追いついて合戦に及び、賊は松尾山へ隠れ入った。山狩りする人数もなかったためか、明兼は空しく引き上げた。しかし、その後、夏焼大夫は京都市内に戻っており、これを聞いた検非違使忠盛が出動して捕縛に成功するが、郎等二人が戦傷死するほどの激しい捕物だったようだ(『長秋記』)。
■永久の強訴
天永4(1113)年閏3月29日、延暦寺の大衆が二千余りが山所司・神人三十八人を伴って山を下り、清水寺に乱入して「房舎」を破壊する事件が起こった(『殿暦』『長秋記』)。人数は「四五百人許」とも(『中右記』)。これは先日、「山階大衆」が上洛して強訴に及び、「祗園所領損亡」したことによる報復であった。
山門大衆は「山階寺僧々都実覚」の流罪を要求して、夜中に祇園社の神輿を奉じて院御所の大炊御門万里小路殿の「北御門辺」に押し寄せた(『殿暦』『長秋記』『中右記』)。院御所は「皇居近隣」だったため、朝廷は院御所と皇居(大炊御門富小路殿)に「武士済々在院幷内陣辺」「武士張陣終夜固守」る非常事態の態勢を取った(『長秋記』『中右記』)。僧侶らは天を揺るがすほどの叫喚の声をあげながら院御所門前に近づいたとき、甲冑を帯びて完全武装した「出羽守光国、丹後守正盛」が進み出て大衆を威嚇。大衆は万里小路の方へどっと後退りした(『長秋記』)。
4月1日、摂政藤原忠実は院御所へ入ると、院御所内直廬で大衆への対応をめぐって僉議が行われ、結局山門大衆の要求を「許有沙汰」と議決。大衆は満足して比叡山へと帰って行った(『殿暦』)。一方で早くも当日中にはこの議決が興福寺側へ伝わっていたようで、翌2日、白河院は「奈良衆徒可参上由有其聞、能々可制止」と摂政藤原忠実に命じている。しかし、忠実はその後も長者宣を以て興福寺を抑えようと試みるも失敗している。
こうした中で、忠実のもとに「別当為院御使来」た。使者は検非違使別当の藤原宗忠だが、「院仰二ヶ條」(『中右記』)すなわち「大衆事幷犯人事」(『殿暦』)を伝えに来邸している。このうちの「犯人」とは「相模守故宗佐目代殺害者」で、「大夫尉忠盛」が受け取り「渡院北門」したという(『殿暦』)。具体的な犯人は不明ながら、前々月の3月4日、「横山党依殺害内記太郎、被下追罰宣旨」され、「横山党廿余人、常陸相模上野下総上総五ヶ国司、可追討進之由、可宣下者」という事件が起こっている(『長秋記』)。「内記太郎」がいかなる人物かは不明だが、彼の殺害に対して五ヶ国もの国司に対して犯人追討の「宣旨」が下っていることから国衙に関する人物と推測される。横山党は相模国北部にも進出していたことから「相模守故宗佐目代」と同一人物かもしれないが、検非違使たる忠盛は犯人を院に引き渡していることから、断定はできない。
【院近臣】
藤原冬嗣―+―藤原良房 +―藤原隆光―――藤原隆方――――藤原為房
(左大臣) |(太政大臣) |(左京大夫) (備中守) (右大弁)
| | ‖
| | +―法橋隆尊――+―讃岐宣旨
| | |(法成寺執行)|(忠通乳母)
| | | ‖ |
| | | ‖ +―法橋信朝
| | | ‖ (高階為章猶子)
| | | ‖
| | | ‖―――――――藤原行光
| +―藤原惟孝 | | ‖ (民部少輔)
| |(駿河守) | | 待賢門院乳母
| | | |
+―藤原良門―+―藤原高藤―+―藤原定方――藤原朝頼――藤原為輔―+―藤原宣孝―+―藤原隆佐―+―藤原保房
(内舎人) |(内大臣) |(右大臣) (左馬頭) (権中納言) (右衛門佐) (大蔵卿) (長門守)
| | ‖ ‖
| +―藤原胤子 ‖ ‖―――――――藤原宗佐
| ‖ ‖ 中原頼成―+―娘 (相模守)
| ‖―――――醍醐天皇 ‖ (淡路守) |
| ‖ ‖ |
| 宇多天皇 ‖――――――藤原賢子 +―中原頼季――――平康頼
| ‖ (大弐三位) (左大史) (左衛門尉)
| ‖ ‖
+―藤原利基―――藤原兼輔――藤原雅正――藤原為時―――紫式部 ‖
(右近衛中将)(権中納言)(刑部大輔)(越後守) 高階成章
(太宰大弐)
4月9日、先の山門大衆の強訴に対し、興福寺衆徒から朝廷に「山階寺大衆三箇条訴」が提出された。これは「張本」とされた天台座主仁豪・法性寺座主定慶の流罪、祇園社はもともと春日社末社であるのでその履行、実覚僧都の流罪不可の三箇条で、興福寺衆徒は春日社神輿はもちろん、源氏と所縁の深い薬師寺・東大寺・八幡の神輿をも奉じており(『右中記』)、「藤氏公卿」だけではなく「源氏公卿以下」をも巻き込んで要求を果たそうと勢い込んでいる様子がうかがえる。
白河院は南都衆徒の上洛を阻止するべく、4月24日、検非違使別当藤原宗忠を通さず、院の群議によって検非違使を宇治、淀、西坂本、鴨河原に派遣することを指示。4月30日、南都勢は宇治南辺まで進んで陣を張り、さらに宇治一坂南原へ進んだ。これに対峙する官軍は「武士丹後守正盛以下、天下武者源氏平氏輩」が宇治一坂辺に遣わされており、ついに合戦がはじまった。戦いは互いに死者、負傷者を出す激戦となり、「検非違使平正盛、源重時、平忠盛行向」い、「数千人(数十人カ)」を射殺したとされる(『右中記』)。結局南都側が敗れ、興福寺僧三十余人が射殺され、俗兵士(興福寺領から徴発された兵士)や神人九十名他が負傷、官軍も「郎等中為宗者二人」が射落とされ、数十名が負傷している(『右中記』)。
■中宮璋子の家司に就任
永久5(1117)年11月26日、正盛は鳥羽天皇に入内することとなった藤原璋子(藤原公実女、のち待賢門院)の「政所別当」の末席に、父・備前守正盛とともに列することとなる(『台記別記』)。当時の璋子は無位で内親王家でもないため、本来であれば職事を置く資格はないが、「依法皇養子、以公達為職事」とされた。このときまでに忠盛は「伯耆守」となり、さらに「右馬権頭」をも兼ねる地位に昇っていた。
●中宮璋子家司職事
氏名 | 官位 | 官職 | ||
政所別当 | 藤原長実 | 正四位下 | 伊予守 | 白河院近臣。藤原顕季の子。 |
藤原家保 | 正四位下 | 但馬守 | 白河院近臣。藤原顕季の子。 | |
藤原顕隆 | 正四位下 | 右大弁、内蔵頭、越前権守 | 白河院近臣。藤原為房の子。 | |
藤原顕輔 | 従四位上 | 中務大輔、加賀守 | 白河院近臣。藤原顕季の子。 | |
高階為遠 | 従四位上 | 丹後守 | 白河院近臣。 | |
高階宗章 | 従四位下 | 若狭守 | 白河院近臣。 | |
平正盛 | 従五位上 | 備前守 | 白河院近臣。 | |
平忠盛 | 従五位下 | 伯耆守、右馬権頭 | 平正盛の子。 | |
侍所別当 | 藤原伊通 | 従四位上 | 権右中弁 | 藤原宗通の子。藤原顕季の孫(母が顕季女) |
藤原実能 | 従四位下 | 右近衛権少将、美作守 | 藤原璋子の実兄。母は藤原為房妹。妻は藤原顕隆女。 | |
藤原成通 | 正五位下 | 右近衛権少将、備前介 | 藤原宗通の子。藤原顕季の孫(母が顕季女) | |
藤原重隆 | 正五位下 | 右近衛権中将、美作権守 | 藤原為房の子。 | |
藤原忠隆 | 従五位上 | 右兵衛佐、丹波守 | 白河院近臣。 | |
藤原顕盛 | 従五位上 | 左兵衛佐、越前守 | 藤原長実の子。藤原顕季の孫。 | |
藤原顕頼 | 従五位上 | 勘解由次官、三河守 | 藤原為房の孫。 | |
藤原顕保 | 従五位上 | 土佐守 | 藤原家保の子。藤原顕季の孫。 |
藤原璋子は白河院の寵姫・祇園女御の養女になっており、祇園女御の恩恵を受けていた正盛とも面識があったのだろう。正盛・忠盛は地下人のまま、中宮の家政機関に加わることになった。璋子の家司になった他の面々もすべて白河院の側近や親族で固められており、藤原長実、藤原家保、藤原顕輔の三人は、六条家と呼ばれた白河院が慕った乳母・従二位藤原親子の孫たち、藤原顕隆は院の信任無比の藤原為房の子、高階為遠は娘が白河院院女房(白河院尾張)として院に出仕し、甥・高階宗章とともに院近臣の有力者であった。正盛・忠盛の起用も院の強い意向が働いていたことを物語る。
■藤原璋子(待賢門院)周辺系図【■:政所別当、■:侍所別当】
後三条天皇
‖
‖―――――――白河天皇―――――――――――堀河天皇
藤原公成――藤原茂子 ‖ ‖
(権中納言)(御息所) ‖――――――覚行法親王 ‖
+―藤原経子 (仁和寺門跡) ‖
|(典侍) ‖
| ‖――――――鳥羽天皇
+―藤原睦子 ‖ ‖
| ‖――――――――――――+―藤原苡子 ‖―――――+―崇徳天皇
| ‖ |(女御) ‖ |
| ‖ | ‖ |
| 藤原実季 +―藤原公実―+―藤原璋子 +―後白河天皇
|(大納言) (権大納言)|(待賢門院)
| |
藤原経平―+―娘 +―藤原実能
(太宰大弐) ‖ (左大臣)
‖
白河天皇 ‖ +―藤原得子
↑ ‖ |(美福門院)
【乳母】 ‖ |
藤原親国―――藤原親子 ‖―――――+―藤原長実―+―藤原顕盛
(大和守) (従二位) ‖ |(伊予守) (越前守)
‖ ‖ |
‖――――――藤原顕季 +―藤原家保―――藤原顕保
‖ (修理大夫) |(但馬守) (土佐守)
‖ |
藤原隆経 +―藤原顕輔
(美濃守) |(中務大輔)
|
+―女
| ‖――――――藤原実衡
| ‖ (権中納言)
| 藤原仲実
|(権大納言)
|
藤原頼宗―――藤原俊家 +―女 +―――――――――藤原伊通
(右大臣) (右大臣) ‖ | (権右中弁)
‖ ‖ | ‖
‖ ‖――――+―藤原成通 ‖
‖ ‖ (備前介) ‖
‖ ‖ ‖
‖――――――――――――――藤原宗通 ‖
‖ (権大納言) ‖
源兼長――+―女 ‖
(備前守) | ‖
| ‖
+―源隆長――――女 ‖
(三河権守) ‖ ‖
‖―――――――源義親 ‖
‖ (対馬守) ‖
‖ ‖
源頼義――――源義家 +―源義国――――源義康 ‖
(伊予守) (陸奥守) |(式部大夫) (左衛門尉) ‖
‖ | ‖
‖―――――+―源為義――――源義朝 ‖
藤原有綱―――女 |(左衛門尉) (下野守) ‖
(左衛門尉) | ‖
+―源義忠 ‖
(河内守) ‖
‖――――――源義清 ‖
‖ (右衛門尉) ‖
平正盛―――+―女 ‖
(備前守) |(忠盛娘?) ‖
| ‖
+―平忠盛――――平清盛 ‖
(伯耆守) (右衛門佐) ‖
‖
藤原師実 ‖
(関白) ‖
‖――――――藤原家忠 ‖
‖ (左大臣) ‖
+―女 ‖
| ‖
| ‖
源頼光――――源頼国―――+―女 ‖
(伊予守) (美濃守) ‖――――+―藤原為隆 +―女
‖ |(大蔵卿) |
‖ | |
藤原宣孝―+―藤原隆光―+―藤原隆方――+―藤原為房 +―藤原顕隆――+―藤原顕頼
(右衛門佐)|(左京大夫)|(備中守) |(右大弁) |(右大弁) |(三河守)
‖ | | | | |
‖ | | | +―藤原重隆 +―女
紫式部 | | | (美作権守) | ‖
| | | | 藤原忠隆
| | | |(右衛門佐)
| | | |
| | +―藤原光子 +―女
| | (堀河鳥羽乳母) ‖
| | ‖ ‖
| | ‖――――+―――――――――藤原実能
| | ‖ | (美作守)
| | ‖ |
| | 藤原実季――+―藤原公実 +―藤原璋子 +―崇徳天皇
| |(権大納言) |(権大納言) (待賢門院) |
| | | ‖ |
| | +―藤原苡子 ‖―――――+―統子内親王
| | (女御) ‖ |(上西門院)
| | ‖ ‖ |
| | ‖――――――鳥羽天皇 +―後白河天皇
| | 白河天皇――――堀河天皇 |
| | |
| +―藤原隆清――――藤原清昌 +―覚性法親王
| (皇后宮少進) (待賢門院長) (仁和寺門跡)
|
+―藤原隆佐―+―藤原保房――――藤原宗佐
(大蔵卿) |(長門守) (相模守)
|
+―法橋隆尊――+=法橋信朝
(法成寺執行)|(高階為章養子)
‖ |
‖ +―讃岐宣旨
‖ (藤原忠通乳母)
‖ ‖
‖ 藤原為房
‖ (右大弁)
‖
‖―――――――藤原行光
‖ (民部少輔)
待賢門院乳母
璋子は12月13日に鳥羽天皇の妃として入内。12月16日に女御宣旨を被り、翌元永元(1118)年正月26日、中宮に冊立されたのに伴い、中宮大夫藤原宗通以下、中宮職が定められた。そして、翌元永2(1119)年正月5日、「中宮御妊帯事」が催され、中宮大夫民部卿藤原宗通、中宮権大進紀伊守清隆がその任に当たった(『長秋記』)。いよいよ御産が近づき、5月28日申一刻、「男皇子誕生」した。この天下慶事に際して「於南庭丈六仏五体被造始」られ、その造始を「平正盛」が担当することとなる(『長秋記』)。6月16日、宮の御名を「為仁論語文」「顕仁周易文」のいずれかに定めることとし、結局「顕字尤勝、後漢顕宗賢帝名也」「為字是一品為貞親王名也、彼人不至帝位、乃申劣由也者」から、「顕仁」が妥当とされ決定され、6月19日、親王宣下を受けて「顕仁親王」となった(『長秋記』)。この鳥羽天皇第一皇子がのちの崇徳天皇である。そして顕仁親王家の「御監」に抜擢された「兵衛尉忠政」、「侍」に見える「平盛康、平盛時、平正弘、平盛兼、平貞基」はいずれも伊勢平氏の一族で、忠政は正盛の次男・平忠正である。のち保元の乱で忠正や正弘は崇徳上皇方に付き粛清されることになる。
●元永2(1119)年6月19日顕仁親王家諸職
家司 | 伊予守長実朝臣 | 播磨守基隆朝臣 | 頭弁顕隆朝臣 | 但馬守家任朝臣 | 右衛門権佐顕頼 | |
職事 | 権右中弁伊通朝臣 | 左少将忠宗朝臣 | 中宮少進権亮実能朝臣 | |||
侍 | 中宮少進範隆 | 右衛門尉平盛康 | 左衛門尉平盛時 | 左衛門尉平正弘 | 左兵衛尉平盛兼 | 左兵衛尉平貞基 |
蔵人 | 為隆男 | 文章生宗保男 | ||||
御監 | 兵衛尉忠政 |
■院昇殿を聴さる
11月14日の賀茂臨時祭で忠盛は閑院流の子弟・藤原公隆と並んで「新舞人」に抜擢され、舞を舞った。この舞に対する批判はなく、無事に熟したと思われる。このときの忠盛の装いはかなり華やかなものであったようで、歌舞ののち参列の上臈舞人らとともに「北陣幷院御所東御門」へ向かって東洞院一条大路などを移動しているが、とくにこのときの忠盛の様子が藤原宗忠(臨時祭には不参)の耳に入っており、「抑平忠盛舞人道施光花、万事驚耳目、誠希代之勝事也」と賛辞を送っている(『中右記』)。
忠盛は保安元(1120)年3月18日の石清水八幡臨時祭においても藤原忠隆、藤原忠能、藤原顕頼らとともに舞人に選ばれている(『中右記』)。なお、忠盛は「いはし水」の「臨時祭の舞人」だったときに「たうとけなる僧の侍りけるにかたらひつきて、殿上のそみ申しけるいのり申しつけ」たところ、「程なくゆるされ」たため、この僧侶のもとに一首詠んで「よろこひ申しつかは」した。
忠盛の喜びが尋常のものではなかった様子がうかがえる歌である(『刑部卿平忠盛朝臣集』)。石清水八幡宮の臨時祭は毎年行われるもので、この歌が詠まれた臨時祭がいつのものかは不明ながら、忠盛が臨時祭で舞人として臨んだことが記録されているのは保安元(1120)年3月のものであることから、この臨時祭の可能性が考えられる。また、忠盛が「被聴内昇殿」のは長承元(1132)年3月22日以前であることから、もしこの歌が詠まれたのが保安元年臨時祭後のことあれば、「昇殿」は「院昇殿」と解釈される。ただし「内昇殿」を許された長承元(1132)年3月は、3月9日に忠盛が鳥羽上皇のために造営した得長寿院の供養習礼が行われ、3月15日に石清水臨時祭が行われている。忠盛の内昇殿についての記事はその七日後のことであり、内昇殿を聴し召された際の歌である可能性もあるだろう(この年の石清水臨時祭の記録は簡略化されているため、参列人ほか舞人の全容も不明のため、忠盛が舞人だった可能性を否定できない)。
この年の7月12日夕方、忠盛の「妻俄卒去」した。この女性は「仙院之辺也」とあり、白河院に出仕していた女性だったことがわかる。そして、二年前の永久6(1118)年正月18日にこの女性を母として生まれたと思われるのが、のちの太政大臣平清盛である。清盛が白河院の落胤という伝承もこのあたりから生まれたものだろう。この妻の死に繋がるものかは不明ながら、忠盛は「したしき人」の葬儀に関連した歌を詠んでいる。
11月25日、陣定で臨時除目が行われ、忠盛は越前守藤原顕盛と相伝して「越前守」となる。なお、顕盛は忠盛とともに中宮璋子の家司を務めた人物で、忠盛同様に院近臣でもあった。忠盛はこの顕盛の属した六条家(白河院の乳母子・藤原顕季の子孫で院近臣として繁栄する。和歌に秀でた人物が多かった)と交流があり、顕盛の叔父・藤原顕輔(中宮璋子の家司)とも下記に見える通り、私的な関係も見られる(『左京大夫顕輔卿集』)。
保安4(1123)年5月頃、忠盛が国司を務める越前国敦賀郡で「不慮之外ニ闘殺」事件が起こった。しかし、国衙役人が犯人を逮捕して検非違使へ引き渡すために京都へ護送中、延暦寺の「悪僧」らが護送使一行を襲い、殺人犯の身柄を奪取した。殺人犯は比叡山に関係する人物だったことがわかる。朝廷はこの事件を受けて強奪の「張本の人を牒寺家て令召籠」たところ、延暦寺衆徒は徒党を組んで、鎮守日枝社の神輿を奉じて強訴に及んだ。白河院はこの強訴に対し「神ノ不享非礼されハゝ恣以非道て致訴せる党類、縦成忿恚とも豈有受用哉、然則施冥鑑シ、加神力て、如此の衆徒の中爾暴悪の輩令懲粛」と石清水八幡宮に御告文を捧げ、強訴に抵抗している(『平安遺文』)。
忠盛はこの頃、修理権大夫藤原宗兼の長女・藤原宗子を正室に迎えている。藤原宗兼は六条家とも縁戚関係にある白河院近臣の有力者であり、忠盛は院近臣の有力家である六条家との縁戚関係を深めつつ、院の近臣の中に深く入り込んでいく。また、このころ、「あきはき(秋萩か)」という半物(白河院の半物か)に恋心を抱いているが、なぜか告白もせずに我慢していることを六条家の藤原顕輔が聞きつけ、忠盛に一首遣わしている。
藤原顕季―+―藤原顕輔
(修理大夫)|(左京大夫)
|
藤原道隆―+―藤原伊周 +―藤原家保
(関白) |(内大臣) (修理大夫)
| ‖
| ‖――――――藤原家成
| ‖ (播磨守)
| +―藤原隆子
| |(典侍従)
| |
+―藤原隆家――藤原良頼―――藤原良基―――藤原隆宗―+―藤原宗兼―――藤原宗子 +―平家盛
(中納言) (権中納言) (参議) (近江守) (少納言) ‖ |(右馬頭)
‖ |
‖――――+―平頼盛
‖ (常陸介)
‖
平忠盛
(備前守)
大治2(1127)年10月29日、白河法皇と鳥羽上皇の両院が高野詣のために出立地である鳥羽離宮へ行幸された。このときの供奉人の「殿上人」に「忠盛朝臣」の名が見える。なおこの「殿上」は「院殿上」である。その後「院司」の一人となる。
●大治二年高野詣供奉人(『中右記』)
上達部 | 民部卿忠教卿 | 民部卿藤原忠教。関白藤原師実の子。 |
皇后宮権大夫師時 | 皇后宮権大夫源師時。左大臣源俊房の子。『長秋記』著者 | |
左京大夫経忠 | 左京大夫藤原経忠。播磨守藤原師信の子。妻の藤原実子(藤原公実女)は鳥羽上皇の乳母。 | |
殿上人 | 忠能朝臣 | 藤原忠能。左京大夫経忠の子。母の藤原実子は鳥羽院乳母で鳥羽院妃・待賢門院璋子の実姉。 |
顕盛朝臣 | 藤原顕盛。伊予守藤原長実の子。 | |
清隆朝臣 | 藤原清隆。因幡守藤原隆時の子。妻に平忠盛娘を迎えている。 | |
忠隆朝臣 | 藤原忠隆。伊予守藤原基隆の子。母は大蔵卿藤原長忠女。頭弁顕隆朝臣の娘婿。 | |
忠盛朝臣 | 平忠盛。 | |
顕保朝臣 | 藤原顕保。但馬守藤原家保の子。鳥羽院妃・美福門院得子の従弟。 | |
忠基朝臣 | 藤原忠基。民部卿藤原忠教の子。 | |
内御遣実衡 | 藤原実衡。権大納言藤原仲実の子。母は藤原顕季女。 | |
顕能 | 藤原顕能。権中納言藤原顕隆の子。母の藤原悦子(白河院近臣季綱女)は鳥羽上皇の乳母。 | |
長輔 | 藤原長輔。伊予守藤原長実の子。母は白河院鍾愛の皇女・郁芳門院媞子に仕えた女房。 | |
家成 | 藤原家成。但馬守藤原家保の子。 | |
為重 | ||
経雅 | 藤原経雅。左京大夫経忠の子。母の藤原実子は鳥羽院乳母で鳥羽院妃・待賢門院璋子の実姉。 | |
経隆 | 藤原経隆。伊予守藤原基隆の子。母は大蔵卿藤原長忠女。藤原忠隆実弟。 | |
朝隆 | 藤原朝隆。右大弁藤原為房の子。母は法橋隆尊女(藤原忠通乳母)。 | |
成俊 | ||
資賢 | 源資賢。宮内卿源有賢の子。母は備中守高階為家。異母弟源宗賢の母は平忠盛女。 | |
範隆 | ||
俊隆 | ||
検非違使 | 大夫尉光信 | 源光信。従五位下左衛門少尉。河内源氏と対立関係にあった。 |
佐遠 | 源資遠。従五位下左衛門少尉。子の忠遠は忠盛猶子となり、娘は同僚の源為義妻となる。 | |
六位盛兼 | 平盛兼。正六位上左衛門尉。伊勢平氏の一族だが忠盛との交流はうかがえない。 |
■白河院崩御
大治2(1127)年12月20日夕刻、宮中にて秋除目が行われ、忠盛は備前守藤原顕能と相伝して「備前守」となった(『中右記』)。「已上皆成功」とあるので、忠盛は越前守時代に何らかの受領成功を行ったことが考課上評価されたと思われる。また、27日には「備前守忠盛被付兼字」とあるので、別の官職を兼任することとなったことがわかる。大治4(1129)年正月7日現在「左馬権頭忠盛朝臣」とあるので、兼官は左馬権頭と思われる。朝廷の軍馬・牧を管理監督する左馬寮の次官を兼ねたことは、白河院の深い信頼と軍事面での期待を伺わせる。
備前守となった忠盛は、おそらく一時的であるが任国に下向している。時期は大治3(1128)年だろう。当時の忠盛は白河院の院司であり、さらに京官兼職であることから、長期間都を離れることはなかったと思われる。忠盛が備前国に下向した際に住吉津あたりで詠んだと思われる歌が遺されているが、歌から見ると下向時期は初夏と思われる。
そして、備前国の「むしあけ」というところで、古い寺の柱に一首書き付けた。「むしあけ」は現在の瀬戸内市邑久町虫明の事である。虫明の湊で船を下り備前国府(岡山市国府市場付近か)へ向かったと思われる。忠盛が歌を書き付けた古寺も虫明の湊に近かったと思われる。
その後、国府での仕事を終えて上洛の途についた忠盛は、船で瀬戸内海を東へ向かった。しかし、強風のために、播磨国の「むろと申とまり」で数日間足止めを食った。現在のたつの市御津町室津で、古くから風待ちの良港として栄えた港町である。ここで忠盛は一首詠んだ。
都に帰り、院に伺候した際、白河院より「道のあひたいかなる歌かよみたる」と何度も問われ、室津での風待ちの歌を披露している。
大治4(1129)年正月6日の「叙位儀」で「平忠盛」は白河院の「院当年御給」に選ばれて「従四位上」に叙された。また、忠盛の長男「平盛清(ママ)」が「斎院」の御給によって従五位下に叙爵した(『中右記』)。斎院の恂子内親王はのちの上西門院であり、清盛はその別当となったとき、上西門院蔵人となった源頼朝が清盛に献杯している。そして正月24日の除目により、平清盛は十二歳にして左兵衛佐に任官した。院の信任厚い忠盛の影響力の賜物であろう。3月16日に行われた石清水八幡宮の臨時祭では、舞人として「備前守忠盛■■子新兵衛佐」が初勤仕している。
このような中、7月6日に白河院は二条東洞院亭で御仏三十体許供養を行い、三条北烏丸西亭へ還御の後、腹痛を起こして倒れた。院は西対北面で伏せたが終夜下痢や嘔吐に悩まされた。院の急病は秘密にされたが、翌7日には御所の人々に知れ渡り、さらに京中車馬が馳せ回るありさまとなっていた。御所の南庭では丈六仏五体を造立すべく仏師数百人が集められ、さらに御所の庭に五重塔を建立するため雑人が市をなす状態となっていた。しかし白河院の霍乱は治まることなく意識混濁の状態に陥り、巳刻頃に崩御した。御年七十七。酷暑の時期で、しかも食事の後の急な腹痛であることから、食中毒による急性消化器系障害で脱水症状を起こしての衝心と思われる。
忠盛は院の崩御に臨んで、
という歌を詠んでいる。この歌はのちに藤原定家の子・藤原為家によって書写されている。
藤原宗忠は院について「可謂聖明君長久主也」と評価する一方で、「理非決断、賞罰分明、愛悪ヲ掲焉、貧富顕然也、依男女之殊寵多、已天下之品秩破也、仍上下衆人不勝心力歟」との批判を認めている(『中右記』)。天永4(1113)年4月の「永久の強訴」で、検非違使別当たる自分を通さずに、院が勝手に検非違使(院北面に伺候する人々でもあった)を動員した遺恨を忘れていなかったと思われ、院の聖明な部分を認めつつも、好悪で人材を登用し、越権行為も行う強引な手法には相当な不満を抱いていた様子がうかがえる。
院御所に近習の人々が入り、藤原基隆が板敷の上に砂を五、六寸ばかり敷き、その上に御畳裏や蓆を置いて、さらに面筵を敷いた。尊遺には藤原長実、藤原経忠、藤原基隆、平忠盛、検非違使の源資遠、源季範兄弟が御単衣を着せた。彼ら近習の人々は院の尊骸を守り、仁和寺の覚法法親王らも伺候している。
翌8日には葬儀の段取りが決められ、角殿北倉町で造られた御棺が北門より入れられた。御棺は伊予守藤原基隆、左近衛中将藤原成通、尾張守藤原顕盛、讃岐守藤原清隆、遠江守高階宗章、備中守藤原忠隆、備前守平忠盛、左近衛少将藤原教長が小壺から御所に舁き入れた。すべて院の近臣として重用された人物である。その後、白河院の尊骸は湯灌されて御棺に移された。また、故院の遺言書により、院号は「白河院」と定め置かれた。
7月15日夕刻、御葬礼が行われ、堀河院の御墓所でもある香隆寺を廟所とし、忠盛も役人の一人として葬儀に加わった。布施供養を行い、施米の行事を藤原成通とともに務めた。また造御棺の御入棺も藤原長実や藤原基隆らとともに務め、御棺を担ぐ駕輿丁を差配する御輿長十二人にも名を連ねた。火葬を含めた葬祭場を取り仕切る山作所行事も務めており、忠盛は院に最も近い一人という認識があった様子がうかがえる(『長秋記』)。
7月26日、白河院の供養が行われ、新院(鳥羽院)が造立した阿弥陀三尊像、法華経二十部が納められた。「備前守忠盛朝臣」も白河院のために丈六阿弥陀仏を造立しており供養が行われた(『中右記』)。閏7月13日にも三条殿において「備前守忠盛」は白河院のために等身阿弥陀三尊と経二十部の仏経供養を行った。さらに、閏7月21日には「忠盛」が半丈六弥勒菩薩一体と地蔵菩薩一体、法華経二十部の供養を行った。そして、閏7月25日、白河院の四十九日の法要が行われたが、法要が終わったのち、「候本院北面人々、今日可候院幷女院北面由、被仰下」されたが、この人々とは「備前守忠盛朝臣、駿河守為俊、安芸守資盛、大夫尉佐遠、盛道、検非違使盛兼、季範、左衛門尉親安」の八人である。忠盛は白河院崩御に伴う召し放ちを免れ、無事に鳥羽院・待賢門院の北面へと移行することができたことがわかる。
■鳥羽院伺候
8月2日、「備前守忠盛朝臣」が「鳥羽殿御厩預」に任じられ、検非違使季則は納殿に任じられているが、これは「各如本可執申由」とあり、白河院当時から忠盛が院の御厩預だったことがわかる(『長秋記』)。
翌8月3日、「阿弥陀堂木事始」が行われた(『長秋記』)。具体的には白河新阿弥陀堂の傍らに、九体の丈六阿弥陀仏を納める阿弥陀堂と三重塔の造営だが、三重塔は播磨守藤原家保が担当し、阿弥陀堂に納める九体の丈六阿弥陀仏の造立は「備前守忠盛朝臣」が担当することとなった(『中右記』)。
8月15日、鳥羽院は白河院の在所だった三条殿「西殿」が無人の状態となっていたことを憂い、検非違使別当藤原実行(待賢門院璋子の実兄)に「北面輩更結番可候」ことを指示した(『長秋記』)。実行はこのことについて「忠盛朝臣」と議しており、忠盛が官位でも実力でも北面の人々の代表者であったことがわかる。
9月21日、検非違使で北面の左衛門少尉源資遠の子・源忠遠が父の功によって「兵衛尉」に任じられ、さらに忠盛の養子となり「改源為平」した。ただ、のち再び源家に戻っており、源姓に復している(『長秋記』)。
■参考系譜
源為義
(検非違使)
‖――――――源頼仲
‖ (掃部助)
源資遠―――+―娘
(左衛門少尉)|
|
+―源忠遠
(左衛門大尉)
↓ ↑
平忠盛―――+=平忠遠
(刑部卿) |(左衛門大尉)
|
+―平清盛
|(安芸守)
|
+―娘
‖――――――源宗賢―――源中賢
‖ (甲斐守) (上総介)
‖
源有賢――+―源資賢
(宮内卿) |(権大納言)
|
+―源資長【関東遁世】
(上総介)
9月28日、院の白河殿での御仏事が行われ、「忠盛朝臣」が阿弥陀仏像を奉納している(『長秋記』)。そのころ、仏師法眼長円が「山階寺大仏師」を望み、許可された。本来は南都仏師定朝の直系が伝えてきた職だが、傍系の長円がこれを望んだものと思われる。長円は公家との交流も深く、それが奏功して許されたのだろう。長円は院宣と関白御消息を持って自ら奈良興福寺の法印房を訪れて報告している。しかし、このことを快く思わない興福寺僧二百名ばかりが「奈良坂」で帰途の長円一行を待ち伏せて襲撃。長円は頭を割られる重傷を負い、長円の前駆や僕童は捕縛されたり斬殺されたりした。
この襲撃事件に激怒した鳥羽院は、11月11日、検非違使別当藤原実行に「検非違使盛道、光信、源為義、平盛兼、源義成等五人」を興福寺へ派遣して法印房中の「執券威之輩、可被追捕」するよう指示し、実行は已講恵曉、寺主信実を指名手配している。派遣命令を受けてこの日のうちに急行した検非違使は、真っ先に奈良に到着した源光信が興福寺へ入ると、僧房へ踏み入った。しかし、ここにいるはずの已講恵曉はすでに逃げ去っていたため、留守の中間法師一人を捕縛。伊賀上座維覚と寺主信実を逮捕して、遅れて到着した検非違使らとともに帰洛の途に就いた。その途中、再び奈良坂で待ち構えていた興福寺僧と合戦に及び、光信郎等二人と為義郎等一人が矢に当たって討死、興福寺僧は十名ばかりが戦死している。
11月24日、逃亡していた已講恵曉は、伊賀国において「為忠盛朝臣郎等被搦」ている。忠盛は伊賀国の私領に非常線を張っていたのだろう。なお、この検非違使による興福寺追捕について、関白藤原忠通は院よりあらかじめ知らされておらず、藤原宗忠は忠通について「不肖質為氏長者之間、如此之事出来歟、凡言語道断」と非難している。
12月28日、待賢門院璋子の御願により白河院の供養のための「白河新造御塔供養」が行われた。忠盛は女院御祈の御塔を造進。さらに同日行われた「祗園御塔供養」でも造進十基のうち、忠盛は五基を寄進している。忠盛は璋子が入内した際に家司となって以来、その信頼を得ていたのだろう。さらに大治5(1130)年正月7日、忠盛は「院当年御給」によって「正四位下」に叙されている(『中右記』)。このことは「人々驚耳目」したとあり、待賢門院のみならず鳥羽院からも格別目をかけられていた様子がうかがえる。
8月7日今夕、「少輔」という人物が大殿藤原忠実に申上げたところによれば、「伊勢外宮」領の伊勢国阿射賀御厨について「丹後冠者」と号する人物と「少輔」が相論していたが、文書を確認したところ「少輔方有理」だった。これは「備前守忠盛」が沙汰したことによるという(『中右記』)。どのような相論かは伝わらないが、忠盛が阿射賀御厨へ関与できる立場にあった様子がうかがえる。
9月5日、京都南郊の離宮鳥羽殿で鳥羽院は諸卿を伴って御遊、和歌会を行い、忠盛は「筑前守藤原公章朝臣被聴院昇殿後、今夜初参付簡」と、今夜はじめて殿上へ出仕した筑前守藤原公章とともに歌を献じたが、採用されなかった(『長秋記』)。また、11月4日の崇徳天皇の日吉行幸では、鳥羽院と待賢門院は三条殿東殿に遷り、さらに三条殿東門にて見物した(『長秋記』)。このとき「平忠盛朝臣」は両院の御車辺を警固するよう命じられて伺候しているが、源師時は日記に「世以不請、有故也」と評している。鳥羽での和歌会や今回の院警衛について忠盛が貴族たちの不評を買っているのは、やはり侍品の家格の忠盛が故院や院、女院の引き立てで破格の出世を遂げたことへの不満や妬みがあるのだろう。
8月3日、洛中に近江国大津から「対馬前司義親」を称する者が入ったとの噂が立ち、源師時は「為朝恥辱不可過是」と怒っている。「義親」は嘉承3(1108)年正月に忠盛の父・正盛によって討たれたはずだが、義親の首が判別不能な状態になっていた事などから当時から義親の生存説は囁かれており、「義親」を名乗る人物は永久5(1117)年5月に出没して以降、数度に渡って出没した。そして、大治4(1129)年に現れた「義親」は、鳥羽院から「可令秘養」という命を受けた前太相国忠実に鴨院で匿われており(鴨院義親)、大津から入洛した「大津義親」と激しく対立。10月14日夜、四条大宮の検非違使太夫尉源光信の邸前で両者は合戦を起こし、「大津義親」が門前で捕縛され、党類六人が殺害された(『知信朝臣記』『長秋記』)。さらに勝利した「鴨院義親」も11月12日夜に鴨院の住居を襲われ、「従類十余人双枕死」んだ。この犯人につき、当初より邸前で合戦を起こされた源光信の関与の噂があったが、忠盛も疑われた。父正盛の義親追討の名誉を守るために殺害したのではないかという疑いと思われるが、忠盛は召し出されるや「全不犯、猶事疑候者、搦犯人可進之」と完全否定した(『長秋記』)。11月22日の石清水八幡宮臨時祭では「備前守忠盛朝臣」も供奉に列しており、疑いは晴れていたと思われる。なお、「鴨院義親」殺害犯人については源光信と断定され、11月23日、「光信従三人、伊豆常陸土佐国被流、舎弟兵衛尉光保解却見任」と決定。都を騒がせた張本人を殺害したとされた光信に対し、遠流の厳罰に処することは甚だ不審であり、この「鴨院義親」は鳥羽院及び太閤忠実と所縁の人物であり、何らかの意図を以って「義親」として暗躍していたと考えられる。そしてこれ以降、「義親」は二度と出現することはなかった。
■伊勢平氏初の内殿上へ
天承元(1131)年6月8日、鳥羽院の命を受けて忠盛が造営した鳥羽の「泉殿新堂上棟」が行われ、鳥羽院をはじめとする殿上人らが列席した。その後、落成した新御堂は、翌月7月8日に「鳥羽泉殿跡御堂供養」として供養会が催されている。この御堂は故白河院が生前に造営を始めた成菩提院(泉殿跡の寺院)に付属の七間四面の阿弥陀堂で、故院の御所だった三条殿西対を解体し用材として利用されている。翌7月9日、香隆寺に仮安置されていた故院の遺骨は、ようやくその遺言に従って成菩提院へ厳重に埋納された。このときの故院遺骨の供奉に「備前守忠盛朝臣」が見える。
忠盛は鳥羽院御願の寺院造営をその後も行っており、長承元(1132)年3月9日、「白河千体観音堂供養習礼」が行われている(『中右記』)。この観音堂は「備前権守造営也」との注記がなされており、忠盛の功である。御堂は南北三十三間の建物で東面し、東庭には舞台が設けられた。堂内には御仏院庁が手掛けた丈六正観音像が中央に据え置かれ、左右に各五百体の等身正観音像が安置された。現存する「三十三間堂(蓮華王院)」と同様の建物と推測されるが、安置されたのは三十三間堂のような千手観音ではなく正観音(聖観音)である。
3月12日、先日行われた上卿僉議の結果、白河千体観音堂の名称が「法成就院」と定められたことが報ぜられ、筆の上手である関白藤原忠通の手によって額も制作され、翌日の供養会の準備が整った。しかし「就」と「熟」は同義であり、「熟」は「火」に通じることから「仍可有禁忌」とされ、急遽名称変更が行われて「得長寿院」に変更され、額字も急遽改められるハプニングもあったものの、何とか翌13日の千体観音堂供養には納められている。12日深夜からの雨は翌13日にも止まず、雨の中での法要となったが、鳥羽院、女院、関白忠通以下諸卿が臨席して盛大に執り行われた。その後、御堂造営の功を以って「国司忠成被下遷任宣旨」され(ただし、こののちも備前守のため遷任ではなく重任であろう)、さらに「被聴内昇殿」され、侍品の家格に過ぎなかった伊勢平氏として初の殿上人となった。3月22日、「備前守忠盛朝臣」は権中納言源師時と対面し、「被聴内昇殿之後、本日初供御膳也」と話している。師時はこの忠盛の内昇殿について「此人昇殿猶未曾有之事也」と評しており、殿上人の家格ではない忠盛への違和感が当時の堂上には強かった様子がうかがえる。
10月13日、鳥羽院が高野詣のために京都を出立、鳥羽の藤原顕頼の宿所へ向かった。この高野詣に扈従する殿上人は十三人(加えて施薬院使丹波重忠)が選ばれており、忠盛もその供奉の一人となっている。
●長承元年10月13日高野詣供奉殿上人(『中右記』)
殿上人 | 播磨守宗成 | 藤原家成の誤記。但馬守藤原家保の子。 |
備前守忠盛 | 平忠盛。 | |
若狭守信輔 | 藤原信輔。左京大夫経忠の子。母の藤原実子は鳥羽院乳母で鳥羽院妃・待賢門院璋子の実姉。 | |
丹後前司長輔 | 藤原長輔。権中納言長実の子。 | |
上総守親隆 | 藤原親隆。大蔵卿為房の子。鳥羽院妃・待賢門院璋子の従兄弟。 | |
三河守資賢 | 源資賢。宮内卿有賢の子。 | |
右馬頭忠能 | 藤原忠能。左京大夫経忠の子。母の藤原実子は鳥羽院乳母で鳥羽院妃・待賢門院璋子の実姉。 | |
越後守清隆 | 藤原清隆。因幡守藤原隆時の子。妻に平忠盛娘を迎えている。 | |
備前守顕能 | 藤原顕能。権中納言藤原顕隆の子。母の藤原悦子(白河院近臣季綱女)は鳥羽上皇の乳母。 | |
少納言師行 | 源師行。権中納言源師時の子。 | |
甲斐守範隆 | 藤原範隆。 | |
越前守盛章 | 高階盛章。娘は関白藤原兼実の側室。 | |
範賢 | ||
施薬院使重忠 |
11月23日の新嘗祭に伴う五節舞のため、国別に宛てられた進物のうち「備前忠盛」は「几帳帷」を二帖進めている(『中右記』)。
長承2(1132)年2月9日、春日祭の上卿に「中納言中将」こと藤原頼長が十四歳の若さで任じられ、その御共人の「内殿上人」の一人として「備前守忠盛朝臣」が見える。また、「院殿上人十二人」の一人に忠盛の長男「左兵衛佐清盛」がいた。
■女御藤原泰子家司となる
長承2(1132)年5月18日、当時十七歳の中務少輔源師仲が女院のもとに参り、「前太相国長女」こと藤原忠実の長女(のち勲子、泰子。高陽院)の鳥羽院への入内について何やら密々事を語っている。師仲は中務少輔として入内の実務を担当していたと思われるが、師仲の父は待賢門院別当職を務めていた権中納言源師時であり、師仲から師時へ何か入内についての情報が入ってきていたと思われる。6月2日、入内について待賢門院から師時のもと書状が届けられたが、女院はこの前大相国忠実長女の入内について「是於予非歎非歓、是又年来所存知也」と平静を装う一方で、「但故院及御閉眼刻、不可有此事由、所令遺言給也、而今令背被御意給」と、亡き白河院の遺言に背くことであると述べている。これは保安元(1120)年10月、忠実が白河院の意向を無視して密かに長女(勲子、泰子)を鳥羽天皇に入内させようと計画したものの発覚して逆鱗に触れ、白河院の遺言で勲子を鳥羽天皇に入内させないよう指示していたものを指していると思われる。
村上天皇――具平親王―――源師房 +―源顕房―――――――+―源雅実
(中務卿) (右大臣)|(右大臣) |(太政大臣)
‖ | |
‖ | | 高階業子
‖ | |(高階為家女)
‖ | | ‖―――――――源顕親
‖ | | ‖ (右京権大夫)
‖ | +―源雅俊
‖ | |(権大納言)
‖ | | ‖
‖ | | ‖―――――――源憲俊
‖ | | 源国明娘 (右近衛少将)
‖ | |
‖ | | 平忠盛
‖ | | (刑部卿)
‖ | | ‖――――――平経盛
‖ | | ‖ (修理大夫)
‖ | +―源信雅―――+―娘
‖ | |(陸奥守) |
‖ | | |
‖ | | +―娘
‖ | | ‖――――――藤原師長
‖ | | ‖ (太政大臣)
‖ | | 藤原忠実――――藤原頼長
‖ | |(関白) (左大臣)
‖ | |
‖ | +―藤原賢子 +―敦文親王
‖ | |(師実養女) |
‖ | | ‖ |
‖ | | ‖―――――+―堀河天皇―――鳥羽天皇
‖ | | 白河天皇 | ‖
‖ | | ‖ | ‖
‖ | | ‖ +―媞子内親王 ‖
‖ | | ‖ |(郁芳門院) ‖
‖ | | ‖ | ‖
‖ | | ‖ +―令子内親王 ‖
‖ | | ‖ | ‖
‖ | | ‖ | ‖
‖ | | ‖ +―ヮq内親王 ‖
‖ | | ‖ ‖
‖ | | ‖ ‖
‖ | | ‖―――――――覚法法親王 ‖
‖ | | ‖ (仁和寺門跡) ‖
‖ | | ‖ ‖
‖―――+ +―源師子 ‖
‖ | ‖―――――+――――――――藤原泰子
‖ +―源麗子 ‖ | (高陽院)
‖ ‖ ‖ |
藤原道長―+―藤原尊子 ‖―――――藤原師通 ‖ +―藤原忠通
(関白) | ‖ (関白) ‖ (関白)
| ‖ ‖―――――藤原忠実
+―藤原頼通――藤原師実 ‖ (関白)
|(関白) (関白) ‖ ‖―――――――藤原頼長
| ‖ ‖ (左大臣)
+―藤原頼宗――藤原俊家――娘 藤原盛実女
|(右大臣) (右大臣)
|
+―藤原能信――藤原茂子
(権大納言) ‖―――――白河天皇
‖
後三条天皇
6月28日、関白藤原忠通の土御門邸が諸国の国司によって修造され、鳥羽院が行幸された。この修造は入内する「姫君(のち勲子)」の里内裏としてのものだが、「備前守忠盛朝臣」は土御門邸敷地東方の建物一宇を新築して進上している。これは「前太相国」こと藤原忠実の宿所として造られたものであった。29日、忠実は「姫君、北方」とともに東三条殿からこの土御門殿へ移り、上皇も白河殿から行幸した(『長秋記』)。
7月13日、「院女御々方(のち勲子)」の「被補家司職事」されて政所始が行われ、右衛門権佐藤原朝隆が院宣により沙汰している。このとき「備前守忠盛朝臣」も勲子の家司の一人に選ばれている。このときの家司は「皆院人」で、職事は「皆本家人」であったとあり、白河院在世時には院から敬遠されていた摂関家が、白河院崩御後、忠実長女(のち勲子、泰子)入内という形で解消されつつあったことがうかがえる(『長秋記』『中右記』)。忠盛は当時、鳥羽院司、待賢門院家司、五宮家司を務めながら、さらに院女御の家司にも就いたことになる。
●院女御々方家司職事(『長秋記』)
氏名 | 官職 | ||
政所別当 (家司) |
藤原顕盛 | 尾張守 | 権中納言長実の子。藤原顕季の孫。 |
藤原忠能 | 駿河守、右馬頭 | 左京大夫経忠の子。母の藤原実子は鳥羽院乳母で待賢門院璋子の実姉。 | |
藤原忠隆 | 伊予守(御後見) | 伊予守基隆の子。妹の隆子は但馬守家保の妻で家成の母。 | |
藤原家成 | 播磨守 | 但馬守家保の子。妻は伊予守基隆の娘・従三位隆子。 | |
平忠盛 | 備前守 | 平忠盛。側室(源信雅娘)は勲子の従姉妹。 | |
藤原顕能 | 美作守 | 権中納言顕隆の子。母は女御勲子の弟・藤原忠通の乳母・讃岐宣旨。 | |
藤原朝隆 | 右衛門権佐(沙汰人) | 大蔵卿為房の子。待賢門院璋子の従兄弟。 | |
侍所別当 (職事) |
藤原宗成 | (権)左中弁 | 内大臣宗忠の子。 |
源顕親 | 右京権大夫、侍従 | 権大納言雅俊の子。勲子の従兄弟。 | |
高階泰兼 | 筑前前司(地下) | 伊予守泰仲の子。蔵人。兄は忠実家司・高階重仲。 | |
源憲俊 | 右近衛少将 | 権大納言雅俊の子。勲子の従兄弟。 | |
源雅国 | 兵部権大輔 | ||
源俊通 | 散位(地下) | 弾正大弼明賢の子。忠実家人で、のち藤原頼長家司。 | |
藤原光家 | 侍従 |
また同夜、待賢門院別当源師時は義兄弟の太宰帥藤原長実を見舞っているが、長実は「女子申云、於下官姪也」について師時に相談している。嫁入り先も決まらず、彼女に言い寄っていた右大臣源有仁の意向を確認したい旨を告げていた。有仁の父・輔仁親王は師時の父母両方の従兄であり、有仁妻は師時が別当を務めていた女院(待賢門院)の姉妹という間柄であった。こうした親密な関係から、長実が師時に託したと思われる。結局、彼女は有仁の妻とはならず鳥羽院に見初められ、藤原得子として入内し、近衛天皇の生母となった。待賢門院をしのぐ寵を受け、女御から皇后へ進み、のち美福門院の院号を賜る。
+―円融天皇―一条天皇―――後朱雀天皇 源義家――+――――――――娘
| ‖ (陸奥守) | ‖
| ‖ | ‖
| ‖―――――――――――後三条天皇 +―源為義 ‖――――――――――行恵
| ‖ ‖ (検非違使) ‖ (法眼)
| ‖ ‖ ‖
| ‖ ‖―――――――――――――輔仁親王
| ‖ ‖ ‖
| +―禎子内親王 +―源基子 ‖――――――――――源有仁
| |(陽明門院) | ‖ (右大臣)
| | | ‖ ‖
+―冷泉天皇―三条天皇―+―敦明親王――源基平――+―娘 ‖ ‖
| (小一条院)(右大臣) ‖ ‖ ‖
| ‖――――+―源師時 ‖ ‖
村上天皇―+―具平親王―源師房―――――――――――――――+―源俊房 |(待賢門院別当)‖ ‖
(中務卿)(右大臣) |(左大臣) | ‖ ‖
| | ‖ ‖
+―源師忠―――――――――――娘 ‖
(大納言) | ‖
+―源方子 ‖
‖――――――藤原得子 ‖
藤原経平―+―娘 ‖ (美福門院) ‖
| ‖ ‖ ‖ ‖
| ‖――――――藤原長実 ‖――――――近衛天皇 ‖
| 藤原顕季 (太宰帥) ‖ ‖
|(修理大夫) ‖ ‖
| ‖ ‖
+―藤原睦子 +―藤原苡子 ‖ ‖
‖ |(女御) ‖ ‖
‖ | ‖――――――鳥羽天皇 +―崇徳天皇 ‖
‖ | ‖ ‖ | ‖
‖ | ‖ ‖ | ‖
‖ | ‖ ‖――――+―後白河天皇 ‖
‖ | 白河天皇 +―藤原璋子 ‖
‖ | |(待賢門院) ‖
‖ | | ‖
‖――――+―藤原公実―+――――――――――――――娘
藤原実季 (権大納言)|
(大納言) |
+―藤原実能
(左大臣)
8月13日、源師時のもとに藤原長実より書状が届いた。内容は太宰府庁からの肥前国神崎庄におけるある事件についての報告だった。おそらく5〜6月頃のことと推測されるが、肥前国神崎郡神崎庄に宋の商人「周新」が乗った「唐人船」が来着した。九州における公的な貿易港は博多津であったが、ここは太宰府の臨検があることから、その影響の少ないであろう港を探して筑後川にひらけた神崎郡に来着し、密貿易を行おうとしたと思われる。神崎庄は院領であり、当時は院司の忠盛が預所としてこれを管理していた。しかし、太宰府はこの唐人船来着の報を得るや、ただちに府官を神崎庄へと派遣して「任例存問、随出和市物畢」った。一方、この報を京都で受けた「備前守忠盛朝臣」は「自成下文、號院宣、宋人周新船、為神崎御庄領、不可経問官」という内容の「所下知」を下してこれに抵抗した。忠盛としては貿易によって得た利益をして成功等に利用しようと考えていたと思われるが、恒常的な日宋貿易の視点を持っていたとは思われない。この忠盛の「院宣」による抵抗について師時は「言語道断也、日本弊亡不足論、外朝恥辱更無顧、是非他、近臣如猨犬所為也」と痛烈に批判している。なお、この太宰府からの報告を受けた藤原長実はすでに瘧病重く奏上できないことから義兄弟で同役の師時に託したと思われる。そして長実はこの六日後の19日、五十九歳で亡くなった。師時は「可哀可悲」と悲嘆しているが、内大臣藤原宗忠は「未曾有無才之人」と厳しい評価をしている(『長秋記』『中右記』)。
長承3(1133)年3月2日、忠実長女の立后のため、姫君の名を定めることとなり、忠実のもとから家司・平知信が内大臣藤原宗忠邸を訪れ、姫君の「御名字」として太宰大弐藤原実光が選んだ「君」「勲」のいずれにすべきか相談している(『中右記』)。宗忠は「君」字も「勲」字も勝れているが、「君字故一宮御名也、仍憚也」、「今度不可被用者、勲有何事哉」(『中右記』『長秋記』)と返答した。ここに見える「故一宮」とは宇多天皇皇女の賀茂斎院君子内親王のことで、朝廷では畏憚して姫君の名を「勲子」と定め、従四位下に叙した。さらに続けて准三后の宣旨を下している。そして3月19日、異例ながら上皇女御を「皇后宮」に冊立する「立后」の儀が行われ、さらに名の「勲子」も「依有其難」「而依衆難」って、「泰子」と改められている。その「難」が何かは語られていないが、おそらく「勲不知訓、付善悪可候事也」という指摘だろう。「重子」としてはどうかという妥協案もあったが、結局、深更まで議論がもつれ、煮詰まらないままに「勲子」で決定された。この日定められた皇后宮職では、皇后宮大夫は異母弟・藤原頼長が務め、叔父の陸奥守源信雅が皇后宮亮が任じられた。なお、平忠盛は源信雅の娘を側室に迎えており、三男・平経盛を生んでいる。
この立后の数日前の3月11日、忠盛の次男「平家盛」が「被補蔵人」られた(『中右記』)。家盛の任官が認められる初見であり、おそらく六位蔵人としての初任官だったと思われる。当時の家盛は『平治物語』の記述から逆算すると七歳という幼さであるが、蔵人としての実務に耐えられないことと兄の清盛の任官が十二歳であったことを考え合わせると、もう少し年齢が上だった可能性もある。彼の母・藤原宗子は鳥羽院随一の院近臣・播磨守藤原家成の従姉であり、忠盛は家成と長年にわたってともに鳥羽院に仕えていた。家盛は家成からの推挙もあって若くして蔵人に任じられたのかもしれない。そして、家盛は家成を烏帽子親として「家」の一字を受けたとも推測できる。藤原家成は院近臣家の権勢家だった藤原顕季系の主流となり、忠盛家は家成家と縁戚関係となってのちの平家繁栄の礎を築くこととなる。
藤原道隆―+―藤原伊周 藤原家保
(関白) |(内大臣) (修理大夫)
| ‖
| ‖――――――藤原家成
| ‖ (播磨守)
| +―藤原隆子
| |(典侍従)
| |
+―藤原隆家―+―藤原良頼―――藤原良基―――藤原隆宗―+―藤原宗兼―――藤原宗子 +―平家盛
(中納言) |(権中納言) (参議) (近江守) (少納言) ‖ |(右馬頭)
| ‖ |
| ‖――――+―平頼盛
| ‖ (常陸介)
| ‖
| 平忠盛――――娘
| (備前守) ‖
| ‖―――――藤原隆親
| ‖ (播磨守)
+―藤原経輔―――藤原師家―――藤原家範―――藤原基隆―――藤原忠隆―+―藤原隆教
(権大納言) (右中弁) (大膳大分) (修理大夫) (大蔵卿) |(播磨守)
‖ |
‖ +―藤原基成――娘
‖ (民部少輔) ‖
‖ ‖
‖――――+―藤原信頼 藤原秀衡
藤原隆方―+―藤原為房―――藤原顕隆―――藤原顕頼―――娘 |(権中納言)(鎮守府将軍)
(備中守) |(右大弁) (参議) (民部卿) |
| +―娘
| ‖―――――藤原基通
| ‖ (摂政)
| ‖
+―藤原光子 +―藤原実能 藤原忠通―+―藤原基実
‖ |(左大臣) (関白) |(摂政)
‖ | |
‖――――+―藤原璋子 +―崇徳天皇 +―藤原泰子
藤原公実 (待賢門院)| (鳥羽院皇后)
(大納言) ‖ |
‖――――+―後白河天皇
鳥羽天皇
5月10日、天皇(崇徳天皇)の八幡行幸に、忠盛は「四位陪従」として側室の父・皇后宮亮源信雅とともに供奉し(『中右記』)、さらに5月15日の賀茂行幸にも四位陪従として、「家定」とともに従っている(『長秋記』)。
10月20日、鳥羽院と女院は熊野詣のための御精進に仁和寺へ赴かれた。このときの供奉人として「殿上人忠盛朝臣」らが加わっている。両院は11月11日に熊野より御還向されている。
■海賊追捕
閏12月12日、忠盛家人の「兵衛尉平家貞」が左衛門尉に任じられている。これは「追捕犯人賞、海賊云々」とあり、備前守忠盛の代理として海賊追捕の任に当たったと思われる(『長秋記』)。
保延元(1135)年4月1日夜に行われた除目で忠盛は「中務大輔」に任じられた(『長秋記』)。この除目において、一族の平盛国も伊勢守に任じられている。なお、『中右記』においては「中務少輔平忠盛兼」とあるが、5月に「待賢門院庁下文」に見える別当名には「中務大輔兼備前守平朝臣」とあるので、中務大輔が正しい。
4月8日夜、関白忠通の召しによる陣定で周防国周辺の海賊追罰について討議され、中納言藤原顕頼は「海賊首所々庄々住人者、被仰本所、被召進由」を述べ、諸卿も同意した。一方、内大臣宗忠は「備前守忠盛朝臣、検非違使為義等、可追討由被仰下、何事之在哉」とし、蔵人頭資信により奏院された。これに対して鳥羽院は「追罰使可然者、忠盛朝臣、源為義、此両人可遣何人哉」との返答があり(『長秋記』)、「諸卿多、忠盛西海有々勢之聞、被発遣尤有便歟」ということ、また、鳥羽院の返答にあった「遣為義者、路次国々自滅亡歟、忠盛朝臣且為備前国司可有便宜也」という理由により、「早可追討由被仰下忠盛朝臣可宜」として、忠盛に対して追討の宣旨が下された。海賊追罰の僉議については、すでに3月14日に議され、国司に命じて「国内猛者(有勢の豪族たちか)」をして海賊を追罰させるべしとの宣旨が出されたものの(『長秋記』)、権中納言源師時は「諸国猛勢輩、各好海賊」であるためこれでは海賊の所業は収まらないだろうと予想しており、「指国々武士等交名、各給宣旨、自件賊慎歟」としている。海賊追討の宣旨を受けた忠盛は、おそらく家子の鷲尾右馬允惟綱(平惟綱)を代官として西国へ派遣したと思われる。
5月15日、忠盛の舅の一人、陸奥守源信雅が亡くなった。信雅のもう一人の娘(おそらく忠盛室の妹)は大殿忠実の次男・権大納言藤原頼長の正室であるため頼長と忠盛は相婿という関係で、さらに信雅は摂家家司という立場にあり、忠盛は院だけではなく摂家との関係も深めていた様子がうかがえる。なお、忠盛は関白師通の三男・左京大夫家隆(大殿忠実の異母弟)の娘(待賢門院女房)も側室に娶っているが、家隆自身は摂家と直接の関わりは薄い一方で、異母兄・藤原家政の妻が待賢門院と姉妹であり、さらに家政の娘(三条局。母は不明だが待賢門院の姉妹か)が待賢門院に出仕しており、摂家との関係というよりも忠盛自身が別当を務めていた待賢門院との関わりが強いと思われる。
源師房―――源顕房――+―源雅実 藤原公実――藤原璋子 +―崇徳天皇―――重仁親王
(右大臣) (右大臣) |(太政大臣) (大納言) (待賢門院)|(顕仁親王)
| ‖ |
+―――――――――――――――藤原賢子 ‖――――+―統子内親王
| (藤原師実養女改姓) ‖ |(上西門院)
| ‖ ‖ |
| ‖――――――堀河天皇――鳥羽天皇 +―後白河天皇――二条天皇
| ‖ ‖ |(雅仁親王) (守仁親王)
| 白河天皇 ‖ |
| ‖ ‖ +―覚性法親王
| ‖ ‖ (仁和寺御室)
+―――――――――――――――源師子 ‖
| ‖ ‖
| ‖――――+―――――――藤原泰子
| ‖ | (高陽院)
| ‖ |
| 藤原師通―+――――――――藤原忠実 +―藤原忠通
|(関白) | (関白) (関白)
| | ‖
| | ‖―――――――――――――――――――藤原頼長
| | 藤原盛実―+―娘 (左大臣)
| |(土佐守) | ‖
| | | ‖
| | +―娘 ‖――――――藤原師長
| | ‖ ‖ (太政大臣)
| | ‖ ‖
| +――――――――藤原家隆―――娘 ‖
| | (左京大夫) (待賢門院女房) ‖
| | ‖ ‖
| +―藤原家政―――三条局 ‖―――――平教盛 ‖
| (参議) (待賢門院女房)‖ (権中納言) ‖
| ‖ ‖ ‖
| ‖ 平忠盛 ‖
| 藤原公能―+―娘 (刑部卿) ‖
|(大納言) | ‖ ‖
| | ‖ ‖
| +―藤原璋子 ‖―――――平経盛 ‖
| (待賢門院) ‖ (修理大夫) ‖
| ‖ ‖
+―源信雅――+―――――――――――――――娘 ‖
(陸奥守) | ‖
| ‖
+――――――――――――――――――――――――――――娘
また、忠盛はこのころ「五宮」こと、のちの仁和寺宮覚性法親王(鳥羽院と待賢門院の第五皇子)の家司でもあったことがわかる(『長秋記』)。この人事も鳥羽院と待賢門院の意向が強く働いていると考えられる。忠盛と仁和寺との関係はその後、子の平経盛、その子・平経正と密接に続いていくこととなる。
6月8日、「海賊首僧源智」が忠盛によって捕縛されたことが内大臣宗忠のもとに報告された(『中右記』)。この海賊は3月に忠盛に対して出された海賊追討令を受けた結果であり、さらに8月19日、忠盛は賊首の「日高禅師」以下「虜海賊七十人」を京都へ連行し、そのうち「搦進海賊廿六人」を河原(四条河原か)で大々的に検非違使の藤原盛道、源資遠、源季範、源近康、源元方に引き渡している(『中右記』『長秋記』)。ただ残りの賊については密かに検非違使へと引き渡されており、宗忠は「此中多是非賊、只以非忠盛家人者、号賊慮進云々」との疑いを持っている。8月21日、忠盛は海賊追捕の行賞を受け、右馬允平惟綱が右衛門尉(『中右記』によれば「右兵衛少尉」)に任じられ、嫡子の左兵衛佐平清盛は「従四位下」に叙された。
平正度―+―平貞衡―――平貞清―――平清綱―――平維綱
(常陸介)|(右衛門尉)(安津三郎)(鷲尾二郎)(右衛門尉)
|
+―平正衡―――平正盛―――平忠盛―――平清盛―――平宗盛
(出羽守) (讃岐守) (刑部卿) (太政大臣)(内大臣)
保延2(1136)年2月11日当時、忠盛は院四位別当で「中務大輔兼美作守」となっており(「鳥羽上皇院庁聴案」:『平安遺文』)、前年8月から2月までの間に備前守から美作守へ遷ったことがわかる。同じく院別当職に「参議大蔵卿兼備前守藤原朝臣(藤原経忠)」と「前美作守藤原朝臣(藤原顕能)」が見えることから、顕能から美作守が忠盛に遷り、備前守は大蔵卿藤原経忠へ遷ったと思われる。
■保延の強訴
保延3(1137)年正月14日、醍醐寺座主・権僧正定海が「僧正」に任じられた。これは興福寺別当で先任の権僧正玄覚を超越しての転任だった。定海は崇徳天皇の「御持僧」であったために玄覚を超越して僧正に任じられた。このことにつき、玄覚は「為大憂」であった(『中右記』)。
玄覚の案じた通り、正月24日、興福寺衆徒からは、定海の僧正職の停止ならびに玄覚の権大僧正への任を求めて奏状が提出された。そのため朝廷では陣定が開かれ、定海は僧正のままで玄覚を権大僧正との議定を鳥羽院へ奏上したが、鳥羽院は「於権大僧正者依無先例」と却下された。ただ「於僧正二人者已有近例」ということで、先に僧正に任じた定海に加えて玄覚も僧正に任ずべしとの旨が下されたが、2月7日、「山階寺僧綱、已講、得業、所司、五師等、参集勧学院」し、関白忠通へ定海の僧正職停止と玄覚の僧正転任を訴えてきた。なかなか裁許が下りないことから長逗留となり、2月9日、興福寺衆徒はついに春日社神木を奉じて大々的に入洛し、勧学院に籠って僧正定海の僧正辞任を要求した(『南都大衆入洛記』)。結局、2月11日に「止僧正定海職、以権僧正玄覚被転任其替」と定まったことから、12日朝「大衆成悦下向」していくこととなるが(『中右記』『『南都大衆入洛記』)、この大衆入洛の騒ぎの中、鳥羽院は仁和寺と法金剛院での修法のため、院の下北面の中から勇士の者を選んで供奉とし、「美作守忠盛朝臣」が院の車後に郎従五十騎を従えて加わった。この五十騎はいずれも折烏帽子に甲冑を着用した完全武装で、衆徒入洛のに対する用心のためであった。
保延4(1138)年10月29日、興福寺権別当の隆覚法印が新たに別当に就任し、11月7日に興福寺に赴任した。しかし、隆覚は当初から興福寺内勢力と対立したようで、隆覚の下僧一挙法師が、興福寺領吹田庄からの運上米四十石あまりを止めたため、興福寺権上座信実配下の悪僧が馳せ向かってこれを奪取しようとしたことから、法華寺鳥居辺で合戦が起こった。こうした対立の中で、保延5(1139)年正月頃、鳥羽院の沙汰による「金峯山寺宝塔」造立の事について、恐らく鳥羽院と繋がる別当側と、対立する寺僧側で相論が起こり、2月27日夜、南大門前の池側で修学者英兼が何者かに殺害される事件が発端となって3月8日、大衆は蜂起して別当隆覚の住房である「西林院住房」を襲って放火、さらに連日諸房を破壊した挙句、「可被停任別当職之由奏状」を奏上すべく、3月26日に春日神木を奉じて上洛の途に就いた(『中右記』『『南都大衆入洛記』)。隆覚は前任別当の玄覚と僧正職を争った醍醐寺座主の定海の兄弟であり、こうした軋轢も大蜂起に至った原因の一つだろう。
村上天皇――具平親王―――源師房 +―源顕房―+―源雅実
(中務卿) (右大臣)|(右大臣)|(太政大臣)
‖ | |
‖ | +―法印隆覚
‖ | |(興福寺別当)
‖ | |
‖ | +―僧正定海
‖ | |(醍醐寺座主)
‖ | |
‖ | +―――――――藤原賢子
‖ | | (師実養女)
‖ | | ‖
‖ | | ‖――――――堀河天皇―――鳥羽天皇
‖ | | 白河天皇 ‖
‖ | | ‖ ‖
‖ | | ‖――――――覚法法親王 ‖
‖ | | ‖ ‖
‖ | +―――――――源師子 ‖
‖ | ‖――――+――――――――藤原泰子
‖―――+―源麗子 ‖ | (高陽院)
‖ ‖ ‖ |
藤原道長―+―藤原尊子 ‖―――――藤原師通――藤原忠実 +―藤原忠通―――藤原基実
(関白) | ‖ (関白) (関白) (関白) (摂政)
| ‖ ‖
| ‖ ‖――――――藤原頼長―――藤原師長
| ‖ 藤原盛実――娘 (左大臣) (太政大臣)
| ‖ (土佐守)
| ‖
+―藤原頼通――藤原師実――僧正玄覚
(関白) (関白) (興福寺別当)
興福寺衆徒の上洛の報を受けた鳥羽院は、ただちに「忠盛、重時、光保等五人、源氏、平氏引率官兵」させて宇治川へ派遣した。また別に淀津へも兵士を派遣している(『中右記』『『南都大衆入洛記』)。忠盛らは宇治橋の橋板を引き矧ぎ、人馬の交通を禁じて平等院に陣する大衆に対峙した。27日、忠盛は院宣に基づいた興福寺別当職転任裁許の申状を大衆に渡し、これに満足した大衆は28日、興福寺へ帰還。それを見届けた忠盛らは、翌29日、院宣によって帰京した。しかし、収まらなかった別当隆覚は11月10日、手勢五十余人を集めて大衆側と合戦したが敗れている。おそらくこれが原因と思われるが、12月15日に至って権少僧都覚譽(藤原師季子)が新たな別当として就任している(『中右記』『『南都大衆入洛記』)。
■重仁親王御傅となる
保延6(1140)年9月2日、崇徳天皇と内裏女房兵衛佐局(法勝寺司・信縁女)の間に「一のみこ」が誕生した。しかし、このとき崇徳天皇の中宮であった藤原聖子(関白藤原忠通女)にはまだ子が生まれていなかったことから、鳥羽院は皇子を「自降誕時、皇后以為子」とある通り、寵姫の女御藤原得子の養子に迎えて事を納めた(『台記』『今鏡』『一代要記戊集』)。このような事情で得子の養子に定められたが、得子は宮を鍾愛し、大事に育てている。
藤原長実―――藤原得子―+=重仁親王
(太宰帥) (美福門院)|
‖ |
‖ +=守仁親王
‖ (二条天皇)
‖
藤原忠平―+―藤原実頼――藤原斉敏――藤原懐平―――藤原経通――藤原経季―+―藤原季実―――信縁 ‖――――――體仁親王
(関白) |(関白) (左大将) (権中納言) (権中納言)(中納言) |(木工権頭) (法印) ‖ (近衛天皇)
| | ‖
| |【法勝寺執行】【法勝寺執行】 ‖
| +―増覚=====信縁――――――――――――崇徳院兵衛佐
| |(権律師) (法印) ‖ |
| | ‖ |
| 三条天皇――敦明親王 +―藤原季仲―――女 ‖ |
| (小一条院) (太宰帥) ‖ ‖ 【養女】
| ‖ ‖ ‖ |
| ‖ ‖ ‖ ↓
| ‖――――――源基平――――源行宗===========崇徳院兵衛佐
| +―藤原頼宗――女 (参議) (大蔵卿) ‖ ‖
| |(右大臣) ‖ ‖
| | ‖ ‖――――――重仁親王
| | 白河天皇―――堀河天皇―――鳥羽天皇―+―崇徳天皇
| | ‖ | ‖
| | ‖ | ‖
+―藤原師輔――藤原兼家――藤原道長―+―藤原頼通――藤原師実―――藤原師通―――藤原忠実―+―藤原泰子 | ‖======體仁親王
(右大臣) (関白) (関白) (関白) (関白) (関白) (関白) |(高陽院) | ‖ (近衛天皇)
| | ‖
+―藤原忠通―――藤原聖子
(関白) |(皇嘉門院)
|
+―雅仁親王―――守仁親王
(後白河天皇)(二条天皇)
永治元(1141)年12月、忠盛は「わか宮御めのと刑部卿などいひて、大にの御めのとのをとこときこゆ」とあるように若宮の「御めのと(御傅)」となり、妻の「大にの御めのと」こと藤原宗子が乳母として召し出されたことがわかる。同時に「やうやううちの御めのとごの、はりまのかみ、をきのかみなどいふ人ども、かのさとやつぼねなどの女房など、かみしものことどもとりざたすべきよし、うけたまはりてつかうまつり」と、崇徳天皇の乳母子である「播磨守、隠岐守」という人物が「上下の事共取り沙汰すべき由」を命じられた、つまり家司となったことがわかる(『今鏡』)。
忠盛は待賢門院別当、本仁親王家司という待賢門院―崇徳天皇と縁が深かったと同時に鳥羽院四位別当次席として鳥羽院からの信頼も厚く、さらに乳母となった妻・藤原宗子は若宮養母・女御藤原得子とは遠縁となり、重仁親王御傅と乳母役は鳥羽院と女御得子の強い意向を受けての人事と思われる。
重仁親王家司に就いた「播磨守」とは崇徳天皇の乳母子である播磨守藤原顕保であろう。顕保は若宮乳母・藤原宗子(忠盛妻)と従姉弟の間柄で、女御得子とも従姉弟という血縁関係にあった。「隠岐守」については、定かではないがおそらく女御得子の甥・隠岐守藤原信盛(藤原顕盛次男)と思われる。若宮は12月2日に親王宣下され(『一代要記戊集』)、御諱を重仁と定められて「重仁親王」となっている。そして重仁親王の実父・崇徳天皇は五日後の12月7日、重仁親王の養母となった女御得子腹の異母弟・體仁親王(近衛天皇)へ譲位され、崇徳院となる。重仁親王の親王宣下は、鳥羽院が将来の重仁親王の即位を認め、それを条件として崇徳天皇に體仁親王への譲位を迫ったものとされており、天皇(近衛天皇)の准母は崇徳院中宮・藤原聖子(皇嘉門院。藤原忠通女)と定められた。しかし、譲位の宣命には「皇太子」ではなく「皇太弟」と記されていたとされ、将来の崇徳院政を否定する内容になっていたとされる(『愚管抄』)。すでに譲位したのちの崇徳院に宣命を否定することはできず、これを恨んだことが、のちの保元の乱へと繋がっていったともされている。このとき天皇は三歳という幼さであり、しかも病弱だった。当然、重仁親王は有力な皇位継承権者とされ、女御得子は万が一に備え、血縁者で重仁親王の周囲を固めたと思われる。
藤原隆方―+―藤原為房――――藤原顕隆―――+―藤原顕頼―+―藤原光頼
(備中守) |(大蔵卿) (権中納言) |(民部卿) |(参議)
| | |
| | +―女
| | ‖―――――――藤原信頼
| | ‖ (武蔵守)
| | 藤原基隆―――藤原忠隆
| |(修理大夫) (播磨守)
| | ‖―――――――藤原隆教
| | ‖ (播磨守)
| +――――――――藤原栄子 ‖
| | (崇徳天皇乳母) ‖
| | ‖
| | +―――――――――女
| | |
| | |
| | 平忠盛――+―平清盛
| |(刑部卿) (太政大臣)
| | ‖―――――――平宗盛
| | ‖ (内大臣)
| | 平時信――+―平時子
| |(兵部大輔)|(二位尼)
| | ‖ |
| | ‖ +―平時忠
| | ‖ (権大納言)
| | ‖
| | ‖――――――平滋子
| | ‖ (建春門院)
| +―女 ‖
| ‖
+―――――――――藤原光子 +―藤原実能 ‖―――――――高倉天皇
‖ |(左大臣) ‖
‖ | ‖
藤原実季 ‖――――――+―藤原璋子 +―後白河天皇
(大納言) ‖ (待賢門院)|
‖ ‖ ‖ | 藤原聖子
‖ ‖ ‖ |(皇嘉門院)
‖ ‖ ‖ | ‖=======近衛天皇
‖ ‖ ‖ | ‖
‖――――――藤原公実 ‖――――+―崇徳天皇
‖ (権大納言) ‖ ‖
‖ ‖ ‖―――――――重仁親王
‖ ‖ ‖
+―藤原睦子 鳥羽天皇 崇徳院兵衛佐
| ‖
| ‖――――――近衛天皇
+―娘 ‖
‖ ‖
‖――――+―藤原長実―――+―藤原得子===重仁親王
‖ |(太宰帥) |(美福門院)
‖ | |
藤原顕季 | +―藤原顕盛―――藤原信盛
(修理大夫)| (修理大夫) (隠岐守)
| ‖
+―女 ‖――――――藤原俊盛
| ‖――――――――女 (太皇太后宮権大夫)
| 藤原敦兼
|(刑部卿)
|
+―藤原家保
(参議)
‖――――――+―藤原顕保
‖ |(播磨守)
‖ |
藤原隆宗―+―藤原隆子 +―藤原家成
(近江守) |(崇徳天皇乳母) (大納言)
|
+―藤原宗兼―――――藤原宗子
(修理権大夫) (大弐乳母)
‖――――――平頼盛
‖ (常陸介)
平忠盛
(刑部卿)
天養元(1144)年4月16日、賀茂祭に鳥羽院の行幸があり、その道中、忠盛が騎馬で院の「車後」に供奉した(『台記』)。忠盛は院の御厩司であったため、車後にて院を護衛する立場にあったが、「人不為可」と批判の声があった。忠盛の院御厩司については白河院当時から継続しているものであるが、いまだ忠盛に対して成り上がり者という目で見る公家衆がいたことを物語っている。
■尾張守忠盛
天養元(1144)年5月9日、鳥羽院の離宮・白河北殿が焼失(『本朝世紀』)。ただちに再建が議されたようで、造営の命を受けた忠盛はただちに任国である尾張国の庄々に諸役を課し、10月中旬頃に再建なったと思われる。なお、忠盛が「尾張守」に任じられた時期は不明だが、正月24日の鳥羽院庁下文には忠盛は「美作守平朝臣」とあることから(『平安遺文』)、正月から5月までの間に尾張守に替わったことがわかる。
10月26日、鳥羽院と皇后藤原泰子、左大臣源有仁、内大臣藤原頼長以下の諸卿が新造の白河北殿へ入り、遷宮の儀を行っている。忠盛はこの功によって「正四位上」に叙せられた。なお、内大臣藤原頼長は、この白河北殿の造営を院個人の「私」のものと断じ、「以尾張功為各行其賞、政非無私乎、今夜遷宮用一夜之儀、依存略也」と痛烈に批判している(『台記』)。
忠盛は尾張守のとき任国に下向しているが、忠盛の尾張守在任は天養元(1144)年前半から久安元(1145)年5月頃までの約1年余りであり、この白川北殿の諸役賦課につき、尾張に下ったものと思われる。そのときに詠まれた歌が遺されている。
ただ、同じ歌でまったく別の詞書を持つものが『谷山氏蔵忠盛集』にあり、こちらの詞書と歌は、
さらに同書には『刑部卿忠盛朝臣集』と同様の詞書を持つ歌も収録されている。
なぜ同じ歌が違う詞書をもって収録されているのかは謎であるが、院近臣たる忠盛自身が関東へ下向することは考えにくいことから、二番目の歌は後日に詞書が改変されたものと推測される。一番目の歌は、詞書に尊敬語が記されており、忠盛自身の詞書ではないだろう。三番目の歌は謙譲語「侍る」が用いられており、本来の詞書に近いものと思われる。この歌に見える「為義」はおそらく検非違使源為義と同一人物と思われるが、「のかみ」はおそらく美濃国不破郡野上であろう。為義は源氏所縁の宿場・青墓宿にいたところを、尾張へ下向する旧知の忠盛と出くわしたということと推測できる。なお、二番目の「上野」とは「野上」の誤伝と思われ、ここから子孫、もしくは後世の編纂者が「上野国」→「あづま」と連想し、さらに為義から忠盛に馬を献じられた様に詞書が改変されたものだろう。
また、尾張国の豪族・原大夫高春は、忠盛の六男・平忠度の「外舅」とされており(『吾妻鏡』『良峯系図』)、忠度の母は高春の姉(妹)ということになる。忠度の生年は忠盛が尾張守を務めた康治3(1144)年であることから、忠盛は尾張守時代に豪族・原高成の娘と接点を持ったのだろう。忠度はその後、どういった理由か紀伊国熊野へ移り、そこで育ったとされる(『平家物語』『源平盛衰記』)。
平常澄――+―平広常―――――――――+―平能常
(上総権介)|(上総権介) |(小権介)
| |
| +―女
| ‖
| ‖
| 平時信―――+―平時忠―――平時家
|(兵部権大輔)|(権大納言)(右近衛権少将)
| |
| +―――――――平時子
| (二位尼)
| ‖
| ‖
| 平忠盛―――平清盛
| (刑部卿) (太政大臣)
| ‖
| ‖―――+―平忠度
| ‖ |(薩摩守)
| 原高成 ‖ |
|(上総介) ‖ |【鶴岡八幡宮寺宝蔵坊主】
| ‖―――――+―女 +―義慶
| ‖ | (武蔵阿闍梨)
| ‖ |
+―女 +―原高春
(大夫)
■播磨守忠盛
久安元(1145)年4月4日、重仁親王家司であると思われる播磨守藤原顕保が卒去した。口の中が爛れて食事が摂れないままの衰弱死だった。人々は、彼が人の悪口を言うことが好きだったためと噂している(『台記』)。この年の10月24日には忠盛が「播磨守」であることから(『少外記清原重憲記』)、顕保亡くなってまもなく、忠盛はついに受領の最高峰である「播磨守」に就任したことがわかる。播磨国は「四位上臈」の就任する国という慣例があり(『官職秘抄』)、次は公卿へ昇ることがほぼ確実となる官途であった。かつては受領郎等として下働きをしてようやく受領に就任できる侍品に過ぎなかった貞盛流平氏の一庶流が、正盛・忠盛の二代、約半世紀を経て昇殿を聴され、公卿に手が届くほどにまで家格を上昇させたことになる。王家や貴族らと交わって教養を身につけ、南都北嶺との防衛戦や盗賊・海賊を討伐し、寺社の造営などの功績を重ね、命と時間と金をかけ、まさに粉骨砕身の努力を以っての結果であった。
播磨守に就任したのち、忠盛は任国播磨国へと一時的に下向する。国府は現在の姫路市惣社本町にあり、明石浦まできたとき、月影を眺めて一首詠んでいる。
下搶o身の自分が、名門貴族の登竜門たる播磨守に任じられて、我が物として明石の月を眺めるとは思いもしなかったという感慨が歌われている。播磨守就任間もない時期であると推測されるので、久安2(1146)年早々の頃と思われる。
■祇園社乱闘事件
久安3(1147)年正月5日の叙位では、二男・左兵衛権佐平家盛が正五位下に叙された(『本朝世紀』)。ところが、この家盛の叙任という忠盛の喜びに水を差すような事件が起こった。
6月15日、四条祇園社にて祇園臨時祭が行われたが、忠盛の長男・中務大輔平清盛が年来の「宿願」を果たすべく田楽の楽人を調えて祇園社に入った。ただ、清盛はこのとき武装した郎等を田楽の護衛に付けており、これを制止した社家下部との間で闘諍が起こり、清盛の郎等が放った矢が権上座隆慶に中り、下僧珍徳、永幸らが刃傷を受けるなど互いに負傷者が出るほどの騒ぎとなってしまった(『本朝世紀』)。この争いは「忠盛朝臣郎等」と「祇園所司」の間の諍いで、矢が中ったのは「神殿」だったともされているが(『台記』)、後日に確定した情報をもとに藤原信西の手によって書かれた『本朝世紀』のほうが即日伝聞を記した『台記』よりも真実に近いと思われる。
翌6月16日、この事件を重く見た父・忠盛は、鳥羽院より召し出しの命が下るより前に「下手人七人」を院庁に召し進めた。院庁はこの下手人を検非違使へ引き渡している(『本朝世紀』)。これについて内大臣頼長も「忠盛朝臣郎等数人」が院から検非違使へ引き渡されたことを伝聞している(『台記』)。
6月26日、比叡山から帰った鳥羽院のもとに「延暦寺所司等」が参院し、祇園社の乱闘について訴え出た。28日には、比叡山衆徒と日枝社・祇園社の神人が神輿を奉じて「忠盛朝臣清盛朝臣父子共以可被處流刑」を奏上すべく入洛しようとした(『本朝世紀』)。これに対し、鳥羽院は検非違使の左衛門少尉源光保、源親康、源季頼、源為義、平家弘らを「切堤辺」に派遣してこれを防がせ、さらに散位平正弘、河内守源季範らに軍勢を率いさせて派遣している(『本朝世紀』)。そのため、衆徒らは入洛できず、ただ咆哮をあげるのみであったが、その声は洛中に響き、人々は怖れたという(『本朝世紀』)。その後、民部卿藤原顕頼が院宣を奉じ、院庁官一人を衆徒のもとに派遣して「任道理可有裁許、早可罷帰」と諭し、衆徒らも帰山していった(『本朝世紀』)。院は「三日之内許所請者」という詔を出し(『台記』)、これに衆徒らが納得した結果だった。
30日、鳥羽院は白河北殿に摂政忠通、内大臣頼長、左大将源雅定、権大納言伊通、皇太后宮権大夫宗能、民部卿顕頼、左衛門督公教、権中納言公能、参議忠雅らを召して、祇園社乱闘の事につき議定を行った。蔵人頭左中弁資信が祇園社解一通と延暦寺解一通を摂政忠通に献じ、忠通が披見後、諸卿に回し読まれたが、事件の顛末を知らない諸卿はこの解が真実かどうかも「不詳」なことから、「清盛朝臣親臨由、件事、慥可被決真偽、但雖清盛朝臣不親臨、不親ェ、争無刑乎」としている(『台記』)。しかし、この事件は清盛が起こしたもので、父・忠盛は関知しなかったということについて、内大臣頼長は『春秋左氏伝』の趙盾の故事を引き、「今忠盛朝臣雖不知事発之根元、猶在山城国境者、依不知事之根元、一向可無罪之由難定申」と主張した(『本朝世紀』)。さらに、崇徳院より忠盛の罪について「非重科者、無事之様定申、大切事也」との詔が下されるも、「於私事、誰何事不可背仰、如此公家大事、難枉理候也、更非恐神慮、唯欲守正法、心不愛身命、志偏在社稷者也」と、あくまでも法を貫くべきことを主張している(『台記』)。
結局、忠盛・清盛に対する罪名の結論は出せず、夜に入り、摂政忠通の指示を受けた内大臣頼長は、左中弁資信に祇園社にて濫行実否の実検を行うよう命じた。これを受けた資信は右史生中原国長を召して、今夜のうちに実検すべきことを指示し、「遣吏二人」を祇園社に派遣して実検させた(『台記』『本朝世紀』)。この「遣吏二人」とは右大史菅野季遠、左大史小槻永業の両名で、猛烈な風雨の中、祇園社の神人とともに社内に遺された乱闘の跡を実検して回っている(『本朝世紀』)。結果、社殿・宝殿・廊の柱など所々に矢が射立てられ、流血の跡も残っていた様子を報告した。
7月4日、遣吏の両史から右大弁資信へ提出された祇園社からの「濫訴文」を資信が持参して頼長に提出。この文に認められた忠盛への求刑が重すぎたことから、書き改めるよう申請がなされた。翌5日には、検非違使庁で「下手人」に対して拷問が行われ、清盛郎等は鳥居の付近で田楽衆を守って控えていたところ、神人との間で闘乱が発生したため、矢を射かけたことを申し述べた。8日には祇園社の解状や弁官の問注記、検非違使庁の問注等に基づき、法家の博士に清盛の罪名勘申させるべき宣旨が下された(『台記』)。
しかし、6月28日に鳥羽院が「三日之内」に返答するとしていた三日はとうに過ぎ、「裁断遅引」のため比叡山衆徒が東塔の講堂に集まり、強訴に及ぶ気配を見せていた(『台記』『平安遺文』)。このため、院は7月12日、院別当民部卿藤原顕頼を奉者として比叡山に派遣し、天台座主行玄に「縦経日数任 勅諚、暫可相待成敗也、何況感神院者、非只天台之末社、亦為国家之鎮守、雖非衆徒之訴訟、争無 公家之勅許乎、…早仰仏法皇法、宜停凶類凶徒、以此旨召仰僧綱、学頭等、可致禁制」という院宣を下し、厳しく強訴の停止を命じている(『平安遺文』)。
さらに院は7月15日には比叡山衆徒の入洛を阻止するため、「兵士(検非違使)」を西坂下へ派遣した上、「召諸国兵士等」して、如意山路と今道に遣わすこととし、18日、鳥羽院は白河離宮で「御覧武士等」した。この「武士等」とは「凡源氏平氏輩」で、具体的には「河内守源季範、左衛門尉源光保、源近康、源季頼、源為義、隠岐守平繁賢、前右馬助平貞賢」ら廷尉の検非違使であり、離宮の北門を出て西坂下へと進軍した(『台記』)。院は三日に一度自ら閲兵するという強硬姿勢を見せては、比叡山を牽制し続けた。
話は逸れるがこの日、参議藤原公能に「一日生子孫」という稀有な祝事が起こった。この日生まれた男子はのちの権中納言藤原実守(徳大寺実盛)、この日生まれた孫(公能の娘と丹波守藤原重通との男子)は、のちの権中納言藤原能保(一条能保)で源頼朝の同母妹を妻として頼朝の絶大な信任を得た人物である。
藤原俊忠――女 ・久安3(1147)年7月15日生
(中納言) ‖―――――藤原実守
‖ (権中納言)
‖
藤原実能――藤原公能――女 ・久安3(1147)年7月15日生
(左大臣) (参議) ‖――――――藤原能保
‖ (権中納言)
藤原重通 ‖
(丹波守) ‖―――――+―藤原高能
‖ |(参議)
‖ |
‖ +―女
‖ ‖――――――藤原道家
源義朝 ‖ 藤原良経 (摂政)
(左馬頭) ‖ (摂政)
‖――――+―女
‖ |
‖ |
藤原季範――女 +―源頼朝
(熱田大宮司) (右近衛大将)
7月24日、摂政忠通以下、内大臣頼長らの公卿が院に参集し、「清盛朝臣及下手人罪名」について議定が開かれ、鳥羽院より「清盛朝臣可贖銅者」との勅が下され、額は「卅斤」であった(『台記』『本朝世紀』)。
忠盛・清盛の配流を求める強訴に対し、天台座主に強訴の停止を厳命した上、検非違使はもとより国衙兵までも動員して強訴を封じ込めたことは、院の権威を高めたことに繋がった。また、当時の忠盛は四位別当の次席であるとともに、院御厩司という院の兵馬統括者でもあり、院としては忠盛の配流の要求は絶対に容れられないものでもあった。そしてこの日も佐渡守平盛兼、平盛時、源親弘、散位源義国(次男源義康が代官として出仕)、主殿助源時光らの武士を閲兵している(『台記』『本朝世紀』)。こうした現実的な態度とは別に神威を畏れ憚る心から、7月27日、鳥羽院は「被謝去六月十五日乱闘事」の宣命を作成し、「祇園一社」へ奉幣使を立てた。
8月1日、権中納言季成が太政官庁に着し、少納言成隆、少外記三善成重、外記史生紀親任らが出仕して、清盛の贖銅についての太政官符に官印が捺され、事件は決着した(『本朝世紀』)。
しかし、延暦寺衆徒の一部が清盛に対する判決が配流ではなく贖銅と軽かったことに不満を爆発させ、今度は院の要求に弱腰だった天台座主以下の高僧に矛先を向ける。8月11日、叡山所司に率いられた「叡山衆徒為切払座主房、発向無動寺」した(『本朝世紀』)。この叡山衆徒蜂起の報は翌12日、内大臣頼長にも、天台座主玄行の放逐と座主の住居である「無動寺房大乗房」が破壊された様子が伝えられている(『台記』)。なお、座主玄行は頼長の大叔父にあたる人物である。座主住房を破壊した張本人は、叡山高僧の法印相命(権大納言宗俊子)・法印最雲(堀河天皇皇子)の弟子である周防公重雲と判明。10月7日、叡山所司に周防公重雲の逮捕を命じる院宣が下され、検非違使が派遣された。しかし、このことに衆徒が反発して10月17日、今度は叡山所司を襲撃。周防公重雲は逃走してしまった(『本朝世紀』)。このことに内大臣頼長は「王威已如無、哀哉」と嘆いている(『台記』)。
祗園乱闘事件は延暦寺内での抗争へと発展したが、忠盛らへの影響はなかったようで、10月14日には「蔵人平頼盛」が従五位下に叙せられている。さらに11月14日の小除目では、二男・家盛が「常陸介」となり、嫡男・中務大輔清盛の義兄弟にあたる平時忠が「左兵衛権少尉」、同族の平信兼も「右兵衛権少尉」に任じられている。
■院年預別当を務める
久安4(1148)年正月17日、射礼が行われ、その射手の一人として忠盛の二男「左兵衛佐平家盛」が参仕している。祗園乱闘事件以降、事件張本の清盛の活躍があまり見られなくなる一方、二男・家盛の叙位任官、活躍が見られるようになる。清盛の罪自体は院の庇護もあって軽微なものとなるが、検非違使や北面、国衙兵までをも動員することになった事件の大きさに、やはり清盛は謹慎せざるを得ない状況になったのだろう。代わって、当腹嫡子の家盛の存在感が相対的に増したものと思われる。
正月28日の除目では、忠盛四男・平教盛が左近衛府奏で左近将監に任官。養子の平忠遠が左衛門少尉に、そして家盛は左兵衛佐から右馬頭へ移り、朝廷の軍馬を統括する右馬寮の責任者となる。そして同日、家盛は従四位下へと進んだ(『本朝世紀』)。異母兄の清盛が従四位上であり、清盛と家盛の位階の差はわずか一階となった。
2月1日、院別当の同僚で親類関係にもあった皇后宮亮藤原忠隆が従三位に叙され、公卿となった。これは大治3(1128)年2月の円勝寺供養行幸賞で行使されなかった院御給(院未給)である(『台記』『公卿補任』『本朝世紀』)。そのため、院司次席で正四位上の忠盛が鳥羽院の四位別当筆頭となり、院庁の執行責任者の一人である年預別当を務めたと思われる。
2月20日、鳥羽院は祇園社「感神院宝前」で法華経を修める「八講」を五日間執り行うこととし、これを毎年行うとした。これは「被謝去年六月十五日闘乱事故歟」と、清盛の起こした乱闘事件の尻拭いでもあった。3月15日にも一切経会を修めた(『本朝世紀』)。
2月23日、鳥羽院は熊野詣に出御し、「播磨守平忠盛朝臣」や五男「散位平頼盛」等が供奉している(『本朝世紀』)。謹慎中の清盛は別にして、三男経盛、四男教盛を差し置いて、五男・頼盛が供奉人に選ばれていることは、やはり正室藤原宗子の子であることが多分に影響していると思われる。さらに4月27日、四男「蔵人左近将監平教盛」が叙爵し従五位下となった(『本朝世紀』)。
9月10日、恒例の四天王寺の念仏所で行われた百万遍念仏精進会のため、鳥羽院が白河北殿を出御。鴨川から舟に乗って河内へと船出した。今回は内殿上人ではない院近臣が鳥羽院に供奉しており、内大臣頼長、信西入道ほか、内殿上侍臣の「忠盛、資賢、家明等朝臣」らは別行動で四天王寺へ向かった。この精進会では鳥羽院も念仏者の一人として念仏の輪番に加わっており、9月20日、内大臣頼長は鳥羽院より「朕、為中旬番衆、明日非番」と告げられたため、供奉していた内府頼長は宿所に帰っていた。しかし翌21日、院は非番にもかかわらず念仏所に向かった。これに驚いた院司の忠盛は、ただちに頼長の宿所に人を遣わして、院が念仏所に入ったことを頼長に伝達。これを受けた頼長は慌てて院のもとに参上した。このとき院は「公来何遅」と頼長を詰るが、頼長も「昨日蒙詔曰、珍為中旬番衆、明日非番、因之不可逢時、臣信此詔無念参上、今依忠盛朝臣之告所参也」と反論。ここで鳥羽院は頼長に伝えたことを思い出したのだろう。「聖人奏、雖非番衆無妨逢時之由、是以俄向」と弁解している。そしてこの日の夜、院は侘びのつもりか右衛門尉藤原為成を頼長に遣わして「菓卅合」を下賜した。
■二男家盛の死
久安5(1149)年2月13日、鳥羽院は今夕熊野詣のため、鳥羽離宮へ行幸。供奉の人々は、四位別当筆頭の忠盛、右近衛中将源師仲、左近衛少将藤原家明、常陸介平家盛、散位平頼盛、散位平教盛、沙弥信西らだった。熊野詣を終えた鳥羽院は、翌3月15日に鳥羽離宮へ還御した。そして、この日、忠盛にとっても痛恨の出来事が起こる。ともに鳥羽院に供奉した二男・常陸介平家盛の死であった。家盛は供奉以前に病に臥せっていたが、無理をして熊野へ供奉したことで病状が悪化。3月13日に危篤に陥り、15日、宇治川落合の辺りで死去した。享年は記されないが、十三世紀成立の『平治物語』によれば「廿三のとしうせさぶらひし也」とある。知らせを受けて京都から駆けつけた乳母夫・右衛門尉平惟綱が悲しみのあまりその場で剃髪してしまった。惟綱は先年の海賊討伐で忠盛の代理として出兵して鎮定した忠盛家の重鎮であり、その惟綱を乳母とした家盛の忠盛家内での地位の高さがわかる。
家盛が亡くなったころ、忠盛は懇意にしている「小大進」という女性に一首遣わしている。
これにつき、小大進は、
との返歌を遣わしている。
3月20日、御願寺の白河延勝寺供養が行われた。金堂の造営は播磨国の担当であり、播磨守であった忠盛が造国司として造営寄進した。しかし、御願供養には「息子喪不出仕者」だった。わずか五日前に家盛が死去し、その喪に服していた様子がうかがえる。そして、4月3日、忠盛は播磨守の重任が認められた。白河円勝寺金堂の受領功だろう。
■美福門院別当就任
久安5(1149)年5月12日、高野山大塔が落雷によって炎上、焼失した。他に近隣の金堂や灌頂院も類焼するほどの火災となったが、灌頂堂の隣にある御影堂は無事だったという(『高野春秋編年輯録』)。高野山は大塔再建のため、おそらく東寺を経て朝廷に嘆願され、播磨国が造営担当国となった。6月25日、「播磨守大塔可造進之由、被仰下了、只今院宣如此」となり(『平安遺文』『本朝世紀』)、7月9日に「高野大塔事始」が行われた。造営担当国司の「造国司正四位上行播磨守平朝臣忠盛」が奉行を務めており「国司重任監護之」とある(『平安遺文』『本朝世紀』)。また、「杣造始」の大工五人のうち一人は「伊賀長田庄」の人物であり、忠盛の私領から抜擢された人物と思われる(『平安遺文』)。伊賀国長田庄は「池大納言領」の一つとして寿永の乱後に没官されており(『吾妻鏡』)、忠盛から頼盛へ相伝された私領だったことがわかる。
8月2日の小除目で鳥羽院皇后藤原得子の皇后宮職が改められ、皇后宮亮藤原忠隆が皇后宮権大夫に進んだことから、忠盛が皇后宮亮に就任となった(『本朝世紀』)。しかし、翌3日には皇后得子は「美福門院」の院号を賜り、女院となった。このため前日に定められた皇后宮職は停止となる。そして、皇后宮職の「大夫、権大夫」「進」「属」はそれぞれ女院庁の「別当」「判官代」「主典代」に改められることとなるが、この事務手続きについては、鳥羽院より右大臣藤原実行へ皇后宮亮忠盛を以て執り行うよう命が下った。
●久安五年八月三日美福門院司事(『本朝世紀』)
氏名 | 官位 | 官職 | ||
別当 | 藤原成通 | 正二位 | 権大納言 | 大宮大納言。 |
藤原公教 | 正二位 | 中納言、左衛門督 | 左金吾。 | |
平忠盛 | 正四位上 | 播磨守 | ||
藤原伊実 | 正四位下 | 右近衛中将 | ||
判官代 | 藤原顕遠 | 従五位上 | 勘解由次官 | |
藤原惟方 | 従五位上 | 遠江守 | ||
藤原清章 | 従五位上 | 散位 | ||
主典代 | 中原景兼 |
これら移行の事務手続きは、院殿上始に向けての家司人選と並行して行われたと思われる。こうした中の8月28日、忠盛は小除目において「内蔵頭」に就任した(『本朝世紀』)。女院庁を開庁するにあたっての一連の行事を行うための実務的な任官だろう。また、長男の清盛が内蔵寮を管轄する中務省の次官(中務大輔)であることからも、その連携が期待されたのかもしれない。
10月2日、ようやく美福門院殿上始が行われた。この日、別当以下の追加人事が発令され、忠盛は四位別当上臈(年預別当)として、四位別当以下の家司五十五名の筆頭に名を連ねている(『兵範記』)。その中に正四位下の「中務大輔清盛」、従五位下の「常陸守頼盛」「散位教盛」の名も見える。さらに同日、左兵衛督藤原重通以下十一名の院司が追加補任された。
10月10日夕方、美福門院の「初有入内行幸」った。美福門院得子は唐御車に乗り、内大臣源雅定を筆頭に公卿別当衆と、内蔵頭忠盛以下の家司五十人が前駈して白川離宮を出立。鳥羽院が見物する中、行列は四条東洞院西の「四条皇居」へ入御した。そしてこの日、左近将監源宗清・藤原隆信の二名が蔵人、藤原為宗が非蔵人として新たに女院蔵人として補任されている(『兵範記』)。
10月19日、宇治の小松殿において左大臣頼長の若君・師長(十二歳)の元服式が行われた。師長の母は陸奥守源信雅の娘で忠盛側室の姉妹(師長と忠盛三男・平経盛は従兄弟)である。師長は16日に御名字が定められ、「師長、実家、家教」のうちから師長に決定されている。元服式には忠盛は参列していないが、忠盛の弟「(前)馬助忠正」が勤侍している。忠正は崇徳院に仕え、さらに摂関家嫡流(忠実・頼長)に近侍し、鳥羽院司の忠盛とは独立した立場を取っている。
11月30日、美福門院得子が熊野詣から帰着し、鳥羽殿の近くの船津へ着船した。「年預内蔵頭忠盛朝臣」が女院を乗せる御車を具して船津へ迎えに出向している。夜に入って女院は鳥羽院が遷っていた鳥羽北殿へ入御し、左大臣頼長、内大臣実能、左衛門督家成以下の「殿上人済々」が参向した(『台記』『本朝世紀』)。忠盛も女院帰着の祝いを述べたものと思われる。頼長は毎日のように京都六條邸から鳥羽殿へ出向し、夜に帰宅しているが、この日も「入夜帰宅」とあるので、挨拶を終えると早々に六條邸に帰宅したのだろう。忠盛は鳥羽院及び女院の別当であるので、このまま鳥羽院や女院のもと鳥羽殿で過ごしたと思われる。
久安6(1150)年の忠盛の活動は諸日記等からは確認できない。ただ、この年と思われる歌で3月に播磨から京都に上る途中に摂津国「やまぢ」という所で「参議為通朝臣」が塩湯あみしていることを聞いて遣わしたものが伝わっている。
忠盛が播磨守となってから3月に忠盛の活動が見られないのが久安3(1147)年と久安6(1150)年の二年のみであることから、このどちらかの年と思われるが、藤原為通が参議を務めていた時期が久安6(1150)年正月29日から仁平4(1154)年6月13日までということから、この歌は久安6年のものと推測される。為通の父・権大納言藤原伊通は忠盛とともに鳥羽院司を務め、さらに為通自身も忠盛と同様、鳥羽院と美福門院の四位別当を務めており、親しい関係にあったものと思われる。この歌からも親しげな雰囲気が伝わる。「やまぢ」の場所については不明ながら、「なかゐ」という掛詞(地名の長居と、長居という名詞)から、摂津国長居(大阪市東住吉区長居)周辺の塩分の強い温泉で湯治をしていたと思われる。
源俊房――――源方子
(左大臣) ‖
‖――――――藤原得子===守仁親王
‖ (美福門院)
藤原経平――娘 ‖ ‖
‖ ‖ ‖――――――近衛天皇
‖――――+―藤原長実 ‖
‖ |(太宰帥) ‖
藤原顕季 | 鳥羽天皇 +―崇徳天皇
(修理大夫)| ‖ |
| ‖ |
| ‖――――+―雅仁親王―――守仁親王
| 藤原璋子 (後白河天皇)(二条天皇)
| (待賢門院)
|
+―女 【鳥羽院司】
‖――――――藤原伊通
‖ (太政大臣)
藤原道長――藤原頼宗―――藤原宗通 ‖ 【鳥羽院司・美福門院司】
(関白) (右大臣) (権大納言) ‖――――――藤原為通
‖ (参議)
藤原定実―――女
(左京大夫)
12月13日、鳥羽院の孫王(院の第四皇子・三品雅仁親王の若宮。のち守仁親王、二条天皇)の着袴の儀が白川北殿で執り行われ、忠盛嫡男・清盛が太政大臣藤原実行の手長を務めている(『本朝世紀』)。この日、「件孫王、美福門院之御養子」となった。
仁平元(1151)年2月2日、忠盛は播磨守を辞した代わりに四男・蔵人平教盛が数十人の上位者を抜き、二十五歳の若さで淡路守となっている。教盛は鳥羽院判官代であり、鳥羽院の引き立てもあったのだろう。そして2月21日、鳥羽院は蔵人勘解由次官顕遠を左大臣頼長のもとに遣わし、除目案についての手書を渡している。手書では頼長の長男・侍従師長の参議任官、三男・隆長の侍従任官とならんで「忠盛兼」の刑部卿任官を諮問しているが、忠盛については「刑部卿当任否宜計奏」すべきことを命じている。これに対して頼長は「其種可謂凡劣、然而位叙正四位上、官帯内蔵頭殿上侍臣、経播磨守、所帯所経、坐以貴種、拝任之處、誰謂非據乎」と奏聞している。鳥羽院は、師長・隆長を同時に兼任官させる人事を頼長に提示し、院の最重要人物である忠盛の公卿昇進を前提にした人事を認めさせようと図ったのだろう。この日除目が行われ、忠盛は内蔵頭を兼ねて刑部省の長官・刑部卿に就任した(『台記別記』)。
3月19日、高野山大塔造営の上棟のため「造国司忠盛」が高野山に登り、大衆ともに「善の綱」を引いた。
仁平2(1152)年2月13日、鳥羽院の「五十御賀」についての行幸定があり、大納言伊通、権大納言公教、権中納言経定、参議左大弁資信、左近衛中将師長といった主に実務を担当する公卿衆が参じ、院の「別当刑部卿忠盛朝臣」が奏者となった(『兵範記』)。2月28日、鳥羽南殿での御賀装束始では御簾を例によって内蔵寮で調進し、内蔵寮の「頭忠盛朝臣」が鳥羽南殿に随身参上している。
3月8日、御賀の後宴が鳥羽離宮で行われ、関白忠通、太政大臣実行、左大臣頼長、右大臣雅定、内大臣実能以下の公卿が西廊饗座に列した。鳥羽院、崇徳院、天皇(近衛天皇)も出御され、厳かにも盛大に執り行われた。ここに「院司刑部卿忠盛朝臣」以下の院司が右大弁朝隆に率いられ、離宮西中門から南庭に出仕している。その中には「中務大輔清盛朝臣」も別当として名が見える。そして院別当・判官代への糧が下され、「四位十四人」には「白褂一凌」が下賜されている。また、離宮に浮かぶ舟を造進したのも「刑部卿忠盛」で、翌9日に舟遊びが行われている。
■忠盛の死
仁平2(1152)年3月の離宮での宴ののち、忠盛は院の行事も含めて出仕の記述が消え、代わって「別当中務大輔清盛」が姿を見せるようになる。体調の悪化があったのかもしれない。3月23日の石清水臨時祭では「中務大輔清盛朝臣」が使者を務めている(『本朝世紀』)。6月23日の伊勢神宮に関する議定で「伊勢太神宮、並豊受宮禰宜等各賜一階位記請内印」を少納言教宗、近衛将監等とともに「中務大輔平清盛朝臣」が執り行うなど、中務大輔として精力的に活動している。
仁平3(1153)年正月5日、五男・常陸介平頼盛が美福門院御給にて正五位下に叙され、四男・平教盛が崇徳院御給にて従五位上へ叙された(『公卿補任』)。ただし、教盛の叙位は正月7日か(『本朝世紀』)。闘病生活を続けてきた忠盛も病が篤くなっていることが院や女院らに伝えられ、子息らの叙位に繋がったのかもしれない。
正月14日(頼長は13日としている)に「刑部卿忠盛朝臣辞状」が提出され、翌15日暁に出家。同日未刻(午後二時ごろ)、ついに「正四位上行刑部卿平朝臣忠盛」は五十八歳で逝去した。「其妻忽出家」したとあり、妻の藤原宗子も出家を遂げている(『本朝世紀』)。厳格な左大臣頼長もその忠盛卒去の報を受け、「経数国吏、富累巨万、奴僕満国、武威軼人、然為人恭倹、未嘗有奢侈之行、時人惜之」と賛辞を以って日記に書き付け、その死を惜しんだ(『宇槐記抄』)。
忠盛の死によって、任官していた中務大輔清盛、常陸介頼盛、淡路守教盛の三名は喪に服して解官となり、約二か月の服喪ののち、3月13日、複任除目によってそれぞれ複官した(『本朝世紀』)。また、久安5(1149)年7月9日に始まった高野山大塔造営事業は、忠盛の死後は「曹子清盛」が引き継いで奉行を務めるよう宣命を以て命じられている(『高野春秋編年輯録』)。
仙院之辺女
‖――――――――――平清盛
‖ (太政大臣)
‖ 源信雅女
‖ ‖――――――平経盛
‖ ‖ (修理大夫)
平 忠 盛
(刑 部 卿)
‖ ‖ ‖――――――平教盛
‖ ‖ ‖ (権中納言)
‖ ‖ 藤原家隆女
‖ ‖
‖ ‖――――――+―平家盛
‖ ‖ |(常陸介)
‖ ‖ |
‖ 藤原宗子 +―平頼盛
‖(池禅尼) (権大納言)
‖
‖――――――――――平忠度
原高成女 (薩摩守)
●参考文献
『清盛以前』 高橋昌明著(図書出版文理閣 2004)
『大日本史料』
『台記』 藤原頼長著(臨川書店 1982 史料大成)
『中右記』 藤原宗忠著(臨川書店 1975 増補史料大成)
『長秋記』 源師時著(臨川書店 1965 増補史料大成)
『殿暦』 藤原忠実著(東京大学史料編纂所編 岩波書店 1965 大日本古記録)
『台記』 藤原頼長著(臨川書店 1965 増補史料大成)
『台記別記』 藤原頼長著(臨川書店 1965 増補史料大成)
『宇槐記抄』 藤原頼長著(臨川書店 1965 増補史料大成)
『兵範記』 平信範著(臨川書店 1965 増補史料大成)
『高野春秋編年輯録』(佛書刊行会 1912 大日本佛教全書)
『刑部卿平忠盛朝臣集』(続群書類従完成会)
『左京大夫顕輔卿集』(続群書類従完成会)
『尊卑分脉』
『公卿補任』
『本朝世紀』
『平家物語』
『保元物語』
『興福寺別当次第』
『平安遺文』
『吾妻鏡』
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