旅行二日目。今日は佐賀から小城、唐津へ移動しなければならないため、佐賀市内の史跡を巡るのは11時9分発の唐津行きまでの2時間だけ。そのため、早朝から歩ける範囲の市内の著名地を回るため、朝食をすませたあと、史跡めぐりに出発しました。
取り急ぎ向かったのは、日蓮宗寺院・本行寺。お城の北側の道路を西へしばらく歩いたところにある大きな寺です。参道には石灯籠が林立し、本堂まで続いています。
参道脇には、明治維新の志士で司法卿・江藤新平の墓があります。明治新政府の高官の地位にありましたが、旧薩長が牛耳る政府に反発して権力を捨て、佐賀に戻って反薩長の兵を挙げました(佐賀の乱)。
しかしこの反乱は大久保利通らが率いる政府軍によってすぐに鎮圧され、江藤は乱の首謀者として斬首されました。なお、この江藤新平が出た江藤家は、鎌倉時代に千葉氏に従って下総から肥前に下向した千葉一族で、江藤新平自身も諱に「胤」字を持ち、公式文書には「平胤雄」と署名しています。
本堂にお参りしたあと、本堂脇にあった開基・龍造寺胤家一族の墓を参拝しました。「胤」字は小城千葉氏からの偏諱です。
さらに、治水家、建築家としても名高い名将・成富兵庫茂安の墓と、境内の一番奥にずらりと据え置かれている巨大な五輪塔群にお参りです。
これらは、成富兵庫の養子になっていた鍋島山城守直弘(初代藩主・鍋島勝茂の子)を祖とする白石鍋島家の歴代が眠る一角です。墓石の周囲の石畳を見ると、もともとは覆屋があったのかもしれません。 本行寺をあとにして、次に向かったのは日蓮宗賀昌院。ここの寺紋は龍造寺家の十二日足紋なので、龍造寺家ゆかりなんでしょう。そして、そのそばにある臨済宗泰長院へ。
泰長院は天文5(1536)年に龍造寺大和守胤久が建立した大きなお寺です。しかし、龍造寺家の史跡が残っているわけではないため、参拝のみで次の曹洞宗龍泰寺へ。この寺は住宅街の中に開けた禅刹で、明治の元勲・大隈重信の菩提寺です。本堂前の一角に大隈家代々のお墓が松林の中に整然と建っていました。
龍泰寺を出て左折し、いったん堀端へ出て、お堀に沿ってしばらく歩き、赤松小学校の脇道を抜けると、円蔵院という寺があります。円蔵院も龍造寺家、鍋島家ともにゆかりの深いお寺です。このあたりは、水ヶ江龍造寺家の本拠地であり、水路が網の目のように入り組んでいます。
そのすぐそばにある光円寺、乾亨院、慶雲院、中の館児童遊園(龍造寺隆信生誕地)など龍造寺家にゆかりの地を見てまわり、昨日の夕方に来た本丸御殿の広場へもういちど行ってみました。そこで時計を見ると10時23分。11時9分の佐賀駅発の電車に乗る予定なので、御殿を見る時間はありません。
お城を出て、佐賀でも由緒の古い「与賀神社」へ立ち寄ってみました。
堀割を渡す石橋の向こうにそびえる楼門は、この地に城を構えた少弐政資が室町時代に建立したもので、国の重要文化財です。境内には巨大な楠もあります。いまの境内はそれほど広くないのですが、昔はもっと大きかったのでしょう。
拝殿は六代藩主・鍋島宗教、七代藩主・鍋島重茂によって建立されたもので、堀を渡す石橋はさらに古く、慶長11(1606)年に藩祖・鍋島直茂が寄進したものです。橋の手前に立つ足太の鳥居は、慶長8(1603)年に鍋島直茂の奥さん・藤女(彦鶴:石井氏陽泰院)が奉納したもの。彼女は龍造寺八幡宮にも鳥居を寄進しています。
そんなこんなしているうちに、時間はすでに10時45分。まだチェックアウトもしていないのに、電車の時間まで25分を切り、大慌てでホテルに戻って荷物をまとめチェックアウト。入口のタクシープールのタクシーに乗って駅まで急行しました。駅に着いたのが11時5分。発車まで残り4分でした。
11時9分、唐津行きの唐津線が到着し、15分で小城駅に到着しました。