11時24分、小城駅着。荷物がいっぱい、なのに…当てにしていたコインロッカーはありませんでした。この重いかばんを持って小城散策するのはちょっと無理。とはいえ、佐賀に戻る時間はない。やむなく、重たい荷物を肩にかけ、とりあえず近場の旧小城藩主邸へ向かいました。
小城藩は佐賀藩の三支藩「御三家」の一家で、鍋島紀伊守元茂の立藩。佐賀初代藩主・鍋島信濃守勝茂の嫡男でしたが、父・勝茂の後妻になった徳川家康の養女・菊姫との間に翁介(鍋島忠直)が誕生したことから、政治的配慮によって廃嫡され、祖父・直茂の隠居料である小城七万石を与えられました。そのためか、小城藩は佐賀本藩とは仲がしっくりしていなかったようです。ただし、小城藩は家格では御三家筆頭の地位を保ち、幕末まで元茂の血を引く男子が続きました。
小西氏
∥ 【小城藩】
∥―――――鍋島元茂――鍋島直能――鍋島元武―+―鍋島元延==鍋島直英 +―鍋島直知==鍋島直堯
∥ (紀伊守) (加賀守) (紀伊守) |(加賀守) (加賀守) |(紀伊守) (加賀守)
鍋島直茂――鍋島勝茂 | |
∥―――+―鍋島忠直【佐賀本藩】 +―鍋島直英――鍋島直員――鍋島直愈―+―鍋島直堯――鍋島直亮
∥ |(肥前守) (加賀守) (紀伊守) (加賀守) (加賀守) (加賀守)
∥ |
徳川家康==菊姫 +―鍋島直澄【蓮池藩】
(高源院) |(甲斐守)
|
+―鍋島直朝【鹿島藩】
(和泉守)
ここ小城は鎌倉時代以来、千葉氏が地頭職を務めた由緒のある土地で、元寇の際には千葉介頼胤が「異国警護番役」として九州に下り、建治元(1275)年8月、博多で元軍と戦って負傷し、小城で亡くなりました。その後、頼胤の嫡子・千葉太郎宗胤が九州行きを命じられ、その子孫が小城千葉氏として発展することになります。ちなみに、室町期以降、下総千葉氏として発展するのは宗胤の弟・胤宗の子孫です。
佐賀藩祖・鍋島直茂は、まだ彦法師丸と呼ばれていた幼少期、叔父の千葉介胤連の養子になっており、胤連から大変可愛がられました。幼少のころから聡明だったのでしょう。のちに直茂は鍋島家に戻りますが、このとき、胤連は自分の家人から選りすぐった十二人と隠居料を直茂にプレゼントしました。元茂に譲られた直茂の隠居料は、かつて直茂が胤連から譲られた土地が含まれていると思われます。
その小城藩主の領地公邸・庭園が今も「小城公園」としてむかしの風情を伝えています。桜の木がたくさんあるので、いい花見スポットになるのでしょう。池の菖蒲もつつましく咲いていて見事です。隣には「岡山神社」という神社があり、初代藩主・鍋島元茂(國武大神)、二代藩主・鍋島直能(矛治大神)をお祀りしていました。この神社の境内には、鍋島家の杏葉紋が彫り込まれた有田焼の青い灯籠が二基置かれています。さすがは陶器の佐賀県です。
小城公園をあとにし、いよいよ小城千葉氏の史跡めぐりに出発…といきたかったのですが、荷物がかさばるため、歩いてまわるのはしんどい。なので、タクシーを使うことにしました。駅にタクシープールがあったような気がしたので、いったん駅に戻ることにしました。
ところが、駅にはタクシーは一台もありません。が、駅前に「小城タクシー」の整備工場があったので、ちょっと寄ってみると電話が一台。ここから電話をかけて呼び出すようです。早速電話してみると、数分で到着するとのこと。そして待つこと5分ほど、一台のタクシーが駅前に到着しました。人の良さそうなドライバーさんです。
さて、さっそく行ってもらったのは、千葉氏ゆかりの「妙台山見明寺」。小城の西のはずれ、千葉氏の居城だった晴気城の山麓にあり、山号と寺名に「妙」「見」の文字が盛り込まれた千葉家由緒のお寺です。細い山路を若干登ったところに位置し、寺の裏山には妙見神社も鎮座しています。「九州の小京都」に選ばれている観光都市だけあって、タクシードライバーは観光ガイドも兼ねているのだそう。「見明寺まで」と言えば、さっと行ってくれました。以前、千葉で催された「千葉氏顕彰会」の行事に小城町(当時)の方が見えていましたが、大きな観光マップも作成する力の入れようです。
続いて向かったのが、小城鍋島家菩提寺の「祥光山星巌寺」。ここに向かう途中、千葉氏の居城・晴気城の写真を撮りたいということを伝えると、ドライバーさんは「ココが一番イイとこよ」と、ベストポジションを選んでくれたりして。おかげで城山全体を収めることができました。
小城千葉氏は、もともとこの地を拠点にしていましたが、次第に東の方へ進出し、三日月(小城市三日月町)にも館を構えました。
星巌寺はなんとも立派な山門が出迎えてくれますが、この山門は県重文のため柵に囲まれくぐることはできません。幕末の嘉永5(1852)年、藩公・鍋島加賀守直堯によって建立されたもの。
タクシーは門の脇道を登り、境内の空き地にとまりました。ドライバーの話では、ここにある「五百羅漢」と歴代藩公のお墓がここの見所なのだとのこと。さっそく行ってみると、石段には羅漢がずらり。たしかに見ごたえがあります。そして、羅漢の間を登ると、藩公廟所の門がありましたが、門が閉まっていたため入るのはあきらめてタクシーに戻ったところ、「その門のカギは開いてるから入っていいんだよ~」とのこと。門を開けて廟内を案内してくれました。さすがは観光ガイド!
さて、星巌寺をあとにして、次に向かったのは鎌倉時代から小城千葉氏ととてもゆかりの深い日蓮宗中山門流総本山「松尾山光勝寺」。山の上に建つこの巨刹は、文保元(1317)年、千葉大隅守胤貞が開基となって建立された寺で、開山は中山本妙寺(いまの千葉県市川市中山にある正中山法華経寺)三世・日祐上人。日祐は胤貞の猶子(形式的な養子)で、名僧として知られています。
小城千葉氏と光勝寺との関係は幕末に至るまで五百年以上にわたって続いており、境内には江戸時代の佐賀藩士・千葉家の墓が残されています。
文化5(1803)年8月15日に起こった「フェートン号事件」の際、長崎警護番役番頭の重職にあって、責任をとって自刃した「千葉三郎右衛門胤明」のお墓もあります。苔生した千葉家墓所には俗名も刻まれているものの、薄暗いこととやぶ蚊の集団がいたことで確認は断念。これも次回に持ち越しとなりました。
本堂裏山には、開基の千葉大隅守胤貞のお墓があります。千葉大隅守胤貞は鎌倉時代末から南北朝期にかけて生きた人物ですが、下総国の南東端にある千田庄を拠点とし、千葉惣領家の従弟・千葉介貞胤と争いました。実際に胤貞自身は足利尊氏に従って東国へ下向したのちは九州へ戻ることはなかったと思われることから、この墓は分骨墓の可能性が高いでしょう。
境内もじっくり見たかったのですが、タクシーの待機時間も運賃に勘定されてしまうので、急いで見学し、滞在時間はわずかに15分。急いで次の目的地へ向かいました。
タクシーのおじさんの話によると、ついこの間も同じような行程で案内した人がいたとのこと。小城千葉氏の史跡巡りとは、なんてマニアックな人なんでしょう。
次の目的地も小城千葉氏とは大変にゆかりの深い「三間山円通寺」というお寺です。ここは歴代千葉氏の菩提寺で、室町末期から江戸時代の佐賀藩士・千葉家の墓石が残っています。今回の佐賀、小城行きはここへの参拝が大きなウェイトを占めています。
円通寺は、いまでは住宅街の突き当りにある素朴なお寺ですが、かつては鎌倉の建長寺と同規模の大伽藍を持つ禅寺でした。これほどの巨大な寺院にしたのは、元寇に備える「異国警護番役」として九州にいた千葉太郎宗胤(光勝寺開基・千田太郎胤貞の父で、千葉介頼胤の長子)です。
弘安元(1278)年、宗胤が名僧・蘭溪道隆(建長寺開山)の弟子である若訥宏弁を招いて再興し、貞和6(1356)年には「三間名山円通興国禅寺」の勅許を賜り、毎年勅使の下向があったと伝わります。建長寺が「海東法窟」と称されたのに対して、円通寺は「海西法窟」と称され、建長寺(鎌倉)、南禅寺(京都)とならぶ「日本三大興国禅寺」のひとつに数えられました。
江戸時代にも多数の塔頭を持っていたものの、明治に入ると、津和野藩出身の福羽美静ら神祇局が中心になって行った暴挙・廃仏毀釈のために衰退。すっかり面影は喪われてしまいました。ただ、今でも「大門」という地名(小城共同福祉施設周辺)や、かつての参道脇に「千葉宗胤夫妻の墓」が伝存しており、当時の規模は想像することができます。
●かつての円通寺境内の想像図(建長寺とほぼ同等の大きさとして)
さて、タクシーを円通寺の駐車場に停めてもらい、円通寺に参拝しました。小さくなってしまったとはいえ、意外にも長い参道があり、こぢんまりとした本堂が見えてきます。お参りを済ませたあとは、道路を挟んで西側にある墓地で歴代千葉家のお墓を探すことにしました。
すると目の前に巨大な五輪塔群が! 蔦が絡まり、誰のものだか皆目見当がつかないのですが、元号から江戸時代前期のものとわかります。
円通寺の大檀那だった千葉家は、江戸時代においても特別扱いをされていたようで、小城藩主鍋島家の菩提寺でもある円通寺において、その三分の一ほどが千葉家の墓域になっています。
江戸時代、千葉家は「鍋島玄蕃(千葉忠右衛門)家」「千葉頼母家」の二つに分かれていましたが、両家ともにこの円通寺を菩提寺としていたことが、墓石の刻字からうかがえます。ただ、千葉頼母家は江戸時代中期以降は光勝寺へ移ったようです。
しかし、この墓域にある墓石はいずれも崩壊寸前、基礎が崩れたり、表層部が矧がれたり、石扉が破損したりと、かなりひどい状況になってきています。保存や修理には手間がかかるのでしょう。
今回は時間がないため、墓石すべての調査はできず、次回に詳細な配置や刻文の確認をしようかな。それまでこの墓石が残っているのか。小城市は金石文の文化財として早急な確認を行なったほうがいいのではないかと思いました。
タクシーに戻り、続いて中興開基の「千葉宗胤夫妻の墓」へ。宗胤は自分の死後、円通寺の門前に埋葬するよう遺言していたそうで、ここらがかつての円通寺の入口「大門」ということになります。
現在の円通寺から約700メートルほど南に位置しますが、ここもかつては境内地だったとすると、鎌倉の建長寺とほぼ同じ規模になります。幅は想像するしかありませんが、建長寺サイズとすれば、やはり100~150メートルはあったのでしょう。
さて、宗胤夫婦のお墓参りをすませ、続いて時代は二百年ほど進み……、室町時代に千葉氏がお城を構えた「祇園城」へ向います。
室町時代中期、北九州では大きな二つの勢力、少弐氏と大内氏とが争っていて、小城千葉氏もそれぞれに加担して二つに分かれました。その大内氏に加担した千葉家(東千葉家)の居城が、この祇園城です。もう一方の少弐氏と結んだ千葉家(西千葉家)は古くからの晴気城に拠っていて、お互いに戦っていました。
祇園城の麓の駐車場でタクシーを降り、祇園川にかかる橋を渡って、山を眺めてみる。急傾斜の長い階段の上に「須賀神社」が建てられている。千葉大隈守胤貞が小城のまちを京都に似せてつくるため、京都東山の祇園社(八坂神社)を模して、小城の東側に京都八坂神社を勧請したことがはじまりとされます。以来、この山は祇園山、牛頭山とよばれるようになりました。東千葉家が城を構えたのは、今の神社の東にある高台です。
須賀神社へお参りするためには、東側のなだらかルートと、直線急勾配の長い階段の二つのルートがありますが、ここはせっかくだから真正面から登ろう、ということで登ってはみたものの、この階段、思いのほか長いのです。途中に鳥居がある平場はありますが、休むとキツくなりそうなので、一気に駆け上る! 登り切って下を眺めてみると、小城のまちが一望できる!! ここからは南側しか見えませんが、敵の侵攻は一目でわかります。
神社の裏手にはいつのものか不明ながら石垣があります。神社の東側の階段を登ると、祇園城跡へたどり着きます。ここには古いコンクリートの展望台があり、さらにいい眺めが! 光勝寺、円通寺はもちろん、西の晴気城まで見渡せます。城の立地条件としては申し分ありません。
帰りは急な階段を降りずに、散歩道で行くことに。階段を登れない人も上り下りできそうな緩やかなハイキングコースです。
下に戻って橋を渡ると、小城名物・小城羊羹の老舗「村岡総本舗」があります。ここでお土産を購入。帰るのは明日ですが、羊羹ならもつでしょう。
タクシーに戻り、次の目的地「北浦妙見神社」へ。ここは鎌倉時代末期、千葉胤貞が千葉の金剛授寺(いまの千葉神社)を勧請して建立したと伝わる妙見社で、千葉胤貞の像が伝わっていました。現在この像は別当寺だった延命寺(妙見神社の隣)に収められているとのこと。
妙見社に参拝後は「清水の滝」へ。ここには本当は行く予定はありませんでしたが、ここから滝までは車で数分だという。それなら行ってみようと滝に向かいました。走ること3、4分、滝のそばの駐車場で降ろしてもらい、滝に向かいました。
この滝は「清水山見瀧寺」という天台宗寺院の境内にあって(境内といっても山の中ですが)、山中の階段をしばらく上っていくと、目の前にどーんと見えてきます。見るからに涼しげな滝で、滝つぼへ下りてみました。なだらかな滝のためか、数十センチの滝つぼの底にきれいな砂がみえています。不動明王像がそばに立っています。
滝からタクシーに戻ると、タクシーのおじさんは「ノドが乾いたでしょう、これ食べて~」と甘夏一袋をくれました。なんでも小城はみかんの名産地なんだとか。滝の通りは商店街になっていて、買ってきてくれたようです。
そして小城見物の最後に立ち寄ったのが、祇園城下の古刹「明円寺」。本尊は千葉胤貞が元徳2(1330)年に寄進した木造地蔵菩薩半跏像です。ここを参拝して今回の小城の旅を締めくくりました。境内には花菖蒲が咲いていました。
時計を見ると午後3時半。まだ予定より早いけれど、今日の宿泊地・唐津へ向かうことに。ということで小城駅に戻ってタクシー料金を精算。三時間も案内してもらったのに、わずか1万円で済んでしまいました。
午後4時42分の唐津線で、一路、唐津へ向いました。