平忠通 (????-????) |
三浦為通 (????-????) |
三浦為継 (????-????) |
三浦義継 (????-????) |
三浦介義明 (1092-1180) |
杉本義宗 (1126-1164) |
三浦介義澄 (1127-1200) |
三浦義村 (????-1239) |
三浦泰村 (1204-1247) |
三浦介盛時 (????-????) |
三浦介頼盛 (????-1290) |
三浦時明 (????-????) |
三浦介時継 (????-1335) |
三浦介高継 (????-1339) |
三浦介高通 (????-????) |
三浦介高連 (????-????) |
三浦介高明 (????-????) |
三浦介高信 (????-????) |
三浦介時高 (1416-1494) |
三浦介高行 (????-????) |
三浦介高処 (????-????) |
三浦介義同 (????-1516) |
三浦介盛隆 (1561-1584) |
●三浦氏の惣領家●
三浦氏十代当主。三浦上総介時明の子。母は不明。通称は三浦介。官位は従五位下。法名は道海。
元弘元(1331)年8月24日、倒幕計画が発覚したことで、三種の神器を持って密かに御所を離れた後醍醐天皇は、笠置山(京都府相楽郡笠置町)に逃れ、天皇に味方する武士が少ないながらも集まり籠城した。これに六波羅探題はただちに軍勢を笠置山に派遣し、城を囲んだ。
このような中、9月11日に河内国の悪党・楠木兵衛尉正成が御所方を称して、赤坂山に砦を構え、一族や近隣の者たち五百騎を集めて立て籠もった。さらに13日には備後国の桜山四郎茲俊入道が一族七百騎で挙兵。備後一宮の吉備津彦宮を城砦として立て籠もった。六波羅にはこれを放っておけばのちのち面倒なことになりかねないとして、援軍を催促する使者がたびたび馳せ参じた。
このため、六波羅北方・北条越後守仲時は幕府軍増援の使者を鎌倉に派遣し、これを受けた得宗の相模守高時入道崇演は、承久の先例に従い直ちに軍勢を派遣すべしとて、六十三名の一門、御家人の軍勢を催促。西に派遣することとした。このときの軍勢の「侍」の筆頭に「三浦介入道」が記されている(『太平記』)。9月20日、「二十万八千六百余騎」と公称の大軍は鎌倉を出立した。
●元弘元(1331)年9月20日征西御家人(『太平記』)
将軍 | 大仏陸奥守貞直 | 大仏遠江守 | 普恩寺相摸守基時 | 塩田越前守 | 桜田参河守 |
赤橋尾張守 | 江馬越前守 | 糸田左馬頭 | 印具兵庫助 | 佐介上総介 | |
名越右馬助 | 金沢右馬助 | 遠江左近大夫将監治時 | 足利治部大輔高氏 | ||
侍大将 | 長崎四郎左衛門尉 | ||||
侍 | 三浦介入道 (三浦介時継入道道海か) |
武田甲斐次郎左衛門尉 | 椎名孫八入道 | 結城上野入道 | 小山出羽入道 |
氏家美作守 | 佐竹上総入道 | 長沼四郎左衛門入道 | 土屋安芸権守 | 那須加賀権守 | |
梶原上野太郎左衛門尉 | 岩城次郎入道 | 佐野安房弥太郎 | 木村次郎左衛門尉 | 相馬右衛門次郎 | |
南部三郎次郎 | 毛利丹後前司 | 那波左近太夫将監 | 一宮善民部太夫 | 土肥佐渡前司 | |
宇都宮安芸前司 | 宇都宮肥後権守 | 葛西三郎兵衛尉(良清?) | 寒河弥四郎 | 上野七郎三郎 | |
大内山城前司 | 長井治部少輔 | 長井備前太郎 | 長井因幡民部大輔入道 | 筑後前司 | |
下総入道 | 山城左衛門大夫 | 宇都宮美濃入道 | 岩崎弾正左衛門尉 | 高久孫三郎 | |
高久彦三郎 | 伊達入道 | 田村刑部大輔入道 | 入江蒲原一族 | 横山猪俣両党 |
同日、幕府は後醍醐天皇を廃して持明院統の量仁親王(光厳天皇)を即位させる。その後見に父院の後伏見上皇が就き、幕府と親密な持明院統による院政が始まった。
六波羅勢と御所方の笠置山の戦いは、鎌倉から上ってくる本隊の到着を待つことなく、9月28日、六波羅勢によって笠置山は陥落し、六波羅勢の勝利に終わった。そして30日、山野を彷徨っていた後醍醐上皇一行を迎えとり、上皇の持っていた「三種の神器」を光厳天皇へ引き渡させる。
笠置山の陥落と後醍醐上皇の捕縛によって、畿内の不穏な勢力は力を喪い、笠置攻めのための幕府軍本隊は赤坂城攻めに向かった。この戦いの中の交名に時継の名は見えず、時継とは再従兄弟にあたる「三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明)」が加わっている。
三浦盛時―+―三浦頼盛――三浦時明――三浦時継
(三浦介) |(三浦介) (上総介) (三浦介)
|
+―三浦宗義――三浦景明
(十郎) (若狭守)
∥――――三浦時明
∥ (若狭五郎判官)
綾小路継宣――娘
(少納言)
●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)
楠木城 一手東 自宇治至于大和道 陸奥守(大佛貞直) 小山判官(小山秀朝) 佐々木備中前司 武田三郎(武田政義) 諏訪祝 島津上総入道(島津貞久) 大和弥六左衛門尉 加地左衛門入道(加地安綱) |
河越参河入道(河越貞重) 佐々木近江入道 千葉太郎(胤貞) 小笠原彦五郎 高坂出羽権守 長崎四郎左衛門尉(長崎高重) 安保左衛門入道 吉野執行 |
一手北 自八幡于佐良□路 武蔵右馬助(金沢貞冬) 千葉介(千葉介貞胤) 小田人々 伊東大和入道 薩摩常陸前司 湯浅人々 |
駿河八郎(北条時邦?) 長沼駿河権守(長沼秀行) 佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀) 宇佐美摂津前司 □野二郎左衛門尉 和泉国軍勢 |
一手南西 自山崎至天王寺大路 江馬越前入道(江馬時見か?) 武田伊豆守 渋谷遠江権守 狩野介入道 |
遠江前司(名越貞家) 三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明) 狩野彦七左衛門尉 信濃国軍勢 |
一手 伊賀路 足利治部大夫(足利高氏) 加藤丹後入道 勝間田彦太郎入道 尾張軍勢 |
結城七郎左衛門尉 加藤左衛門尉 美濃軍勢 |
同十五日 佐藤宮内左衛門尉 自関東帰参 同十六日 中村弥二郎 自関東帰参 |
|
幕府軍は10月21日、赤坂城を攻め落として楠木正成一族を追い落とした。元弘2(1332)年正月21日には、桜山茲俊入道が城を焼いて自刃し、幕府に反旗を翻した天皇勢力を軍事力で屈服させるという、まさに承久の乱の再来であった。
12月27日、後醍醐上皇の隠岐国配流を朝廷に奏請し、元弘2(1332)年3月7日、後醍醐上皇は隠岐国の配所に向けて都を出立。警固は千葉介貞胤、小山五郎左衛門尉秀朝、佐々木佐渡判官高氏入道道誉の三名が受け持った。6月3日には上皇側近の日野俊基朝臣が鎌倉葛原岡にて斬首された。
しかし、畿内にくすぶる後醍醐上皇方の勢力は、これまで名の知られていないような地方豪族を中心に広まり、8月、播磨国佐用庄の赤松次郎入道円心が兵を挙げ、西国からの道を塞いだ。
こうした報告が関東に報ぜられると、高時入道はふたたび追討の軍を派遣することを決し、北条一族はもとより関東の諸大名のうちから然るべき者を大将として遣わすことを指示。一族はもちろん、大名家では千葉大介貞胤や宇都宮三河守貞宗ら大大名を筆頭に百三十二名、公称三十万七千五百余騎という大軍が派遣され、9月20日に鎌倉を発した。このときにも、「三浦若狭判官(三浦時明)」が幕府軍大将軍の一人として京都へ向かっている。
●「関東軍勢交名」(『伊勢光明寺文書残篇』:『鎌倉遺文』所収)
大将軍 陸奥守(大佛貞直) 遠江国 遠江守(名越宗教) 尾張国 駿河左近大夫将監(北条時邦) 讃岐国 足利上総三郎(吉良満義) 長沼越前権守(長沼秀行) 淡路国 佐々木源太左衛門尉(佐々木時秀) 備前国 越衆御手 信濃国 小田尾張権守 一族 武田三郎(武田政義) 一族并甲斐国 伊東大和入道 一族 薩摩常陸前司 一族 渋谷遠江権守 一族 三浦若狭判官(三浦若狭五郎判官時明) 佐々木隠岐前司 一族 千葉太郎(千葉胤貞) 勢多橋警護 佐々木近江前司(佐々木貞清) |
武蔵右馬助(金沢貞冬) 伊勢国 武蔵左近大夫将監(金沢時顕) 美濃国 足利宮内大輔(足利高氏?) 三河国 千葉介(千葉介貞胤) 一族并伊賀国 宇都宮三河権守(宇都宮貞宗) 伊予国 小笠原五郎 阿波国 小山大夫判官(小山秀朝) 一族 結城七郎左衛門尉 一族 小笠原信濃入道 一族 宇佐美摂津前司 一族 安保左衛門入道 一族 河越参河入道(河越貞重) 一族 高坂出羽権守 同備中前司 同佐渡大夫判官入道(佐々木高氏) |
しかし、元弘3(1333)年閏2月下旬、上皇は隠岐国を脱出したことにより情勢は一変し、各地の御所方が勢いづいた。幕府は名越越後守高家、足利治部大輔高氏らを大将とした大軍を派遣することになった。新たな援軍を迎えた六波羅勢は勢いづき、名越高家が大手大将軍、足利高氏が搦手大将軍として出陣した。
だが、この名越高家が久我畷で討死を遂げ、足利高氏も丹波国の篠村において反旗を翻したことによって六波羅軍は浮き足立ち、ついに六波羅探題の北条左近将監時益と北条越後守仲時は六波羅に火を放ち、花園天皇以下皇族を奉り、鎌倉へ落ち行くことを決定。しかし、時益は六波羅邸を出た直後に矢に当たって死亡。仲時は近江国まで遁れ行くことに成功したが、頼りにしていた近江守護・佐々木判官時信が御所方に降伏してしまったことで、仲時はすっかり御所方に囲まれた形になってしまった。こうして、伊吹山の近く番場の法華寺に入った仲時一行四百三十二人が自害して果てた。仲時二十八歳。
京都での拠点が失われた幕府の衰退は覆うべくもなかったが、いまだ鎌倉には多くの軍勢が残されていた。その鎌倉に向かって、上野国で挙兵した新田義貞の軍勢が攻め下っていた。
1.鎌倉幕府の滅亡
元弘3(1333)年5月8日、上野国新田庄の地頭・新田小太郎義貞が打倒幕府の兵を生品神社で挙げた。この挙兵はかなり以前から計画されていたものか、次々に御家人が陣に参じてきた。下総守護職・千葉介貞胤や、下野国の名門・小山大夫判官秀朝がこれに応じて挙兵。鎌倉へ攻め向かっていた。貞胤は武蔵国忍岡(台東区上野)で小山秀朝の軍勢と合流して南下。多摩川を渡り、鶴見で幕府軍・金沢武蔵守貞将の軍勢と戦ってこれを破った。
その後、千葉・小山連合軍は、金沢から朝比奈切通(鎌倉七口の一つ)を通って鎌倉に突入したと思われる。しかし『千葉伝考記』には化粧坂を通って鎌倉へ入ったとされている。また、『房総通史』には巨福呂坂を通って突入したもとされており、いずれも鎌倉の西側から入ったことになる。
一方、室町期成立の『梅松論』には、千葉介貞胤は武蔵国鶴見の辺で金沢武蔵守貞将(下ノ道大将)と合戦したと記され、『太平記』でも金沢貞将が小山判官・千葉介に敗れて、「下ノ道」を通って鎌倉へ退却したとある。鶴見で戦っているのであれば、朝比奈切通しを通って、鎌倉の東側から突入すると考えるのが常識的である。幕府側の備えは、鎌倉の西側の巨福呂坂・化粧坂・極楽寺坂に大兵をつぎこんでおり、東側の備えについてはわかっていない。鎌倉の東部については金沢氏が包括して守備していたのだろう。
ただし、新田義貞が鎌倉の各切通しを攻め立てていた際、化粧坂を守備していた大将は、鶴見で大敗を喫したはずの金沢貞将であり、貞将は鶴見の戦いののち鎌倉に逃れたのちは化粧坂に向かい、朝比奈方面は別の軍勢によって守られていたのかもしれない。
一方、新田義貞勢は破竹の勢いで武蔵国入間川にまで押し寄せ、5月12日、久米川の戦いに大勝して、幕府軍を分倍河原にまで追い落とした。この久米川の合戦に敗北したことを受けた得宗・北条高時入道は、剛毅で知られた弟・北条左近将監泰家入道恵性を大将軍とし、塩田陸奥守国時入道道祐、安保左衛門入道道堪、城越後守、長崎駿河守時光、佐藤左衛門入道、安東左衛門尉高貞、横溝五郎入道、南部孫二郎、新開左衛門入道、三浦若狭五郎氏明に出陣を命じた。ここに見える「三浦若狭五郎氏明」は京都で御所方と戦った「三浦若狭判官時明」ではなく、彼と又従弟になる「三浦若狭五郎氏明」か。
5月15日深夜に分倍河原に到着したこの援軍に士気を盛り返した北条勢は新田勢を攻め立て、堀金(狭山市堀兼)まで追い落とした。手痛い反撃を食った新田勢だったが、5月15日の夕刻、義貞の陣に三浦一族・大多和平六左衛門義勝が松田・河村・土肥・土屋・本間・渋谷ら相模武士六千騎を率いて投降してきた。義貞は彼を先陣として翌16日明け方、分倍河原まで兵を進めると、大勝に油断していた幕府軍を包囲して襲い掛かった。これに驚いた幕府軍は大敗し、鎌倉に退却せざるを得なかった。新田勢はその後、藤沢を駆け抜け、5月18日には鎌倉の手前に陣を進めた。このとき新田勢に加担した大多和義勝は系譜に見えないが、大多和義久の子孫・大多和平六左衛門尉義行のことか。相模国内で相当の勢力を持っていたことがうかがわれる。
三浦義明―+―三浦義澄―――三浦義村―――三浦泰村
(三浦介) |(三浦介) (駿河守) (若狭守)
|
+―大多和義久――大多和義成――大多和義季――大多和秀信―――大多和義行―――大多和倫義
|(三郎) (二郎) (左衛門尉) (三郎左衛門尉)(平六左衛門尉)(平六左衛門尉)
|
+―佐原義連―――佐原盛連―――三浦盛時―+―三浦頼盛――――三浦時明――――三浦時継
(左衛門尉) (遠江守) (三浦介) |(三浦介) (上総介) (三浦介)
|
+―三浦盛氏――――三浦氏連――――三浦氏明
|(七郎) (七郎五郎) (若狭五郎)
|
+―三浦宗義――――三浦景明――――三浦時明
(十郎) (若狭守) (若狭五郎判官)
幕府軍は鎌倉各口を堅く守っており、新田勢は苦戦を強いられた。化粧坂・極楽寺坂を守る金沢武蔵守貞将・大仏陸奥守貞直はとくに堅く、新田勢は、化粧坂口に新田義貞みずから出陣し、極楽寺坂には大館二郎宗氏・江田行義を派遣して攻め立てたもののいずれもに失敗に終わった。
さらに極楽寺坂を攻めていた新田勢の一部が5月18日、稲村ガ崎を廻って鎌倉市街に突入し、由比ヶ浜の在家に放火するなどしたものの、幕府勢に蹴散らされて全滅。新田勢大将・大館宗氏父子が討死を遂げるなど、極楽寺口はまさしく難攻不落だった。化粧坂口の新田義貞も攻めあぐねて撤退。本陣を極楽寺坂の西北・聖福寺へ移した。これは稲村ガ崎を回って鎌倉に攻め入るための準備だったのだろうか。
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材木座より稲村ガ崎を望む |
5月21日夜半の干潮時(天文学者の試算によれば、22日午前2時58分が稲村ガ崎の干潮)、遠干潟となった稲村ガ崎を真一文字に駆け抜けて鎌倉へ突入した。このため巨福呂坂口・化粧坂口・極楽寺坂口の守備隊も、鎌倉市街への転戦を余儀なくされ、ついに二口も突破されて、鎌倉は火の海と化した。
極楽寺坂口を守っていた大将・大仏貞直は極楽寺坂で新田勢と斬りむすび、義貞の弟・脇屋二郎義助の軍勢に突撃して討死を遂げた。一方で長崎思元・為基は極楽寺坂から若宮大路へ退きつつも、由比ヶ浜まで新田勢を蹴散らす奮闘を見せた。
また、化粧坂口から巨福呂坂へ転戦した金沢貞将は全身七か所に重傷を負いながらも、得宗・高時入道の籠もる葛西ヶ谷の東勝寺(北条家菩提寺)へ帰ってきた。高時は彼に感謝を申し述べると、今や滅亡してしまった六波羅南北両探題とする旨の御下文を与えた。貞将はこれを拝受して鎧の継ぎ目に差し入れると、ふたたび鎌倉市街に馳せ戻り、ついに戻ってこなかった。
元執権の前相模守基時入道信忍は化粧坂に攻めのぼって奮戦ののち自刃を遂げた。ほかにも塩田陸奥守国時入道道祐・民部大輔俊時父子、塩飽新左近入道聖遠、安東左衛門入道聖秀など名だたる大将も 鎌倉の諸所で自害した。また、高時入道の弟・泰家入道は、老臣の諏訪宗経入道直性の一族・諏訪三郎盛高に、兄・高時の二男・亀寿丸を託して信濃国へ遁れさせる一方で、みずからも陸奥国に姿を消した。
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北条氏の菩提寺・東勝寺の跡地 |
得宗・高時入道にも恐れられた内管領・長崎円喜入道の孫である長崎高重は、分倍河原の戦いに敗れたのち鎌倉へ馳せ戻ると、新田勢を三十二人も斬り払う奮戦を見せて東勝寺へ帰参した。ここで高重は高時に「もういちど自分が戻るまでは無分別に自害をしないように」と言い残し、義貞を暗殺するために配下の侍らとともに新田勢に紛れ込んだ。そして義貞のすぐそばまで近づいたが、義貞の臣・由良新左衛門によって見破られ、配下とともに群れかかる新田勢を相手に縦横に斬り廻り、ついには新田勢の同士討ちを誘い、その隙をついて東勝寺へと退いた。このとき高重とともに生還した騎士はわずかに八騎、高重自身も二十三筋もの矢を身体に立てるという満身創痍ながら、高時の前にいたり「まずは自分がお手本を見せますので、これを肴といたしたまえ」と、大杯三杯を飲干したのち、自刃した。続いて泰家入道の老臣・諏訪入道直性が自刃し、最後の得宗・高時入道も自刃して果てた。享年三十一。金沢貞顕・安達時顕・長崎円喜・長崎高資ら一族も次々に自刃し、東勝寺は炎に包まれ、鎌倉幕府百三十年の歴史に幕を閉じた。
東勝寺の跡地は「東勝寺遺跡」として、昭和50(1975)年に調査が行われ、北条氏の家紋「三鱗紋」のある瓦、焼けた陶磁器の破片が発見されている。そして、平成9(1997)年1月、国指定史跡をめざしてふたたび発掘調査が進められ、同年6月、高熱に焼かれた土などとともに巨大な建物跡が発見された。この建物には柱が四十本用いられ、東西が8.4メートル、南北が14.7メートル、総床面積が120平方メートルにも及ぶ大きな建築物で、北条高時以下一門が自刃を遂げた東勝寺の本堂と考えられている。
2.建武の新政
北条家自体が滅んでも、旧幕府の残党勢力はいまだ活発で、元弘4(1334)年春、九州では規矩掃部助高政、糸田左近大夫将監貞義が暴れ回り、河内国では佐々目憲法僧正が兵を集め、飯盛山に砦を構えて立て籠もっていた。さらに伊予国では赤橋駿河太郎重時が立烏帽子峯に籠もり抵抗を続けていた。
北条義時―+―北条泰時――――北条時氏――+―北条経時 +―北条高時―+―北条邦時
(陸奥守) |(左京大夫) (修理亮) |(武蔵守) |(相模守) |(相模太郎)
| | | |
+―北条重時――+―北条業時 +―北条時頼――――北条時宗――――北条貞時―+―北条泰家 +―北条時行
|(陸奥守) |(陸奥守) (相模守) (相模守) (相模守) (左近将監) (相模次郎)
| | ∥
| | ∥――――――北条時兼――――北条基時――――北条仲時
| | 北条政村娘 (尾張守) (相模守) (越後守)
| |
| +―北条長時――――北条義宗――――北条久時――+―北条守時
| |(武蔵守) (駿河守) (武蔵守) |(相模守)
| | |
| +―北条時茂――――娘 +―北条宗時―――北条重時
| |(陸奥守) ∥ |(駿河守) (駿河太郎)
| | ∥ |
| | ∥ +―赤橋登子 +―足利義詮
| | ∥ ∥ |(千寿王)
| | ∥―――――――足利貞氏 ∥ |
| | ∥ (讃岐守) ∥―――+―足利基氏
| | ∥ ∥――――――足利高氏 (亀若)
| | 足利家時 ∥ (治部大輔)
| | (伊予守) 上杉頼重娘
| |
| +―――――――――娘
| ∥
+―北条朝時――+―北条光時 ∥―――――+―北条時家――――北条高家
|(越後守) |(越後守) ∥ |(左近大夫) (尾張守)
| | ∥ |
| +―北条時章――+―北条公時 +―北条公貞――――北条時有―――北条時兼
| |(尾張守) |(尾張守) (弾正少弼) (左近将監) (太郎)
| | |
| +―北条教時 +―北条篤時――――北条秀時――――北条時如
| (遠江守) (遠江守) (美濃守) (式部大輔)
| ∥
| +―北条政長――――北条時敦――――北条時益 ∥
| |(駿河守) (越後守) (左近将監) ∥
| | ∥
+―北条政村――+―北条時村 +――――――――――娘
|(左京権大夫)|(左京権大夫) |
| | |
| | +―娘―――――――千葉介貞胤
| | |(千葉介胤宗室)(千葉介)
| +―娘 |
| ∥―――――+―北条顕時――+―北条貞顕――+―北条貞冬
| ∥ |(越後守) (武蔵守) |(左馬頭)
| ∥ | |
| ∥ | +―北条貞將
| ∥ | (武蔵守)
| ∥ |
+―北条実泰――――北条実時 +―北条実政――――北条政顕――+―規矩高政
(陸奥五郎) (越後守) (上総介) (上総介) |(掃部助)
|
+―糸田貞義
(左近大夫将監)
朝廷は彼らを調伏する祈祷を行うこととし、紫宸殿に護摩壇を構え、竹内慈厳僧正をして天下安鎮の法を執り行った。この法を執り行うときには、甲冑の武士が御所の四門を堅め、紫宸殿南庭には武士が左右に立って抜刀し、四方を鎮める必要があった。このとき御所の四門は結城九郎左衛門親光、楠木河内守正成、塩冶判官高貞、名和伯耆守長年の四名が固め、南庭には右に「三浦介」を左に「千葉大介貞胤」を定めた。三浦介、千葉介両氏が鎌倉幕府を通じて諸御家人および京都において、代表的な御家人として認知されていたことがうかがえる。時継はすでに入道しており、この「三浦介」は時継入道の子・高継か。
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京都御所 |
彼らははじめ、この南庭に侍る役を了承していたものの、貞胤は相手が三浦介高継であることを嫌い、対して高継も貞胤の下位(貞胤が左側で高継が右側)につくことを憤って、それぞれ出仕せずに役を断った。良好だった両家の関係は、いつの頃からか互いにいがみ合うようになり、鎌倉時代初期には千葉介胤綱と三浦介義村が幕府内で席次を争った伝承が残されるほど険悪となっていたか。
4月10日、「三浦介時継法師法名道海」が勲功の賞として「武蔵国大谷郷下野右近大夫将監跡」「相模国河内郷渋谷遠江権守跡」の地頭職を足利直義の宛行状により得た(『足利直義宛行状』)。
●建武元(1334)年4月10日『足利直義宛行状』(『宇都宮文書』)
12月14日、朝廷は旧幕府残党から東国を守るため、鎌倉に探題を一人置くことを決定。後醍醐天皇第八皇子の下野太守・成良親王を征夷将軍に任じ、後見として足利左馬頭直義を任じて鎌倉へ下した。御所となったところは、鎌倉西部の二階堂小路にあった二階堂山城邸跡であった。永福寺に隣接する景勝地で、ここがのちの鎌倉公方御所となった場所であろうと思われる。また、幕府と親密な関係を保っていた、旧関東申次・西園寺大納言公宗のもとに、高時入道の弟・泰家入道が匿われていることが発覚。さらに、後醍醐天皇を暗殺し、持明院統の後伏見院を奉じて持明院統系の新帝を即位させ、旧幕府の復権を画策していた陰謀も公宗の弟・公重の密告で発覚してしまった。
この陰謀の発覚により、密かに京都に集まってきていた北条家残党は関東や北陸に散り散りに遁れ、再び陰謀を画策し始めた。このうち、北陸に本拠を持っていた名越太郎時兼のもとには越中、能登、加賀の北条家残党が集まり、六千騎もの勢力に発展する。そして、建武2(1335)年7月、諏訪に逃れていた高時入道の子・相模次郎時行も多くの御家人が集まり挙兵した。その中には「三浦介入道(時継)」のほか「同若狭五郎、葦名判官入道」といった三浦一族の名も見ることができる(『太平記』)。時継入道は嫡男・三浦介高継とは袂を分かち、幕府滅亡後も新政府に加わることなく、一族の三浦若狭五郎時明、葦名判官盛貞入道道円を伴い、信濃国諏訪に隠れていた得宗高時入道の庶子・北条時行のもとに参じたか。ただし「三浦葦名判官入道々円 子息六郎左衛門尉」は足利尊氏方として戦死した文書が伝わる(『足利宰相関東下向宿次合戦注文』)。
●北条時行挙兵時の加担人(『太平記』)
諏訪三河守(諏訪三河守頼重) | 三浦介入道(三浦介時継入道) | 三浦若狭五郎(三浦若狭五郎時明) | 葦名判官入道(葦名判官盛貞入道道円) |
那和左近大夫 | 清久山城守 | 塩谷民部大夫 | 工藤四郎左衛門 |
計五十余人 |
時行率いる「中先代」勢五万騎は、一路鎌倉に迫った。鎌倉を守っていた足利直義は中先代勢を武蔵国で迎え撃ったものの、女影原の戦いで岩松三郎経家・渋川刑部大夫義季が討死を遂げ、府中の戦いでは小山五郎判官秀朝が討死、直義率いる正規軍も井出沢で大敗。7月16日、直義は鎌倉を捨て、成良親王を奉じて箱根方面へと逃れた。このとき、中先代勢に利用されることを恐れたか、混乱の中で政敵を抹殺しようと考えたのか、直義は家臣・淵辺義博を鎌倉に密行させ、反足利派の巨頭・大塔宮護良親王(後醍醐天皇皇子)を暗殺した。
時行は未だ復興ならない鎌倉に陣を置き、名越式部大輔時如を直義追討の大将軍に任じ、東海道、東山道より攻め上るべしと命じ、時如は夜を日に継いで攻め上り、8月7日には遠江国佐夜中山に至った。
時如率いる中先代勢の攻勢が伝えられる中、足利尊氏は鎌倉死守と中先代追討のため、「征夷大将軍」への任命を後醍醐天皇に迫ったが、天皇や公卿たちは尊氏を警戒して認めず、直義から逼迫した知らせを受けた尊氏は、ついに独断で在京の武士に召集令をかけた。この召集令は天皇の許可を得たものではなかったにもかかわらず、彼のもとには数万にのぼる武士たちが集まり、尊氏は彼らを率いて京を出立。途中で中先代勢を次々と打ち破り、8月17日、「筥根合戦」で「兇徒大将三浦若狭判官(三浦時明)」を破った。そして19日の辻堂・片瀬原の合戦では「三浦葦名判官入道々円、子息六郎左衛門尉」ら足利方の将が討死したが(『足利宰相関東下向宿次合戦注文』)、鎌倉に攻め込んで北条時行を鎌倉より追放した(『太平記』)。この一連の戦いを「中先代の乱」という。ただし、葦名二郎判官入道道円は『太平記』や三浦家の系譜記載では、中先代方について8月17日に腰越の戦いで自刃したとされている。
●建武2(1335)年『足利宰相関東下向宿次合戦注文』(『神奈川県史』所収)
三浦介時継入道は、尾張国に舟で遁れたが、熱田大宮司によって捕らえられ、京都に送られた。そして兇賊の一人として斬首され獄門に懸けられた。没年齢不明。
●建武2(1335)年?9月20日『少別当朗覚書状案』(『到津文書』「神奈川県史」所収)
また、名越太郎時兼は北陸道を平定して三万余を京都に差し向けたが、御所方の軍勢と越前と加賀の境にある大聖寺あたりでおこった合戦で敗れ討死を遂げた。
尊氏はこののち鎌倉に入るが、乱の鎮圧に付き従った将士に勝手に恩賞を分配したり、建武政権の上洛命令を無視したりするなど、建武政権から離反して後醍醐天皇と完全に対立することになる。
●三浦介高継への宛行状(『足利尊氏袖判下文』:『神奈川県史』)
相模国 | 三浦郡 | 三崎郷 | 三浦市三崎町 |
松和郷 | 三浦市南下浦町松輪 | ||
金田郷 | 三浦市南下浦町金田 | ||
菊名郷 | 三浦市南下浦町菊名 | ||
網代郷 | 三浦市三崎町小網代 | ||
諸石名 | 三浦市三崎町諸磯? | ||
余綾郡 |
大磯郷 高麗寺俗別当職 |
中郡大磯町 | |
東坂間郷 | 平塚市根坂間? | ||
橘樹郡 | 三橋 | 横浜市神奈川区三枚町? | |
末吉 | 横浜市鶴見区下末吉 | ||
上総国 | 天羽郡 | 古谷郷 | 富津市内 |
吉野郷 | 富津市吉野 | ||
大貫下郷 | 富津市大貫 | ||
摂津国 | 武庫郡 | 都賀庄 | 神戸市灘区 |
豊後国 | 国東郡 | 高田庄 | 豊後高田市高田 |
信濃国 | 筑摩郡 | 村井郷内小次郎知貞跡 | 松本市芳川村井町 |
陸奥国 | 糠部郡 | 五戸 | 青森県三戸郡五戸町 |
会津河沼郡 | 蟻塚 | 不明 | |
上野新田 | 福島県喜多方市熱塩加納町上野 |
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