千葉胤継

肥前千葉氏

○肥前千葉氏の一族○

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千葉胤継(????-????)

 小城千葉氏五代。千葉大隅守胤貞の三男。官途は大隅守常陸介。母は曽谷教信娘・妙林院日貞か。千田千葉氏の租。彼が父の官途名「大隅守」を称したことが確認できるのは、観応3(1352)年からであり、そのころ「大隅守」の叙任があったのだろう。下総国千田庄(香取郡多古町周辺)、八幡庄(市川市周辺)を領して千田千葉氏の租となった。

 『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳』によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■謎 胤泰 胤基」と歴代が並記されており、この中の「■謎」が「胤継」であろう。

 胤継は父・胤貞と同じく「大隅守」に任官していることや『岩蔵寺過去帳』の記載から、胤貞流千葉氏の家督を継いで小城郡を領したことがわかるが、小城郡にいた形跡はない。建武3(1336)年11月19日、父の胤貞が三河国で亡くなり、建武4(1337)年7月21日には胤泰田中行祐入道に対して小城郡内の所領宛行を行っていることから、胤貞の妻「千葉ノ大方」の譲状によって、胤泰が小城郡の実質的な地頭となり、胤継は本貫地の下総国千田庄、八幡庄などの地頭職となったと思われる。

 胤継は八幡庄にある中山本妙寺・法華寺(現・市川市の中山法華経寺)周辺の土地を同寺に寄進する旨の寄進状を発給しており、胤貞以来続く中山門流日蓮宗の外護者としての地位を保っていたと考えられる。

 胤貞流千葉氏の本貫地である千田庄については、胤継が活躍する時期より遡ること二十年ほど前の建武2(1335)年ごろ、千田庄内では千葉介貞胤千葉胤貞との間で紛争が起こっていた。これら一連の千田庄内乱について、某年の『書状断簡』には「千田孫太郎殿子息瀧楠殿、千葉介殿と一味同心、可落大嶋之由」とあることから、千田孫太郎(千葉胤平か)の子息・千田瀧楠千葉介に同心して、おそらく千田大隅守胤継の勢力と戦ったのだろう。なぜ千田瀧楠が下総千葉介に同心したかは不明だが、千田胤平亡きあと、胤継が千田庄の地頭職となった経緯から、自らの正当性を求めて胤継の抵抗勢力である下総守護・千葉惣領家と組んだのかもしれない。(千田庄・八幡庄の継承についての系譜)

 千葉新介宗胤―+―千葉胤貞――+―千葉胤平―――千田胤■(瀧楠)
(千葉新介)  |(千葉大隅守)|(千田孫太郎)
        |       |
        |       +―千田胤継
        |       |(大隅守)
        |       |
        +――――――→+=千葉胤泰

 千田庄は観応元(1350)年7月11日、胤継の名をもって「千田庄中峰虚空蔵堂々免」中山本妙寺に、「千田庄内倉持阿弥陀堂々免」真間山弘法寺へ寄進観応元(1350)年7月11日『千葉胤継寄進状』観応元(1350)年7月11日『千葉胤継寄進状』していることから、観応年中には胤継による千田庄・八幡庄の支配があったと考えられる。瀧楠との対立はこのころの出来事か。

 観応3(1352)年4月4日、胤継真間山弘法寺・立正阿闍梨日宗へ、父・胤貞が弘法寺へ寄進した曽谷郷秋山村内のほか、秋山村全域をことごとく寄進した観応3(1352)年4月4日『千葉胤継寄進状』。4月25日には「亡父胤貞」が寄進した本妙寺領について、「公方からの安堵がある上は寺領であることは言うに及ばず、中山郷で寄進されなかった部分においても、本妙寺に寄進する」という旨の寄進状を発給した観応3(1352)年4月25日『千葉胤継寄進状』

 6月29日、八幡庄谷中郷の一円を義兄・大輔僧都日祐に寄進した観応3(1352)年6月29日『千葉胤継譲状』。法華寺と中山本妙寺はもともと違う寺だが、室町中期に合併して現在の形の「中山法華経寺」となっている。

 延文5(1360)年11月29日、「大隅守胤継」千田庄多古村内の田畠を八幡庄若宮戸の蓮経阿闍梨御坊(浄光院主?)に寄進した。

 貞治5(1366)年12月15日、中山浄光院への寄進状貞治5(1366)年12月15日『千葉胤継寄進状』を最後に胤継の発給文書は終わる。この文書には胤継から本妙寺へ「千田庄中村郷内宮堂免田地」を寄進する旨が記されている。

 なお、応安2(1369)年8月18日、「千葉前常陸介平胤連」「舎弟宗杲上座」に対して「重代相伝之本領、筑前国宗像東郷内曲村地頭職公文職」を譲り与えたことが『宗像文書』にあるが、文書を見る限り「胤連」「胤継」である。

 『岩蔵寺過去帳』には胤継は正平20(1365)年1月3日に二十二歳で亡くなったとあるが、胤継は貞治5(1366)年12月に中山浄光院へ寄進していることや、逆算して康永3(1344)年生まれになると、父・胤貞の死後8年にして生まれたことになることなどから、『岩蔵寺過去帳』の没年については疑問である。

■胤継が本妙寺・弘法寺へ寄進した所領■

・観応元(1350)年7月11日
・観応3(1352)年4月25日
・観応3(1352)年6月29日
・延文5(1360)年年11月29日

・延文6(1361)年年11月2日



・貞治5(1366)年12月15日
千田庄中峰虚空蔵堂々免
八幡庄内谷中郷
八幡庄内谷中郷中山堂敷地并免田畠等
千田庄多古村内泉公堂免并跡田畠
八幡庄蘇谷郷内大田入道居屋敷田地
千田庄中村郷内南坊敷地免田
千田庄原郷内谷内堂免田地
千田庄原郷内多古村和泉公堂免
八幡庄曽谷郷内太田入道屋敷田地
千田庄中村郷内宮堂免田
中山本妙寺へ寄進
中山本妙寺へ寄進
中山本妙寺貫主・日祐へ譲与
蓮経阿闍利日胤へ寄進

日胤から日祐へ譲与



中山本妙寺へ寄進
『千葉胤継寄進状』
『千葉胤継寄進状』
『千葉胤継譲状』
『某具書案』

『日胤譲状写』



『千葉胤継寄進状』
・観応元(1350)年7月11日
・観応3(1352)年4月4日
千田庄内倉持阿弥陀堂々免
八幡庄蘇谷郷秋山村
真間山弘法寺へ寄進
立正阿闍梨御坊日宗へ寄進
『千葉胤継寄進状』
『千葉胤継寄進状』

●観応元(1350)年7月11日『千葉胤継寄進状』(『中山法華経寺文書』)

 奉寄進下総国千田庄中峰堂免
  
 右以中峰虚空蔵堂々免、為胤継之現当二世、所奉寄進也、将又、
 
 於此処者、至于子々孫々不可有違乱妨候、仍、為後日寄進状如件、
 
   観応元年七月十一日     平 胤継(花押)

●観応元(1350)年7月11日『千葉胤継寄進状』(『真間山弘法寺文書』)

 奉寄進下総国千田庄倉持堂免
  
 右以倉持阿弥陀堂々免、為胤継現当二世、所奉寄進御影宝前也、将又、
 
 於此処者、至于子々孫々不可有違乱妨候、仍、為後日寄進状如件、
 
   観応元年七月十一日     平 胤継(花押)
 
  真間御坊

●観応3(1352)年4月4日『千葉胤継寄進状』(『真間山弘法寺文書』)

 蘇谷郷秋山村内故胤貞寄進之外、悉寄進立正阿闍梨御坊日宗所也、
 
 任先例、可有御管領之状如件、
 
   観応三年卯月四日     大隅守平胤継(花押)

●観応3(1352)年4月25日『千葉胤継寄進状』(『中山法華経寺文書』)

奉寄進中山本妙寺
 
  下総国八幡庄内谷中郷田数坪付等別紙在之事、
 
 右、当郷内於亡父胤貞譲進分者、自公方御安堵之上者、不及子細、
 
 其外所不残一円但真間御堂寄進分并八幡社家知行分除之
 
 永代所奉寄進也、然者、子々孫々等之中、至背此趣輩者、
 
 永可為不孝之仁者也、仍、寄進状如件、
 
   観応三年壬辰卯月廿五日  大隅守平胤継(花押)

●観応3(1352)年6月29日『千葉胤継譲状』(『中山法華経寺文書』)

  可令大輔僧都日祐領知下総国八幡庄内谷中郷事、
 
 右、当郷内於中山堂敷地免田畠等者、亡父胤貞就猶子契約譲与畢、仍被成公方之安堵上者、
 
 不及子細、其外不残一円但真間御堂寄進分并八幡社家知行分除之大輔僧都日祐仁永代所譲与実也、
 
 之則且為訪代々之菩提、殊者為胤継現当二世所願成就也、然者子々孫々等之中、至背此趣、
 
 致違乱競望輩者、永為不孝之仁、不可知行胤継跡、仍、為後日、譲状如件、
 
   観応三年壬辰六月廿九日    大隅守平胤継(在判)

●延文5(1360)年年11月29日『某具書案』(『浄光院文書』)

  (前欠)
 早寄進申下総国千田庄多古村内泉公堂免跡田畠事、無残所、蓮経阿闍利御坊寄進申所也、
 
 仍寄進状如件、
  
   延文五年十一月廿九日
                 太隈守胤継(在判)
  若宮戸蓮経阿闍利御坊
 
 可有早御知行下総国八幡庄蘇谷郷内大田入道居屋敷一宇并田数七反六十歩事
 
 右、任先例、無相違可有御領掌
 
   (後欠)

●延文6(1361)年年11月2日『日胤譲状写』(『浄光院文書』)

  譲申所々堂免田事
 
 一 中村郷内南坊敷地免田一町二段
 
 一 原郷内谷内堂免田地一町在家一宇畠一段 坪付別紙有之
 
 一 原郷内多古村和泉公堂免田五反畠一反在家一宇
 
 一 曽谷郷内太田入道屋敷一宇田数七段六十歩
 
   右件堂免等者、自胤継日胤令相続処也本主胤継御素意法華寺御寄進地也、
 
   然日胤日祐之御代官、於彼寺居住間、日胤配身給処也、胤継任後本意、
 
   法花寺之貫主日祐譲申也、公私御祈祷精誠可有御申候、仍譲状如件、
 
    延文六年十一月二日        日胤(花押影)

●貞治5(1366)年12月15日『千葉胤継寄進状』(『浄光院文書』)

 寄進下総国千田庄中村郷之内、宮堂免田地等事
 
 右任先例、胤継為現当二世所願成就、中山本妙寺奉寄進処実也、
 
 仍為後日寄進状執達如件、
 
   貞治五年十二月十五日 
                  大隅守胤継(花押影)
  中山御坊中

●応安2(1369)年8月18日『千葉胤連譲状』(『宗像神社文書』)

  譲渡所領事

  筑前国宗像東郷内曲村地頭職公文職千葉前常陸介平胤連依為重代相伝之本領、
 
  手次之證文相副、舎弟宗杲上座譲与所実也、於子々孫々不可致違乱、仍為後日譲状如件、

   応安二年八月十八日
                千葉前常陸介平胤連(花押)

『本土寺過去帳』の「十四日」上段には、「下野日仙 九月 九州人タコニテ被害」とあり、九州から下総に下ってきた「下野日仙」なる人物が「タコ=多古」にいたことが記され、九州から移住してきた人物が多古で討ち死にしたと思われる。

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●千葉胤継は、曽谷日礼の娘・妙林院日貞と千葉胤貞との子か

 千葉大隅守胤貞の子・胤継が八幡庄を継承した背景には、八幡庄の豪族・曽谷教信(日礼)の娘・日貞が母であったからだろう。曽谷氏の系譜では、曽谷教信(日礼)の子に「千代寿丸・胤継」があり、この曽谷胤継と千葉胤継は同一人物を指しているか。

 日貞(妙林院)千葉胤貞に嫁し、建武3(1336)年11月19日に三河で胤貞が病死したことを聞くと、平賀本土寺の日伝のもとで得度して「日貞」を号し、読経の毎日を過ごした。ただし、胤泰・胤継へ譲状を渡した「千葉ノ大方」と「日貞」が同一人物だとすると、日貞が出家するのは彼らへの譲状作成ののちということになる。礼林寺の開山となり、父・曽谷日礼を祖と定めている。永和4(1378)年寂。

◆肥前千葉氏略系図◆

         +―千葉新介宗胤―――――――――千葉胤貞   
         |(千葉新介)         (大隅守)   
         |                 ∥―(?)―+―千葉胤平―――千田瀧楠
         |                 ∥     |(孫太郎)
         |                 ∥     |
   千葉介頼胤 |              +―日貞     +―千葉胤継―――千葉胤氏
  (千葉介)  |              |(妙林院)    (大隅守)  
     ∥   |              |
     ∥―――+       +―曽谷教信―+―伝浄―――――――曽谷典久―+―曽谷祐典
     ∥   |       |(日礼)   (1359)   (1388)|(1416)
     ∥   |       |                      |
 +―千葉泰胤娘 +―千葉介胤宗 +―□□□□―――法頂尼           +―日福
 |        (千葉介)            ∥
 |          ∥              ∥――――――千葉介氏胤―――千葉介満胤
 +―千葉泰胤娘    ∥――――――――――――千葉介貞胤   (千葉介)   (千葉介)
     ∥――――――娘           (千葉介)
   北条顕時

◆曽谷氏略系図◆

→曽谷重胤―□□―教信―――――胤継――――胤貞
        (次郎左衛門)(千代寿丸)(=教継?)


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