江戸氏は武蔵国豊島郡江戸郷を領した、武蔵秩父党の一族です。
武蔵秩父党は武蔵国衙にも深く関わる有力武士団として武蔵国に台頭し、武蔵七党などとも交流を持っていました。
その一族は、私領地を南に広げていく傾向にあり、多摩川沿いを開発したのが渋谷氏、そして太日川沿いに開発地を
広げていったのが江戸氏・葛西氏でした。江戸氏は江戸湾を望む一帯を開発し、河越氏・畠山氏とならぶ大きな力を
つけていくことになります。
■江戸氏略系譜■
秩父重綱―+―秩父重隆 +―忠重―+―重行――――重光――重房――重兼――兼忠―――――忠高――――――重景――重高―――高継――+
(秩父権守)|(留守所惣検校) |(太郎)|(小野太郎)(太郎)(三郎)(二郎)(太郎兵衛尉)(太郎左衛門尉)(太郎)(豊後守)(豊後守)|
| | | +――――――――――――――+
+―江戸重継――重長―+―親重 | |
(四郎) (太郎)|(二郎)| +―高政―――高盛
| | (左馬助)(左馬助)
+―師重 +―仲重――+―秋重
|(三郎) (又太郎)|(小太郎)
| |
+―重通 +―重家
|(四郎) |(次郎)
| |
+―重政 +―重高
|(五郎) |(三郎)
| |
+―重宗 +―重経
|(六郎) |(四郎)
| |
+―重時 +―重親
|(八郎) (五郎)
|
+―娘
(河野通有妻)
■出自不詳
江戸二郎朝重、江戸太郎重継江戸重継(????-????)
秩父権守重綱の四男で、通称は四郎。
武蔵国の有力在庁の子として、武蔵国の湾岸部・豊島郡江戸郷に入部して開発領主となりました。
江戸重長(????-????)
江戸太郎重継の嫡男で、通称は太郎。江戸氏は河越氏・畠山氏とならぶ武蔵国の有力な一族に成長しており、治承4(1180)年、河越重頼・畠山重忠らとともに三浦氏の居城・衣笠城を攻撃し、重長の郎従が三浦大介義明の首を挙げました。
『吾妻鏡』の治承4(1180)年9月28日の項に
「御使を遣はして、江戸太郎重長を召さる。景親が催しによつて、石橋合戦を遂ぐること、その謂れありといへども、令旨を守りて相従ひたてまつるべし。重能・有重は折節在京す。武蔵国においては、当時汝すでに棟梁たり。専らたのみ思しめさるるの上は、便宜の勇士等を催し具して、余参すべきの由と云々」
とあり、頼朝は、畠山重能・小山田有重兄弟が上洛して不在のため、重長が実質的な武蔵国武士団の棟梁であったと見ていたことがわかります。頼朝は重長に使者を送って参陣を促していますが、なかなか帰参しないため、頼朝は秩父一族の葛西清重に彼の暗殺を指示してもいます。
治承4(1180)年10月4日の項には
「畠山次郎重忠、長井の渡に参会す。河越太郎重頼、江戸太郎重長また参上す。この輩、三浦介義明を討ちし者なり。しかるに義澄以下の子息門葉、多くもつて御供に候じ、武功を励む。重長等は源家を射たてまつるといへども、有勢の輩を抽賞せられずんば、こと成がたからんか。忠直を存ずる者は、更に憤りをのこすべからずの旨、兼ねて以て三浦一党に仰せ含めらる。彼ら異心無きの趣を申す。よって各々相互に合眼して列座する者なり」
と、「重長等」と重長を秩父党の代表のような書かれ方がなされ、その翌日には
「武蔵国諸雑事等、在庁官人ならびに諸郡司等に仰せて、沙汰を致さしむべきの旨、江戸太郎重長に仰せつけらるるところなり。」
と、重長に武蔵国の諸雑事を在庁官人・諸郡司などに命じて執行させる権限を与えています。
養和2(1182)年正月28日、伊勢神宮への進物として、砂金・神馬を献じますが、この神馬10頭のうち、月毛一頭を献じています。
江戸忠重(????-????)
江戸太郎重長の嫡男。母は武蔵七党・横山党の小山次郎経隆の娘。通称は太郎。
元久2(1205)年6月22日の畠山重忠追討の軍勢に名を連ねています。
江戸重行(????-????)
江戸太郎忠重の嫡男。通称は小野太郎。
宝治2(1248)年8月15日、鶴岡八幡宮放生会に際し、将軍家御出の儀に、後陣の隨兵十一人の一人に「江戸七郎重保」の名が見える。
●鶴岡八幡宮放生会隨兵(『吾妻鏡』宝治二年八月十五日条)
| 先陣隨兵 | 北條六郎時定 | 武蔵太郎朝房 | 遠江新左衛門尉経光 | 式部六郎左衛門尉朝長 | 伯耆四郎左衛門尉光清 |
| 土肥四郎實綱 | 小笠原余一長経 | 出羽三郎行資 | 越後五郎時員 | 三浦介盛時 | |
| 御剣 | 武蔵守朝直朝臣 | ||||
| 御調度 | 伊豆太郎左衛門尉實保 | ||||
| 御輿 | 藤原頼嗣 | ||||
| 後陣隨兵 | 相模三郎太郎時成 | 千葉次郎泰胤 | 上野三郎国氏 | 里見伊賀彌太郎義継 | 薩摩七郎左衛門尉祐能 |
| 常陸次郎兵衛尉行雄 | 肥後次郎左衛門尉景氏 | 豊前左衛門尉忠綱 | 隠岐次郎左衛門尉泰清 | 加地太郎實綱 | |
| 江戸七郎重保 |
江戸重光(????-????)
江戸七郎重保の嫡男。通称は七郎太郎。のち長元と改めるか?
建長2(1250)年8月15日、鶴岡八幡宮放生会の後陣の隨兵に「江戸七郎太郎重光」の名が見える。その二年後の建長4(1253)年12月17日の鶴岡八幡宮社参に「江戸七郎太郎長元」が見える。
●鶴岡八幡宮放生会隨兵(『吾妻鏡』建長二年八月十五日条)
| 先陣隨兵 | 相模三郎太郎時成 | 武蔵四郎時仲 | 三浦介盛時 | 梶原左衛門尉景俊 | 上野五郎兵衛尉重光 | 常陸次郎兵衛尉行雄 |
| 足利三郎家氏 | 城九郎泰盛 | 北條六郎時定 | 遠江太郎清時 | |||
| 後陣隨兵 | 越後五郎時家 | 相模八郎時隆 | 武田五郎三郎政綱 | 江戸七郎太郎重光 | 出羽三郎行資 | 大泉九郎長氏 |
| 橘薩摩余一公員 | 土肥次郎兵衛尉 | 葛西新左衛門尉清時 | 千葉次郎胤泰 |
江戸重房(????-????)
江戸七郎太郎重光の嫡男。通称は三郎。
江戸重兼(????-????)
江戸三郎重房の嫡男。通称は次郎。
江戸兼忠(????-????)
江戸二郎重兼の嫡男。通称は太郎兵衛尉。
江戸忠高(????-????)
江戸太郎兼忠の嫡男。通称は太郎左衛門尉。
江戸重景(????-????)
江戸太郎忠高の嫡男。通称は太郎。
武蔵国から上野国新田郡に移住しました。
江戸重高(1492-1556)
江戸太郎重景の嫡男。通称は太郎、豊後守。法名は道悦。
上野国新田郡に館を構え、おそらく新田氏の被官であったと思われます。弘治2(1556)年8月7日、65歳で没しました。
江戸高継(1524-1586)
江戸太郎重高の嫡男。通称は太郎、豊後守。号は道仙。
上野国新田郡小林・館林・土橋村、川俣郷船戸・川村、下野国足利郡上塩多利・下塩多利村を所領とし、新田岩松氏の家老として、長尾但馬守とともに新田家政を取り仕切りました。天正14(1586)年8月27日、63歳で没しました。法名は水月禅光。
江戸高政(1558-1615)
江戸豊後守高継の嫡男。通称は左馬助。妻は金井越前守。
高政は徳川家康の関東入部とともにこれに従い、家康が江戸に居を定めたことから名字の「江戸」をはばかり、祖・江戸重行が称した「小野」に改めました。慶長5(1600)年9月の石田三成との合戦においては徳川秀忠の軍勢に加わり、上田城で真田昌幸・信繁父子と合戦に及びました。
元和元(1615)年9月23日、大阪夏の陣も終ったのち、58歳で没しました。法名は雪岩宗玄。
江戸高盛(1590-????)
江戸左馬助高政の嫡男。通称は左馬助。母は金井越前守。
慶長7(1602)年正月16日、13歳のときに将軍・徳川秀忠に初めて拝謁しました。そして慶長16(1611)年、阿部備中守に属して伏見城の城将を3年間つとめました。さらに大坂冬の陣・夏の陣に供奉し、元和2(1616)年、秀忠の家康への見舞いに供奉して駿府城へ赴きました。以降、江戸氏は旗本として、大坂城番与力や将軍の供奉などを勤めていくことになります。
翌元和3(1617)年、高木主水正に属して伏見城の守りにつき、元和5(1619)年5月8日、秀忠の上洛に際して供奉しました。そして同7(1621)年、高木主水正のもと大坂城を守り、同9(1623)年7月13日、秀忠の供奉をして上洛をはたしました。このとき、家光へと将軍職の継承が行われ、家光は初めて参内して征夷大将軍の宣下が行われました。寛永元(1624)年、松平出雲守に属して大坂城の守りにつきました。
寛永元(1624)年8月、家光の供奉をして上洛、寛永5(1628)年4月、家光の日光山参詣に際して供奉、翌年には松平出雲守に属して大坂城番与力、寛永10(1633)年4月、武家転奏をつとめる公家衆の旅宿の江戸に作る際、作事奉行に抜擢されました。そして同13(1636)年、大久保主膳正に属して大坂城の守りにつき、同15(1638)年、大久保主膳正が駿府城番になると、これに従って駿府城へ入りました。
★江戸氏の庶流★
江戸朝重(????-????)
江戸太郎重長の次男か。通称は次郎。
正治2(1200)年2月26日、頼家が鶴ヶ岡八幡宮に参詣した際の後陣の随兵として加わっています。
江戸重継(????-????)
通称は太郎。詳しい謂れは不明です。
この重継は重長の誤記か?もしくは重長らの父・江戸四郎重継か?
文治5(1189)年6月9日、鶴ヶ岡八幡宮の塔供養として、先陣の随兵に加わっています。
◎文治5(1189)年6月9日塔供養参列者◎
| 導 師:法橋観性 |
| 呪 願:若宮別当法眼円暁 |
| 請 僧:導師伴僧4人、若宮伴僧3人、計7人 |
| 願 主:源頼朝 |
| 奉 行:三善隼人佐康清、梶原平三景時 |
| 先陣随兵:小山兵衛尉朝政・土肥次郎実平・下河辺庄司行平・小山田三郎重成・三浦介義澄・葛西三郎清重・八田太郎朝重 |
| 江戸太郎重継・二宮小太郎光忠・熊谷小次郎直家・信濃三郎光行・徳川三郎義秀・新田蔵人義兼・武田兵衛尉有義 |
| 北条小四郎義時・武田五郎信光 |
| 御 徒:佐貫四郎大夫広綱(御剣)・佐々木左衛門尉高綱(御調度)・梶原左衛門尉景季(御甲) |
| 御 後:大内武蔵守義信・安田遠江守義定・伏見駿河守広綱・三河守範頼・大内相模守惟義・安田越後守義資 |
| 大江因幡守広元・毛呂豊後守季光・皇后宮権少進伊佐為宗・安房判官代源隆重・大和判官代藤原邦通 |
| 豊島紀伊権守有経・千葉介常胤・八田右衛門尉知家・安達右馬允遠元・橘右馬允公長・千葉大夫胤頼 |
| 畠山次郎重忠・岡崎四郎義実・安達藤九郎盛長 |
| 後陣随兵:小山七郎朝光・北条五郎時連・千葉太郎胤正・土屋次郎義清・里見冠者義成・浅利冠者遠義・三浦十郎義連 |
| 伊東四郎家光・曾我太郎祐信・伊佐三郎行政・佐々木三郎盛綱・仁田四郎忠常・比企四郎能員・所六郎朝光 |
| 和田太郎義盛・梶原刑部丞朝景 |
江戸親重(????-????)
江戸太郎重長の次男。通称は次郎。
文治5(1189)年7月19日、奥州へ向けて出陣した頼朝率いる正規軍に父・江戸太郎重長、弟・四郎重通、七郎重宗とともに参加しています。
◎奥州遠征頼朝供奉の武将《■:秩父党、■江戸氏》
| 大 将:源頼朝 |
| 先 陣:畠山次郎重忠→長野三郎重清・大串小次郎重親・本田次郎近常・榛澤六郎成清・柏原太郎(家子5騎) |
| 供 奉:大内武蔵守義信・安田遠江守義定・三河守範頼・加賀美信濃守遠光・大内相模守惟義・伏見駿河守広綱 |
| 足利上総介義兼・山名伊豆守義範・安田越後守義資・毛呂豊後守季光・北条四郎時政・北条小四郎義時 |
| 北条五郎時連・中原式部大夫親能・新田蔵人義兼・浅利冠者遠義・武田兵衛尉有義・石和五郎信光 |
| 加賀美次郎長清・加賀美太郎長綱・三浦介義澄・三浦平太義村・佐原十郎義連・和田太郎義盛・和田三郎宗実 |
| 岡崎四郎義実・岡崎先次郎惟平・土屋次郎義清・小山兵衛尉朝政・長沼五郎宗政・結城七郎朝光・下河辺庄司行平 |
| 吉見次郎頼綱・南部次郎光行・平賀三郎朝信・小山田三郎重成・小山田四郎重朝・藤九郎盛長 |
| 足立右馬允遠元・土肥次郎実平・土肥弥太郎遠平・梶原平三景時・梶原源太左衛門尉景季・梶原平次兵衛尉景高 |
| 梶原三郎景茂・梶原刑部丞朝景・梶原兵衛尉定景・波多野五郎義景・波多野余三実方・阿曽沼次郎広綱 |
| 小野寺太郎道綱・中山四郎重政・中山五郎為重・渋谷次郎高重・渋谷四郎時国・大友左近将監能直 |
| 河野四郎通信・豊島権守清光・葛西三郎清重・葛西十郎・江戸太郎重長・江戸次郎親重・江戸四郎重通 |
| 江戸六郎重宗・山内三郎俊経・大井次郎実春・宇都宮左衛門尉朝綱・宇都宮次郎業綱・八田右衛門尉知家 |
| 八田太郎朝重・二階堂主計允行政・民部丞平盛時・豊田兵衛尉義幹・大河戸太郎広行・佐貫四郎広綱 |
| 佐貫五郎・佐貫六郎広義・佐野太郎基綱・工藤庄司景光・工藤小次郎行光・工藤三郎祐光・狩野五郎親光 |
| 伊佐常陸冠者為宗・伊佐常陸次郎為重・伊佐三郎資綱・伊佐四郎為家・加藤太郎光員・加藤次郎景廉 |
| 佐々木三郎盛綱・佐々木五郎義清・曾我太郎祐信・小鹿島橘次公業・宇佐美三郎祐茂・二宮太郎朝忠 |
| 天野右馬允遠景・天野六郎則景・伊東三郎・伊東四郎成親・工藤左衛門尉祐経・仁田四郎忠常・仁田六郎忠時 |
| 熊谷小次郎直家・堀藤太・堀藤次親家・伊澤左近将監家景・大江右近次郎・岡部小次郎忠綱・吉香小次郎 |
| 中野小太郎助光・中野五郎能成・渋川五郎兼保・春日小次郎貞親・藤沢次郎清近・飯富源太宗季・大見平次家秀 |
| 沼田太郎糟谷藤太有季・本間右馬允義忠・海老名四郎義季・所六郎朝光・横山権守時広・水尾谷十郎 |
| 平山左衛門尉季重・師岡兵衛尉重経・小野刑部丞成綱・中条藤次家長・岡部六弥太忠澄・小越右馬允有弘 |
| 庄三郎忠家・四方田三郎弘長・浅見太郎実高・浅羽五郎行長・小代八郎行平・勅使河原三郎有直・成田七郎助綱 |
| 高鼻和太郎・塩谷太郎家光・阿保次郎実光・宮六傔仗国平・河匂三郎政成・河匂七郎政頼・中四郎是重 |
| 一品房昌寛・常陸房昌明・尾藤太郎知広・金子小太郎高範・河村千鶴丸季清 |
| 佐竹四郎隆義(宇都宮で頼朝に参じる。頼朝、佐竹の無紋白旗を咎め、扇を与え旗の上に付けさす。同氏家紋) |
| 城四郎長茂(元越後国司。囚人だが、今回彼を登用すると、離散していた彼の旧臣が群集した) |
江戸重通(????-????)
江戸太郎重長の四男。通称は四郎。
文治5(1189)年7月19日、奥州へ向けて出陣した頼朝率いる正規軍に父・江戸太郎重長、兄弟の忠重・重宗とともに参加しています。
江戸重宗(????-????)
江戸太郎重長の七男。通称は七郎。
文治5(1189)年7月19日、奥州へ向けて出陣した頼朝率いる正規軍に父・江戸太郎重長、兄弟の忠重・重通とともに参加しています。