総泉寺(東京都板橋区小豆沢3-7-9) ●MAP● | ||||||||||
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創建は建仁元(1201)年2月とされ、開基は千葉介と伝わっています。この当時の千葉介は千葉介胤正(千葉介常胤嫡男)ですが、当時、浅草の地は江戸氏(秩父一族)が支配していた場所と思われ、はたして千葉介胤正がこの地に寺院を建立したのか不明です。 千葉介守胤は下総千葉介兼胤の二男・千葉胤賢(中務丞)の二子・千葉介自胤の嫡男にあたります。康正元(1455)年、守胤の祖父にあたる胤賢(千葉中務入道日了)が家臣・原越後守胤房によって下総国小堤に討たれたのち、自胤は兄の千葉実胤(七郎)とともに武蔵へ逃れ、子孫は武蔵千葉氏となりました。 @千葉介兼胤―+―A千葉介胤直―+―B千葉介胤将 守胤がいつ総泉寺を中興開基したかは不明ですが、守胤は弘治2(1556)年11月8日に亡くなったと伝えられ、法名は「總見寺殿長山昌撤」と伝わります(『臼居家正譜』)。守胤の家臣・砂尾修理が守胤を祀るために総泉寺に「千葉塚」を建立したと伝えられています。また、『千葉大系図』には、千葉介親胤の項目に、「又號総泉寺殿長山昌暾大居士、家臣砂尾修理於領地武州橋場古寺立廟塔為法事、改総泉寺寄附寺領、可謂忠臣矣」とありますが、千葉介親胤の「家臣」と記されている「砂尾修理」が武蔵に「領地」を有していたとは考えにくく、おそらく千葉介守胤のことか。
昭和3(1928)年に総泉寺が隣に移ってくると、大善寺は総泉寺に併合され、清水も亀山壮庭園として整備されましたが、戦中戦後の混乱の中で荒廃してしまいました。これを板橋区が、『江戸名所図会』に見える大善寺の庭園図をもとに整備を行い、平成元(1989)年12月、「薬師の泉庭園」として開放しました。現在、庭園は区の記念物に指定されています。 ■総泉寺の概要■
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