2004年8月 相馬の旅

相馬氏の旅

相馬の旅



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奥州の千葉一族探訪

●涌谷伊達家の本拠・涌谷町を訪ねる

 8時45分、今日はイイ天気です。ホテルをチェックアウトして仙台駅に。今日はここから電車に乗って、北の涌谷町へ行きます。涌谷は千葉介常胤の三男・武石三郎胤盛の子孫・涌谷伊達家が江戸時代に治めていた土地です。仙台藩六十二万石の一門という藩内ではとても格の高い家として尊敬されたりしてます。いわゆる「伊達騒動」を小説にした司馬遼太郎の『樅の木は残った』の主人公、伊達安芸宗重はまさにこの涌谷伊達家の当主です。「伊達騒動」は、わずか二歳の伊達亀千代が仙台藩主になったため、一門の伊達安芸と伊達兵部が互いに派閥をつくって対立し、大きな騒動になってしまった事件です。仙台と涌谷の旅は、この「伊達騒動」をちょっとまわってみようという意味もあります。

 涌谷伊達家の祖はもともと亘理郡を本拠地にしていたため「亘理」を名乗っていましたが、伊達家と親戚になって支配下に取り込まれ、伊達家から養子が入るなどして伊達一門になりました。亘理美濃守重宗は相馬領と伊達領の境を守り、相馬家の侵攻を見事に防いだ伊達家の名臣です。江戸時代に入ると亘理家は亘理郡から涌谷へ領地が移され、「涌谷伊達家」となりました。

涌谷城遠景 涌谷駅を降りると……あっつ~~。まだ9時半なのにもう熔けそうな暑さです。地図を見ると、駅から涌谷城まではたぶん20分くらいと思われます。コンビニでちょろっと腹ごしらえをし、涌谷城方面へ向かいます。…江戸時代は基本的に一つの藩に城はひとつしか認めないので、涌谷城は「要害」という位置づけとされた城でした。

 しばらく歩き、江合川にかかる橋から、高台に立派なやぐらが遠くから見ることができるはずでしたが、城にある博物館に緑のシートがかかってます。もしや工事中? これからその博物館に行きたいのですが(^^; 調べてこなかったからなぁ・・・。橋を渡りきると、堤防の上には延々と白い城壁のような壁が続いています。この壁は最近造られたものなので、ずいぶんと凝った演出です。

 城に向かう前に、まず涌谷伊達家の菩提寺、見龍寺涌谷町涌谷字龍渕寺)に行くことにしました。橋を渡って700メートルくらい直進し、右手に曲がって水路に沿って歩くと、左手に寺の看板が見えてきます。あまりお寺という感じのしない、開放的なイメージです。石段を登って本堂にお参りして、大きな屋根を見上げると、屋根には真向月星九曜紋が光っています。本堂の左手には、りっぱな玄関がありますが、本堂に直接繋がっているこういった玄関はあまり見たことがありません。

涌谷伊達家廟 寺のとなりには、歴代領主の廟所があって、門には縦三引と月九曜が刻まれています。縦三引は伊達家の家紋、月九曜は武石氏の家紋です。江戸時代にも涌谷伊達家は千葉一族ゆかりの家紋を使っていたことがわかります。

 廟の門は閉まっているので中を見ることはできませんが、廟の配置図が丁寧に書いてあるので、大体の内容はわかるようになっています。中心にあるのは、やはり伊達安芸宗重夫妻の廟所です。

千石家 見龍寺を見たあと、涌谷城へ向かいました。途中、涌谷伊達家の家老をつとめた千石家の「薬医門」(涌谷町涌谷字下町)がある。千石家も亘理家から分かれた一族なので、やはり千葉氏の末裔です。武石氏(亘理氏)も相馬家と同様、鎌倉時代に奥州に移ってから江戸時代まで領地が変わらなかったので、一族が宿老として主家を支えていた典型的な家でした。千石家の「薬医門」は木造で小さく、つくりも質素です。千石家は二万石の涌谷伊達家の家老なのに、屋敷はこんな質素な門構えだったのか~。ちょっと暑すぎるので、ここで一休み。

 門で涼んだあと、すぐ目の前にある涌谷城に入ります。しかし、城内の涌谷神社へ続く参道入口には工事のポールが置かれていて入れなさそう。石垣の上にある天守っぽい博物館もやはり休館のようです。残念!

涌谷城 涌谷城

 涌谷神社から入れないので、いったん城前の通りに出て、駐車場から城内に入ることにしました。坂道を登った先の駐車場からの眺めはとてもいいですが、なにしろ暑い。長い間日なたにいると、ジリジリ焦げそう。

伊達安芸 駐車場から少し行くと、涌谷神社涌谷町涌谷)がありました。夏場なので葉っぱが生い茂って、神社までなんとも入りづらいのですが、ここまで来たんだからお参りだけはしておかないと、ということで、参道を入ってしばらく歩くと、参道脇に胸像がありました。「伊達騒動」で殺害された伊達安芸宗重の胸像です。伊達家の内紛を江戸にまで出向いて収め、その裁判で勝った直後に政敵とされる原田甲斐宗輔に殺害されました。その宗重を祀っているのが、この涌谷神社です。涌谷神社には桜がずわーーーっと生い茂っています。桜の季節はすごいんでしょう。でも、いまは桜の葉っぱがすごいです。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

 涌谷神社を出て城をおりると、アスファルトはものすごい照り返しでまぶしく、目がおかしくなりそうです(-_-)

涌谷八幡神社 脇の小道に逃れ、涌谷伊達家が建立した妙見神社に向かいました。途中、涌谷八幡宮下の水路で、子供が麦藁帽子をかぶってザリガニをとっていました。東京じゃあんまり見られないほのぼのとした風景です。

 ついでなので、この八幡宮にも寄っていくことにしました。しかし、この神社は、あまり整備されていないようで、ちょっとガタつく階段もありましたが、なんとか頂上まで登ってお参りしてきました。

涌谷妙見宮 また一苦労して八幡宮の階段を降り、左手に歩いていきます。すると、ようやく目的の妙見神社が見えてきました。亘理家は「伊達」を名乗るようになっても、千葉一族の守護神を祀ることを決して忘れませんでした。実は、涌谷伊達家は妙見、九曜紋、月星紋についての調査のために千葉の金剛授寺尊光院(現在の千葉神社)に調査団を派遣しているほど、千葉氏や妙見に深い関心を持っていました。その報告書について、千葉市立郷土博物館によって調査がなされていますので(千葉市立郷土博物館『研究紀要』1997第3号)、興味がある方は千葉市郷土博物館へどうぞ。

 さて、公園の脇道を入り、広めの参道を歩いて鳥居をくぐると、また長い階段です。しかも、この神社の階段もガッタガタで危険この上ない状態です。せっかく広い階段で立派なのにまるで台無し。氏子または涌谷町は先ほどの八幡宮もそうですが、しっかり整備するべきでしょう。うっかり登ってケガでもしたら問題になります。境内にも崩れたままの石組みが野ざらしになっていたり、このへんもキレイにしといたほうがいいと思われます。

 この妙見宮を見て、涌谷の見学はおしまいです。ここから涌谷駅に戻りますが、その途中にあった涌谷第二小学校の校章がなんと月星紋! 面白いものを見ました。 

 さて、昼をまわっているので、早めに仙台に戻らないと仙台の散策ができなくなります。ということで急ぎで仙台に戻ることに。時間があれば松島にも足を延ばしたかったのですが、そんな時間はなくなってしまいました(T_T) 

●仙台市内の伊達騒動跡地をめぐる

主な伊達安芸派 主な伊達兵部派
伊達安芸宗重 伊達兵部少輔宗勝
奥山大学常辰 原田甲斐宗輔
柴田外記意朝 津田玄蕃景康
古内志摩重如 高泉長門兼康
片倉小十郎景長 志賀右衛門由清
茂庭周防姓元 浜田一郎兵衛重次
里見十左衛門重勝 今村善太夫安長
伊東七十郎重孝 横山弥次郎右衛門元時
蜂谷六郎左衛門可広 早川淡路永義
  渡辺金兵衛義俊

 仙台に着き、まず伊達安芸派の柴田外記朝意の屋敷跡を見にいきました。外記は安芸といっしょに裁判のために江戸の酒井大老の屋敷に赴いて、安芸に斬りつける原田甲斐の刀をを斬殺しましたが、酒井家の家臣に間違って斬られて重症を追い、亡くなった人物。屋敷はいまの東北福祉大学キャンパスにあたります。

 左手に東北福祉大学を見ながら道なりに右のほうへ曲がり、直進すると、東北大学の正門に出ます。このあたりが伊達式部宗倫(伊達忠宗子)の屋敷跡。彼も伊達安芸宗重派で、式部と伊達兵部の領地争いが、伊達騒動の一件にも関わっていきます。

 東北大学の正門から少し北にいくと、片平市民センターにつきます。このあたりが仙台藩の牢獄があった場所。そして、その斜め前には田村左京大夫宗良(伊達忠宗三男)の屋敷がありました。田村左京大夫は亀千代丸の後見人をつとめ、伊達宗重派の巨頭の一人。現在の放送大学の敷地内です。裏門から入れるので入ってみましたが、今は屋敷に関するものはなにも残っていません。

原田甲斐屋敷跡 外に出て、仙台高裁へ向かいます。この仙台高裁の半分が伊達安芸と対立していた原田甲斐の屋敷跡です。原田家は伊達家宿老の家柄。伊達兵部宗勝に味方して安芸宗重と対立関係にありました。

奥山大学屋敷跡 そして仙台高裁の北半分から仙台家裁のあたりまでの広大な一角が、安芸派の巨頭、奥山大学常辰の屋敷です。奥山家はもともと相馬家宿老の木幡家嫡流ですが、大学の曽祖父が相馬盛胤に疑われて殺害されたため、大学の祖父が伊達家を頼り、重臣の列に連なりました。そして奥山大学の屋敷跡から大通りを挟んで斜め向いにあったのが、伊達安芸派の重臣・古内志摩重如の屋敷茂庭周防姓元の邸です。茂庭周防の屋敷跡には仙台大神宮が建っています。その隣は水沢領主・伊達上野宗景の屋敷です。

 道なりに坂道を登っていくと、大町交差点に出ます。この交差点の桜ケ丘公園の向いにあったのが、片倉小十郎景長の屋敷です。今はヤナセの販売店があるあたり一帯100メートル四方ほどになりますが、白石城代を務めた安芸派の重鎮です。片倉小十郎といえば、伊達政宗の右腕として有名な片倉小十郎景綱がいますが、景長は景綱の孫にあたります。騒動の後始末を迅速に行い、伊達家を改易から救った立役者です。その北隣が亘理領主・伊達安房実氏の屋敷跡。亘理伊達家は伊達政宗の従弟で片倉小十郎とともに有名な伊達安房守成実の子孫です。その北隣が仙台藩一族・石母田織部永頼の邸跡、そしてその北隣が伊達安芸宗重の邸跡になります。伊達安芸邸は東西100メートル、南北120メートルほどにもなる広大な敷地で、安芸の宿敵とされている伊達兵部宗勝の屋敷跡は、安芸の屋敷から200メートルほど北に行った一角、長谷学園のあるあたりにありました。

 これら重臣たちの屋敷の対岸には御小人衆の長屋が連なっていて、今は桜ケ丘公園となっています。公園の中には桜岡八幡宮がありますが、この八幡宮は歴代藩主の信仰篤い神社でした。

 こんな感じにくるくると市内を廻っていたら、いつの間にか4時を廻っていま す。上野行きの新幹線は18時50分発なので、あと3時間。これから仙台藩六十二万石の居城、青葉城を見なくちゃいけない。時間的にもう瑞鳳殿(政宗のお墓)は見れないので、今回は仙台城にしぼることにします。

 目指す仙台城は……あんなに遠いっ!! もっと近いものかと思ってました…。桜ケ丘公園の脇を走る大通りを城山目指して歩いていくと広瀬川にかかる100メートルもの橋を渡ります。そして対岸に見える山、あれが仙台城です。

 
 ▲大手門へ向う道        ▲仙台城大手門脇櫓

 この橋を渡ってさらに250メートル、下って登ります。その坂道を登ったところに、かつて大きな大手門がありましたが、仙台大空襲で焼失! もったいない。。。

 大手門跡をくぐれば、案外早く城址公園につくとは思いましたが、それは大きな間違いでした。600メートル以上も急な坂道を登り続ける上、途中から歩道が整備されなくなるので、ビュンビュン登ってくる車のことも考えつつ登らなくてはいけません。せめて歩道くらいもうちょっと整備してほしいものです。

 やっとのことで頂上にたどり着くと、本丸の巨大な石垣が飛び込んできます。石垣にはこれを運んだ大工のものか、色んなマークが刻まれています。

  

 そして、大きな階段を登って広大な本丸跡に立つと、仙台市内が一望できます。いやぁ、よく登ってきたもんです。すぐ後ろには有名な伊達政宗の騎馬像が市内を見下ろしています。

 今回の相馬、涌谷、仙台の旅はここでおしまい。時間を見ればすでに17時。電車の出発まであと2時間くらいです。途中で晩飯を食べてちょうどいい時間です。…でも、またあの坂を下りて、あそこに見える橋をまた渡るんだなぁ…駅まで1時間くらいかかるかも(^^;

おしまい

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