2004年8月 相馬の旅

相馬氏の旅

相馬の旅



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奥州の千葉一族探訪

●相馬の菩提寺めぐり

 2時10分ごろ、相馬駅に到着。まちはとても静か。駅に降り立つ人もまばらです。

 目的地は、相馬昌胤ゆかりの涼ケ岡八幡宮、都玉神社、相馬家菩提寺の洞雲寺です。もう少し早く着いてれば、歩いて行こうと思っていましたが、今日の宿は相馬ではなく仙台で取っているので、あまり時間が遅くなると若干マズいので…タクシー(^^;。

 相馬駅前には結構タクシーが並んでいます。タクシーの運転手に「涼ケ岡八幡宮まで」というと、ほいきたと車を走らせてくれます。相馬は観光地ということもあってか、こういう地方の運転手さんはきさくです。東京では何様だというような運転手が結構いますが、ココロの余裕というか持ち様が違いますね。

 そして、十分ほどで八幡宮に到着。距離にしても五キロほど。ここの駐車場でタクシーに待っていてもらい、その間に八幡宮に参拝しました。真っ赤な楼門は、大聖寺に祀られている相馬昌胤の寄進です。史書にはここには御一家の人々が奉納したという燈籠があると書いてありましたが、すでにそれはありません。

 境内には、冤罪で処刑され祟り神になった家老・門馬八郎兵衛隆経を祀った「體興霊神」が城下から遷座されていました。その「祟り」は凄まじいものだったようで、当時の藩主・相馬恕胤は京都の吉田神道宗家に鎮魂の依頼をしたほどでした。小さな社ですが、ワタシも念入りにお参りしておきました。

 駐車場に戻り、次の目的地の「都玉神社」へ行ってくれるように言いましたが、場所を知らないとのこと。あんまり有名じゃないんだなぁ。ワタシもどんな神社なのかさっぱりわからないので、とりあえず地図を見せると、「あ~~! あの神社かな?」とさっそく車を走らせてくれました。そして八幡宮正面の細い小道を走り、常磐線の踏切を渡った直後の左手にその鳥居が見えました。駐車場はなく田んぼのあぜ道に駐車するほど小さな神社です。タクシーのおじさんは 、

「ここから見ると神社の鳥居とかも撮れるよ! ちょっとまってて車動かすから」

と、タクシーをわざわざ動かしてくれました。その好意に甘え、鳥居の写真を撮ってみました。

 この「都玉神社(くにたまじんじゃ)」は、相馬昌胤の三男坊・相馬都胤(くにたね)が埋葬されている奥津城でもあります。都胤の魂を祀るから「クニタマ」と思われます。

 …とりあえず、またタクシーを待たせて、鳥居をくぐり山に入ってみました。 しかし、あんまり待たせているとお金がかかるし、ここは小さそうだから、さささーっとお参りして……と思いきや、参道は意外に長い! しかも、キレイに砂利が敷かれて整備され、静寂に包まれて、 いかにも神社という感じです。ただ、杜の中には昨日の雨の湿気が籠もって、かなり蒸しています。。。メガネも曇ってしまい、拭かないと何も見えません!

 参道を少し歩いた参道の先にある石段を登ると、近所の人以外は誰も来ないんじゃないかという感じの社殿がありました。境内の松の間には二つの石灯籠。都胤の父・昌胤と兄・尊胤が都胤の冥福を祈って奉納したものでした。

 都胤は昌胤の隠居後の子供であり、昌胤は寵愛していたようです。珍しくその姿絵まで書かせています (都玉神社に奉納されています)。しかし五歳の幼さで亡くなり、その嘆きとともに昌胤は都胤をこの山に埋葬しました。朱をつめた石棺が使われたというから、その哀悼の意の強さがうかがえます。

  さて、社殿の左側には小さな低い朱の鳥居があり、市が建てた史跡票には「相馬都胤廟」とあります。あとで考えると、不謹慎ながらPSのゲーム「かまいたちの夜 監獄島のわらべ唄」っぽい雰囲気ではあったかも。でも、そのときは「コワイ」とかそういうものはいっさい頭にありません。ただ「史跡をめぐってお墓参りをする」という事しか考えていませんでした。

 この低い鳥居をくぐって、熊笹の生い茂るじめじめしたケモノ道をひたすら登ります。クモの巣もすごく、最近は誰も登っていないことは明らかな感じ。落ちていた木の棒でクモの巣を払いつつ、蚊を追っ払つつ登っていくと、急に開けた広場に出ます。そこには土盛の塚がひとつ、両脇に石灯籠、そのとなりに相馬市の説明看板が建てられていました。この塚が相馬富松都胤の墓所です。本当は、この灯篭のところまで行って、誰の奉納かをも見たかったのですが、耳元でヤブ蚊が「プ~~~ン」とウルサく飛び回っているので、塚に拍手を打ってお参りし、急いでもと来た道を下ります。湿気が多く、その分ヤブ蚊も相当飛び交っています。

 また小さな鳥居をくぐって神社の境内に戻りましたが、服を見ると、シャツは露に濡れてびしょびしょ、ジーンズに至っては泥撥ねまで。これはこのままタクシーに乗ったら、あの純白のシートが汚れてしまうな。。。というワケで、たまたま持っていたポケティで拭く! さらに拭く!! 泥さえ取れれば文句は言われまい。がんばってなんとかドロドロは取れたのでタクシーに戻り、タクシーの冷房で一気に服を乾かします。

 続いて行ってもらったのが洞雲寺。ここは相馬家の女性や子供の菩提寺です。もともと長松寺というお寺で、初代藩主・相馬利胤の奥さんだった長松院殿(徳川秀忠養女)の菩提を弔うために建立されているので、代々の殿様の奥さんなどが葬られるようになったんでしょう。長松寺はいまは南相馬市に移転されて、すっかり寂れているようです。タクシーとはここでおさらば。ありがとうございました!

 お寺の山門をくぐると、立派な本堂。今日はなにやら講話が開かれているようなので、遠くからお参りしてそのまま藩侯家の墓参に。一般の墓地から土の坂を登った先に、森に囲まれた静かな空間に藩侯家の墓所はありました。石垣の入口から続く石畳、そこに巨大な五輪塔が整然と並んでいます。誰々の墓とは紹介されていませんが、その墓石には風化してうっすらですが、わずかに元号が確認できます。大きな六基の五輪塔のほか、小さいお墓にもお参りをして、廟所を出ます。そして、そこからさらに高台にある、相馬家の名臣・草野正辰一族の墓参をしてきました。草野正辰は天保の大飢饉に見舞われた相馬中村藩に、二宮尊徳の報徳仕法を持ち込んで、復興の足がかりを築いた名士です。


▲相馬家菩提寺・洞雲寺の相馬家墓所の配置図と刻まれている没年から導いた被葬者。

 洞雲寺を出たらあとは相馬駅から仙台へ向かうだけですが、夏の暑さに加えて湿気がすごく、さっきの都玉神社で濡れた服はまったく乾く気配はありません。なんともこの不快感はぬぐえません。

 相馬駅に向かう途中、相馬家の居城・中村城に立ち寄りましたが、野馬追いのときの喧騒はどこへやら、雨模様もあって城はひっそりと静まり返り、寂しいものでした。

 城内妙見曲輪にある中村神社にお参りして、お城の裏門から反対側に出ます。中村城の北西部、ここは御一家筆頭の岡田家の屋敷があったところで、専用の曲輪と家臣の屋敷を置くことが許されていました。岡田家は鎌倉時代に相馬宗家から分かれたもっとも古い一族で、別格の存在でした。そんな別格の岡田家は江戸時代を通じて忠実に殿様の指示に従い、血縁関係も藩公や他の御一家、藩士と複雑に結ばれていました。

 さて、今日の旅はこの辺でおしまい。 ちょっと大手先門のほうに廻って、相馬市役所前の「まる久」というそば屋へ。ここのそばは絶品! 店の雰囲気も落ち着いていて、相馬に来るたびに寄っているお店です。まだ濡れている服を冷房で乾かし、腹ごしらえもすんだところで、旅館をとっている仙台に向かうことにしました。 

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