相馬野馬追が終わってはや一月。ふたたび東北へ旅立ちました。
今回の旅は、相馬はもちろん奥州武石氏(涌谷伊達家)の地元も訪れ、さらに時間があったら仙台市内の散策までしてしまおうという企画です。
また早朝起きで、朝イチの特急に乗り込んで一路福島県へ向います。ただ、今回は「相馬」ではなく、まず「浪江」へ行きます。実は浪江には相馬家の菩提寺があるのです。
五代藩主・相馬昌胤は、家督を譲ったあと浪江に隠居御殿をつくりました。もともとは藩祖・相馬利胤の父、相馬長門守義胤が隠居していたところでしたが、昌胤が病気療養のために湯治にきたとき、ここが気に入り、御殿をつくったとのこと。このとき村の名前も泉田村から「幾世橋(きよはし)村」と改称。末っ子の東千代松と一緒に移り住みました。千代松はのちに七代藩主・相馬尊胤となります。
なお、相馬家では、庶子に「千葉」「東」という千葉六党にちなむ名字をつける慣わしがありました(千葉、東は相馬とともに天女を母とするという羽衣伝説があり、それに因んでいると推察)。昌胤はこの御殿で八人の子に恵まれ、昌胤はそれらの子をとてもかわいがりました。
享保13(1728)年10月6日、相馬昌胤は幾世橋御殿で亡くなりました。その御殿跡に建立されたのが「興仁寺」です。興仁寺はのちに中村城下に移され、その跡に大聖寺が移され、現在に至っています(相馬家の菩提寺は場所はそのままに寺が入れ替わるケースがあり、これも寺院の引越であって建物はそのまま使用されたと思われる)。
11時過ぎに浪江駅につき、駅前でタクシーをひろって大聖寺へ向かいます。
大聖寺まではタクシーで駅から6~7分ほど。階段を登って古い山門をくぐりました。この山門は隠居御殿の裏門で、つくりは大変質素。お寺に入ると、目の前には立派な本堂、左手には梵鐘があります。本堂にお参りを済ませてから境内を散策。境内の斜面には天然記念物のアカガシがあります。
本堂の裏手には、中村藩特有の家格である「在郷給人」だった渡部家の屋敷が移築されています。
この屋敷は、文化8(1811)年に建築されたもので、在郷給人という禄も百石以下、半農の武士の屋敷としてはけっこう立派なつくりです。まだ天保の大飢饉前で、天明の大飢饉からは三十年も過ぎていたころなので、藩士の生活にはいくぶんかの余裕があったのかもしれません。
渡部屋敷の裏手には御殿の土塀が残っています。境内の裏手はうっそうとした杉林に覆われていますが、ここはかつての御殿の池跡とのこと。
杉林のなかを一本の道が続いていて、この先に御殿があったようです。いまでは大聖寺の墓地になっています。今日はちょうどお盆ということもあって、お墓参りに来ている人たちがぽつぽつと目につきます。そして、その墓地の一角に生垣に囲まれた昌胤一族の廟所がありました。この霊域の門前には、戊辰戦争で官軍によって捕らえられ、浪江で処刑された中村藩重臣・脇本喜兵衛正明の墓が建っています。
昌胤一族の墓は、墓前の立札によれば、昌胤、昌胤妻(水戸光圀姪)、尊胤、尊胤妻(本多康慶娘)と記載されていましたが、廟所に入ってみると10基以上のお墓がありました。法名までは確認できませんでしたが、小さいものは昌胤の子供たちのお墓と思われます。
相馬家の記録をみると、ほかに昌胤の娘の於万・於倉・於吉・於よめ・於初と四男・相馬内匠がここに埋葬されているようです。
相馬弾正少弼昌胤 | 建徳院殿勢譽峻巌孔昭大居士 | 享保13(1728)年10月6日逝去 68歳 | ||
多禰姫 | 相馬昌胤夫人 | 本立院殿卓然貞高大姉 | 正徳元(1710)年6月4日掩粧 58歳 | 松平刑部大輔頼元娘 |
相馬讃岐守尊胤 | 寿高院殿仁譽廉節瑞巌大居士 | 明和9(1772)年4月6日逝去 76歳 | ||
丈姫 | 相馬尊胤夫人 | 実相院殿操譽貞光妙英大姉 | 明和7(1770)年11月2日 | 本多隠岐守康慶娘 |
於万 | 相馬昌胤娘 | 慈照院殿芳室覚幻大童女 | 正徳3(1713)年9月4日早世 3歳 | |
於倉 | 相馬昌胤娘 | 清光院殿華顔良昭大童女 | 正徳5(1715)年9月8日夭折 13歳 | |
於吉 | 相馬昌胤娘 | 瓊瑤院殿霊光智瑩大童女 | 正徳4(1714)年8月2日蚤世 当歳 | |
相馬内匠 | 相馬昌胤男 | 定水院殿蘭秀流芳大童子 | 享保10(1725)年7月12日夭折 9歳 | |
於よめ | 相馬昌胤娘 | 月桂院殿曉雲瑞光大童女 | 享保10(1725)年8月22日蚤世 5歳 | |
於初 | 相馬昌胤娘 | 玄曠院殿崇譽瑩宝葆貞大姉 | 元文4(1729)年4月23日 | 松平肥前守武雅許婚 のち毛利但馬守広豊許婚 |
今回の旅路は一泊二日、あまり時間もないので、大聖寺にもう一度お参りをして、近くの初発神社へ向かいました。初発神社はすなわち妙見様です。池と池に囲まれた「神社」という感じの神社。相馬昌胤が浪江に移ったとき、中村城内に祀られていた「養真堂」という神社を遷してきて祀ったのが始まりとのこと。
あとは浪江駅に戻るだけですが、かつて相馬家と合戦して滅ぼされた名族・標葉氏の居城「権現堂城」が近くにあるので、そこの見学。初発神社の前の道を歩いて、請戸川にかかる橋をわたります。その脇のサイクリングロードを川に沿ってしばらく歩いていきます。いい天気で、夏草の湿り気とにおいがモワッとしています。雲雀が鳴いていてとても長閑です。
しばらく歩いていくと、橋の向こうにこんもりとした山が見えてきました。これが標葉氏最後の城、権現堂城です。さすがに川を渡って城跡まで行く気にはなりませんが、川近くでなかなか攻め難そうです。相馬氏は標葉氏の一族を内応させて、この城を攻め落としました。
権現堂城を遠目に見て、浪江駅に戻りました。時刻は1時半。電車が来るまでまだ30分くらい時間があったので、線路の裏手にある図書館に行こうかとも思いましたが、ギリギリになって走るのもイヤなので、このまま浪江駅で暇をつぶすことにしました。