松月院(東京都板橋区赤塚8-4-9) ●MAP● | ||||||||||||||
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武蔵千葉氏の祖・千葉実胤(七郎)の居城であった赤塚城と谷津を挟んだ対山上にあり、開基は寺伝によれば実胤の弟で石浜城主(台東区橋場周辺)の千葉介自胤が中興の開基とされます。延徳4(1492)年、自胤は松月院を菩提寺と定め、寺領を寄進しました。開山堂には自胤の位牌が祀られ、本堂の西側にある墓所には自胤や比丘尼了雲の石碑があります。自胤以降も、武蔵千葉氏の帰依を受け、今でも数多くの寄進状が残されています。
天正19(1591)年、関東地方に入部した徳川家康は、関東各地の寺院に寺領安堵の書状を発給していますが、松月院にも四十石の朱印状が発給されました。その後も歴代の将軍が寺領安堵の朱印状を松月院に渡しています。 天保12(1841)年、高島秋帆が幕府の命を受けて徳丸が原において洋式大砲の試射訓練を行いましたが、その前夜、本陣を松月院に定め置いたことから、高島秋帆の遺品などが残され、大砲の形をした顕彰碑も建てられています。 松月院は数多くのしだれ桜や梅の木があり、春になると数多くの参詣者でにぎわいます。さらに秋には菊の展覧会が催されており、こちらも人気があります。 境内にある榎の木は、三遊亭圓朝の「怪談乳房榎」で知られる榎です。かつてこの榎の場所には塚があり、村人たちから信仰されていたといわれています。
寺を出て松月院通りを渡り、やや左に曲がる坂道を下ってはじめの信号を右に曲がると古びた階段があり、その階段を登ると「松月院大堂」という阿弥陀堂があります。この阿弥陀堂は奈良時代に建立された寺院で、南北朝時代以来、七堂伽藍を備えた広大な寺院だったようで、「大堂」と称されていました。 この大伽藍は永禄4(1561)年3月、越後の長尾景虎が関東管領・上杉憲政の命を奉じて小田原に攻め寄せた際、長尾勢の焼き討ちにあって壮大な伽藍は灰燼に帰してしまいました。 しかし、暦応3(1340)年銘の梵鐘(建長寺四十二世・中岩円月和尚の銘文)と、鎌倉時代に製作されたと伝わる本尊・阿弥陀如来像は江戸時代になっても著名で、同じ敷地に祀られていた八幡社とともに数多くの参詣者が訪れたと記録されています。今では無住の一堂宇が寂しげに建っているのみで、当時のにぎわいをうかがうことはできません。 ■松月院の概要■
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