佐賀県二日目。朝からバスに乗って佐賀藩主鍋島家の菩提寺である高伝寺へ向かいます。ここには鍋島家だけではなく、室町時代、鍋島家の主家だった龍造寺家も一緒に祀られています。
佐賀駅南バス停から市内循環バスで高伝寺前まで乗ります。途中、会社に出社する人たちが次々と降り、いつしかバス内でひとりに。そういえば今日は平日でした。
高伝寺前バス停で下車し、高伝寺へ。時間は9時、ちょうど開門時間です。300円を納めて寺に入ります。
まだ早いのか境内には誰もおらず、立派な山門をくぐって境内奥にある鍋島家・龍造寺家の廟所へ向かいます。
ここには多くの石燈籠があるらしく、その燈籠の中には佐賀藩士千葉家寄進のものがあるに違いないと踏んで訪問した次第です。裏手の墓地には幕末の志士で明治政府の高官にもなった副島種臣とその先祖の墓碑が立っていました。
高伝寺の加賀藩公ならびに龍造寺家墓は、明治4(1871)年に旧藩主家の鍋島直大が整理したもので、そこに並ぶ石燈籠もそのときに移されたものなのでしょう。小城千葉氏の末裔である徳島土佐守胤順の妻も龍造寺家から入ったため(龍造寺和泉守家門の娘)、その墓石が祀られています。ただ、江戸期のものであるため、実際の墓ではありません。前にある墓碑にも没年等は記されていません。
▲龍造寺政家墓 ▲龍造寺隆信夫妻の墓 ▲徳島土佐守胤順妻の墓
広い境内に所狭しと並ぶ藩公墓と燈籠群は圧巻です。この数多くの石燈籠にはかすかに寄進者の名が刻まれており、予想通り「千葉八左衛門」「千葉頼母」「千葉忠右衛門」などの名がみえました。
▲千葉常春等奉納灯篭 ▲五代藩主・鍋島宗茂夫妻の廟所 ▲六代藩主・鍋島宗教夫妻の廟所
石燈籠の配置等の調査が終わったのちは高伝寺を後にし、鍋島直茂生誕の鍋島家本庄館跡へ。高伝寺の北、道路を挟んだ少し先にありますが、その途中、国道沿いに妙見神社がありました。ここに妙見社があるとは思いませんでしたが、鍋島家旧領に残っていることから、千葉氏関係のものか? 併設の由緒書は神話の事柄で史実ではないものの、結構古くからあるっぽい。
妙見神社を東に少し歩き、小川沿いの小道を北に曲がってまっすぐ行くと、鍋島直茂生誕地があります。いまは小さな祠とコンクリート土饅頭(胞衣塚)が残っています。
▲鍋島妙見神社 ▲鍋島直茂胞衣塚
続いて、佐賀藩上級藩士の大隈家菩提寺、龍泰寺へ向かいます。「龍」造寺家の安「泰」を願って名付けられたこの寺には、松林の中に龍造寺家嫡流の佐賀藩家老・村田家の墓が並んでいます。土台がやや崩れかけてはいますが、立派な五輪塔です。山門の脇にあるのが大隈家の廟所で、大隈重信をはじめとして、大隈嘉兵衛孝辰など大隈重信の先祖たちの墓石が林立しています。この龍泰寺の東が、幕末の千葉頼母胤脩の屋敷跡となります。東側六十メートル、西側五十メートル、南側四十メートル、北側二十四メートルほどのややいびつな形をしていた屋敷地でした。
▲龍泰寺 ▲大隈家墓所 ▲村田家墓所
龍泰寺をあとにして、佐賀城本丸御殿を再現した「佐賀城本丸歴史館」へ。三年前も行きましたが、相変わらず立派な建物です。以前は20時までやっていたのですが、いまは18時までになっていました。入場料は設定されていない(出口で気持ちを入金箱に入れるシステム)ので、仕方がないですね。
▲廊下 ▲御座間 ▲御座間の上座より
そのあとは県立図書館へ。郷土資料室で佐賀藩千葉家の史料収集です。ここでしか見られない鍋島家文庫は非常に貴重です。時間やお金の面からも千葉からそうそう出て来れないので、短期集中型調査を行いました。
17時、資料室が閉室したあとは、図書館の眼前にある松原神社へ。初夏の太陽はまだ高く、ゆっくり回っても暗くなる前に調査できそうです。
ここ松原神社には明治期の佐賀藩士たちが奉納した燈籠や鳥居が遺されています。最近奉納されたかのようなキレイな石灯籠や手水鉢が並んでいますが、実は百数十年も前のものだったりします。そして、佐嘉神社記念館へ通じる道の脇には、明治6(1873)年奉納の石灯籠が二基並んでいて、その寄進者の一人に「千葉胤廣」の名を発見しました。この灯籠の寄進者は、神代直寶、鍋島茂彬、鍋島茂朝、鍋島茂智、鍋島茂文、鍋島文武、鍋島吉達ら旧藩主の子や大組頭クラスの人々であり、千葉家の家格の高さがうかがえます(あとでまとめた時に気が付きましたが、ここに刻まれている人物は、ほとんどが鍋島斉直の孫で、千葉胤廣は同じくここに刻まれている鍋島茂智の弟でした。文武は斉直末子。ひとり「鍋島政定」は出自が分かりません)。
佐賀でのメインの調査は本日で終了。明日は午前中は佐賀のダメ押し調査を行い、午後は京都へ向かいます。