2009年5月 佐賀旅行記1

小城市

トップページ諸国探訪記 >佐賀へ行く2009

佐賀県の千葉氏調査・2 ~小城編~

●千葉氏の本拠地・小城へ

 佐賀県小城(おぎ)市。小城羊羹で有名な町です。博多から電車で1時間半、佐賀市のすぐ西にあります。鎌倉時代に千葉介常胤が地頭職を得て以来、千葉家ゆかりの地として栄え、現在も「小京都」のひとつに選ばれています(全国の小京都)。

 佐賀は、ちょうど三年前のGWに訪れました。ただ、前回ははじめての佐賀ということもあって、駆け足で回ったため、あまり史料収集はできませんでした。ということで、今回は短期集中型で目的を県立図書館、高伝寺(以上佐賀市)、円通寺、光勝寺(以上小城市)に絞り込み、濃い内容の取材旅としました。

 今回は7時10分東京発博多行きののぞみに乗り、5時間かけて博多駅に到着しました。のぞみN700系の座席は広くゆったりしていて、イスの横にはなんとコンセント付き!

小城駅 さて、博多駅で12時24分発の鹿児島本線に乗り換え、佐賀駅へ向かいます。本日中に小城の千葉家菩提寺二か所を回る予定なので、そのまま小城へ行ってもよかったのですが、前回の旅で小城駅にはコインロッカーがないことが判明していたので、佐賀駅のコインロッカーにカバンを入れ、13時53分、小城駅に到着。

 駅前は相変わらず広々としていて、駅前からまっすぐに一本道が北へ向かって伸びています。3年前はタクシーで小城全体を回ったのですが、今回は濃く狭くピンポイント調査ということで、徒歩で千葉家菩提寺である円通寺と光勝寺へ向います。

●円通寺訪問

 円通寺は、京都の南禅寺、鎌倉の建長寺と並ぶ三大興国禅寺のひとつに数えられる名刹で、鎌倉の建長寺を模し、建長寺と同規模の寺域の中に七堂伽藍を備えた巨大なお寺でした。開山は建長寺開山の蘭渓道隆。開基は鎌倉時代後期の千葉家当主・千葉新介宗胤。北条氏と比肩する勢力を持つ大名だった千葉氏の庇護のもと、大いに発展しました。現在においても千葉家の菩提寺となっています。 

南禅寺境内
 ▲京都南禅寺
建長寺境内
 ▲鎌倉建長寺
円通寺仁王門
 ▲小城円通寺
     

大門堂  駅を出て、目の前に延びる道を北へまっすぐ歩くと、やや東へ向かう斜めの道に出ます。ここを数十メートル歩くと、左手に小城名物の「大門おこし」で有名な大門堂が見えます。

 この店の前には「←千葉宗胤夫妻墓」という看板が立っています。「大門堂」というお店が示す通り、この店の裏手あたりに円通寺の大門がありました。

結界柱 その看板の通り大門堂の脇の小道を入り、道なりに曲がって少し歩くと、右手に小さな空き地が見えてきます。この空き地の奥にある石二基が、開基・千葉新介宗胤とその妻・明意の墓石です。そして、この墓の脇には数基の折れた石柱が並んでいます。石柱の文字を並べ替えてみると、

「従是三間山」「圓通寺境内」という二本の柱になると推測され、宗胤の墓前から円通寺の境内になっていたことが分かります。そして、この柱から北、現在の円通寺に至る間が、かつての円通寺境内ということになります。

大門跡
 ▲円通寺大門跡
宗胤墓
 ▲千葉大隅守宗胤夫妻の墓
円通寺までの道
 ▲円通寺旧境内参道

 現在の円通寺へいたる旧境内は、いまでこそ住宅街と畠が広がっていますが、かつては数々の伽藍が建てられ、大門から円通寺までの一本道は古来の参道の跡ということになるんでしょう。

 しかし、江戸時代の火災や、津和野藩の旧藩主・亀井茲監、旧藩士・福羽美静など、異常で極端な思想家が主導した明治政府の廃仏毀釈などによって円通寺の規模は縮小。現在の大きさとなってしまいました。

円通寺仁王門 円通寺に着くと、まず古びた仁王像が鎮座する山門をくぐり、いまや基壇のみとなった勅使門の跡を左に見て本堂へ向い、お参り。鎌倉期に運慶の流れを汲む仏師によって彫られたと伝わる四天王(持国天、多聞天)をお参りしました。かつて大寺であったころの堂塔に納められていた仏像でしょう。江戸時代にはすでに広目天、増長天の二天はなくなっていたようですが、この二天だけでも迫力満点です。佐賀県の重要文化財(http://www.pref.saga.lg.jp/web/data_ken_bijyutsu01.html)に指定されている逸品で、ついこの間まで山口県立美術館、佐賀県立美術館で開催されていた「運慶流-鎌倉・南北朝の仏像と蒙古襲来」に出展されていました。

山門跡
 ▲円通寺勅使門
多聞天
 ▲多聞天
持国天
 ▲持国天

 円通寺に隣接する墓地には、江戸時代の千葉家廟が遺されています。前回調査できなかった墓石の配置や法名の確認を行いました。

鍋島玄蕃墓1
 ▲千葉家墓塔1
鍋島玄蕃墓2
 ▲千葉家墓塔2
円通寺墓所
 ▲智徹幻心大居士(被葬者不明)

 二十基ほどある墓石ひとつひとつにお参りし、碑文の調査をしました。しかし、やはり風化や浸食、苔によって碑文は薄くなっており、とくに砂岩の鍋島玄蕃常貞(1598-1666)の墓は石扉が崩落するなど、状態はあまり良くないようです。ほかの墓石は基壇が崩れているものの比較的良好でした。墓所の北側には、大変丁寧に造られた万治3(1660)年9月12日の砂岩製墓塔が一基あります。ただ、この被葬者については「智徹幻心大居士」の法名のみ伝わり、実名は不明。墓塔の形式としては、佐賀城下の龍泰寺にある二基の砂岩製石塔と酷似しています。

 もう一度本堂へお参りを済ませて、松尾山光勝寺へ向かいます。この寺は円通寺から西へ数分歩いた山の上にあるお寺で、日蓮宗の鎮西総本山。千葉県市川市の中山法華経寺と大変ゆかりの深いお寺で、両寺とも開基は千葉大隅守胤貞、開山は大輔公日祐(胤貞の猶子)。こうしたことから光勝寺も千葉家との由緒が深く、江戸時代中期以降、佐賀藩の上級藩士だった千葉頼母家が円通寺から墓所を移したようです。

円通寺遠景
 ▲円通寺遠景
円通寺遠景
 ▲かつての円通寺境内一帯

 

●光勝寺訪問

光勝寺山門 円通寺を出て田んぼと住宅地を抜けると、すぐに光勝寺の門前に到着します。光勝寺の巨大な山門をくぐると、長い階段の先に鐘楼門が見えます。今回は左手の道をとって、直接千葉家墓所に向かいます。

 千葉家墓所は境内から少し山に入った静かな一角にあります。墓所には千葉家の墓所という看板が立てられ、さらに、文化5(1808)年のフェートン号事件の責任をとり、藩の責任を背負って自害した長崎番頭・千葉三郎右衛門胤明の墓石も残っています。光勝寺に移ったのは、胤明の祖父に当たる千葉太郎助胤貞からのようで、その養父・千葉頼母常以までは円通寺に眠っています。

 この墓所には当主だけではなく、側室や子女、庶子の墓も遺されていますが、湿気の多い薄暗い山中のため苔に覆われた墓石が多く、当主も含め年号や俗名の判別は困難でした。

光勝寺本堂と親師堂
 ▲本堂と日親堂
円通寺遠景
 ▲千葉家墓所
円通寺遠景
 ▲千葉胤明墓碑

  墓石にお参りを済ませて本堂へ。境内は広く、廃仏毀釈の嵐を乗り越えて現在の規模を保っています。本堂の裏手には、開基の千葉大隅守胤貞の墓が遺されています。

円通寺遠景
 ▲牛頭山城(千葉城)
円通寺遠景
 ▲小城羊羹の老舗・村岡総本舗
円通寺遠景 ▲小城タクシー

 本日の調査はこれで終了。佐賀へ戻りました。

 

←諸国探訪記トップ

旅行記一覧へ次ページへ


ページの最初へトップページへ千葉氏の一族リンク集掲示板諸国探訪記

Copyright©1997-2008 ChibaIchizoku. All rights reserved.
当サイトの内容(文章・写真・画像等)の一部または全部を、無断で使用・転載することを固くお断りいたします。