千葉介胤泰 肥前千葉氏

小城千葉氏

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千葉胤泰(1323-1406)

 小城千葉氏六代。父は千葉大隅守胤貞。通称は次郎(『一色道猷感状』)。官途は刑部大輔

 生年は伝わらないが、『徳嶋本千葉系図』の没年記述から生年を逆算すると、元亨3(1323)年生まれとなる。

●胤泰の没年●

記録 没年および享年 法名 逆算した生年
『徳嶋本千葉系図』 応永13(1406)年7月10日、84歳。  堯胤 元亨3(1323)年
『千葉大系図』 永和3(1377)年7月10日、84歳。 正胤 永仁2(1294)年
『岩蔵寺過去帳』 永和10(1384)年7月10日、8□歳。 正胤 正安3(1301)年

  『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳(岩蔵寺過去帳)』という肥前国に関する古文書によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■継 胤泰 胤基」と歴代の記載があり、兄の千葉胤継の跡を継承したことがわかる。千田胤継は千田孫太郎胤平亡き後、胤貞流千葉氏の惣領家として「大隅守」に任官し、本領である千田庄へ入部し、本領ではない小城郡は弟の二郎胤泰が継承したことを物語る。具体的には、建武3(1336)年11月19日、父の胤貞が三河国で亡くなったのち、胤貞の妻「千葉ノ大方」の譲状によって、弟の胤泰が小城郡地頭となり、胤継は本貫地の下総国千田庄、八幡庄などの地頭職となったと思われ、胤泰は胤貞が亡くなった翌年の建武4(1337)年7月21日には田中行祐入道に対して小城郡内の所領宛行を行っている。

 年号不明の9月3日、「平胤泰」が下総国の中山本妙寺に対して、「依遼遠、就兵革、連々不申承之条」(遠く離れ、戦争もあったため音信が途絶えていた)ことを詫び、「山崎郷内田地」の寄進状某年9月3日『平胤泰寄進状』をしたため、「房胤」なる人物に届けさせている。この「房胤」がいかなる人物かは不明だが、岩部氏など「胤」という字からして千葉氏にゆかりの深い人物と思われる。

 寄進状が示しているように、九州と下総という離れた所領を管轄することは事実上不可能であり、肥前千葉氏は、胤貞の実子・千田胤継と養子の千葉胤泰がそれぞれ肥前と下総の所領を分割支配するようになったようである。胤継母が八幡庄の豪族・曾谷氏の娘であり、八幡庄・千田庄など下総に常住して肥前の経営にはまったく関わっていなかった様子がうかがわれる。

 千田胤貞―+―千田胤継―…→【千田千葉氏】
(大隅守) |(大隅守)
      |
      +―千葉胤泰―…→【肥前千葉氏】
       (刑部大輔) 

 建武4(1337)年5月7日、「河上社座主権律師増恵(代増勝)」「宮師定範」との間で起こった「小城郡田地弐町」のことにつき、定範は「何座主一人可令管領哉之由」を主張するも、結果として「宮師不可管領條、勿論也者、座主令領掌」するよう「平朝臣(該当者不明)」と「平朝臣(胤泰)」の連署下文が河上社に発給されている(『河上神社文書』第十四軸)。そしてこの下文の旨を奉じ、5月15日に胤泰の側近である「沙弥」から山田弾正忠、円城寺祷左衛門尉に対して「下地」を座主方へ打ち渡すよう命じ(『沙弥遵行状』)、翌16日、同じく側近の「兵庫丞」から山田弾正忠へ座主増恵に沙汰すべきことを命じている(『兵庫允施行状』)

 さらに5月15日には、胤泰は幕府に命じられて宗像氏重領晴気庄内の土地の領有実否の調査をしており、千葉氏は小城郡において大きな支配力を持っていたことがわかる。また、7月21日、胤泰田中行祐入道(田中豊島彦七家秀)へ「小城郡内田地伍町地頭職」の宛行状を授けている(『実相院文書』)

 胤泰は暦応3(1340)年正月18日に法華経転読料として「於喜郡内田地肆町」「肥前国鎮守河上淀姫大明神」に寄進し、翌暦応4(1341)年正月10日にも「河上座主御房」へ「於喜郡田地伍町」を祈祷料足として寄進している。

 胤泰河上社の大宮司職に就任しており、その嫡流の子孫も河上社大宮司に就いた形跡がある。

 康永4(1345)年5月13日、胤泰京都四条堀川・油小路の屋敷地をめぐって小早川重景裁判を起こし権大納言四条隆蔭が裁定した裁判で敗訴している応永4(1345)年5月13日『別当宣』

●康永4(1345)年5月13日(『小早川文書』:『大日本史料』所収)

 小早河出雲四郎左衛門尉重景与千葉大隅次郎胤泰、相論四条堀川同油小路敷地等事、
 任諸官評定文可令下知重景給候由、別当殿仰所候也、仍執達如件
  康永四年
    五月十三日          大蔵少輔重藤(花押)
  謹上   正親町博士太夫判官殿

●康永4(1345)年5月13日『別当宣』(『小早川文書』:『大日本史料』所収)

  四条堀河同油小路敷地等事、別当宣
   如此、早可令存知給、仍執達如件

  康永四年五月十三日   左衛門大尉(花押)
  進上   小早河出雲四郎左衛門尉殿

 観応2(1351)年12月、九州探題・一色範氏と合流。南朝方の左兵衛佐足利直冬(足利尊氏の庶長子で足利直義養子)が下松浦一族を率いて小城郡へ攻め寄せると、「千葉次郎胤泰」岩部・金原・中村氏など一族郎党を率いて直冬勢を撃退した(『九州治乱記』)。この戦いには、おそらく胤泰の部隊に「今村孫三郎」が加わっており、一色範氏は「千葉次郎胤泰」から今村孫三郎利広の戦功の報告を受けて12月20日、今村孫三郎に感状を発給している(『一色道猷感状』)。ただし、同じく12月20日、足利直冬は「松浦左衛門尉殿、白石弥次郎入道殿」ら松浦党の人に「為凶徒退治、松浦党已下発向肥前国小城討死被疵之由、千葉次郎胤泰所注進申也、軍忠尤神妙、可有恩賞」(観応二年十二月廿日「足利直冬文書」『松浦文書』)を発給しており、松浦党及び千葉胤泰は足利直義党に属しており、一色勢とは敵対関係にあったと考えられよう。

 文和2(1353)年11月、九州探題・一色宮内少輔直氏は菊池武重の軍勢と筑前国日奈田山で対峙して敗れ、肥前国小城に入った。当時の小城領主は胤泰と思われるが、翌文和3(1354)年、一色直氏は小城を発して神崎仁比山へ移った。このとき直氏に「千葉介、龍造寺」が従ったという(『九州治乱記』)

 文和4(1355)年8月、九州探題一色直氏は征西将軍宮懐良親王(後醍醐天皇皇子)が指揮する南朝軍に大敗し、直氏は「一色殿長州御越」(文和四年十一月五日「島津師久披露状案」『薩藩旧記』)とみえ、九州北~中部域は南朝力によって平定されてしまった。実はこのときすでに、胤泰は南朝に降っていた可能性がある。同年9月1日、懐良親王の五條良氏率いる肥前や筑後の南朝勢による「小城々攻合戦」があり、勝敗は不明ながらおそらく陥落したのだろう(正平十年十二月「木屋行実軍忠状」『木屋文書』)。同9月ごろ、「依九州宮方放棄、大友式部太輔、宇都宮常陸前司、千葉之二郎以下輩、凶徒同心之由其聞候」(文和四年十一月五日「島津師久披露状案」『薩藩旧記』)とある。この「千葉二郎」はおそらく胤泰であろう。小城城の陥落により胤泰は南朝方に降伏したものと思われるが、九州探題直氏の没落が胤泰の動向に影響したと思われる。薩摩国においても9月2日、「宮方大将三條侍従(三條泰季)并市来太郎左衛門尉、鮫島彦次郎入道、知覧四郎、左当彦次郎入道以下」が嶋津貞久入道道鑑所領の「薩摩国櫛木野城郭」を攻め立てており、貞久入道子息の左衛門少尉師久勢が馳せ向かい、五日間にわたる合戦ののち、なんとか囲みを解かせていいる。しかし、10月22日には当国南朝勢が「寄来師久城郭」し、師久や伯父の「尾張守資忠」までも負傷し、「当国守護代酒匂兵衛四郎、同左衛門四郎、愛甲弥四郎、土田五郎、阿曾谷三郎右衛門尉、堀源吾」が討死を遂げるなど、薩摩南朝勢の攻勢が続いており、師久は「注文路次難儀之間、追可令進上候」と述べるとともに、「依両御所之御間、御発向御延引候者、師久捨国可令参洛候、将又老父道鑑中風之身難儀之上、合戦最中之間、不能委細」ことを京都へ言上している(文和四年十一月五日「島津師久披露状案」『薩藩旧記』)。この頃、島津貞久道鑑は卒中であった様子がうかがえる。

 しかし、南朝方の九州支配も長くは続かず、延文4(1359)年7月、南朝方だった少弐頼尚(肥前国守護)が大友氏時(豊後国守護)と語らい北朝方に通じて独立し、南朝勢力と筑後川で大激戦がおこなわれた(筑後川の戦い)。このとき、胤泰の動向については不明ながら、同月下旬に征西将軍宮懐良親王の太宰府着陣に供奉した武家として「肥前国には千葉刑部大輔胤泰」とあり、宮方の陣には「引両、鷹羽、月星、帆掛船、藤丸、三巴、庵に木瓜、十文字」などの旗が翻っていた(『九州治乱記』)ということから、胤泰はなおも南朝方として参陣していた可能性が高い。この戦いは双方で数万人の死傷者を出す大激戦だったが、結局決着はつかず、少弐頼尚はいったん太宰府へ退却して守りを固め、大友氏時と語らってふたたび挙兵しようとしたが、延文6(1361)年8月、懐良親王・菊池武光は頼尚が守る太宰府に攻め寄せた。頼尚はこれを防ぎきれず、大友氏時を頼って豊後に落ちた。

 こうして太宰府は懐良親王の御座所となり、北九州はふたたび南朝勢力に制圧された。胤泰も南朝方の一員として、貞治4(1365)年8月22日、「肥前小城郡砥川保内乙犬名田地三間智運東堂跡」を小城の光勝院料に安堵した。その安堵状が京都の日蓮宗寺院・頂妙寺に残されている。

 懐良親王の征西将軍府に対抗するため、延文5(1360)年3月、幕府は鎮西探題(のちの九州探題)として斯波氏経を派遣したが、失敗。貞治4(1365)年5月には、渋川義行を派遣したが、中国地方で南朝勢力の抵抗にあって進むことができずにまたも失敗。

 繰り返しの派兵失敗に、幕府は応安4(1371)年冬、ついに名将といわれた引付頭人・今川貞世入道了俊「九州探題」として派遣した。了俊はまず、子息の今川義範を豊後に派遣して大友氏らを従えて足場を固め、弟・今川仲秋肥前国松浦に派遣し、自らは大手軍を率いて豊後国門司に陣を張って太宰府の将軍府と相対した。仲秋が上陸した肥前国松浦には北朝方の豪族が集まっており、松浦党の伊万里貞山代栄のほか、多久宗国・高木家直・馬渡経俊・後藤資明・龍造寺家治・安富直安・江上四郎らが仲秋に従った。これを期に胤泰南朝から北朝へと移ったのだろう。

 仲秋は翌応安5(1372)年2月13日、肥前に攻め込んできた南朝方の菊池武政を攻め滅ぼし、筑前にいた兄・了俊と合流した。胤泰は娘を仲秋の妻としており、胤泰は仲秋の指揮下にあって、菊池勢との戦いに活躍したのだろう。続いて8月、仲秋は菊池武安の軍勢と筑前で戦い、撃ち破った。一方、了俊も8月12日、太宰府を攻め落とし、懐良親王・菊池武光は筑後国高良山に落ち延びた。

 南朝方では菊池武光・武政父子が相次いで没し、武光の末子でわずか十二歳の菊池加賀丸が懐良親王を奉じて了俊の攻撃に対抗した。しかしながら高良山も耐えきれず、菊池氏の本拠地・肥後国菊池城へ逃れて逼塞した。

★九州今川氏略系図★

 南朝方を肥後に押し込めた今川了俊は論功行賞を行い、「千葉介胤泰」肥前国小城郡を安堵された。そのほか、豊後は大友氏継が、少資冬には筑後・肥前の両国が、日向は伊東祐煕が、大内義弘は周防・長門などに加えて豊前が、仲秋には肥前のうち佐嘉・杵島・高来三郡が、薩摩島津氏久が安堵された。

 明徳(1390~)以前に、家督を嫡男・胤基に譲って隠居したと思われる。応永13(1406)年7月10日に84歳で没した。法名は正胤堯胤

 依遼遠、就兵革、連々不申承之条、事与情令相違了、背本意候、
 抑雖狭少之地候、為御時料、山崎郷内田地五十ヶ所内可所務給候、 
 其子細ハ房胤令申候、恐惶謹言
 
    九月三日         平 胤泰(花押)

  進上 中山殿御坊

◆胤継・胤泰の動向◆

年号 事件・書状の内容など 現れる名前 南朝or北朝
建武4(1337)年5月15日 幕命により宗像氏重領の晴気庄内の土地の領有実否の調査。 平 胤泰 北朝方
興国元(1340)年1月18日 肥前国小城郡内の田地を河上神社に寄進。 平 胤泰 南朝方
暦応4(1341)年1月10日 肥前国小城郡内の田地を河上神社に寄進。 平 胤泰 北朝方
興国6(1345)年5月13日 京都油小路の屋敷地をめぐって小早川重景に敗訴。 平 胤泰 南朝方へ?
観応元(1350)年7月11日 下総国千田庄内の土地を中山本妙寺に寄進 平 胤継 北朝方
正平6(1351)年12月 一色範氏と合流し、南朝・足利直冬を小城郡にやぶる。 平 胤泰 北朝方
観応3(1352)年1月25日 「亡父胤貞」寄進の八幡庄谷中郷の本妙寺領について。 平 胤継 北朝方
観応3(1352)年6月29日 八幡庄谷中郷一円を日祐に寄進した旨の寄進状を発給。 平 胤継 北朝方
正平10(1355)年8月 一色範氏、懐良親王に敗れて九州を脱出。 平 胤泰 南朝方に降伏?
正平14(1359)年7月 懐良親王と少弐頼尚・大友氏時が筑後川で戦う。 千葉刑部大輔 南朝方?
正平20(1365)年8月22日 小城郡砥川保内の土地を光勝院に安堵。 平 胤泰 南朝方
貞治6(1367)年12月15日 中山浄光寺へ寄進状発給。 平 胤継 北朝方
応安2(1369)年8月18日 弟・宗杲上座に筑前国曲村地頭職と公文職を譲与。 千葉前常陸介胤継 北朝方
応安5(1372)年2月13日 菊池武政との戦功によって今川了俊から小城郡を安堵。 千葉介胤泰 北朝方

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