下総国分寺(市川市国分) ●MAP●

 真言宗豊山派の寺院。国分山国分寺国指定文化財

 天平13(741)年、聖武天皇の勅命により全国に建立された国分寺のひとつ。国分寺は正式には「金光明四天王護国之寺」といい、東大寺を本寺としていました。下総国分寺は「国分山金光明寺」と号し、明治時代になって、現在の寺名となりました。

 かつては広大な境内地の中に、東に金堂を、西に七重塔を備えた、法隆寺式の伽藍配置を持つ寺院でした。この古代の国分寺は発掘調査によって、9世紀ごろには衰退していたことがうかがえます。

 国分寺はもともと東大寺(華厳宗)をもって本寺としていましたが、いつの頃からか高野山金剛峰寺(真言宗)を本寺とする寺院へと宗旨がかわっています。衰退したのちの再建に真言宗が関係していたのかもしれません。国分寺に程近い真間山弘法寺もかつては真言宗寺院(鎌倉時代に日蓮宗に宗旨変え)であったことが知られており、鎌倉時代初期の千葉宗家の真言宗信仰と関わりがあったのかもしれません。

 千葉介常胤の五男・国分胤通(五郎)はこの国分寺付近に館を構えていたと伝えられ、鎌倉時代、胤通が香取郡へ移ったのちも、胤通には香取大社の式年遷宮で「国分寺役(馬の献上)」が課せられていました。国衙の官牧を支配していたのでしょう。

 室町時代後期、下総国分寺は小金の高城氏によって外護されており、その書状には「十二坊」という記述が見えることから、当時多くの伽藍を配した大寺院であったことがうかがえます。しかし、豊臣秀吉によって外護者であった高城氏も滅ぼされたうえに、火災に見舞われたようで、江戸時代に徳川家光から朱印状を賜るまで廃寺同様であったようです。朱印地を下賜されて、伽藍を復興できたものの、明治新政府による御朱印地上地(朱印状によって認められた寺領の召上げ)と明治24(1891)年の火災によってふたたび廃寺同然となりました。その後、歴代の住職や檀家たちの努力により復興。現在の威容を伝えています。

 現在はかつての金堂跡に建つ本堂と、七重塔の礎石、仁王像を備えた南大門が配されています。創建当時の南大門は、現在地よりも二十メートルほど南に位置していたようで、数度の火災によって再建され、次第に現在地へ移されたと伝わっています。

 国分寺へはJR総武線市川駅を降り、バスにて「国分」停留所を下車します。そこから西に約二百メートルの場所にあります。寺への道は大変狭く、自動車で行くことは控えたほうが無難と思われます。

■国分寺の概要■
 
祭神・本尊 薬師如来
創建 天平13(741)年
アクセス 市川駅(JR総武本線)よりバス⇒「国分」で下車
駐車場 数台分(道が狭いため、車での来寺は控えたほうが無難)
そのほか  


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