石浜神社(荒川区南千住3-28-58) ●MAP● | ||||||||||||||||||||||||||
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文治5(1189)年、源頼朝が奥州平泉の藤原泰衡との戦いのために出陣した際に、勝利の祈願をし、勝利して帰国した際には御礼として社殿が造営され、その後、元寇の調伏祈願のため、弘安4(1281)年、朝廷より供物が奉納されたと伝えられています。 中世にはかなりの社域を有する神社として発展し、境内には江戸神社や妙義八幡神社などが建てられていました。千葉氏や宇都宮氏の尊敬を受けたといわれています。最後の宇都宮城主・宇都宮国綱は、豊臣秀吉に疎んじられ、放浪ののちこの石浜の地で亡くなっています。 この石浜の辺は下総と武蔵を結ぶ要衝の地で、鎌倉時代には様々な宗派の寺院が建てられていました。鎌倉時代末期、千葉宗家は下総国府に近い下総国葛飾郡の小金城(松戸市上本郷)に居館を移していた形跡があり、嘉元元(1303)年、小金に時宗の二世・他阿真教が訪れ、礼拝山恭敬院本福寺(松戸市上本郷)を建立しました。その他阿真教はこの前年の乾元元(1302)年秋、「武州浅堤といふ所」を訪れていますが、この「浅堤」とはおそらく「浅草」のことであろうと思われます。この浅草の辺に時宗の寺院が建立されていたであろうことは、一遍と他阿の『二祖上人詠歌』中の詞書にある「武蔵ノ国石浜ノ道場」という部分からうかがうことができます。 そのほか、延文3(1358)年5月某日、日蓮宗本妙寺三世・日祐上人(千葉大隈守胤貞猶子)が、「石浜法華道場導師日慶」へ曼荼羅本尊を与えています。つまり、室町時代初期にはこの地に下総国中山本妙寺の勢力が及んでいたことがうかがわれます。弘安元(1278)年には太日川(江戸川)のほとり、下総国府の近くに建つ真間山弘法寺が真言宗から日蓮宗に改宗しており、弘法寺直下にあった真間の湊から、石浜・橋場・今戸のほうに舟の往来があったものと考えられます。事実、これらの湊には廻船問屋などの商人たちがいたことが古文書からもわかっており、大変な賑わいを持っていたと考えられます。
江戸時代には御三卿の一人・徳川宗尹(一橋宗尹)が篤く信仰して社殿を再建し、一橋家の祈願所としました。このように真先稲荷は一橋徳川家の祈願所となったことから、一般庶民の参詣は禁じられたため、庶民は奥宮(招来稲荷神社)に参詣していました。 明治5(1872)年、石浜神社は「郷社」に定められ、大正15(1926)年、真先稲荷・招来稲荷神社が石浜神社の境内に移されました。そして昭和63(1988)年9月、やや東の現在地に遷座しました。 ●摂社●
●末社●
■石浜神社の概要■
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