2005年5月 郡上八幡旅行記3

郡上八幡

郡上八幡の旅



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 ▲郡上八幡駅           ▲郡上の町なか

 郡上八幡は、さすがに観光地だけあって、人や車が多く走っています。道は城下町の風情がまだ残っていて、左右の建物は低く抑えられています。

 室町時代後期、東下野守常慶は先ほどの篠脇城からこの地に居城を移しました。現在の郡上八幡城と吉田川を挟んだ対岸にある東殿山がその居城の跡。そして、常慶の娘を娶った遠藤盛数が八幡山に築いた城が八幡城です。

 遠藤盛数の子・遠藤慶隆は江戸時代、この郡上八幡城を居城として郡上藩をひらきました。遠藤慶隆は母親が東常慶の娘(友順尼)であり、歌人大名・東氏の血を受け継いだ人物です。そして、彼の妹が、山内一豊の妻となった「千代」さんです。

 郡上は「水のまち」と言われるだけあって、まちのいたるところに水路が走っていて、観光地になっています。

 小さな水路が多く、街なかを堀割を切ってある柳川などとはまた違うのですが、山間の「小京都」と言われれば、賑わいなどを抜きにすれば、なるほど、と思える風雅さが漂っています。

  
 ▲郡上城遠景        ▲街並み

 まちを流れる大きな川、吉田川も清流です。川は街を南北に分断していますが、川には数箇所に橋が架けられているので、とくに不便も感じません。8月の「郡上踊り」では、橋のひとつ「新橋」からこの吉田川に飛び込む風習の話題がニュースなんかでも取り上げられているから、知っている方もいるかもしれません。

 この川への飛び込みは、子どもの度胸試しとして郡上に伝わっていた文化でしたが、今では郡上踊り期間中の「清流吉田川カッパ祭り」として行われています。参加資格は…「新橋」から飛び込んだことがある人、とのこと。

 さて、ここ郡上八幡の名物といえば、「食品サンプル」です。その「食品サンプル製作体験」ができるという体験工房「さんぷる工房」に出かけてみました。

 予約などしていなかったのでダメもとでしたが、なんと偶然にも、予約空きがあったので、即OKとなりました。もちろん、普通は要予約です。 

 今回の体験は、「パフェ」です(現在はパフェはやっていないようです)。…食品サンプルとは、あのレストランのショーケースの中にある樹脂でできた料理のサンプル品のことですが、この「食品サンプル」を始めてつくった岩崎滝三さんの故郷がここ郡上八幡とのこと。 

 体験工房は店舗の奥にあり、従業員の皆さんがせっせと働いている中で、混ぜてやらせてもらいました。エプロンをつけ、細かいアドバイスをしてもらい、館長さんの手本を拝見します。さすがに館長さんは違います。さて、実際にやってみると、これが相当難しい! シロップを入れ、シリコンの本体を入れ、具を載せてシリコンホイップを乗っけて完成ですが、わずかこれだけのことに一時間かかります。見るのとやるのでは大違い、やっぱりプロの技はすごいですね。出来上がったものにニスを塗ってもらい、後日郵送してくれるとのこと。体験が終わり、店舗でこれまたリアルな「サンプル食材グッズ」を購入しました。 

 工房を出て、本格的に郡上八幡散策へと出発。まずは史跡「宗祇水」へ向いました。

 さんぷる工房から数分で到着する、川辺の史跡です。ここは室町時代、歌人・飯尾宗祇が京都に帰るとき、師の東下野守常縁と別れを惜しんだ場所と伝わっています。  

もみじ葉の流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな  常縁
三年ごし心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな  宗祇 

 石畳をくだっていくと、小駄良川べりにある水船の小屋、これが「宗祇水」です。宗祇がここで東常縁と交わした歌から「白雲水」ともよばれています。今でも清水が湧き出し、日本百名水にも撰ばれた名水。ひしゃくですくって飲めるようになっています。湧水だけあって、ひんやり冷たい水です。毎年8月20日には、郡上踊りの一環で「宗祇水神祭」が行われます。

 

 続いて、郡上藩初代藩主・遠藤慶隆のお墓のある長敬寺へ向いました。宗祇水の前の道を北へ向かった突き当たりにある大きなお寺です。

 さて、山門をくぐると大きな本堂が見えます。その裏手に墓地がありますが、墓地の入口付近にひっそりとコンクリートで固められた石饅頭、これがここ郡上を繁栄に導いた遠藤慶隆の墓とのこと。……ずいぶん質素にまとめられていて、とても殿様のお墓には見えません。ただ、改葬にあたり墓を発掘した際に、立派な骨壷が発見されたようで、やはり慶隆の墓所なのでしょうか。

 さて、続いていよいよ郡上八幡城へ登ります。…とはいえ、この八幡山は想像以上に高い! 旅行バッグを持っていたのでかなりの重量を背負いながらの登山となり、やっとの思いで城内に入りました。

 高台の茶屋から見ると、郡上八幡は山間に開けたまちだということがはっきりとわかります。かつてこの山の高さにあった平地に流れていた川が、いつしか地面を削っていき、いまの郡上八幡の町が広がる平地を作り出しました。

 ここから南に見える山が、東常慶が室町時代後期に移り住んだ東殿山城です。どういった経緯で、常慶がここに移ってきたかはわかりませんが、移る直前に朝倉氏の郡上侵入があるので、それが関係しているのかもしれません。朝倉氏は篠脇城まで攻め込んできて常慶に追っ払われているわけですが、そのとき篠脇城下は燃やされてしまいました。復興より新築! なんて思ったかはわかりませんが、東氏は本拠地をこちらに移すことになります。天文10(1541)年のことと伝わります。

 しかし永禄2(1559)年、常慶は娘婿である遠藤盛数に東殿山城を攻められ降伏(自害したとも)、当主で息子の東七郎常堯は郡上を逃れて東氏は滅亡しました。しかし、常慶の娘が生んだ遠藤慶隆はその後郡上藩主となり、東氏の血は遠藤家の中に受け継がれることになりました。

 

 

 現在の郡上八幡城天守閣は、昭和8(1933)年に建てられたもので、古くからあるわけではありませんが、どっしりとした構えで威厳があります。築七十年以上も建っているとはとても思えないキレイな仕上がり。内部は柱や階段、床まですべて木造で、近頃の鉄筋作りの城とは違った重厚感があります。 

 城の中は資料館と展望台になっていて、郡上八幡の街並みが東西南北すべて見渡せるようになっています。その最上階にあった明治時代初期の郡上の支配層一覧に、千葉氏らしき人物名がいくつか見出せました。 

「少参事 林 胤禄」
「大屬  成毛胤重」
「権少屬 生田祐胤」
「 同  白井胤愛」 

 彼らはいずれも幕末の郡上藩主・青山家の家臣ですが、このうち大屬の成毛胤重はおそらく千葉介常胤の四男・大須賀胤信の子、成毛範胤の子孫でしょう。また、白井胤愛は青山家が掛川藩主だった頃に仕えた白井氏の末裔。他はよくわかりませんが、「胤」字が気になります。 

 天守閣を降り、城の裏側から山を下ります。ぐるーっと細い道が城を回っていますが、その先に広場が見えてきます。そこに銅像がひとつ、「山内一豊と妻の像」。

 郡上八幡城の登山口のいたるところに「千代様は郡上の生まれ」と書いてある幟がはためいていますが、ついに銅像まで登場です。銅像の後ろには、木を刈り込んで郡上城の天守閣が見えます。これはいい撮影スポットですね。

 大河ドラマ「功名が辻」では、千代は原作のとおり滋賀県米原市の郷士・若宮喜助の娘として描かれていますが、これはドラマなので原作通りにしたほうが良いという配慮があったのでしょう。ただ、近江説の拠り所が次々と論破されていく中で、近江説を喧伝してしまうのも好ましくない気がします。

 城下まで下り、飛び込み大会が催される「新橋」を渡って、まちの南側へ行きます。南側で有名な観光地が、「いがわ小路」です。いまでも生活用水として使われている小川なのですが、なんと錦鯉が泳いでいます。この小路のあたりは決してつくった観光地ではなく、生活の中に溶け込んだ部分が趣をかもし出すところが、観光地としての魅力を引き出しているんでしょう。 

 さらに山側に行くと、遠藤氏の菩提寺・慈恩寺があります。ここは初代藩主・遠藤慶隆が建立したお寺で、次の藩主家・金森家の廟所も併せてあります。山のふもとにあって、山門は山を背に建てられているため、参道は山門をくぐって左に直角に曲がって続いています。このお寺には花園天皇の御宸筆の消息文(国重要文化財)が納められているとのこと。花園天皇は後醍醐天皇の御兄にあたりますが、その御宸翰がなぜここに納められているのでしょう。そのほかにも江戸時代の後水尾天皇、仁孝天皇の書翰が遺されているとのこと。

 参道に向かって右手には墓地があり、その中に廟所が見えます。明らかに別格扱いなので、間違いなく殿様クラスの廟だろうと直感したのですが、左から、遠藤慶勝(慶隆嫡子)、智勝院殿(慶隆室)、高松院殿(遠藤常昭?)となっています。さらにその奥には、石造りの金森家供養塔が七基建てられていました。

 今回の郡上散策の旅もこの慈恩寺が最後。予定よりも二時間ほど早くまちの散策ができました。かばんも重たいので、もう名古屋へ向かうことにし、郡上八幡駅に向いました。ここから岐阜についてもまだだいぶ余裕があるっぽいので、うまくすれば岐阜散策も可能かも? いいタイミングで入ってきた長良川鉄道に乗り込むと、岐阜に向けて出発しました。 

 しかし、ここまで順調だった旅も、長良川鉄道の信号機故障というアクシデントが発生! 途中駅で一時間半ほども足止めを食うこととなりました。

 長良川鉄道は単線のため、向こうから来る電車と途中ですれ違うことはできません。なんてこった。もし予定通りの電車に乗っていたら、まず間違いなく予定の時間に名古屋にはつけなかったでしょう。名古屋までは三時間ほどかかります。 

 電車は複線がある途中駅に止まり、すれ違いの電車がくるまで足止めです。電車は自由に人の出入りができるよう、ドアが開けっ放しにされました。運転手も近くの駅員待機所のようなところに走って行ってしまいました。駅には柵もなく、駅と隣の田んぼの境界線がはっきりしていない、非常にのどかな駅です。

 一時間半後、ようやく岐阜方面から電車がやってきて、この駅で連絡。岐阜行きの電車はおもむろに動き出しました。そして、もともとの計画通りの時刻に岐阜に着き、岐阜散策の夢は幻に終わりました。そのまま名古屋へ向いましたが、時間が遅く、駅構内の名店街はすでにシャッターを下ろし、名物の味噌カツも食べられず、ラーメン屋で少し遅めの晩飯をとり、今日の行程は終りました。

   

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