旅行記 鎌倉旅行記3

鎌倉紀行

秋の鎌倉
~晩秋の鎌倉編~

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鎌倉へ紅葉狩りと史跡探訪のたび

段葛 鎌倉時代からのメインストリート、若宮大路に戻りました。時間はすでに午後2時。夕方4時過ぎには陽が落ちるから、やっぱりコースを変更したほうがよいのかな。

小町小路 …と、若宮大路でご飯屋さんを探し回りますが、どうも目ぼしいお店はありません。なんとなく蕎麦が食べたいので、蕎麦屋を探します。でも、若宮大路はお土産屋が多いので、一本入って小町通りで物色。しかし、すごい人です。紅葉狩りのお客が帰りにお土産を探しているんでしょう?

 あいにく小町通りに蕎麦屋はなく、また若宮大路へ戻りましたが、ここに「山里」という甘味処がありました。「山里」といえば、明月院に行く途中にある小さな甘味処「山里」がありますが、関係があるのでしょうか。イメージはずいぶん違いますが。ガラス越しに店内を見ると、とりあえず席も有りそうです。というワケで昼食はここに決定!

 ガラガラとドアを開けると、外から見た以上に人が入っていました。店員のおねえさんに案内されて着席。ここは食券を先に買ってレジで注文するらしい。とにかくハラペコだったので特に選ぶことなく、茶そばセット(900円)を注文し、席に戻って今後の計画を見直してみました。

 う~ん、時間的にこれから化粧坂に行って、長谷に抜けて極楽寺まで行くことのは無理。ということは、化粧坂方面の紅葉は諦め、逆方面の材木座方面、安国論寺のイチョウと材木座の夕陽を目指して行くことに計画変更。コースはこんな感じになりました

茶蕎麦 茶そばセットが来ました。ん~~うまそうだぁ。山菜蕎麦にごはん、葛餅(黄粉)、漬物です。蕎麦はコシが強くしっかりした感じ。写真を見ると汁は濃そうですが、どっこいあっさりめです。総じて美味しかったですね。値段も手ごろだったし、また来ます。

 隣のおばちゃん二人組みは、やたらとアンミツまだ? まだ? と店員に聞いています。アンミツもここの名物のようですね。隣にいたおじさん三人組が頼んでいた「にしんそば」というのにも興味がありますが、美味しいんでしょうか。なんとなく生臭そうな。。。そういえば世間には、ニシンパイなんていうパイもあるそうです。

 昼食を済ませて、材木座方面へ向かいます。まず若宮大路を横切って、鎌倉署の隣の道を東へ歩き、突き当りを左に曲がりすぐに右へ。橋を渡って住宅街を南へ歩き、妙本寺へ行った。

妙本寺 妙本寺は日蓮宗の大寺院。鎌倉時代には頼朝の乳母・比企尼の養子、比企藤四郎能員の屋敷跡です。比企能員の娘(若狭局)は二代将軍・源頼家の正室になっていて、源氏の嫡々・一幡を産みました。つまり、比企能員は将軍の義父で、その外孫・一幡は頼家の次の将軍の最有力候補です。北条時政と頼朝の関係と同じで、しかも頼家は大の北条氏嫌い。北条氏の危機感は大きくなっていたと思われます。

 将軍・源頼家は政治の実権を北条氏から奪い返そうとたくらみ、比企能員を語らって北条一族を討とうとしますが、この情報を手に入れた北条時政は建仁3(1203)年9月2日、屋敷で法要を行なうと称して比企能員を誘い暗殺。北条時政の動員した幕府勢はこの比企谷の比企邸に攻め寄せて、比企一族を追討し、屋敷にいた一幡丸は殺されました。そして、比企能員をけしかけた頼家も、9月29日に北条家の本貫地である伊豆の修善寺に幽閉され、将軍職は、頼家の弟・千幡(源実朝)が就任することになりました。

北条時政―+―北条義時
     |
     +―平政子  +―源実朝 【三代将軍】
        ∥   |
        ∥―――+―源頼家 【二代将軍】
       源頼朝     ∥
               ∥――――一幡
比企尼====比企能員――――娘

夷堂橋

 妙本寺の紅葉もまだ早かったようです。時間がないので本堂までは行かずに門前から参拝し、次の目的地、安国論寺へ向かいました。妙本寺から参道入口の夷堂橋あたりまで、一帯が比企家の屋敷だったといいます。かなりの広さですね。さすが比企家というべき。

夷堂橋 夷堂橋を渡り、歩道もないくらいの細い道を南へ向かいます。この道は鎌倉時代、御家人たちの屋敷が立ち並んでいた小町大路で、メインストリートの一つでした。この狭い車道を人力車が走っていきます。そうえいば人力車のおにいさんたちはスゴイ。お客さんに説明をしながらひたすら走る走る。京都でも小樽でも鎌倉でも郡上でも、暑かろうと寒かろうと、いつでもどこでも誰とでも関係なく観光案内をしながら道を走っています。車、客、乗り心地に気を使いながらタッタッタッとリズムよく走り過ぎていきました。

 小町大路は片側一車線で広い道路ではありませんが、名越方面から鎌倉駅方面へ直接抜けることができる道路なので、道は自動車であふれています。小町大路を南に向かって左側には、鎌倉時代はじめ頃には比企能員邸(妙本寺)から南に比企朝宗、佐々木盛綱、昌寛法橋、仁田忠常、工藤行光、佐貫広綱と有力御家人の屋敷が立ち並んでいました。

安国論寺 そんな昔に思いを馳せながら、てくてくと小町大路を歩いて大町四ツ角を左に曲がります。しばらく進むと、遠くに大きなイチョウの木が見えてきますが、ここがイチョウとモミジの名所、安国論寺です。遠くからでもよ~く見える派手なイチョウです。このイチョウ、鎌倉では比較的早く黄葉し、落葉してしまうので、紅葉狩りはお早めに。

安国論寺 安国論寺は日蓮宗の名刹で、日蓮もここに草庵を構えて有名な『立正安国論』を著して執権・北条時頼に進呈しています。寺自体はあまり広くはないですが、閑かで落ち着いている古めかしさがいい感じです。本堂前のモミジは緑と紅が混ざり合ってなかなか風流。

 ちなみに、この寺は拝観料を取らないので、自由に出入りできます。そういえば拝観料を取る寺は、北鎌倉から鎌倉までの山ノ内、扇ガ谷周辺に集まっている感じがしますね。そのへんは鎌倉の中でも著名な観光地ですが、観光客は鎌倉から江ノ電に乗って西の方に去っていく傾向があるので、電車もない材木座方面まで足を伸ばす観光客ってあんまりいないみたい。というわけで、この寺も歴史的にはかなり重要な寺なのですが人影はまばら。門前のまっ黄色のイチョウを撮るために、古そうな箱型カメラを構えてる人がいました。

元八幡 次は元八幡宮(元鶴岡八幡)へ向います。安国論寺を出て、来た道を少し戻り、大きな道に出たら道を渡って住宅街の小道を南へ歩く。突き当りを右に曲がりすぐ左に曲がって直進すると横須賀線の踏切に出ます。その線路の脇の道を東に向かって百メートルほど行くと、ふたたび踏切があるので、その踏切を渡ってすぐのところにある右へ入る小道を直進すると「元八幡」が鎮座しています。とても小さな神社ですが、実は鎌倉でもっとも由緒のある神社なのです。

 元八幡は「由比若宮」とよばれ、康平3(1063)年8月に奥州の安倍氏との戦い(前九年の役)に勝利した源頼義(源頼朝の先祖)が密かに石清水八幡宮を勧請し、鎌倉由比ガ浜を望む地に建立した神社という由緒を持ちます。

 永保元(1081)年2月に頼義の子・八幡太郎源義家がこれを修復して以来、この地に鎮座していましたが、いつしか荒れ果て、治承4(1180)年10月12日に源頼朝が四神相応の地、鎌倉を京都に見立て、大内裏に相当する鎌倉郡小林郷北山に遷しました。これが現在の鶴岡八幡宮です。しかし、もともと頼義が勧請したこの八幡宮も原社として残され、下若宮、元八幡として祀られました。

乱橋 元八幡を出るとすでに3時を回っていました。そろそろ陽も落ちかけてきています。もうこのあたりには紅葉の名所もないし、あとは材木座から眺める夕陽を見るだけです。ここから材木座海岸までは1キロ程度なので、のんびり行っても十分に間に合います。

 海岸へ向かってまっすぐの一本道を歩きます。車もそれほど走っていない街なかなのでのんびりと歩けます。しばらく歩くと右手に乱橋(濫橋)の碑が見えてきます。碑の横にはわずかにコンクリート製の橋の名残のようなものがありますが、川はすでに暗渠になっています。

 かつてはこの道を南北に分断する川があって、そこに橋がかかっていました。『吾妻鏡』にその名称が見られるので、すでに鎌倉時代には小町大路にかかる橋として名が知られていたようです。江戸時代には鎌倉大工の蔵並家が橋を修復した記録が残ります。また、橋の南側には二本の木が絡まりあったいわゆる連理木があって、有名だったそう。もちろん現在はその周辺も住宅地になってしまい、名残はありません。

九品寺 実体のない「乱橋」を渡り、さらに南へ歩くと、右側に九品寺が見えてきます。これまた住宅地にポツンと現れるお寺です。正式には「内裏山靈岳院九品寺」といい、新田義貞が開基となって建立しました。寺の屋根には新田家の家紋、「一引両(鍋蓋)」がついています。

 新田義貞は元弘3(1333)年に鎌倉に攻め込んで鎌倉幕府を滅亡させた人物ですが、彼も落ちぶれていたとはいえ幕府の御家人で、奥さんの伯父は北条得宗家の被官・安東五郎左衛門入道聖秀という有力者で、同族の足利家に遅れをとっていたとはいえ彼も源氏の嫡流。北条得宗家とも所縁がありました。なので、やはり鎌倉幕府や北条家を滅ぼしたことに罪悪感はあったのかもしれません。建武3(1336)年、北条一門の菩提を弔うために、九品寺を建立しました。足利尊氏も建武2(1335)年、北条一門の菩提を弔うために、後醍醐天皇を開基として北条家屋敷跡に宝戒寺を建立しています。ただ足利家の場合は、北条家とほぼ同一といってよいほどの濃い血が流れているので、より一層冥福を祈る気持ちは強かったと思われます。

由比ガ浜  この九品寺を過ぎると、いよいよ材木座海岸です。しばらく歩いて海岸通りの下をくぐると一気に視界が開けます。足元には海特有のべたついた感触の砂が敷き詰められています。

若江島 そして海につきました。生臭い潮風がなんとも懐かしい。あれほど行っていた幕張の海にも最近はめっきり行かなくなったので、海を見るのは久しぶりです。とりあえず、和賀江島が見えるところまで歩くことにしました。ただ、空はいつの間にか曇ってきて、夕陽は拝めそうにありません。

 和賀江島は鎌倉時代の港の跡です。貞永元(1232)年7月12日、勧進上人の往阿弥という僧侶が三代執権・北条泰時に和賀江島をつくる許可をもらい、遠浅の鎌倉の海に交易船をつけるための港として、泰時の援助を得て造り上げた人工の島です。大陸からの交易船もこの港につき、材木座周辺は大いににぎわいました。訪れた日はちょうど満潮時間だったようで、和賀江島はすっかり水没し、わずかに水面に島らしきものが見えるだけでした。まだこの島に上がったことはありませんが、中世の陶器片などが今でもたまに打ち上げられているようです(なお、落ちている陶片のほとんどは近代のモノ)。材木座海岸

 時間は午後4時をまわりました。今回の旅はここ材木座海岸でゴールとしたので、あとは鎌倉駅に戻るだけです。砂浜に下りて、由比ガ浜までてくてくと歩きます。 

稲村ガ崎 あまり風もなく、寒さもありません。ウィンドサーフィンをやっている人、散歩している人、犬と遊んでいる人など、いろいろな人がいます。遠くに最初の目的地だった稲村ヶ崎が見えます。かつて鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の軍勢は、干潮で干上がった稲村ヶ崎を通って鎌倉市街に乱入し、北条氏を滅ぼしました。

 さて、由比ガ浜まで戻るとベンチが空いています。ここでちょっと休憩することにしました。今の時間は午後4時半。午前8時に北鎌倉駅についてから8時間半、ほとんど休みなしで歩き続けていました。ちょっと休むとどっと疲れが出る気がします。

 鎌倉駅まで帰るため、由比ガ浜海岸から若宮大路を北に向かいます。この若宮大路の一番先は鶴岡八幡宮です。かつて由比ガ浜の砂浜はもう少し北まで広がっていて 形は今とはだいぶ違っていました。滑川の河口の幅も今よりだいぶ広く、砂浜は滑川の河口で東西に分断されていた形になっていたと考えられています。一ノ鳥居は浜の鳥居とも呼ばれ、由比ガ浜との境に建てられていました。一ノ鳥居のすぐそばに古い大きな供養塔が建てられていて、隣の碑文には「畠山重保邸跡」と記されていますが、ここは当時は砂浜であるため碑文は誤りです。

伝畠山重保碑

 畠山六郎重保は、武士の鑑と賞された畠山次郎重忠と北条時政の娘の間に生まれた、御家人のサラブレッドです。

              源頼朝
 伊東祐親?―娘      ∥――――源頼家
       ∥―――+―北条政子
       ∥   |
       ∥   +―北条義時
       ∥
      北条時政―――四女
       ∥      ∥――――畠山重保
       ∥     畠山重忠
       ∥
      牧ノ方―――――娘
              ∥
             平賀朝雅

 しかし、重保は祖父・北条時政の後妻・牧ノ方の娘婿・平賀朝雅とケンカをしていたことで牧ノ方の恨みを買っていて、元久2(1205)年6月22日、牧ノ方は北条時政をそそのかして畠山一族を討たせることにしました。

 時政はまず三浦義村に重保を討てと命じました。実の娘の子でも容赦しない時政は冷酷なイメージがあります。そして幕命として鎌倉在住の御家人に「由比ガ浜に謀反人を討て」と命じました。もちろん重保も「謀反人」を討つために郎党三人とともに由比ガ浜に駆け出しましたが、その「謀反人」がまさか自分のコトだとは気づかなかったと思われます。にわかに三浦家の郎従・佐久間太郎家盛の手勢に取り囲まれ、謀られたと気づいた重保たちは暴れまわりますが、重保はわずか主従四騎しかなく、取り囲まれては勝ち目はなく、討ち取られてしまった。鳥居のそばの法篋印塔はその重保を供養するための供養塔と呼ばれていて、銘には「明徳第四癸酉霜月三」とあることから、明徳4(1393)年11月3日の建立とわかります。ただ、実際は重保供養塔ではないとも。

 重保の父・畠山重忠もその後、程なく北条義時と戦って討たれました。しかし、北条義時は重忠とは親友であり、妹婿でもあり、義時は重忠を討った後、父の北条時政邸に乗り込んで重忠を討った非を述べると、後日、姉の北条政子と組んで時政を鎌倉から追放して伊豆に隠居させました。その後、時政は二度と鎌倉に出てくることはありませんでした。

 さて、重保塔をお参りしたあとは、もう鎌倉駅まで一直線です。鎌倉駅まで戻り、横須賀線に乗って一路帰途に着きました。今回は紅葉はイマイチでしたが、史跡はそれなりに回れました。

おしまい

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