旅行記 鎌倉旅行記1

鎌倉紀行

秋の鎌倉
~晩秋の鎌倉編~



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鎌倉へ紅葉狩りと史跡探訪のたび

  2005年11月26日、と鎌倉に紅葉狩りと史跡めぐりに出かけました。こんなルートを予定しています。

 北鎌倉駅に午前8時着という、ちょっとハードスケジュールを立てたため、寒い中、5時半に起きるハメになりました。もちろん、起きたら外は真っ暗闇です。

 北鎌倉駅に着いたのは7時51分。電車には土曜日なのに学生が群れていました。そして北鎌倉駅で下車。学生もゾロゾロと降りていきます。あれだけ混んでいた横須賀線はあっという間に空席の目立つ快適な電車に変わっていました。

円覚寺参道 円覚寺 円覚寺
 ▲円覚寺参道          ▲円覚寺惣門      ▲紅葉

 さて、北鎌倉駅前にある円覚寺が開門するのは、情報によると午前8時。それまでは、門前の池や紅葉なんかを撮っておこうとウロウロします。実は円覚寺は北鎌倉駅を含む一帯が旧境内地なのです。つまり、横須賀線は円覚寺の境内をぶち抜いて走っていることになります。その参道に踏切があるのです。

 円覚寺前の紅葉は、ビミョーに色づき始めていますが、まだ緑の木のほうが多いです。惣門はまだ8時になっていないがすでに開いていました。さっそく拝観料(@200円)を支払い、境内に入りました。

円覚寺  境内はまだひんやりとした朝の空気に包まれています。薄く靄がかかり、木漏れ日が筋になって見えます。禅寺特有の静けさに覆われています。真正面のゆるやかな階段の上に巨大な三門が見えます。この三門の裏には絵になる紅葉があるはずです。期待に胸ふくらませて階段を登ります。

 しかし、三門を通してみえる紅葉の木はまだ見事な濃緑。その先にある唐門、佛日庵、黄梅院などもまだ秋の気配は薄く、ちょっと時期が早すぎました。

  くるりと境内を見学して円覚寺を後にします。次いで、踏切を渡って鎌倉街道に出ます。この通りが鎌倉時代の大船方面から鎌倉へ繋がるメインストリート(?)だった道。中世ではここから東へ進み、巨福呂坂または亀谷を通って鎌倉に入っていました。中世においてはこのあたりは「山ノ内」で、まだ「鎌倉」ではありません。

 道路沿いには東慶寺(縁切り寺)、浄智寺などがありますが、今回は浄智寺を選んでみました。鎌倉五山の第四位、北条宗政(北条時頼の子)の妻が建立した禅宗寺院です。ここで名物なのが、山門前にある「甘露の井」と山門をくぐった先の石階です。甘露の井からは湧き水が滾々と湧き出ていて、その水が池に流れ込んでいます。一匹の錦鯉が放されていますが、その湧き水の傍でぼーっとしていました。目は開いているが寝ているのでしょう。

浄智寺 浄智寺 このお寺は人々の活動時間になると、寺のおじさんが焚き火を焚きはじめます。その煙が石階段にうまい具合に流れ込んできて、煙に当たる木漏れ日がいい雰囲気をかもし出します。しかし、今日はちょっと行のが早すぎて、焚火の準備ができていませんでした。

 客数人が待ちんぼうをしていると、こちらに気がついた寺の奥さんと思しき人が、「どうぞ入って見ていってください」と言ってくれました。拝観料はあとでもイイということなのでしょう。遠慮なく園内にお邪魔しました。

 ぐるりとお堂をお参りして下山することにしました。境内の奥にはでかい石の布袋様が鎮座していて、おなかや頭をみんながさわるのでツルツル光っています。寺をあとにするとき、まだ料金小屋が開いておらず、参拝料(@150円)をお寺のおばさんに手渡しして下山しました。

明月院明月院 次に目指すのは明月院。ここは「紫陽花寺」としても知られていますが、もとは鎌倉幕府の五代執権・北条時頼(最明寺入道)の最明寺があったところで、境内には北条時頼の遺体が埋葬されていて、いまも墓石と廟が残されています。しかし時頼の死後、最明寺はすぐに荒廃してしまい、ここに時頼の子・北条時宗が禅興寺を建立しました。時宗は寺を創ったときに、塔頭として明月院を建立しています。明治の廃仏毀釈により、だいぶ規模は小さくなりましたが、今でも落ち着いた山門が出迎えます。

 横須賀線の線路際の道から明月院に続く細い小道は、左側には小川を挟んで民家が立ち並び、右側は崖になっています。左側の民家の中に、葉祥明氏の美術館があり、外見はこぢんまりとした洋館で、これぞ鎌倉の家、という雰囲気が漂っています。そういえば、美術館のすぐそば、「山里」という甘味処のところてんは美味かった記憶があります。

明月院 さて、百メートルほど進むと、黄色く色付いたイチョウが目に留まります。明月院です。まだ時間も早く人はまばらです。拝観料は一人300円。2人で600円ということで、何気なく1,000円札を出したのですが、かなりしつこく小銭を出せと言われました。申し訳ないが持っていません。以前はそんなことなかったのですがねぇ。日銀券は受け取り拒否は公私共にできないんですがね。些細なことですが、こういうところは観光の寺としては失格です。今後はパスします。

 まぁ、そんなこんなで境内に入りましたが、ここもまだ紅葉には若干早かったです。黄色く色付くモミジは盛りでしたが、赤いモミジはまだ1週間ほど早かったようです。とりあえず、時頼のお墓と御廟に参拝したあと、なだらかな石段を登って名物の吉野窓を目指しました。石段の左右は梅雨時期にはアジサイが咲き乱れます。

 吉野窓は方丈にある庭園を望む丸い窓で、方丈の暗さと畳に敷かれた赤ラシャの沈んだ赤さが、壁をくりぬいた丸い窓から飛び込んでくる庭園を際立たせて、絵のように浮かび上がります。

建長寺外門 その後、開山堂と明月院やぐら(関東管領・上杉憲方の墓石と伝わる宝篋印塔群)を見て、次の目的地、建長寺を目指しました。明月院から建長寺への道は一本道で迷うことはありません。狭い歩道はすでに人がうじゃうじゃ歩いています。時間はすでに午前9時半をまわっていますので、そろそろ観光客も集まってくる時間と思いますが、どうもみなさん着飾っていて、観光客臭さが感じられない人ばかりです。なにより誰もカメラを持っていません。その集団の中に混ざって流れていきました。 

 建長寺は、鎌倉五山筆頭の名刹です。正式には「巨福山建長興国禅寺」といいます。「巨」の下のカコミ中に「`」がつくのが正しい(百貫点という)とのこと。建長5(1253)年11月25日、五代執権・北条時頼が中国南宋の禅僧・蘭渓道隆を招いて開いた臨済宗のお寺で、実に750年余りの歴史があります。

 建長寺到着。まわりの人たちは建長寺の横にある鎌倉学園に吸い込まれていきました。門には「入試説明会」とあります。なるほど、着飾った人たちはおとーさん・おかーさんだったわけです。ワタシは建長寺の西外門をくぐって建長寺の駐車場へ。

建長寺石塔 この外門のすぐ傍らには、1メートルほどの鎌倉時代初期とおぼしき形の石塔が目立たずに立っています。砂岩製のためか風化が激しく、若干崩れてクモの巣が張り、誰も見向きもしない石塔です。同じ型の石塔は寿福寺にもあります。

 もともと平安時代ごろから、この場所は罪人の処刑場でした。土地の名前も禍々しく地獄谷といいます。この地には彼らの供養のために「心平寺」という寺がありましたが、だんだんと荒廃し、建長寺建立当時には地蔵堂だけが残っていたようです。建長寺の本尊も地蔵菩薩で、罪人も救うとされていた地蔵信仰がこの地に根強かったことが感じられます。

 外門の中の駐車場はバスも数台ゆったり停まれる広さがあり、左手には惣門があって、くぐると料金小屋があります。ここの拝観料も一人300円。やはり手持ちの小銭がなく、やむなく五千円札を差し出しましたが、受付の方はにこやかに「えっと、お釣りは…っと。ありがとうございました~」と対応してくれました。やはり建長寺は格が違います。

建長寺 境内に入ってまずはじめに見えるのが巨大な三門。「建長興国禅寺」の額がかかっています。今ある三門は江戸時代中期の安永4(1775)年に再建されたものですが、風格堂々たるものです。

 三門をくぐるとビャクシンが道の両側にずらりと植えられています。これは建長時創建当時からある古木で、開山の蘭渓道隆が大陸から持ってきたものだそう。三門の下から仏殿を見ていると、ひとりの若い僧侶が走ってきて、大学の先生らしき人と学生と挨拶を交わしています。どうやらどこかの大学のゼミご一行のようです。彼らはヒミツの場所へ案内してもらえるのでしょうか。うらやましい限りですね。

建長寺 仏殿で巨大なお地蔵さんにお参りを済ませて、方丈から半僧坊の方へ向かいます。半僧坊は建長寺の一番奥にある建長寺の鎮守で半僧坊大権現を祀っています。近代になってできたものなので歴史は浅いですが、そこへ行く途中の参道が紅葉の隠れスポットです。というわけで行ってみましたが、まだ葉っぱは青々としています。ここもまだ早かったようでし。半僧坊は数百段の石段を登ることになるので、これからの行程を考えて省略。急ぎ惣門まで戻って建長寺をあとにしました。

巨福呂洞門 次は鶴岡八幡宮です。八幡宮までの道も建長寺から一本。ひたすら道なりに行けば着きます。建長寺を出てしばらく行くとトンネルがありますが、これは巨福呂坂洞門といい、かつてはこのトンネルの西側の山の上に「巨福呂坂切通し」という道路がありました。ちなみにその旧道は明治時代につぶされ、私有地になって民家が建っています。

 洞門を抜けて左手にこじゃれたレストランが見えてきます。時間は10時をまわるかまわらないかくらいで、店はちょうど始まったころのよう。ちょっと寄ってみたかったのですが、こっちは時間がないのでそのまま八幡宮へ向かいました。まっすぐ行くと右カーブになりますが、そこに二十五坊跡の石碑があります。

二十五坊 二十五坊とは、鶴岡八幡宮寺(当時の八幡宮はお寺でした)の供僧の住居のこと。供僧は八幡宮寺の祭礼政務を司っていた位の高い僧侶で、平家の一門や公卿の子息などが選ばれていました(『鶴岡八幡宮寺』貫達人/有隣新書)。 その後も続いていたこの僧坊でしたが、明治時代に明治政府がおこなった無茶苦茶な神仏分離令、廃仏毀釈によって、八幡宮寺は神社的要素と寺的要素を完全に分断され、 僧坊をはじめとした寺の要素(八幡宮寺内の仏殿や塔、経典など)は徹底的に破壊・焼却されました。

「廃仏毀釈」は、国学者の独善的思想を明治政府が利用し、天皇をカミサマとした国体を固めるために起こした国家的犯罪です。主導したのは神祇事務局の津和野藩旧藩主・亀井茲監とその手下の福羽美静(←コヤツが率先して行ったらしい)。おかげで今は写真でしか当時の堂塔を見ることはできません。あぁ、もったいない。廃仏毀釈で破壊された八幡宮寺について詳しく解説されているサイトがあるのでご覧ください。

八幡宮結婚式 さて、もう少し先にいくと、左側に八幡宮の駐車場と入口がありますが、道路を挟んで反対側に、鎌倉時代のメインストリート、旧巨福呂坂に向かう道路があります。あまり目立たないので目に止まらないかもしれません。以前行ったことがあるので、今回はパスして手前の八幡宮西口の鳥居をくぐります。石段を登ると目の前には神社に見慣れた赤壁に緑の格子。本殿の横です。

 くるりと楼門の方へ回り、大階段から下を眺めてみると。人がたくさんいます。時間もいい時間なので、結構人が出てきたんでしょう。階段下の大イチョウはくっきり緑色で葉っぱも全然落ちていません。明月院の真っ黄色とは実に対照的です。

太鼓橋 そういえば、下からはプォ~~~~という雅楽の音も聞こえてきます。どうやら舞殿で結婚式をやっているようです。周りにも人が集まっています。天気は快晴、そこそこ暖かくなってきているし、絶好の結婚式日和です。大階段を降り、大銀杏を横目に結婚式を見学。写真じゃよくわかりませんが、左側の舞殿の中で雅楽が舞われているんです。

 結婚式を見たあと、八幡宮の表玄関、三ノ鳥居まで行きます。東西の池の間には太鼓橋が渡されていますが、あまりに角度が急で、危ないということで渡るのが禁止になってしまいました。脇に橋が二本作られています。太鼓橋のまわりの池(源平池)の紅葉はやや色づいていますが、これももうすこし。

 ふと時計を見るともう10時半をまわっています。まだ道のりは長いっ。早く次のイチョウの名所、頼朝のお墓まで行かねば! 池のほとりをまわって、流鏑馬馬場へ出て、東の鳥居へ抜けました。鳥居を出るとすぐ右手の民家のかどに「畠山重忠宅」の碑が立っています。御家人の鑑と賞された清廉潔白の武士・畠山次郎重忠の屋敷跡ということですが、実際はここ一帯は政所跡なので誤りです。実際の畠山重忠の屋敷は、『吾妻鏡』によれば「南御門宅」とあることから、幕府の南門の前、つまりはこの辺になります。隣家は八田知家の屋敷「南御門宅」と思われます。 (幕府と周辺地図

 東鳥居を出て直進するとT字路にぶつかります。目の前はコンビニ。左に曲がって目の前に見える横浜国大附属小中はその大部分が北条家に匹敵する勢力を持っていた三浦家の屋敷跡です。その北には有力御家人の後藤家の屋敷がありました。

 幕府西門があった「西御門」から小道を入ります。てくてく頼朝のお墓を目指して散策です。この辺は鎌倉っていうイメージの家が並んでいます。白い壁にちょっと洋風な感じの家。外国人も多く歩いています。街路樹の桜並木はすっかり紅葉も終わり、落ちかけた葉っぱが枝にしがみついています。そうこうしているうちに、アスファルトの道もいつしかレンガ張りのキレイな道に変わります。清泉小のかどには「大倉幕府跡」の碑が建っていますが、実はここは幕府のちょうど真ん中にあたります。この辺に幕府の政庁があったのでしょう。しかし、清泉小が建てられた時には発掘調査がされず、幕府跡がどうなっているのか不明だそうです。

発掘現場 清泉小のかどを左に曲がって、レンガ道を北に向かって直進すると頼朝の墓があります。道の途中で家の建て替えにともなう発掘調査をやっていました。10月末から1月まで調査をやるようです。京都もそうですが、史跡の上に立つ街での工事は大変そうです。「古都保存法」に基づいて建築前の発掘調査を行なわなくてはなりません。しかも建築主の自費です! ちょっと調査現場を覗き込んでみると、柱跡が見えました。横のカベには手書きの説明板がくくりつけられていて、「網代壁の掘立小屋」だとのこと。網代壁は薄い板を細く切り、それをカゴのように編んでつくられた壁のことで、出てきた遺物は、かわらけ、青磁、瀬戸の皿などとのこと。時代は鎌倉時代後期というから、大倉幕府のタテモノではなさそうですが、青磁や瀬戸が出ているということは、有力な武家の屋敷地だったのでしょう。

法華堂イチョウ さて、頼朝の墓前につきました。左にある公園のイチョウは今真っ盛り! 落葉もきれいです。カメラ片手にした人たちが写真を撮っています。明月院門前のイチョウもよかったですが、こっちのイチョウもかなりいいですね。

 さて、頼朝のお墓に向かう階段は急です。左側には「法華堂跡」の碑が建っています。ただ、実際は法華堂はその上、頼朝の墓の西側にあったようです。江戸時代まではお堂があって、頼朝の護持仏と伝わる観音菩薩が本尊として祀られていましたが、これまた旧津和野藩中心(亀井茲監、福羽美静といった輩)の神祇事務局が推進した「廃仏毀釈」で、法華堂も本尊の観世音菩薩も消えました。代わりに崖下に「白旗神社」なる神社が建てられ、今に至っています。なので、この神社はまるで拝む気になりません。

頼朝墓 さて、階段を登ると、目の前にどーんと石の塔があります。「頼朝の墓」とされる石塔です。今の墓石は安永8(1779)年、薩摩の殿様・島津重豪が、島津家初代の島津忠久が頼朝の落胤だということを権威づける意味で建てたもの。このお墓の西側に頼朝の法華堂が建てられていたようです。しかし、現在は表土が流されてしまっているのでよくわかりません。お墓には、頼朝の実弟・源希義のお墓(高知県にある)から持ってこられた小石がいっしょに置いてありました。

伝大江広元墓 以前、お墓の右手にあった茶屋はなくなっていました。儲からなかったのかな? 店があったときには気がつかなかった土の階段がお墓の裏手にありました。さっそくカメラ片手に急崖をよじ登ってみました。するとガケの上には意外にもちゃんとした山道があります。どこに繋がってるんだ? 道の右横はガケになっていて、五メートルくらい下に道が見えます。

 道の先にはヤグラ(ガケをくりぬいてつくられたお墓)がありました。三つ並んでいて、左から毛利季光、大江広元(写真)、ちょっと離れて島津忠久のものとされるヤグラです。いずれも頼朝の代に活躍した御家人で、とくに大江広元は京都から鎌倉に来た貴族。政務に通じていたので、政所執事に抜擢され、幕政を取り仕切った人物です。毛利季光はその子ども。島津忠久は京都の五摂家筆頭・近衛家の侍だった惟宗広言の子で、母親が頼朝の乳母の娘(丹後局)だったことで、頼朝にもかわいがられたようです。ただ、このヤグラ群の被葬者はあくまで「伝」ということで、実際に誰のものかは不明です。ヤグラ下の広場は北条義時法華堂跡と断定されていますが、ワタシは『吾妻鏡』の記述と頼朝を祀る「法華堂」という寺院の配置から、この説に疑問を持っています。

 さて、この三つにお参りをすませて頼朝のお墓まで戻り、次の紅葉ポイント、荏柄天神に向かいます。

 荏柄天神までの道沿い、清泉小の注意書きに「夜間は犬が放たれています」とありました。登校してきた生徒咬まれたらどう責任を取るのでしょう? そもそも門扉の柵幅が広く、野放しにしていたら犬は簡単に外に出れます。なかなか面白い看板です。

 この道の先に十字路がありますが、そこが幕府の東門に当たる「東御門」の跡です。さらに東へ行くと荏柄天神につきます。松の木が目印の神社で、幕府ができるよりも前からこの地にあるかなり古い神社です。建仁2(1202)年9月には大江広元が参詣した記録が『吾妻鏡』にあります。でも、ここもまたイチョウが緑。仕方がないので、ここも鳥居の前でお参りをすませ、次の目的地、鎌倉宮へ向かいます。

鎌倉宮鎌倉宮 鎌倉宮は、鎌倉時代末期に鎌倉幕府、その滅亡後は足利尊氏と戦った大塔宮護良親王(後醍醐天皇第三皇子)を祀っている神社です。かつては東光寺というお寺があったところで、護良親王が足利直義(尊氏の弟)に暗殺された場所。ここの拝殿右側にあるモミジがなかなかイイ色になっていました。ここの入場料は一人300円。拝殿より前には人が結構いましたが、中に入ると誰もいません。確かに見るところは少ないかもしれない。護良親王が閉じ込められていたという「土牢」がありますが、実際は違うようで、護良親王はきちんとした建物に幽閉されていたとのこと。護良親王が暗殺されたのち、その首が置かれた「御構廟」もありました。

 境内を散策したあと、境内の出口にあったモミジを鑑賞しながら、軽~く今川焼きで腹ごしらえ。そういえば、朝方から何も食べていなかった。お腹が減るわけです。

永福寺 次に目指すのは、永福寺跡。「跡」なのでお寺もなーーんにもありませんが、ススキが一面に生えていて、太陽の光でキラキラしている名所でもあります。今まで紅葉は成果があまりないので、一面ススキのキレイな写真をとろう! 勢い込んで向かいましたが……。ススキが刈り取られてました。なんか今年の秋はついてません。

称名寺 永福寺は頼朝が建てた三つの大きな寺(鶴岡八幡宮寺、勝長寿院、永福寺)のひとつで、頼朝が奥州平泉に遠征したときに、奥州藤原氏が建立した中尊寺の大長寿院(二階大堂)、金色堂を見て奥州文化のすばらしさに心打たれ、鎌倉に帰ってきたのちに、大長寿院を模して創ったお寺が永福寺です。このお寺の真ん中のお堂が二階建てだったことから、「二階堂」と呼ばれ、永福寺がなくなった後もこの地の地名になって残りました。

 寺の建物の形は平等院鳳凰堂のようにお堂を挟んで釣殿が両側にあり、ひょうたん型をした池に突き出していました。真ん中の二階堂から池を渡る橋があり、金沢文庫の称名寺(左写真)のような形になっていました。看板を見ると、どうやら史跡公園として発掘調査と整備をするようです。それでススキは刈り取られていたんでしょう。次は理智光寺跡と大塔宮護良親王の墓所へ行きます。

永福寺境内図

 ▲永福寺境内想像図(『武家の古都、鎌倉』を参考に作成)

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