千葉氏の掲示板過去ログ5


[527]  追伸 投稿者:洋子 [九曜] 投稿日:2001/08/25(Sat) 05:04

高野山の宿坊マップを早速みてみましたら「連華定院」というお寺がありますが、柴田さんに教えていただいた「連華王院」とは違うお寺なのでしょうか?


[526] ありがとうございます 投稿者:洋子 [九曜] 投稿日:2001/08/25(Sat) 04:53

柴田さん おはようございます
それから、お返事ありがとうございます

高野山には11月頃に行きたいと思っていますので、参考にさせていただきたいと思います。
その折には、またご報告させていただきますね(^^)

このHPを見てから、実家の母と何度もTELで話しました。
板柳町には龍雲寺というお寺があって、そこには古い石碑があり、それには「3人の武者が落ち延びて板柳町を開いたことと、竜雲寺を建立したこと」等が書かれているそうです。
今度、実家に帰った時に訪れてみようと思っています。
それと、母のあいまいな記憶ですが、母の祖母がよく「千葉介」という言葉を話していたそうです。
小さい頃の事なので、内容は覚えていないそうですが、私がHPを読んであげたら、その記憶だけは戻ったみたいです。
どこから調べ始めたらいいのかわからないのですが、少しずつでも何かがわかって行ったら…と思います
今後ともよろしくお願いいたします


[525] こんにちは 投稿者:たすく [追加希望] 投稿日:2001/08/24(Fri) 11:42

柴田さん、こんにちわ。
お約束の資料本日送りましたので宜しく。

坂本さん、こんばんは!

ありがとうございます!楽しみにいたしております!!


[524] 千葉家は母の実家です 投稿者:洋子 [九曜] 投稿日:2001/08/23(Thu) 16:11

はじめまして!
いきなり本題に入りますが…
母の実家は、青森県北津軽郡板柳町です
詳しくは知らないのですが、板柳町は先祖が都から落ち延びて、開いた町だと町史にも書いていると聞きました
落ちたときに持ってきたという古い尼さんの墓石があったりといろいろと興味があったのですが、今まで何もせずに過ごしてきてしまいました
先日、高野山に遊びに行き、九曜の紋がついているお寺が数件あって、何か関わりがあるのかと更に興味を持ちました。
実は、一昨年、叔父が亡くなり、高野山で先祖供養をしていただきたいと考えています
もし、千葉家に関わりのあるお寺があるならば、そちらでお願いしたいと思ってネットサーフィンしていて、こちらのHPを見つけました
ご存知でしたら教えていただけませんでしょうか?
よろしくお願いします

洋子さん、こんにちは!

高野山には、各地の大名たちとの間で、家臣等が参詣した際に宿泊できるよう、「宿坊」の契約が行われることがありました。千葉氏の宿坊は「蓮華王院」だったようです。それから、東北の相馬氏も応仁元(1467)年に「無量光院」を宿坊と定めています。

それから、千葉市稲毛区轟にある千葉氏の菩提寺「大日寺」は真言宗の古刹です。もともとは千葉市中央区にある千葉神社(古くは金剛授寺、妙見寺)に隣接して建てられていたお寺です。このお寺には千葉氏累代の当主の墓石が残されています。


[ 523] 旅行の写真をUP完了です。 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/08/22(Wed) 23:46

d-ffです。
 8/4〜8の東北(福島・宮城)旅行の写真をUP出来ました。

 http://www5d.biglobe.ne.jp/~DtypeFF/

 やっと出来上がりました。写真のサイズがバラバラで、見づらいのですが。 @_@;;

D-FFさん、こんにちは!

ホームページ、早速拝見させていただきました。
写真のほう、とても綺麗に撮られていますね!
ラフな説明と写真という組み合わせは、自分もこのページでやりたいのですが、どうもうまく臨場感が出せず(お堅い説明っぽくなってしまいます)に困っています(^^;

「D-FF写真館」というような形で、試行ではなく本格運営されてみてはいかがでしょう?ぜひリンクさせてください。

p.s. 使っている回線がISDNからCATVになりましたので、かなり大きなファイルでも(数MBレベル)でも数十秒でダウンロードできるようになりました(^^;


[522] はじめまして 投稿者:evcafe [追加希望] 投稿日:2001/08/16(Thu) 12:53

いつも辞書のように参考にさせていただいております。四倉といいます。福島県いわき市四倉町が名前の由縁です。今は大阪に住んでいますが、江戸時代中期までいわきに住んでいたようです。私共の先祖も千葉の末流らしく新妻氏の一族で大須賀胤信の好島荘預所のころに下総より移住したようです。祖先調べをライフワークにしております。よろしくおねがいします。<>四倉さん、こんにちは!

じつは秋田久保田藩(藩主:佐竹氏)の藩士に四倉家という家があります。この家も千葉氏の流れをくんでいるようです。関が原の戦い以後、岩城氏は佐竹氏とともに秋田へ移っていったことがありますので、窪田藩四倉一族となにかご関係があるのかもしれませんね。ちなみに、おそらく好島庄の大須賀家末裔と思われる大須賀家も岩城氏に仕えていまして、明治時代まで続いたようです。

「千葉氏の一族」の項目に「四倉氏」を追加させていただきますね!


[521] はじめまして 投稿者:バ〜サス♪ [家紋不明] 投稿日:2001/08/16(Thu) 01:56

どもども。はじめまして石出と申します。
最近ふとインターネットで「石出家」について検索していたところここのHPに辿り着いてしまいました。
前々より私の家の家系の大元が天皇家に関係していたらしいという話をきいていましたがまさか・・・・という感じです。
元々石出家側の祖父が父の生まれる前に亡くなっていたので御先祖様の情報はほとんど皆無でした。
親戚のうちの誰かがある程度まで調べ上げたらしいのですが・・・・

とにかく自分の御先祖様のことを少しでも知ることができてとても満足です。
・・・本当に私の「石出家」とこのHPで見かけた「石出家」につながりがあればのことですが・・・

いきなりの投稿ですいません。少し興奮気味なもので。またちょくちょく覗かせて頂きます。ではでわ。<>バ〜サス♪さん、こんにちは!

 千葉氏の流れを汲む石出家は、中世の早い時期(鎌倉期)以降の系譜が確認できずにいたところ、柏市の「千葉家」という和菓子屋さん(リンクさせてもらっています)から情報をいただきまして、どうやら千住(東京都)に宿場を開いた「石出掃部吉胤」という人物が千葉氏の流れを汲んでいるようだということがわかりました。お墓が千住の源長寺というお寺にあります。家紋は千葉氏所縁の「九曜」です。ぜひ一度、お訪ねになってみてください(^^)。

 それから、小伝馬町の牢屋敷を管理していた囚獄奉行の石出帯刀も著名ですが、こちらと石出掃部とのかかわりはよくわかっていません。

 千葉県千葉市中央区にある県立中央図書館に開架されています『房総の郷土史』(千葉県郷土史研究連絡協議会編:1996年)という小冊子に、「千葉氏系石出氏」という石出猛史氏(千葉大学医学部医学博士)が執筆された石出氏に特化した13ページの論文です。お時間があれば、ぜひご覧になってみてください。


[520]  投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/08/16(Thu) 00:26

 柴田さん、こんにちわ d-ffです。

 今回の東北方面の旅行の写真をUP中です。
 (前回、膨大なメールを送ってしまったので、HPを開設して、そちらで見て貰おうと思って)
 
 HP作成が超初心者で悪戦苦闘をしています。


[519] OKですヨ。 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/08/13(Mon) 00:16

繋がってます。
掲示板は、基のURLにリンクされています。

<>D-FFさん、こんにちは!

ご旅行、ご苦労様でした!相馬地方にはまた行ってみたいのですが、以前の野馬追いに行った際は、むし暑い中、原ノ町から小高まで神社のはしごをしました。本当は途中でバスにでも乗っていこうと考えていたのですが、走っていませんでした(T_T)

でも、また行きたいですね。自然が多くて、地元(下総国相馬郡)と同じような景色が続いていました。

掲示板も近々、アドレスを移そうかと思っております。その際は、トップページでお知らせしますね♪


[518] 繋がりませんが・・・ 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/08/12(Sun) 11:57

URL合ってるでしょうか?
使用出来ないという表示が出ますが・・・<>服部さん、こんにちは!

アドレスは、
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/

となっております。
上記アドレスでもういちどやってみてください(^^;
たぶんつながると思います。


[517] アドレス変更 投稿者:柴田 [丸に並矢] 投稿日:2001/08/11(Sat) 03:20

 みなさま、こんばんは!

 当ホームページのアドレスの方が変更となりましたのでお知らせいたします。

新アドレス
http://members.jcom.home.ne.jp/bamen/index.htm

これからもどうぞ、「千葉一族」をよろしくお願い申し上げます(^^)


[516] こんにちわ 投稿者:高橋由美 [追加希望] 投稿日:2001/08/08(Wed) 10:34

柴田さんに助言してもらい、あれから色々な資料を読んでいるうちに…
探していた『大塚』の事よりも、父の実家の流れがわかってきた事に
ビックリしました。
柴田さんには、お聞きしたい事もたくさんあるので、これからもよろしくお願いします!!<>高橋さん、こんにちは!

高橋家も、奈良時代ごろから続いている可能性がありますよ(^^)

家紋WORLDさんのページに紹介されています。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/best10/takahasi.html

どうぞ、よろしくお願いいたします(^^)


[515] こんにちわ 投稿者:坂本 [追加希望] 投稿日:2001/08/07(Tue) 09:12

柴田さん、先日はご苦労様でした。短い時間でしたけど
お話できて楽しい時が過ごせました。有難うございます。
「続涌谷家譜」と「亘理氏の妙見縁起」「坂本氏の妙見縁起」
送りますのでご意見をお聞かせください。
では、又連絡致します。<>坂本さん、こんばんは!
先日はありがとうございました!!
とんぼがえり、ご苦労様でした。

貴重な情報いただきまして、ありがとうございます!
今、さっそく佐沼関係を見ております。

おかげさまで武石氏のページ、情報量が充実してきまして、サイズが大きくなってきました。開くのに時間がかかりそうなので、3つくらいに分割することにしました。

「続涌谷家譜」「亘理氏の妙見縁起」「坂本氏の妙見縁起」楽しみに待たせていただきます(^^)わくわく

妙見神とカメの関係は本当に深く、鯖江藩の間部侯の重臣となっていた臼井家(臼井城主臼井家嫡流)にも妙見神とカメが伝承されています。


[514] アドレスの変更 投稿者:柴田 [月星] 投稿日:2001/08/01(Wed) 22:23

皆様、こんばんは!

千葉氏の一族のURLが変更することとなりました。
アドレスのほうはまだ決まっておりませんので、
のちほど、こちらの掲示板のほうに掲載したいと思います。


[513] 千葉家について 投稿者:ケン [月星] 投稿日:2001/07/23(Mon) 01:23

名古屋市東区に居住の方で、千葉姓を名乗っておられる方がありました。昔千葉県の先祖が領地を縮小しながら愛知県にきたとか。
その昔(まだ昭和の頃)は、それでも屋敷、別宅、広大な庭があったそうです。名古屋の千葉家についてご存じの方教えてください。<> ケンさん、こんにちは!

 名古屋ではないのですが、犬山城主・成瀬家の家老に下総国出身の千葉家がありました。成瀬家がまだ下総国に所領を持っていたころに召抱えたようですが、家老にまで登りつめています。

また、松平広忠以来の松平家家臣で、金田という一族があります。江戸時代は旗本になっていますが、房総から愛知とへ次第に移っていった一族です。


[512] 印刷方法を教えて下さい 投稿者:千葉文雄 [月星] 投稿日:2001/07/21(Sat) 18:00

家族、親戚一同で自分たちの、ルーツを探していますが
ホームページの、奥州千葉氏の一族1、の5頁および 千葉六党
+1、の7頁は途中までより、印刷できませんが、全文印刷の方法を教えて下さい

<>千葉文雄さん、こんにちは!

印刷につきましては、ホームページ内に細工はしておりませんので、普通に印刷していただければプリントアウトできる思いますよ(^^)


[511]  投稿者:坂本紀男 [追加希望] 投稿日:2001/07/20(Fri) 15:10

佐さん、柴田さん、こんにちわ。

8月4日記念講演会参加できそうです。
事務局への申し込みを、お手数ですが宜しくお願い致します。
柴田さんとも是非お会いできればと思っております。
その時、「佐沼亘理家譜」と「根笹霰紋」のコピ−をお渡しいたします。
では、お会いできるのを楽しみにしております。<>坂本さん、こんにちは!

8月4日、自分も大丈夫そうです。
佐沼亘理家譜と紋章、楽しみにしております!
自分も最近、亘理家譜(伊達安芸系)を図書館で見つけまして、さっそく借りてきております。坂本氏や長谷氏、千石氏のアップと平行してそちらもまとめていきたいと思います。


[510] こんにちわ 投稿者:千葉市の遺跡を歩く会・あるけ〜 [家紋不明] 投稿日:2001/07/11(Wed) 21:22

柴田さん、千葉氏ゆかりの皆さん、こんにちわ。
以下、千葉氏ゆかりのお城めぐりのご案内です。

★千葉市の遺跡を歩く会・遺跡めぐりのご案内 ―高品城をあるく―

 高品城(千葉市若葉区高品町)は、最近になって、その歴史的・学術的重要性が認識されるにいたった、戦国盛期の城郭です。戦国時代、佐倉を本拠とした千葉宗家は、小弓公方や里見氏の侵攻を幾たびもうけていますが、千葉氏にとって高品城はこれらの敵対勢力に対する最前線に位置し、佐倉への街道を押さえる防衛の要というべき城ででし
た。また千葉宗家の嫡男は、代々、千葉妙見宮(現、千葉神社)に詣で元服する慣行でした。その折、千葉宗家が現地の滞在場所としたのが千葉神社から直線約1kmの距離にある高品城でした。戦国時代末期に成立したという『千学集』はその元服の儀の模様を今に伝えています。数百騎の随兵を従えた千葉宗家の行列、小弓公方や里見氏の軍勢が行き来した古街道から歩いていく予定です。

【集合日時】7月22日(日)09:30 (解散は11:30ころ)
【集合場所】高品交差点・ヤックスわき
【参加費】 200円 (保険・資料等) 
【定 員】 約30名 
【申込み】 事務局へ (お早めに!)
詳しくは、HPをごらんください。
<>あるけーさん、こんにちは!

今日も暑くなりそうですね。。今夜中ですが、かなり蒸し暑いっす(^^;高品城はまだ行った事がないので、そのうち訪れてみたいと思います。


[509] 関係あるかな? 投稿者:そりちゃん [九曜] 投稿日:2001/07/11(Wed) 20:01

はじめまして!突然ですが、私の母の実家は神子(かみこ)といい、家紋が九曜紋なのですが千葉氏と関わりがあるのでしょうか?本家は八日市場にあります。教えてください。<>そりちゃんさん、こんにちは!

神子氏について調べてみたのですが、いまのところわかりませんでした(^^;九曜紋という事からなにか関係があるのかもしれないですね。もうすこし調べてみます。


[508]  投稿者:高橋由美 [追加希望] 投稿日:2001/07/05(Thu) 21:09

いろいろ調べてくださってありがとうございました。
とっても参考になりました。
メッセージを書いてから、千葉氏とは全然関係なかったのかも…と、
メッセージを書いてしまった事に不安を感じていたのですが…
親切に教えていただいてホントにありがとうございました。
私もあれから、吾妻町の歴史に関する本を探して読んでいます。
少しづつですが…いろいろな事がわかってくると、楽しいものですね。
また、わからない事があったら聞いてもいいですか?
ほんとうに、ありがとうございました!!
<>高橋さん、こんにちは!

お役に立てたようで、うれしいです(^^)

この掲示板は千葉氏のことだけではなく、なんでも書き込んでいただいてかまいません。ご質問にも、わかる範囲でお答えしますよ(^^)


[507] 柴田さんへ 投稿者:坂本紀男 [追加希望] 投稿日:2001/07/04(Wed) 11:06

佐さん、ご無沙汰いたしております。
10月13日〜10月14日、東山町千葉氏フォ−ラム是非参加したいですね。涌谷に来て頂いて一緒に行きましょう。
柴田さんも都合がよければ是非来てください。
「千葉氏美術展」へは、仕事の関係で8月10日に見学に行く予定です。(日帰り)  近くになりましたら連絡致します。


[506] この掲示板の恐怖? 投稿者:坂本紀男 [追加希望] 投稿日:2001/07/04(Wed) 10:44

柴田さん、こんにちわ。
早速、「武石氏」更新ありがとうございました。南北朝時代の資料がもっとあればいいのですが現実は厳しいですね。
亘理重宗の生没年が抜けていますので宜しくお願い致します。
「佐沼亘理家」の家譜草稿がありますのでお送りいたします。
(佐さんから入手したものを校正)
送り先教えてください。では、又。
<>坂本さん、こんにちは!

南北朝時代の武石氏はほんとうにわからないですね。先日、一族の亘理氏の項目を書いていて、その系譜との矛盾などが次々に出てきまして、なかなかまとめられませんでした。

ただ、武石胤顕は、諸郡の検断職ならびに「上総権介」という受領名を持っているところからして、この胤顕の系統が本宗家ではないかと感じています。この人物は、相馬重胤とも同心していた形跡が見られ、北朝方の人物であったと思います。

対して、系譜にあらわれる武石高広は南朝方の人物として、北畠顕家に従って近畿で討死をとげたとされています。もしも、この高広という人物が本当に実在していたとしても、すでにこれ以前に胤顕が相馬氏と同様、検断職を陸奥将軍府から仰せつかっていたことからして、高広が惣領であったということはないと思いました。

ただし、胤顕の載せられた系譜がないのでどうすることもできませんが(^^;

亘理重宗の生没年、了解しました!次回更新時に直しておきますね。『佐沼亘理家』の文書、お送りくださるとのこと、ありがとうございました!!つきましては、坂本さんのメールアドレスを教えていただけますか?メールのほうに住所などをお送りします。


[505] 謎の越中椎名氏 投稿者:椎名右衛門大夫 [月星] 投稿日:2001/06/26(Tue) 21:20

こんばんは。ご無沙汰しております。
謎だらけの、越中椎名氏の考察を多面的に行ってきた結果、いろいろなところにはまり込んでいます。
 最大の謎、越中椎名氏の系譜が今一つ解明できないですね。椎名系図に登場する人物は、史料には決して現れません。
次に、椎名康胤と上杉謙信との確執。今判ってきたことは、椎名家臣団と真宗との結びつきでしょうか。一向一揆という言葉は、後世の人が名付けたものですが、越中は真宗門徒の領主の実質支配にあったようですが。これを手掛かりに椎名康胤が何故、上杉謙信と戦を構えたのかを解き明かして行きたいと思っています。
ご期待ください。
<>椎名さん、こんにちは!

先日、なにかの本で椎名道三という名が見える史料(たしか武士が列記されている)を見たのですが、時間がなくてコピーすることができませんでした。もったいない。。

たしかに、椎名氏の系図に見える人物の多くが史料には出てこないんですよね。逆に、史料にでてくる人物は系図に載せられていない。。どういうことなんでしょう。。


[504] はじめまして 投稿者:千葉 [月星] 投稿日:2001/06/26(Tue) 10:04

はじめまして、こんにちわ。
千葉家にとついで初めて知った月星の家紋。
三日月に北極星とか聞いていましたが、ここを拝見して初めてその由来を知りました。
 初めて五月人形で家紋を見たときは、「こいのぼりの目玉?」
とおもったことが今では懐かしいです。
 こんなに調べ尽くされ、整理された素晴らしいHP、めぐり合えて嬉しいです。
さっそく中学生の息子にも話してあげたいとおもいます。<>千葉さん、こんにちは!

千葉氏の代表的な家紋の月星紋や九曜などの星紋は、いまでも千葉県内のいたるところ(とくに神社やお寺)で見ることができますよ(^^)
千葉市中央区の千葉神社は千葉氏ゆかりの神社です。ぜひ行ってみてください!


[503] 私のルーツは千葉氏なのでしょうか? 投稿者:新沼英彦 [鷹羽] 投稿日:2001/06/26(Tue) 00:33

私の家の家紋は鷹羽紋です。私の五代前位に新沼揚軒なる人物がいて、伊達家に仕えており、伊達家の菩提寺の東昌寺に眠っております。城下に住まいを置き、伊達家に使えていたそうです。お墓も結構大きく、近々は新しい他の墓に越境されていますが、それなりの家格はあったようですが・・・。いまやナマグサ坊主に成り下がった東昌寺の住職は、この新沼揚軒なる人物のことはまったく分からないとの事、そのようなわからない人物を伊達家の菩提寺に弔うものか?と疑問に思っていました。この千葉氏のページを見て私のルーツはなんだろうとより一層疑問にかられました。このような新沼家について分かることがあれば、どなたかお教えいただきたくお願い致します。ちなみに私は今東京にいますが、それまで仙台におりました。<>新沼さん、こんにちは!

新沼氏と東昌寺について調べておりますが、まだ残念ながら具体的なものが見つかりません(^^;引き続き、調べております。


[502]  たすくさん、有り難うございます。投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/06/24(Sun) 22:42

たすくさん。こんにちわ、d-ffです。
コメント有り難うございます。
東北地方にまで及んだ事だったのですネ。
今までは、そのようには、思っていませんでした。

又、教えてください。宜しくお願いします。


[501] 岩手県東山で千葉氏フォーラム 投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/06/24(Sun) 21:51

坂本さんへ

はじめての登場、おめでとうございます。
坂本さん、10月13/14日に岩手県東山町で千葉氏フォーラムが行われますが、一緒にいきませんか。
涌谷にもよりたいですね。また千葉氏フォーラムのとき、なんもお話できなくてすみません。
また7月24日から千葉氏美術展が始まりますので佐々木先生にも一度ご来葉お願いします。ご本人には、お手紙をさしあげます。ぜひ、千葉にもおいでください。


[500]  d-ffさんへ 投稿者:たすく [九曜] 投稿日:2001/06/24(Sun) 21:48

柴田さん、d-ffさんこんばんは!
これは、紛れもない事実です。千葉県北東部から茨城県南部にかけては特に顕著です。月星・九曜を隠し、「違い鷹の羽」や百姓紋特有の「横もっこ」などにかえます。私の家もそうですから。
やはり、古い旧家にいくとわかります。これは千葉に限ったことではありません。東北千葉もそうですし、江戸崎の土岐だって、宇都宮一族だって、そういったことはありますよ。
秀吉かた2代将軍秀忠のころまで、旧族がりけっこうやっていましたもの。
旧家にいくとそのような伝承結構あります。


[499] 追伸 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/06/22(Fri) 23:47

柴田さん、ご無沙汰でございます。 d-ffです。

「以前、どこかで聞いたような気がするのですが、秀吉による関東制圧と同時に千葉氏など旧大名家はつぎつぎに姿を消しました。そのとき、千葉氏に従っていた家が、家の紋を九曜などの紋から鷹の羽紋へ改めた。。。そういう話を、どこかで聞いた気がします。たしかに佐原や東総の方に行った際、鷹羽紋がたくさんあったことを覚えています。」

 このことについて、もう少し詳しいことをご存じでしたら、
教えてください。

 小生の家も家紋が”違い鷹の羽”です。


[498]  投稿者:高橋由美 [七曜] 投稿日:2001/06/22(Fri) 00:54

はじめまして、高橋と申します。
最近、家紋についていろいろ調べはじめたのですが…なんの知識もない私に、皆さんのお力をかしていただけませんか?
自分の家の家紋のルーツを知りたいと思ったのは、数年前に祖父が亡くなった事がきっかけでした。
祖父が亡くなり、仏壇にある先祖の位牌を掃除していたとき、古い位牌の底に扉が付いているのに気がつきました。
扉を開けると、中から小さな木の札がたくさん出てきました。木の札には亡くなった人の名前と年号が書いてありました。
近くのお寺の住職さんに見てもらうと、300年ぐらい前のものだと言われましたが詳しくは、わかりませんでした。

私の実家の姓は『大塚』といいます。家の家紋は『丸に七曜』と『丸に大の字』の二つの家紋があります。
住所は群馬県吾妻郡吾妻町萩生(はぎゅう)の大谷と言われているところです。
皆さん何かわかる事があったら教えて下さい。お願いします。


<>高橋さん、こんにちは!

 吾妻町の大塚氏の発祥はわかりませんでしたが、当地に勢力を持っていた豪族だったようです。本貫地は中之条町大塚。小田原の北条氏からの備えのために、真田信之(真田幸村<信繁>の兄)が吾妻郡横尾八幡城の守りとして、大塚孫左衛門らを配置したようです。

 萩生の大塚姓については、家紋は丸に七曜。萩生字境野の三戸は冬至前の吉日に「屋敷祭」なるものを行うそうです。字大谷の大塚氏はご先祖のお墓に詣でたのち、各戸のお墓を詣でる伝統があるそうです。萩生字堀井戸の大塚文治郎氏は榛山と号した壁画家で、法隆寺の壁画修復を行っています。

坂本さん、こんばんは!

ありがとうございます!楽しみにいたしております!!


[497] 家紋のこと教えて下さい。 投稿者:坂本紀男 [追加希望] 投稿日:2001/06/19(Tue) 09:56

柴田さん、こんにちは。
「根笹霰紋」と粟飯原氏の「五根篠紋」は違います。
今度、写真を送ります。
では又何かありましたら宜しくお願い致します。
<> 坂本さん、こんにちは!

 「根笹」という家紋は奥が深いですね(^^;よろしくお願いいたします。

 亘理氏もなかなか奥が深くて、難しいですね。いま、概略をちょこちょこと掲載しております。

洋子さん、こんにちは!

高野山には、各地の大名たちとの間で、家臣等が参詣した際に宿泊できるよう、「宿坊」の契約が行われることがありました。千葉氏の宿坊は「蓮華王院」だったようです。それから、東北の相馬氏も応仁元(1467)年に「無量光院」を宿坊と定めています。

それから、千葉市稲毛区轟にある千葉氏の菩提寺「大日寺」は真言宗の古刹です。もともとは千葉市中央区にある千葉神社(古くは金剛授寺、妙見寺)に隣接して建てられていたお寺です。このお寺には千葉氏累代の当主の墓石が残されています。


[496] 千葉家は母の実家です 投稿者:坂本紀男 [追加希望] 投稿日:2001/06/15(Fri) 13:59

佐さん、柴田さん、こんにちは。
千葉氏フォーラムの時はお世話になりました。
我が家は、武石分流で家紋は「三星」です。
柴田さんにお渡し致しました資料を追加して頂けたら
幸いです。
武石氏(亘理氏・涌谷伊達家)の家紋は、
「月に九曜」・「根笹霰」(源頼朝より拝領)です。
本来は、「九曜紋」を使用していましたが、伊達政宗が
「九曜紋」(細川家に政宗が所望した)を使用したので
仙台本藩と同じ紋では、恐れ多いので変更した様です。
亘理定宗の時に伊達姓を賜り家紋も「竹に雀」「三引両」
を賜ったそうです。
今後も宜しくお願い致します。<>坂本さん、こんにちは!
千葉氏フォーラムではお世話様でした。貴重な資料もいただきまして、いま読んでまとめております。
近いうちに武石氏のページならびに、坂本氏の項目に追記いたします(^^)
「根笹霰」という紋は、粟飯原氏の項目に載せております紋と同様のものなのでしょうか??

D-FFさん、こんにちは!

ホームページ、早速拝見させていただきました。
写真のほう、とても綺麗に撮られていますね!
ラフな説明と写真という組み合わせは、自分もこのページでやりたいのですが、どうもうまく臨場感が出せず(お堅い説明っぽくなってしまいます)に困っています(^^;

「D-FF写真館」というような形で、試行ではなく本格運営されてみてはいかがでしょう?ぜひリンクさせてください。

p.s. 使っている回線がISDNからCATVになりましたので、かなり大きなファイルでも(数MBレベル)でも数十秒でダウンロードできるようになりました(^^;


[495] 上杉謙信の恋人について投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/06/10(Sun) 23:23

柴田さん、こんばんは!
上杉謙信は一生、女性と関係をもたなかった。不犯説がありますが伝承では、上野国平井城の千葉釆女の息女の伊勢姫と恋仲におちたという説があります。この千葉釆女なる人物ご存じの方いらっしゃいましたら教えてください。<>たすくさん、こんにちは!

ちょうど今、上杉謙信関係の本を読んでいて、平井城主・千葉采女の娘、伊勢姫のことが出ていました。伝承によれば、謙信が妾にしようとしたのを柿崎景家に他国の人物を娶るなどもってのほかと反対されて、断念したようですね。ただ、伝説上の人物ともいわれているようです。
こんど上州平井城主について、調べてみます。


[494] 私は東氏の末裔か? 投稿者:柳堀喜好 [丸に並矢] 投稿日:2001/06/02(Sat) 01:51

私は千葉県香取郡東庄が実家であると聞いているのですが、
どこを探しても柳堀の名の由来がありません。東庄には
いっぱい柳堀姓はいます。どなたか私の素性を教えて下さい。
因みに家紋は鷹の羽(違え)です。<>柳堀さん、こんにちは!

「柳堀」氏を調べてみたのですが、すいません(^^;まだ見つかりません。。
 香取社の神官にいるかも?(違鷹羽紋を用いる家がある)と思ったのですが、ここにはありませんでした。
以前、どこかで聞いたような気がするのですが、秀吉による関東制圧と同時に千葉氏など旧大名家はつぎつぎに姿を消しました。そのとき、千葉氏に従っていた家が、家の紋を九曜などの紋から鷹の羽紋へ改めた。。。そういう話を、どこかで聞いた気がします。たしかに佐原や東総の方に行った際、鷹羽紋がたくさんあったことを覚えています。


[493] 柴田さん、鈴木さん、皆さん、いつもお世話になります!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/05/28(Mon) 22:45

柴田さん、鈴木さん、皆さん、いつもお世話になります!!こんばんは!!柴田さん、いつもお世話になります!!

 岐阜県大和町は、緑と自然が多く、千葉氏で町おこしを熱心にされていたので、歴史・町おこし等の勉強(模範の町だと思いました!!)に本当になりました!!兵庫県朝来町でも是非、真似をして欲しいと思いました!!

 鈴木さん、岐阜県上宝村の桂本神社と大和町の東氏記念館等を紹介して頂きまして、本当に有り難うございました!!どちらも本当に、とってもすばらしかったです!!東氏記念館は、兵庫県朝来町で、是非、大和町の真似をして欲しいです!!前に、田路家の系図を中央公民館に持って行ったら開き戸にしまわれてしまったのですが、(私が桓武天皇の子孫を強調しすぎて?!田路谷城主のアピールが少し少なくなってしまったので?!)是非、朝来町に田路城について調べて頂きたいです!!私も頑張って調べたいです!!

 千葉市(千葉県)にも千葉氏ゆかりの場所などを見て、お墓参りなどしたいです。弥勒寺(他県)にも行きたいので、是非、千葉県と弥勒寺には、行きたいと思っているのですが・・・今年中に行きたいのですが(一応、今年をねらっているのですが・・・来年以降になったら笑って下さい・・・!!)まだ予定がたたなくて・・・!!でも、いつか必ず千葉市(千葉県)と弥勒寺に行きたいです!!暖かくなってきたので、田路城・福地城・柿屋氏と山名氏系図など少しづつ調べたいと思っております!!

 柴田さん、鈴木さん、色々、有り難うございました!!今後とも御指導の程、よろしくお願い申し上げます!!余談なのですが、名古屋コーチンのひよこをメス2匹とオス1匹、買いました!!卵を買わない生活と繁殖が目的で飼っています!!超かわいいです!!今日、少し尾と首の所がさより?!か、こより?!みたいになって、大人の毛(羽)が下から生えている感じでした・・・!!ぴーぴーぴよぴよ!!最高に超かわいいです!!(私は、鶏年なので、親鶏になりきっている!!)

 柴田さん、鈴木さん、皆さん、今後とも御指導の程、よろしくお願い申し上げます!!


[492] たすく様&柴田様ありがとうございました。 投稿者:千葉伸吾 [月星] 投稿日:2001/05/22(Tue) 10:11

丁寧なご解説、本当にありがとうございました。
たすく様のご質問@の件ですが(家紋)、詳しいことは父方実家の岩手県に帰って調べなければわからない事なので具体的なことを今は書くことができません。すみません^_^;

 そして26日のセミナーの件ですが、是非参加したかったです。しかし、予定があって参加できません。すみません^_^;

>これからの歴史学は「単に地方の豪族」とはとらえず、「関東・東国」からみた歴史を考える必要があります。

 たすくさんのこの言葉、深く胸に刻み込みます。僕はまだ20代の未婚の者なのですが、何故か今自分のルーツについて知りたい気持ちが強いのです。なぜなんだろう???
(昔読んだ外国の本、「ルーツ」って小説の影響かもしれません)

 これからも、このHPに記載されている情報を参考にして自分なりに探索していきたいと思います。また何か壁にぶち当たった時、皆さんにご質問してもよろしいのでしょうか?(どちらの掲示板の方がいいんですかね〜。)
 とりあえず、僕は自分の「月星の家紋」の正しい情報を探って見たいと思います。また「妙見信仰」そのものにスポットを当ててみたいと思っています。

 あの〜。一応推測なんですが・・・。その・・・。占い的っていうんですか?その「妙見信仰」ってつまり月と北斗七星と北極星の繋がりがあるわけですよね・・・。なんか「浪漫」を感じるんですよ(笑) 
 
 太陽を信仰する家柄より「浪漫」感じません?あと、家紋ってその家系の仕事を現してしているって聞いた事があるんで・・・。
 
 いずれにせよ、世知辛い世の中「浪漫」を感じさせてくれるご先祖様に感謝です。それでは、失礼します。


[491] 千葉信吾様への回答になるかどうか 投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/05/20(Sun) 15:08

千葉様
 はじめまして、千葉氏を研究と地域おこし活動をしているものです。
千葉さんの質問、軽々にお答えするのはどうかと思いますがお話させていただきます。

@千葉伸吾家の家紋
 逆にしりたいですね。私も全国の千葉家ゆかりの地にまいっていますが今回のは初めてですね。恐縮ですがどちらのご出身でありますか?
A蘇我氏と千葉家
 これは推測にすぎません。千葉家は桓武天皇ではなく、古代豪族・千葉国造の末裔という説がありましたが、残念ながら蘇我一族との関連は見あたりません。ただ「千葉市中央区蘇我」には蘇我比め神社という古い神社や、千葉県内には蘇我赤兄・日向と関係の深かった天智天皇の子・大友皇子を祀る神社があります。また大友皇子の后・耳面刀姫の陵も残っています。何らかの形で蘇我家とは関係があったようですね。千葉家とは直接、時代も違うので関連はわかりません。

A将門と妙見信仰について
 千葉の妙見については、いろいろな説があります。

 千葉妙見大縁起・千葉伝考記には、上野国(群馬県)において将門と良文は一族の国香との戦いの際に妙見が加護して助けてくれたという記述があります。この妙見を祀る「七星山息災寺」は、千葉一族によって勧請され、後に千葉一族が全国に所領を与えられた際に、妙見を全国に勧請されました。

 平安期以前から妙見信仰は、行われたようで、中国から僧によってもたらされたので、東国へその信仰が入ったことがわかります。大阪府太子町には聖徳太子が崇敬した蘇我家の寺「天白寺」がありますが妙見菩薩をまつっています。また、群馬県の妙見様は、一説には、朝鮮王族の羊一族が上野開拓したという話しもあります。

 平安中期には、関東でも古い時代の妙見信仰があり、後に源氏勢力の関東波及とともに「八幡信仰」が入ってきています。妙見菩薩の八幡化ということがおこなわれたようです。最近の研究では、千葉一族の祈願寺・北斗山金剛授寺尊光院では、かつて天台宗であった時期があり、京都の三井寺から「妙見」が勧請されたとみる話もあります。
 具体的には千葉市郷土博物館に、千葉氏・妙見信仰研究の第1人者がおりますので、一度お訪ねください。

B桓武平氏ってなんなのか?
 はっきりいって、私もどういえばいいのかわかりません。
ただ、「中世という時代を切り開いた一族」であり、「未開の地を開拓していった先覚者であった」と考えることはできないでしょうか。

 平高望は、関東地方に入り、未開の原野を切り開き、その孫の将門は、武士というものがおこる前に既に関東独立構想を打ち出しました。

 さらに桓武平氏は大きくわかれます。伊勢を本拠にする伊勢平氏と、関東を在地とする関東平氏です。前者は、中央政権とむすび、後者は、源氏という旗手にしました。
 桓武平氏の貞盛流は、伊勢を本拠におき、清盛は、武士としてはじめての太政大臣に任じられましたよね。
 そしてさらに平氏政権に矢をひいた人物に源頼朝がいますが、この頼朝を支えたのは千葉・上総・三浦・畠山・北条などの桓武平氏の一族なのです。そして彼らの尽力によって「中世」という扉が開かれたのです。
 そして彼らはその恩賞として、全国各地に所領をいただき、もしくは、新補地頭として赴任し、その地にねづき、独特の文化・行政を行ったのです。
 平氏はフロンティア精神とともに中央に対し、反体制的な側面もあったこと
も忘れてはなろません。

 いままでの歴史の視点は「中央・京都」を中心としていました。いま各地で「地方学」がさかんです。いま千葉も「千葉学」が確立されつつあります。
千葉さん、これからの歴史学は「単に地方の豪族」とはとれえず、「関東・東国」からみた歴史を考える必要があります。ちょうど5月26日に千葉市生涯学習センターにおいて初心者のための「千葉氏フォーラム」(千葉市市制施行80周年事業)をやりますのでよろしくお願いします。


[490] 古今伝授の里へようこそ 投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/05/20(Sun) 14:08

田路様

 岐阜県の旅お疲れさまでした。千葉一族の文化遺産で地域おこし、感動されて帰られましたね。ぜひまたリピーターとして、郡上へお出でください。
千葉一族の歴史だけではなく、岐阜県では歴史遺産で地域おこしをしていますので、結構、見習わなければなりませんね。
 やはり、その土地のアイデンティティを考えるとき、歴史や文化を勉強する必要があります。いや勉強ではなく、単なる散策・散歩でもいいと思います。
どうぞ、千葉にもご来葉ください。


[489] 江戸時代の大名の婚姻 投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/05/20(Sun) 14:02

舟登奈央子様 柴田様
舟登様はじめました、柴田さん、ご無沙汰です。
さて、江戸時代に大名家が問屋の息女と結婚した件についてですが具体的にわかりませんか?基本的に「寛政重修諸家譜」では、○○屋の息女とは出てきません。「某の女」とかかれています。
おそらく下総には、佐原・野田・銚子と利根川づたいに旧千葉家の家臣団がすみつき、大名家と関係がありました。特に郷士の中には石田という家からは美濃岩村藩主・松平家の側室となり「乗喬」という岩村藩主を生んだという記録もあります。
もう少しデータがわかれば、調査できますが・・・


[488] はじめまして。 投稿者:千葉伸吾 [月星] 投稿日:2001/05/16(Wed) 06:55

皆さん始めまして。千葉伸吾といいます。
 このホームページを検索して発見したとき、とても嬉しく思いました。でも、とてもレベルが高い話をなされていたので投稿する事を躊躇していた時期があり。あらためて勇気をだして投稿することにしたのです。皆さん、千葉家に対して初心者の僕ですが今後ともよろしくお願いいたします。
 さてさて。幾つか皆さんに質問したいことがあります。
まず、僕の家の家紋なのですが。月星の真上に月の形の紋です。
いろいろネットや文献等(本屋は八重洲ブックセンターなど。)
で真上の月の家紋について調べてみたのですが詳しい事は載っていませんでした。桓武平氏の末裔って書いてあっただけ・・・。
僕が知りたかったのは、「蘇我氏って千葉家となんか関係があるのかな・・・。千葉県に地名があるし。」とか「平 将門って妙見信仰らしいけど。これも千葉家に関係あるのかな・・・。」とかいろいろと勝手な推測をするだけで、きちんとした真実を知ることができない歯がゆさがありました。
 根本的に知りたいことは「桓武平氏とはいったいなんだ?」って事です。多分このHPで何度も紹介されてきた事なのだと思いますが。「天皇家に対してのなんなのか?或いは単純に地方の豪族で武士が発祥なのか?」て事を詳しく教えていただければ嬉しいです。
 色々千葉県内にある神社仏閣等を巡ってはみたりしたのですが
とても古い歴史があるのもかかわらず。また、聖徳太子が来たとかこないとか様々な伝説(?)が残っているのにもかかわらず。どんどん千葉家が見えなくなってきている自分がいます。
 なんか日本の歴史の中で本当に「月」なんじゃないか?って勝手に勘違いしている僕がいるのです。この勘違いを訂正できるようなきちんとした歴史を皆さんに教えていただければ嬉しいです。
 乱暴な紹介文になりましたが末永くお願いいたします。

 最後に・・・。ご先祖様の「我に七難八苦を与え・・・云々。」って言葉がありますが。勘弁してほしいです。お蔭様で苦労してます(笑)<>千葉さん、こんにちは!

どうぞご自由にどんどん書き込みされてください!

「桓武平氏」とは、簡単に言ってしまえば桓武天皇の皇子や皇孫で「平」姓を授けられた一族の末裔のことです。千葉介常胤も畠山重忠もこれに当てはまり、正式には「平常胤」「平重忠」となります。千葉介常胤の場合、「千葉」という所に住んでいた「下総権介」の「平常胤」ということになります。

 桓武平氏はいくつか流れがありますが、有名な平高望(高望王)の子孫は主に武士化していますが、その叔父・高棟王の子孫は堂上公卿として明治まで続いています。平清盛の奥さんは、この高棟王の子孫の平時子です。その時子の弟が、「平家にあらずんば人にあらず」と言ったという平時忠です。彼らも桓武天皇の血を引く平姓の一族ですので「桓武平氏」です。

 千葉氏は当ページにも紹介していますが、高望の子孫のなかで、下総国千葉郷を領した一族が千葉氏となっています。頼朝の挙兵前まではあまり大きくない武士団でしたが、頼朝の挙兵に積極的に加わったことなどが彼の信頼を得、東北から薩摩まで、全国各地いたるところに所領をもつ大々名になっていきました。これが千葉氏の発祥です。


[487]  投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/05/15(Tue) 12:52

柴田さん、皆さん、こんにちは!!いつもお世話になります!!

 4/28〜4/30に岐阜県に行きました!!鈴木さんの紹介で、岐阜県上宝村の桂本神社(葛原親王を祭神としている神社)と大和町の東氏記念館などに行きました!!桂本神社は、さすが桓武天皇の皇子と思いました!!品があり奥ゆかしい美しい神社でした!!神社の神像は県指定文化財で見せてもらえませんでした!!残念です!!5/3(5/1〜5/3)頃が開帳日らしいのですが…!!

 東氏記念館等も大和町が千葉氏で町おこしをされている熱心な姿を見て、感動しました!!心をうたれました!!千葉常胤の子孫=東氏は桓武天皇の子孫なので、千葉氏=東氏で町おこしをされている大和町はとてもすばらしい町だ!!すごい町だ!!と思いました!!そして、大和町に行けて、とても勉強になり、嬉しかったです!!鈴木さん、有り難うございました!!心より感謝します!!今後とも御指導のほどよろしくお願い申し上げます!!柴田さんにも心より感謝します!!有り難うございました!!今後とも御指導のほどよろしくお願い申し上げます!!

 私の住む兵庫県朝来町の田路城(私の家の系図では千葉氏で5代?!は城主だった感じなので…)と横の方の宍粟郡一宮町の福地城(千葉孫二郎=福地城主と私の家の系図に書いてあるので…!!)大和町を見本に各町・郡・県・村などで千葉氏の歴史と功績をたたえた町おこしをすぐしてもらえたらと思いました!!(特に朝来町と一宮町・・・!!) 千葉氏で日本国中、町おこしをして頂けたら、歴史と文化の勉強になり、先人のおかげと感謝の気持ちでいっぱいになると思いました!!

 東氏は私の家の系図に胤頼=東氏と書いてあり、その孫の胤行も和歌に優れ、9代常縁が古今伝授の祖で古今和歌集の奥儀を宗祇に伝授したと知り、宗祇もすごい人だと何となく思っていたので・・・その人に教えた?!(伝授)した常縁は、もう超すごい!!と、私は、超びっくりしました!!さすが常縁は桓武天皇の子孫だと思いました!!

 先祖に感謝して、毎日過したいと思っております!!柴田さん、メールで田路家情報を送って頂きまして、有り難うございました!!大分、暖かくなってきたので、福地城・田路城・柿屋氏と山名氏系図等調べたいです!!今年は、千葉市は千葉氏フォーラム等、沢山行事がある様子で、千葉市に行きたいな〜等考えたりする今日この頃なのですが…(田路家の系図の濃い血筋の人物=千葉氏の墓参り=菩提寺をお参りやゆかりの城が見たい等、考える今日この頃…!!)!!

 TVの笑っていいとものご先祖さまはすごい人!のコーナーに田路家の系図のコピーを送ったのですが、まだ返事がありません!!田路家の系図の有名になっていない部分が早く有名になって欲しいです(朝来町田路城城主で、代々、田路家の系図の名前が歴史の本等に書かれて欲しいです!!)!!今後とも御指導のほどよろしくお願い申し上げます!!<>田路さん、こんにちは!

田路氏情報はお役に立ちましたでしょうか?一応、こちらの田路(とうじ)氏の項目にも同じような内容を追加しておきました。

 自分も郡上周辺には行きたいですねー(^^)どんな街なのかなぁ〜。<>http<>pppw118.nkansai.ne.jp<><>桂本神社(葛原親王を祭神)と東氏記念館等は、すばらしい!!


[486] 千葉家墳墓群の現状 投稿者:あるけ〜 [ヒ・ミ・ツ♪] 投稿日:2001/05/12(Sat) 02:16

柴田さん、千葉氏のみなさん、こんばんわ。
 慰霊祭の前夜に、ちょっと補足です。
 とくに小生が懸念しているのは、いわゆる星宮塚の南西、道路を隔てた向かいの空き地に一直線に並ぶ塚群です。この4基の塚(現存3基)も、特定はできませんが、千葉氏代々のどなたかの塚墓であり、実際に埋葬された埋め墓である可能性は大きいでしょう。
 ところが一般に、どうも「現在残っている千葉氏の塚墓は星宮塚1基だけ」と(故意に)誤解されているような気がします。数年前、それまで少なくとも4基あった塚墓のうち1基が壊されてしまいました。地権者と思われる方と言葉を交わしましたが、「塚ではない、単なる小山だ」と言っておられたのも気がかりです。
 7,8年前、千葉市文化財保存審議会で、星宮塚のある千葉山から京葉道路穴川インターわきの森林=園生貝塚にいたる緑地・遺跡(塚群も含まれる)を保存する案が地元出身の委員から提案されたと漏れ聞きますが、それっきりになったようです。
 土気酒井氏の塚墓群「御経塚」などが地元町民や子孫の方々に大切にされているのをみると、星宮塚古墳群は、これでいいんだろうか?などと思ってしまうわけで。
 あまり穏当ではないかもしれませんが、私なりの慰霊の意味をこめての、投稿です。どうも失礼しました。
 

 <>あるけ〜さん、こんにちは!

 いまの大日寺にある千葉氏墓石群は、かつての大日寺(千葉神社隣)から移されたもので、それ以前は千葉山にあったという伝承があります。

 遺跡は開発の名のもとにどんどん壊されていますね。市川市の真間山一帯は緑地として残されていますが、市川市は財政難のために一部を手放し、その地に業者がマンションを建設するようです。そこは古代の遺跡がある場所で、いま遺跡調査が行われていますが、このままではいずれ壊される運命にあります。「緑地を守る会」のような団体が市に抗議していますが、市側も引こうとしていません。

 千葉山にしても、もっと千葉県はじめ地元の人が「千葉氏」や千葉の歴史を知らなければ関心も運動も広がらないでしょう。微力ながら、このページでももっと史跡の紹介をしていきます。


[485] 北辰一刀流の千葉一門 投稿者:才谷裕之介 [丸に三柏] 投稿日:2001/05/10(Thu) 19:52

はじめまして、才谷裕之介と申す者です。
何度かフラフラとやって来ては色々と拝読させて頂いてます。m(_ _)m
ハンドル名から解り通り坂本龍馬好きの人間なんですが、剣客や
剣豪にも興味があって自分なりに(これ重要(^^;)色々と調べてます。

んで、ここからが本題なんですが『幕末維新人名事典』(新人物往来社)
によると千葉栄次郎と龍馬にも交流があったことを書いているのですが、
これを伝える史料が何か解る方はいらっしゃいませんでしょうか?
もし、ご存知でしたお教えください。よろしくお願いします。<>才谷さん、こんにちは!

坂本龍馬関係のホームページで、リンクを貼らせていただいているところがありますので、ご紹介します。

「坂本龍馬と海援隊へようこそ!!」
http://www2.inforyoma.or.jp/~kaien/

千葉栄次郎についてですが、同じ流派ですから会った事はあるかもしれません。栄次郎の従兄弟の重太郎と竜馬は勝海舟を斬りに行くなど交流があったようですね。

 ただ、栄次郎は水戸藩に仕えていて、水戸藩の分限帳にも弟の道三郎といっしょに名前が見えます。それから、桶屋とお玉ガ池で道場も違うので、それほど深い関係にはなかったのかもしれないですね。


[484] 探してます! 投稿者:舟登奈央子 [ヒ・ミ・ツ♪] 投稿日:2001/05/10(Thu) 13:21

こんにちは。はじめまして。
私は今、江戸時代千葉県内のお城の持ち主だった殿様で、問屋の娘と結婚した人物を探しています。
千葉県内のお城の家系図に詳しい方がいらっしゃいましたら、是非教えて下さい。
よろしくお願いします。 <>舟登さん、こんにちは!

 問屋の娘と結婚した殿様。。。市立図書館クラスの図書館にはきっと置いてある『寛政重修諸家譜』という本は、江戸時代の旗本や殿様の系図を載せています。もしかしたら、その中に載っているかもしれません。

 ただ、江戸時代は殿様と町人、商人の娘が婚姻するということは公では基本的になく、たとえば藩士の養女となって輿入れするというような方法がとられていました。でも「側室」に関しては、わからないです(^^;系図でよく「某娘」などと書かれている場合もありますが、これも身分を明らかにしたがらない意味合いがあったのでしょうか??

 インターネットで江戸時代の藩を調べるには、Kenさんの「下総綜合ken究所」がオススメです。リンクコーナーにも貼らせていただいていますが、アドレスは、

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/

となっています。


[483]  千葉氏の墓所「千葉山」と園生貝塚--遺跡めぐりのご案内 投稿者:「千葉市の遺跡を歩く会」のあるけー [ヒ・ミ・ツ♪] 投稿日:2001/05/03(Thu) 11:20

こんにちわ。
ご無沙汰しております。
千葉市の遺跡を歩く会のあるけーです。
当会では、以下のように千葉氏の墓所「千葉山」付近を歩きます。
午後の部はまだ若干の余裕がありますので、よろしければどうぞ。

5月13日(日)
 10:00−12:30 (定員40名満員)
 13:30−16:00 
 モノレール「スポーツセンター駅」下集合

詳しくは、当会のHPをご参照ください。

(付記)千葉氏の墓所「千葉山」=「星宮塚古墳群」についてはいささか懸念されるところがあります。千葉氏関係者の皆様にはぜひ「千葉山」に関心を抱いていただきたくお願い申し上げます。

<>あるけーさん、こんにちは!

 確かに千葉山は16号の目立たない道からしか入れず、駐車場もなく、これといった目印もなく、草むらに覆われていて、下総に君臨した千葉氏の墓所としてはあまりに哀しい状態ですね。原因は県民はもちろん、市民、地元の方にも知られていないことがあげられるのでしょうね。

 星宮のちいさな祠には、地元の方がなさっていると思いますが、いつも華やお供え物がおかれています。眠っている千葉家の当主たちも、そのほうが落ち着けるのかもしれません。ただ、あの荒廃ぶり、特に道の東側は放置しておくと、遺跡が毀損してしまう可能性がありますよね。


[482]  投稿者:氏家ト全 [隅立四目結] 投稿日:2001/04/29(Sun) 20:29

千葉一族 常陸橋本城主谷中玄蕃頭・玄蕃允親子子孫
氏家ト全(仮)参上!!!

どうぞよろしくお願いします。

 氏家卜全(仮)さん、こんにちは!

 小田氏家臣の岡見氏について、実は相馬氏の出身であるという系譜があるようです。

 それから、明治維新の赤報隊長・相楽総三は下総国相馬群椚木新田村出身で、本名は小島四郎将満といいます。もしかしたら相馬氏と関係があるのかも??(完璧に想像の世界です)


[481]  はじめまして。投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/04/24(Tue) 22:41

大学の講義で「万葉集」をやってたら、何と偶然「海上」の名を発見! たしか14巻の冒頭の歌で、「海上潟」という地名が歌われていました。「万葉集」恐るべし……。
おもしろいもんで、「万葉集」には千葉県の地名がいっぱい載ってましたよ。大半は防人の出身地だったけど。「朝夷」とか「埴生」を見つけた時には感動しましたね。「千葉」は歌の中でも使われてました。やっぱ古い地名なのね。
関東の地名で圧倒的に多かったのは「筑波嶺」と「足柄」だったけど、次に多かったのが「葛飾」。葛飾郡は下総ですから、房総半島の人は歌が好きだったのかも知れませんね。<>横須賀さん、こんにちは!

たしかに万葉集は東国の歌がけっこう見えますよね。防人として赴いた人たちも歌心を持っていたんですね。あずま歌は古今集にも収録されています(たしか)。


[480] 万葉集と房総半島 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/04/12(Thu) 03:34

休暇中です。
もう後1週間で復帰しますから
ちょっとご報告に立ち寄りました。

日経新聞の朝刊で25日から「平家」が始まります。
作者は池宮彰一郎です。

平家物語に準拠するものでもなく
新平家に倣うものでもなく

現代に立脚し
現今の状況と対比して
稗益するものを探りたい

よって題名を単に「平家」とした

ですって。 <>服部さん、おはようございます〜。

「平家」ですか!どんな内容になるんでしょうね。いまから楽しみです。25日の日経を買ってみます。そういえば以前の日経新聞の社長さんは円城寺さんという方だったようですよ。


[479] 「平家」 投稿者:魔法リサーチ [月星] 投稿日:2001/04/10(Tue) 22:26

最近日本の 新しい歴史教科書を作る会で編纂した[歴史教科書の検定承認」によって 日.韓.中 及び周辺国家での多いなる論争が生じております。
魔法リサーチは日韓両国5,000カ所のウェブサイトの掲示板を通じて両国民の偽りなき意見を受け入れようとしております。
同等な条件下で同時に実施した日韓共同の輿論調査にネチズンの多くの参与とよい意見をお願い申し上げます

1. 設問期間 : 2001. 4.10 - 4.15

2. 設問調査機関 : Mabub research

3. 設問 site url : http://kor.mabub.co.kr:8080/research/jp/research.jsp?ct=1-13-12-178-1&rfnbr=1&counter=1
<><>kor.mabub.co.kr:8080/research/jp/research.jsp?ct=1-13-12-178-1&rfnbr=1&counter=1<>apnc102.216.216.211.in-addr.arpa<>ik7kiUUaTcZgQ<>日本の歴史教科書の検定承認に関するリサーチ


[478]  投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/04/07(Sat) 00:48

今日、横浜の有隣堂で「鎌倉街道夢紀行」なる本を購入。これはTTVKなどで放映されていた、鎌倉街道を特集した本です。制作はテレビ埼玉。千葉でも放送されたと思いますが、いかがなものか?
鎌倉街道は全部で4本あったそうで、金沢〜朝比奈に端を発し、下総にいたる道もあったそうです。僕が同番組を見た限りでは、@群馬県にいたる道、A福島県にいたる道がありました。下総にいたる道は未見ですが、そのうち放送されるものと思われます。<>横須賀さん、こんばんは!

『鎌倉街道夢紀行』、神田のほうにもありましたよっ。下総に至る道は、たぶん六浦から西船橋あたりへの海路だと思います。かつて西船の辺になんとかの池(忘れてしまいました)という池があって、それがその時の港の跡だということです。残念ながら、その池は埋め立てられてしまっているようです。


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