[477] 臼井興胤さんが挿した楠の枝・・・ 投稿者:seijikun [橘] 投稿日:2001/03/29(Thu) 19:55
ご無沙汰しております。。。 ご存知だとは思いますが・・・・・ 臼井興胤さんが挿した楠の枝が成長したという大楠の 実物がありました・・・・・・・・・・ 明治15年6月・續簡著「新撰佐倉風土記」 (昭和52年佐倉市教育委員会・テーオー印)の記述・・・ ・・・この大楠(利根川図志記載の臼井の大楠)の近くには、臼井城中興の祖興胤公(1312−1364)お手植えの楠あり。 臼井八幡様境内にあり。 八幡神社縁起に云う。筑前の國多々羅浜の一戦に宇佐八幡宮大宰府天満宮の加護よる、 戦捷に対して奉賽の意を込めて、神木楠の枝を持ち帰り、神威ありて我を加護あらば、 この地に根を下ろし給へと祈り挿したる神木なり。その樹は繁茂し大木となった。 今満蔵寺神前にあり。その周囲三丈(9m)ばかりなり。 【利根川図志に同様の記述あり】 爾来五百年の樹齢を数うと伝う。この木も明治初年の大雪に樹を折られ、勢い半減し わずかにその巨根を残して生命をつないでいる。。。 もしかしてもしかすると・・・・と思って、 臼井の八幡様に行きましたら・・ 八幡様の本殿に向かって左脇に、注連縄を張った大楠が・・・ なんと・・・実在しておりました。。。 畏れカシコミながら巻尺をあててみましたら 8m70でした。 「周囲三丈」にぴったりです。 でも、ざんねんなことに、枯れてから相当年数が・・・ 樹皮は全くありません。樹幹の途中から伐られていました。 写真が出来るのがまちどおしいです。 天候がよくなかったので、また撮影にいってきます。。。 余りにびっくりしちゃいまして、うれしいので 念のため、お知らせまで・・
http://www5.ocn.ne.jp/~inbamura/
seijikunさん、こんばんは!
臼井興胤の大クスですか。ちょっと見に行ってみますね(^^)でも、途中で枯れてしまっているのですか。。神崎神社の「なんじゃもんじゃ」も昔の火災で途中から伐られていました(T_T)
[476] 横須賀さんへすみません 投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/03/23(Fri) 02:49
メッセージありがとうございます。わかりました、海ほたるではなく「アクアライン」ですね。 いやーご指摘のとおり、料金高すぎる。将来的には、浮島からそのまま東名道に抜ける計画ですが、東名道からアクアラインを経由して常磐道につなぐ計画(圏央道)です。いつになることやら。 もっと料金をやすくと頼んでいますが。扇さんには、あまり期待していません。思いつきばかり!勉強されているのか?
さて、小堀屋いきましたね。黒きりそば食べましたか。またうなぎの山田にもいってください。老舗中の老舗、生きたうなぎを裂いて料理しますので、また7月14日前後の「佐原の大祭」には、ぜひ、おいでください。
管理人君も声かけようと思います。 やっぱり、滅亡後の中世名門の行く末にもターゲットを絞る。 滅亡しても、再起する精神は現代人にも通用すると考えています。ぜひ、また佐原へ、おいでください。ご案内します。
[475] 越中椎名氏 投稿者:椎名右衛門大夫 [四割木瓜] 投稿日:2001/03/22(Thu) 22:11
こんばんは。 「荒法師」改め「椎名右衛門大夫」でございます。 越中の椎名氏と松倉城について色々調査しております。 最近は、桃井氏にいて、桃井氏と椎名氏の関連にいても調査しております。 桃井氏は、南北朝時代の松倉城主です。椎名氏は、桃井氏が松倉城主であるときに越中に赴任しました。 椎名氏についてはその家系を今に伝えておりますが、桃井氏についてもその家系が現存しておりました。 しかし、これは実に不可思議です。 なぜ。どうしてと追求していくと次から次から疑問が沸いてきます。 最近多忙でサイトの更新も滞っておりますが、「真理の探究」と心がけて行きたいものだと考えております。
http://siinayasutane.hoops.ne.jp/
[473] 千葉県知事は誰に? 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/03/22(Thu) 18:00
>たすくさんへ。 僕の文章が誤解を生じたようです。僕が問題にしたかったのは、戦国時代以降、次第に北総の経済的中心が東京湾岸から内陸〜利根川流域方面に移行したことです。僕は千葉氏の歴史にはさほど詳しくありませんが、千葉氏の本拠地の移動が経済構造の根本的変化と密接に関連していることを指摘したかったのです。 伊能忠敬の「生地」ってのは明らかにミスですね。伊能家に養子に入ったことは知っていましたが、伊能忠敬というと必ず佐原が出てきますので(この前の橋爪功のドラマでも出てきた)、それを書いておきたかっただけです。しかし千葉氏の旧臣たちはけっこう帰農しているんですね。徳川入府後の関東武士の動向は興味深いものがあります。記念館近くのソバ屋はうまかったです。
最後に「うみほたる」について。家族で行ったのですが、両親は行きたがり、僕たち兄弟は反対しました。理由は、@休日で混雑が予想されたこと、A佐原方面を経由したため、「うみほたる」経由でも(東京経由でも)距離の節約にはならないこと、B料金が高いこと、が挙げられます。 何と言っても、B、ですね。いくら何でも料金が高い、と。フェリーとたいして変わらんじゃないか、と弟は憤慨してました。最近、「採算がとれるのは50年後」なんて報道も出回ってますし。頼むよ、マダム扇(元ヅカジェンヌ)。 行政の方であればお願いしたい。もっと安くできないものでしょうか? あれだと、悪名高い「横横道路」より始末が悪い(衣笠〜朝比奈間がおよそ¥600)。この調子だと、横須賀〜房総間の道路は22世紀まで待つことになるな……。
[472] 横須賀さんへ 投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/03/21(Wed) 20:49
私は、千葉県は佐原の隣の小見川の出身です。佐原をお褒めいただきありがとうございます。千葉の本拠が北総へ移るということですがこれは違います。 北総から千葉へ行って、また北総に帰るという図式が正しいようです。 かつて平安の中期、千葉の祖、平忠常が本拠にしていたのが香取郡東庄町です。鎌倉期には、千葉家の直属の東家・國分家・大須賀家・粟飯原家が香取の海の水運で、常陸国と下総国を行き来していました。戦国時代には本佐倉を中心に印旛浦と利根川は結ばれていました。また本佐倉城の直属部隊は、森山城(小見川町)を中心とする森山衆でした。 しかし、天正19年の小田原合戦によって千葉家一統は滅亡しますが、ここに千葉一族遺臣団が活躍します。國分家家老・伊能家・永澤家や千葉家軍奉行・円城寺家が帰農し、開発を進めたのが「佐原」となります。なお、伊能忠敬は正確には、佐原の出身ではなく、上総の神保家(千葉胤正の末裔)の出身で伊能家に養子に来ています。 でも佐原の保存問題もたいへんでしたよ。何であんな(旧宅)もんに税金をかけるんだという声もあったのは事実です。正上商店さんや酒造家の東薫さんの尽力で本当に頑張ってこられました。 また、横須賀さんに一言、私は県行政の一端にいますが「悪評高い海ほたる」とはどういう意味ですか?ぜひ教えてください。どこが悪いのかぜひお聞きしたいですね。
[471] 佐原 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/03/21(Wed) 09:32
佐原は日本に行ったら行きたい所の1つです。 日本情緒豊かな町並で 外国人は大喜びします。
こういう場所が残り少ないというのが残念ですね。
[470] 千葉氏と北総の経済推移 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/03/20(Tue) 23:21
服部明子嬢には告知ずみ(って税金じゃないんだから)ですが、僕は先日家族と房総旅行に行ってきたんですよ。フェリーで久里浜から富津に行って、鴨川に泊し、外房を一巡して、あの悪評高き「うみほたる」を経由して神奈川に回帰しました。 その際、伊能忠敬の生地たる佐原(ご当地は「さわら」。横須賀のは「さはら」)に行ったんですが、島崎藤村さながらの街並みにびっくり。あの辺が利根川水運で繁栄したとこだって実感できました。その前に銚子にも行き、醤油工場を見学してまいりました。今の北総地区って、つくづくトキオの発展と切り離せないのね。まさしく東京の生命線。 さて千葉氏に関することですが、戦国時代に千葉氏は本拠地を現在の千葉市から、県央の佐倉に移したんですよね(誰の時代だったかは忘れましたが)。それまで千葉氏関係の苗字って、今の千葉市周辺のがとても多いでしょ? 「原」「まくわり(幕張)」「おゆみ」とか。千葉氏のもともとの本拠地がどこだったかを示す徴証ですね。それが戦国時代をさかいに北総に移る……。これは北総の経済の中心軸が変動したことを意味していると思います。 北総の本格的な発展が開始されるのは利根川の流路変更以降だと思いますが、その基盤は足利時代に着々と形成されていたのでしょうね。現在の千葉県域において、徳川時代、最大の都市は佐倉で、千葉市は人口数千人程度の一都市に過ぎなかったそうです。千葉が栄えた理由も、結局は(12〜15世紀の)当地の経済形態によるものだと思いますが、面白いものだと思いました。 やっぱり豪族って、その土地の歴史と経済を象徴しているんですね。
[469] ご無沙汰しています。 投稿者:たすく [月星] 投稿日:2001/03/19(Mon) 13:01
皆さん、ご無沙汰してます。管理人君、お元気ですか。 文潤根さん、初めまして。私は韓国にはいったことないのですがとてもいきたいところです。千葉氏をやっている人たちにもお伝えします。千葉氏と韓国は古い歴史をもっています。 文さんの研究とは違いますが参考までに! ○九州千葉家と李氏朝鮮 九州にいた千葉家は、室町時代15世紀に李氏朝鮮と交易していました。 特に千葉元胤ときはさかんで朝鮮王朝側の史料「海道諸国記」(申淑舟著)にも「肥前千葉殿」との記載しています。 ○明治にいたっては、韓国の英雄・安重根。彼の旅順監獄の守衛をつとめた。千葉十七氏。安重根さんを尊敬し、旅順で最後をみとった人です。最後の日、安重根は、千葉に遺墨を与えました。以後千葉は宮城に帰省し、安重根の供養につとめたといいます。また千葉家にあった安の遺墨は韓国に寄贈され、国宝となっているそうです。 先だって宮城の千葉十七さんの墓所にいきましたら、月に九曜紋の紋章とともに安重根の遺墨と手形が石碑に刻まれていました。 不思議にも安重根は、北斗七星のあざがあったことから、「安応七」が本名だそうですね。安家には妙見信仰があることをおききしました。安重根と千葉家まるで関係が深いようですね。 いろいろ書きましたがまた連絡します。
[468] この掲示板の恐怖? 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/03/16(Fri) 21:50
おひさしぶりです。ずいぶんご無沙汰した観があるけど、皆さんお元気でしたか? こちらについに外国の方(服部明子嬢にあらず)が来たことを記念して少し書きます。 文さん、この掲示板は非常にレベルが高いです。正直言って、歴史掲示板の中でもバツグンてとこじゃないでしょうか。普通の掲示板は歴史上の人物について好き嫌いを書いてるだけですが、ここは学問的な内容まで言及しているから恐ろしい(ぼくなんか初心者ですね)。でも、ここほど「ためになる」掲示板もほかにありませんよ。 ここは日本で〜に活躍した千葉氏(ちば−し)という武士の掲示板ですから、残念ながら文さんの希望するようなことは書かれません。でも、千葉県北部の歴史は非常に重要であり、かつ千葉氏はそれに深く関わっていますから、一読の価値はあると思います。千葉県はどちらかというと、徳川幕府に味方した土地ですから(だって直轄地だもの)、あんまり幕末の志士は登場しません。でも千葉県は徳川時代に非常に多くの学者や芸術家を輩出した土地ですから(菱川師宣、伊能忠敬はその一例)、政治以外の日本史を勉強するなら絶好の土地です。銚子(ちょうし)の醤油産業とかね。 それにしても文さんは日本語が上手だ。 どちらで勉強したんですか? 韓国では日本語の学習が人気なんでしょうか? 大学で韓国人学生に会うたび、その学力に驚かされます。まったく……日本の大学は韓国/北朝鮮/中国の学生に「無料で」入学させればいいのに……。そうすれば学力低下なんて一掃できると思うんですが。
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