ブログを拝見しました。結城朝光について書いてられたのでよければと思い、千葉介常胤との関係をつけ加えておきます。
千葉常胤娘┐ 工藤祐経─┘┐ ┌─────┘ ├祐時(犬房丸・長男) ├祐長(二男) ├娘(長女・結城七郎朝光室)─結城朝広─祐広、時祐─・・ └娘(三女)
「南家藤原姓伊東氏大系図」等による。
なお、上にある千葉常胤娘に関してですが、1185年の壇ノ浦後の源頼朝・義経の対立時、静御前が吉野山で頼朝方に捕まり、鎌倉に連れてこられ、鶴岡八幡宮の舞殿で頼朝・政子夫妻の要望により有名な「静の舞」を舞うという事が知られてます。因みにこの舞は「君が代」だったと言われているとのことです。
この時、出典未確認の情報として、舞を嫌がる静御前に対し、同じ京女として工藤祐経の室であった千葉常胤娘が静御前に舞を勧めるという描写が存在するとよく言われ聞くのですが、私はその根拠となる出典はどれかは知りません。探しています。
ただし、この頃、梶原景時の息子と祐経らが静御前が居た館へ押しかけ宴をし、景時の息子が静に言い寄り、静がたしなめるという描写は「吾妻鏡」にあるのは存じています。
なお北条政子との関係ですが、「曽我物語」の解説本によると
平高望娘┐ 藤原維幾┘―為憲─(─)─祐高―┐ ┌───────────────┘ ├祐次─祐経 └祐家─祐親─娘(北条時政室)─北条政子
これより北条家は政子以降より平高望(平姓)の流れとなると理解してますが、、、どうでしょうか。
また、別の話で次の様なものもあります。源氏重代の有名な太刀として「髭切」や「膝丸」が有名ですが、これら太刀の由来は「平家物語・巻頭」に以前つけ加えられていたものとして知られています。これは以下の公立博物館のサイトで絵巻物が公開されているので入れておきます。 http://www.saitama-kenpaku.com/SIRYOU/higekiri.html
この「髭切・膝丸」は以前の名として「友切」と言われたりして、「曽我物語」では実は、この「友切」を持って曽我兄弟・弟五郎が源頼朝や工藤祐経に向っていく描写があります。兄・十郎は「奥州丸」という太刀を持ち、向うのですが、この奥州丸、去る平家との屋島の合戦時、平知盛の船に残されていたのを曽我太郎が源義経に献上し、ほうびに賜った戦利品の名刀ということで、物語では平家、義経の因縁をもって頼朝に向って行っている描写になっているのが興味をもたれます。
───── 『曽我物語』巻十 十郎が討ち死にした時、刀が折れたのを見た新開荒四郎実光は「曽我の者どもは仇を討って名をあげたが、『太刀が悪い』。簡単に折れるような太刀で君(頼朝)の御前で活躍できたのは不思議なことよ」と嘲笑した。捕らえられた五郎は荒四郎を睨み付けて、 「おまえは何を見てえせ太刀というのだ。それは平家の新中納言知盛の刀で、屋島の戦いで船に残されていたのを曽我太郎が義経公に献上し、ほうびに賜った奥州丸という名刀だ。それでも折れたと笑うならお前達の刀で二三百人斬っても折れない刀があるか。おまえこそそのえせ太刀に追われて芝垣を破って逃げ出したではないか」 ─────
頼朝もこの時また、向ってくる五郎に対し「鬚切」のサヤを抜くそうです。(引用)「君(頼朝)も、此の由聞こし召して、糸毛の御腹巻に、御重代の鬚切抜き、出でさせ給ひける。」
頼朝の御前で捕らえられた曽我弟・五郎は工藤祐経・常胤娘の子・犬房丸によって扇で顔をはたかれてしまう。因みに曽我兄弟というのは名前は曽我姓ですが、これはもともと工藤伊東の同族で母親が曽我姓へ再嫁したことに依るそうです。
家紋は少しばかり理由があり、とりあえず「その他」の意味で「追加希望」にしておきました。千葉氏とは縁戚ですが、どうやら伊豆地方の伊東工藤は、また、一つの氏族を形成しているという理由によると考えています。(固定的な考えではありません) |