千葉氏のけーじばん10

 

[950] 相馬中村藩家臣名について

投稿者:青田と申します。 [亀甲] 投稿日:2006/01/27(Fri) 10:56

こんにちは、始めまして。
こちらのホームページに出会い、大変感心し又興味深く
拝見させて頂いております。
早速ですが、当方「青田」と申します。
本家は、福島相馬中村出身で家紋は「相馬亀甲」を
つかっており、代々相馬中村藩の家臣と伝わっております。
詳細はこちらのホームページのとおりです。
地元のお寺に元禄より代々の墓石も残っておる事もあり、
それに元づく家系図が作られております。
最近になって家系図に記載された先祖名を
確認して見ようと思ったのですが
資料及び本がなかなか見当たりません。
こちらの千葉一族便覧あ行「青田」の家系図及び
青田一族名にも該当しない為、もしおこころ当たりが
あれば御支援賜りたく、宜しくお願い致します。
江戸期に一時期家老職を務めたとか伝わっておりますが、
又相馬四天王の詳細も知りたいのですが・・・・
余談ですが、本家古文書の中に「仙台伊達家」に
お金を貸したという「借用書」らしき書類等あり
なんかよくわかりませんが・・・・

 青田さん、こんにちは!

 相馬家家臣の青田家といえば、中世の相馬家を支えた筆頭家老の家柄ですね。
 相馬家の家臣の系譜でもっとも詳しく記載されているのが『衆臣系譜』とよばれる系譜です。青田家は木幡家と並んで相馬家中でも下総以来の有数の古い家ですので、系譜も結構多く載っていたかと思います。こちらは相馬市図書館に岩崎文庫も資料のひとつとして収蔵されています。ただ、施錠されている棚に保管されていますので、カウンターで「岩崎文庫」の「衆臣系譜」の閲覧を申し出てみてください。
 相馬四天王については、木幡、青田、須江、江井氏だったでしょうか。。。うーん、失念してしまいました。

[From 相馬介]


[949] はじめまして

投稿者:いわて・千葉 [月星] 投稿日:2006/01/26(Thu) 23:18

私の家は岩手県の旧伊達藩と南部藩の境にあります(岩手ですが伊達です)。家の家紋は月星です。昔は、九曜を使っていたようなのですが・・・。
私が住む場所での千葉という苗字は本家があり、皆そこから分家した家のようなのです。
岩手の方の千葉という苗字も桓武平氏に縁のある名という可能性はあるのでしょうか?お教えください。
拙い文章で失礼いたしました。

いわて・千葉さん、こんにちは!

 岩手県、宮城県などには「千葉」家が多いですね。中世は葛西氏などとも関係し、その家臣として大いに栄えました。伝承によれば東北千葉氏にはいくつかの流れが伝わっていますが、正確なところは不明です。
 東北千葉氏を総体的に研究されている「岩手千葉会」という氏族会があります。この掲示板にも書き込みをされておりますが、機関誌で各地の東北千葉氏の家に伝わる系譜を紹介しています。ご興味があればご連絡をされてみてはいかがでしょうか。

[From 相馬介]


[948] 木内氏について(3)

投稿者:石橋義承 [丸に笹竜胆] 投稿日:2006/01/22(Sun) 03:12

で、早速教えていただきたいのですがhttp://members.jcom.home.ne.jp/bamen/ichizoku41.htm
に、木内胤邦について天文7(1538)年の国府台合戦のとき、「胤邦は境根原(柏市酒井根)において戦死。」とありますが、下の方の「木内氏当主」には生没年1455-1478、享年24歳とあります。どちらが正しいのでしょうか。1538年であれば、胤衡(1448-1528とあります)は既に亡くなっているということになりますから、胤邦の跡を継いだのは胤寛ということにならないでしょうか?


[947] no title

投稿者:石橋義承 [丸に笹竜胆] 投稿日:2006/01/22(Sun) 03:05

「木内壱岐守平胤女」とは、諱の下の一字が脱漏したものと思います。種義夫妻卒去の年(享禄3)に胤寛は存命(55歳)だと思いますが、まぁそういうこともあるのでしょう。木内氏の側から岩部石橋氏(所伝では足利一門石橋氏が明応の政変で東下)に関して情報がありましたらぜひご教示下さい。因みに曽祖父の母も木内、曽祖父の曽祖父は木内からの入り婿です。戦国期には大須賀氏や国分氏、江戸時代には伊能氏や平山氏と姻戚関係があったと伝えられていますので、千葉一族には大変興味と親近感を持っています。


[946] 木内氏について。

投稿者:石橋義承 [丸に笹竜胆] 投稿日:2006/01/22(Sun) 02:54

はじめまして、石橋と申します。
所伝では501年前から下総国香取郡(現栗源町)におり、曽祖父の代に東京に出てきたのですが、去年500周年で栗源町を訪れ、遠ーーい親戚の石橋さん(初対面)の系図を見せてもらったところ、下総に移って2代目の石橋種義の室が「木内壱岐守平胤女」とありましたので、こちらの千葉一族【き】で調べたところ、木内胤寛が壱岐守を称していたことが分かりました。こちらのウェブサイトにはいつも大変お世話になり、感謝しております。

 石橋さん、こんにちは!

 木内氏の項目のご指摘、ありがとうございました! こちらの記事はずいぶん昔に記載したのですが、あちこち間違えておりました。。。改めて記載しなおしましたので、ご覧ください。出典は『香取郡誌』という分厚い書籍です。ほかにも大須賀氏や東氏などの記述もありますが、信憑性につきましてはどれほどのものかはわかりません。。。ただし、木内氏に関しましては、ほかに見られないものも数多くあり(『香取郡誌』の木内氏の項目のもともとの出典は木内氏系図のようです)、とても興味深い記述が多いです。

 なお、木内氏と石橋氏につきましては、木内与一郎胤喜の後妻が「石橋主膳女」とありました。

[From 相馬介]


[945] ありがとうございます!

投稿者:戌年の千葉 [九曜] 投稿日:2006/01/10(Tue) 14:45

相馬介さまありがとうございます!
すっ、凄い…凄すぎます!
早速プリントアウトして地道に調べていきたいと思います。


[944] 途中で書き込みしていまいました

投稿者:戌年の千葉 [九曜] 投稿日:2006/01/05(Thu) 13:53

(下からの続きで)
何か曾祖父までの系図、またはそれ以降の系図を調べる書籍や資料などはありますでしょうか?もしありましたらお教え下さい。私の祖父は宮城県の出身だと聞いておりますが、私は行ったことはありません。家紋は九曜紋です。

 戌年の千葉さん、こんにちは。

 南部藩の藩士の系譜については『南部藩参考諸家系図』がとても参考になります。埼玉県だと熊谷図書館に蔵書があります。
 南部家の家老については、歴代藩主の家老職一覧が掲載されていた冊子があります。ただ、ちょっと昔に複写したもので出典が不明なのですが、おそらく『盛岡市史』などの市史物だった気がします。その「歴代家老表」を記載します。

第27代 信濃守利直代
・北松斎信愛 ・野田内匠直盛 ・桜庭安房直綱 ・楢山五左衛門直隆 ・石亀七左衛門直徳 ・南遠江直義
・石井伊賀直弥 ・毛馬内三左衛門直次 ・瀬田石隠岐常政 ・小笠原美濃直吉 ・米内丹後政恒 ・七戸隼人正直時

第28代 山城守重直代
・石亀七左衛門直徳 ・七戸隼人正直時 ・石井伊賀直弥 ・毛馬内三左衛門直次 ・毛馬内九左衛門長次
・奥瀬治太夫善定 ・桜庭兵助由之 ・漆戸勘左衛門正茂 ・松岡藤右衛門正吉 ・美濃部甚左衛門茂貞
・八戸弥六郎直栄(?)

第29代 大膳大夫重信代
・毛馬内九左衛門長次 ・奥瀬治太夫善定 ・漆戸勘左衛門正茂 ・八戸弥六郎直栄 ・桜庭兵助由綱
・楢山七左衛門隆章 ・北九兵衛宣継 ・下田権右衛門征政 ・桜庭十郎右衛門昌統
・漆戸甚左衛門茂慶 ・奥瀬治太夫宣清

第30代 信濃守行信代
・桜庭十郎左衛門憲統 ・北九兵衛宣継 ・下田権右衛門征政 ・漆戸甚左衛門茂慶 ・中野吉兵衛広康
・北九兵衛栄継 ・桜庭兵助光金

第31代 備後守信恩代
・中野吉兵衛広康 ・桜庭十郎左衛門憲弧 ・楢山五左衛門隆常 ・毛馬内九左衛門長円 ・漆戸主膳茂英
・奥瀬内記定之 ・北九兵衛栄継

第32代 大膳亮利幹代
・中野吉兵衛広康 ・毛馬内九左衛門長円 ・漆戸甚左衛門茂英 ・奥瀬伊左衛門定之 ・桜庭安房統弧
・野田典膳親長 ・江刺勘兵衛恒篤 ・楢山七左衛門敬明 ・漆戸玄蕃正勝 ・奥瀬斎院定照
・桜庭十郎左衛門統周 ・中野対馬光康 ・南美濃晴武 ・松岡藤右衛門高忠

第33代 大膳大夫利視代
・中野吉兵衛光康 ・江刺市左衛門恒篤 ・楢山文左衛門敬明 ・南彦八郎時武 ・松岡藤右衛門高忠
・漆戸勘左衛門正宥 ・毛馬内九左衛門直員 ・新渡戸佐五右衛門常顕 ・漆戸主膳茂親
・奥瀬内記定則 ・毛馬内三左衛門景次 ・吉田友右衛門光愈 ・葛巻覚左衛門祐胃
・簗田物集女良度 ・奥瀬内蔵定覧 ・東彦七郎政甫

第34代 大膳大夫利雄代
・漆戸主膳茂親 ・奥瀬内記定則 ・奥瀬内蔵定覧 ・東彦七郎政甫 ・南彦八郎晴昌 ・北民部節継
・桂源五左衛門盛正 ・織笠庄助安 ・奥瀬周防定則 ・多賀靭負長央 ・毛馬内三左衛門景次 
・桜庭丹後統起 ・八戸頼母義当 ・南彦八郎晴屋 ・毛馬内三左衛門盈次 ・桂兵庫盛正
・中野吉兵衛康致 ・桜庭肥後統意 ・奥瀬要人定職 北左衛門継達

第35代 大膳大夫利正代
・八戸弥六郎義顔 ・北左衛門継達 ・毛馬内三左衛門次相 ・桜庭肥後統意 ・奥瀬要人道載
・東中務政隆 ・多賀頼母長郷

第36代 大膳大夫利敬代
・毛馬内三左衛門次相 ・奥瀬要人嵩尹 ・東中務政隆 ・奥瀬周防定至 ・八戸彦隆 ・毛馬内蔵人
・中野筑後康房 ・楢山帯刀 ・藤枝宮内 ・八戸長門 ・多賀頼母 ・大萱生外衛 ・東勘解由政智
・新渡戸丹波 ・毛馬内典膳直興 ・奥瀬内蔵 ・八戸上総 ・八戸弥六郎 ・北九兵衛継隆
・楢山益人隆福 ・中野出雲 ・八戸但馬

第37代 大膳大夫利用代
・南部弥六郎義堯 ・南部筑後康孝 ・南部九郎兵衛継隆 ・南部勘解由政智
・毛馬内典膳直興 ・八戸上総義涛 ・藤枝宮内常博 ・楢山主膳隆福 ・毛馬内出雲次豊
・南部主殿政方 ・南部監物継熈

第38代 信濃守利済代
・南部勘解由政智 ・毛馬内典膳直興 ・八戸上総義涛 ・藤枝宮内道博 ・黒澤大学定保
・花輪栄政寿 ・楢山帯刀隆冀 ・横沢兵庫済衆 ・八戸中務克博 ・向井大和長成 ・栃内讃岐秀庭
・三戸駿河済彰 ・南部土佐継序 ・岩間丹下栄副 ・漆戸滝口茂幹 ・中野吉兵衛済徳
・南部弥六郎義普 ・桜庭陽之助綱清 ・下田舎人直温

第39代 甲斐守信侯代
・南部勘解由政智 ・毛馬内典膳直興 ・八戸上総義涛 ・藤枝宮内道博 ・黒澤大学定保
・花輪栄政寿 ・楢山帯刀隆冀 ・横沢兵庫済衆 ・八戸中務克博 ・向井大和長成 ・栃内讃岐秀庭
・三戸駿河済彰 ・南部土佐継序 ・岩間丹下栄副 ・漆戸滝口茂幹 ・中野吉兵衛済徳
・南部弥六郎義普 ・桜庭陽之助綱清 ・下田舎人直温

第40代 美濃守利剛代
・南部勘解由政智 ・毛馬内典膳直興 ・南部土佐済民 南部吉兵衛済愛 ・花輪栄政寿 ・楢山帯刀隆冀
・三戸駿河済彰 ・栃内讃岐秀庭 ・下田舎人直温 ・桜庭陽之助綱清 ・向井将曹長成 ・楢山五左衛門隆吉
・南部主計晴旭 ・東中務政図 ・毛馬内左衛門直恭 ・原直記芳隆 ・毛馬内大隈次賢 ・安宅正治勝全
・戸来官左衛門秀包 ・花輪徳之助政晏 ・平山郡司良恭 ・南部壱岐済揖 ・野田舎人親董 ・三戸式部
・毛馬内九左衛門次徳

長くなりましたが以上です。このうち千葉氏の流れと伝わる人物は、32、33代の江刺勘兵衛(市左衛門)恒篤、33代の新渡戸佐五右衛門常顕、36代の新渡戸丹波、38〜40代の栃内讃岐定庭です。

 宮城県の千葉氏については、系譜が数多く、『宮城県姓氏家系大辞典』にいくつか流れが紹介されていますので、ご覧ください。

[From 相馬介]


[943] 系図について

投稿者:戌年の千葉 [九曜] 投稿日:2006/01/05(Thu) 13:46

初めて投稿させて戴きます。現在埼玉に住んでいる「戌年の千葉」と申します。千葉氏について色々調べておりましたらこちらの掲示板を偶然見つけたので、不躾だとは思いますが質問させてください。祖父(既に他界)が「家は元々南部藩家老の家柄だ」とよく言っておりましたが、なかなか資料がなく、調べるに至っておりません。祖母も姑に「家は代々士族の家柄で農家の娘を嫁に貰って(祖母の実家は農家)、先祖様に申し訳ない」と言われていたそうですから、士族であったことは間違いと思います。曾祖父は会ったことはありませんが聞いた話によると晩年に痴呆になり(曾祖父が)「殿がお呼びだ!城へ上がるので駕籠を持て!」と言ったそうです!父も既に亡く親類も祖父以降の者しか付き合いがありません。


[942] 里見八犬伝

投稿者:紀州の千葉 [月星] 投稿日:2006/01/03(Tue) 01:30

すみません。m(_ _)m
調べたら、千葉氏と里見氏は敵同士だったみたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BA%9C%E5%8F%B0%E5%90%88%E6%88%A6

『南総里見八犬伝』でも千葉自胤なる人物が登場するみたいです。
ttp://www.mars.dti.ne.jp/~opaku/hakken/03/mch965.html

お騒がせしました。m(_ _)m

 紀州の千葉さん、こんにちは。

「里見八犬伝」、視ようと思っていたのですが、初詣、初売り、ご挨拶と方々に出かけてしまってついに逸しました。
 『南総里見八犬伝』では犬坂毛野は千葉一族、粟飯原氏の出という設定になっています。
商大周辺は国府台合戦のあとや、お寺があるのでよく行ってました。
 里見公園は古代の古墳があります。興味があったので、その近くまで行ったのですが、なにやら得体の知れない臭いがしてきたので退散しました。野焼きなのかなんなのか、嗅いだことのない臭いで参りました(T_T)

[From 相馬介]


[941] 明けましておめでとうございます。

投稿者:紀州の千葉 [月星] 投稿日:2006/01/03(Tue) 00:48

4〜5年ぶり位の書込みで失礼いたします。
TBSで『里見八犬伝』ってのをやっていたのを見て、
つい、千葉家との係わりがあるのかな?って思い…
訪問させていただきました。

その昔、千葉商科大学に通ってた頃、
千葉県市川市の京成国府台駅から徒歩10分程度の
江戸川沿いのアパートの近くに『里見公園』ってのがあったんで...滝沢馬琴の創作した物と係わりがあるってのも変でしょうけど。...板汚してすみません。m(_ _)m


[940] 藤原為憲流 工藤祐経殿へ

投稿者:平晴胤 [月星] 投稿日:2005/12/25(Sun) 09:54

北条政子の母は伊東入道の娘ではないです。伊東殿の娘は宗時と執権義時でけです。

平晴胤さん、こんにちは。

私も北条政子と北条義時は同父母の姉弟かと思っていました。宜しければ、その出典を教えてください。確認してみます。

ところで、この「伊東入道」とは系譜にも諱が記されていませんが、伊東祐親入道のことなのでしょうか? ご存知であれば教えてください。
[From 相馬介]


[939] 奥羽千葉

投稿者:平晴胤 [九曜] 投稿日:2005/12/22(Thu) 13:16

こんにちは、私は関東出身(現埼玉)ですが、母方の祖母(宮城県)が90%千葉の血族らしく、自分も歴史家なので調べてみました。色々血縁関係を聞いてみたら、親戚という千葉胤じさんと言う方が見つかりました。その方が頼朝公に従い住み着いたのが先祖と言ってました。家紋も同じ九曜星です。陸奥は千葉性の血縁は非常に多いですが、調べるのも大変でした。多分先祖は2代胤正公か胤親系だと思います。宮城の東松島です。
桃生郡地方の詳しい千葉系を知っていたら教えてください。

平晴胤さん、こんにちは。

 桃生地方は、葛西氏とのゆかりがある地域ですね。東北地方の千葉氏の系譜は、家々によって異なる上にとても複雑に入り組んでいて、まだはっきりと解明されていません。ただ、東北千葉氏の出自については、いくつかの流れがあることは間違いなさそうですね。

[From 相馬介]


[938] 江指太郎兵衛朝常=千葉頼胤?

投稿者:坂東八平氏 [月星] 投稿日:2005/11/19(Sat) 23:00

>相馬介さん
長坂千葉氏の祖・千葉頼胤に関しててですが、頼胤の‘頼’は実は‘朝’だったのかもしれません。そう考えるとある人物が該当する様に思われます。その人物は平常長の8男である次浦九郎常盛の曾孫である江指太郎兵衛朝常です。

その系図は次浦九郎常盛_千田次郎常家_江指平次右衛門尉常重_同太郎兵衛朝常となっていますが、相馬介さんが仰られる通り、常家の兄に右衛門尉常重が居てしかもその息子達が朝常の兄と同名で、しかも称号が同じである事からして次浦九郎常盛_江指平次右衛門尉常重_同太郎兵衛朝常が正しいと思われます。そうすると、朝常と千葉介常胤及同世代となりますから、年齢的にも問題が有りません。

千葉頼胤が頼朝に仕えるようになったのは、治承4年(1185年)からだとされていますが、この年は千葉介常胤が千田親雅を追討した年であり、多くの房総平氏が親雅に加勢していましたが、朝常も又根拠地からすると親雅に加勢したと思われます。しかし親雅に加勢した房総平氏も後に千葉氏に吸収され頼朝に従っていますから、朝常も頼朝に従ったと思われます。そうすると頼胤が頼朝に従った年齢と一致します。

後は朝常の‘常’が‘胤’に変わった経緯についてですが、房総平氏の総領が‘常’を通字とする上総介広常から‘胤’を通字とする常胤の系統に変わった事に拠り改名したか、或いは朝常と常胤の父が共に常重と言う同じ名前であった事から両者が同一視され、それに伴い息子である朝常と常胤も同一視され、その際に常から胤に変わったかと思われます。私は恐らく後者のほうだと思っています。又、そうすると頼胤が常胤と同一人物であると言う伝承とも一致します。

又、奥州の大族である江刺氏は頼胤の子孫であると言う説もあり、勿論‘江刺’と‘江指’は地名的にも何の関係が有りませんが、これは江刺氏が常盛流江指氏の末裔を称したと言う事であり、千葉頼胤の正体が江指太郎兵衛朝常であるという傍証になると思われます。


[937] 岩手千葉会

投稿者:母体の千葉 [丸に三柏] 投稿日:2005/11/15(Tue) 21:50

岩手千葉会より「学習会のお知らせ」です。

日時 12月4日(日) 午後1時30分〜3:30分
場所 水沢市大鐘 南公民館
内容 学習会「奥州千葉氏」
   今年度の反省
   来年度の計画
  「千葉氏の家系」第1〜3号の販売
   TEL・FAXでも受付可 0197(24)5220
   岩手千葉会事務局


[936] 相馬介さん

投稿者:千葉 [十曜三日月] 投稿日:2005/10/29(Sat) 18:31

レスありがとうございます。 父の実家の北海道には古い貴重な家系図なども残ってるらしいので今度、自分でも調べてみたいと思います(>-<#)


[935] 千葉の本家…

投稿者:千葉 [十曜三日月] 投稿日:2005/10/22(Sat) 00:05

初めまして、いきなりすみません。うちの父は『千葉の本家』と言い張るんですが…疑わしく思います。 父が若い頃、仙台(?)の自衛隊の基地内に千葉の墓があるから移してくれと言われ、単身向かったら先祖の墓(武士?)を囲むように百〜あまりの墓があったそうです。父は『千葉』の物のみを持って帰ったそうですが…史実ではあるんでしょうかね?

千葉さん、こんにちは。

 東北千葉氏はその系譜がとても複雑で、実際にどういった経緯で千葉氏が東北に広まって行ったか、解明されていません。

 しかし、千葉家に限らず旧家はその地域地域で、また長い歴史の中でその地域での本家ができ、分家が派生していきます。そういった意味では、千葉さんの御家は千葉の本家であったのでしょう。

[From 相馬介]


[934] 千葉氏木内氏一族

投稿者:博胤 [月星] 投稿日:2005/10/15(Sat) 18:14

始めまして、私は下総の国に住んでいます。私の名前は博胤です。木内氏一族から貢献者として名前をいただきました。今でも千葉一族はいます。千葉一族について語り合いましょう。

木内さん、こんにちは。

木内氏も一族の名家ですね。明治期の木内重四郎京都府知事も千葉木内氏の末裔として有名です。

[From 相馬介]


[933] 今日、東京に行ってきました。

投稿者:千葉 貴 [月星] 投稿日:2005/10/10(Mon) 23:33

 用事があって上京。真っ先に向かったのが平将門の首塚でした。あいにくの雨の中、東京駅前から祝祭日の大手町(人がいない)を歩きお参り。ビルとビルに挟まれた空間、きれいにお掃除されてました。

用事って高中正義コンサートでした。

でも将門さんも大事。

 千葉貴さん、こんにちは。

 ジツはわたくし、まだ将門塚に行ったことがないのです(^^; 丸ノ内は結構しょっちゅう行っているのに。ついつい忘れてしまうんですね。

 この塚、神田明神と繋がりがあり、かつては神田明神の境内にありました。神田明神は移転してしまいましたが、塚だけは残り今に至っています。

[From 相馬介]


[932] 名刀「友切」についてー追加説明

投稿者:工藤祐経系 [追加希望] 投稿日:2005/10/09(Sun) 17:11

 千葉氏自体の血縁の話とは離れてしまうかもしれませんが、前の投稿の説明のために源氏重代の名刀「髭切・膝丸」「友切」について「曽我物語」での描写を入れておきます。

─────
「曽我物語 巻八」
曾我兄弟は箱根神社に参詣して仇討ちの決意を述べた。別当はそれを聞き、宝蔵から、まず十郎に鞘巻一腰(微塵刀)取り出だし

「此の刀と申すは、木曾義仲の三代相伝とて、三つの宝の一つなり。第一が龍王作りの薙刀、第二が蜘蛛おどしの太刀、第三がこの微塵刀である。清水の御曹子(木曾義高)が鎌倉殿(頼朝)の婿になると言うので当社に納めた物だ」
 
 次に五郎に兵庫鎖の太刀を一振り取り出だし

「これは源頼光の時、大国の武悪大夫という鍛冶を召して三ヶ月かけて作り一ヶ月かけて研いだ二尺八寸の業物である。ある時立てかけていた刀が倒れ、下にあった草紙三帖の紙70枚が切れたというので「てうか」と命名された。

 源頼信の時、この刀を抜いたら四方五段の虫の翼が切れて落ちてきたので「むしばみ」と改めた。

 源頼義の時、この太刀、自然にぬけ出て、大地一丈が地下に入り、御所の地下で地震を起こしていた大蛇の頭を貫いたので「毒蛇」と改めた。

 その子八幡太郎義家の時、宇治橋の上で橋姫が川に引きずり込もうとしたが刀が自然に抜けて姫の手を切り落とした(いわゆる「手を切る」)。それで「姫切」と改めた。

 源為義の時にはこれより六寸長い太刀と共に保管していた所、ある夜ひとりでに鞘(さや)から抜けて斬り合い、隣の太刀を六寸切り落とした、そこで「友切」と改めた。保元の乱で為義が斬られ、息子の義朝の手に入り京都鞍馬寺毘沙門に納められた。それを義朝の末の子・九郎判官殿(源義経)が鞍馬の東光坊のもとで学問して居た時に、如何にして聞いたのか、折々、毘沙門に参り、

「帰命頂礼、願はくは、父義朝の太刀、此の御山に込められて候ふ。父の形見に、一目見せしめ給へ」と、祈念申され、喜びのあまり御戸開いてその太刀を見る。この時に、牛若丸(源義経)が盗み出し、平家征伐を祈念して当社に納めた物である」
─────

工藤祐経系さん、こんにちは。

 以前、箱根神社に行った際、曾我兄弟の墓と称するお墓が国道沿いにありました。見た感じでは律宗系の僧侶の供養塔に似ていましたが、どうでしょう。

 箱根神社には曾我兄弟を祀る曾我神社や兄弟が奉納した刀が伝わっているそうです。

[From 相馬介]


[931] 結城朝光室等について

投稿者:工藤祐経系 [追加希望] 投稿日:2005/10/04(Tue) 20:34

 ブログを拝見しました。結城朝光について書いてられたのでよければと思い、千葉介常胤との関係をつけ加えておきます。

千葉常胤娘┐
工藤祐経─┘┐
┌─────┘
├祐時(犬房丸・長男)
├祐長(二男)
├娘(長女・結城七郎朝光室)─結城朝広─祐広、時祐─・・ 
└娘(三女)

「南家藤原姓伊東氏大系図」等による。

 なお、上にある千葉常胤娘に関してですが、1185年の壇ノ浦後の源頼朝・義経の対立時、静御前が吉野山で頼朝方に捕まり、鎌倉に連れてこられ、鶴岡八幡宮の舞殿で頼朝・政子夫妻の要望により有名な「静の舞」を舞うという事が知られてます。因みにこの舞は「君が代」だったと言われているとのことです。

 この時、出典未確認の情報として、舞を嫌がる静御前に対し、同じ京女として工藤祐経の室であった千葉常胤娘が静御前に舞を勧めるという描写が存在するとよく言われ聞くのですが、私はその根拠となる出典はどれかは知りません。探しています。

 ただし、この頃、梶原景時の息子と祐経らが静御前が居た館へ押しかけ宴をし、景時の息子が静に言い寄り、静がたしなめるという描写は「吾妻鏡」にあるのは存じています。

 なお北条政子との関係ですが、「曽我物語」の解説本によると

平高望娘┐
藤原維幾┘―為憲─(─)─祐高―┐
┌───────────────┘
├祐次─祐経
└祐家─祐親─娘(北条時政室)─北条政子

 これより北条家は政子以降より平高望(平姓)の流れとなると理解してますが、、、どうでしょうか。

 また、別の話で次の様なものもあります。源氏重代の有名な太刀として「髭切」や「膝丸」が有名ですが、これら太刀の由来は「平家物語・巻頭」に以前つけ加えられていたものとして知られています。これは以下の公立博物館のサイトで絵巻物が公開されているので入れておきます。
http://www.saitama-kenpaku.com/SIRYOU/higekiri.html

 この「髭切・膝丸」は以前の名として「友切」と言われたりして、「曽我物語」では実は、この「友切」を持って曽我兄弟・弟五郎が源頼朝や工藤祐経に向っていく描写があります。兄・十郎は「奥州丸」という太刀を持ち、向うのですが、この奥州丸、去る平家との屋島の合戦時、平知盛の船に残されていたのを曽我太郎が源義経に献上し、ほうびに賜った戦利品の名刀ということで、物語では平家、義経の因縁をもって頼朝に向って行っている描写になっているのが興味をもたれます。

─────
『曽我物語』巻十 
 十郎が討ち死にした時、刀が折れたのを見た新開荒四郎実光は「曽我の者どもは仇を討って名をあげたが、『太刀が悪い』。簡単に折れるような太刀で君(頼朝)の御前で活躍できたのは不思議なことよ」と嘲笑した。捕らえられた五郎は荒四郎を睨み付けて、
「おまえは何を見てえせ太刀というのだ。それは平家の新中納言知盛の刀で、屋島の戦いで船に残されていたのを曽我太郎が義経公に献上し、ほうびに賜った奥州丸という名刀だ。それでも折れたと笑うならお前達の刀で二三百人斬っても折れない刀があるか。おまえこそそのえせ太刀に追われて芝垣を破って逃げ出したではないか」
─────

 頼朝もこの時また、向ってくる五郎に対し「鬚切」のサヤを抜くそうです。(引用)「君(頼朝)も、此の由聞こし召して、糸毛の御腹巻に、御重代の鬚切抜き、出でさせ給ひける。」

 頼朝の御前で捕らえられた曽我弟・五郎は工藤祐経・常胤娘の子・犬房丸によって扇で顔をはたかれてしまう。因みに曽我兄弟というのは名前は曽我姓ですが、これはもともと工藤伊東の同族で母親が曽我姓へ再嫁したことに依るそうです。

 家紋は少しばかり理由があり、とりあえず「その他」の意味で「追加希望」にしておきました。千葉氏とは縁戚ですが、どうやら伊豆地方の伊東工藤は、また、一つの氏族を形成しているという理由によると考えています。(固定的な考えではありません)


[930] 江源武鑑に千葉氏の情報

投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2005/09/19(Mon) 11:03

 資料価値としては疑問が残るとされます六角氏の史書・江源武鑑に千葉刑部少輔清胤という人物が登場しています。

 この清胤は下総千葉の嫡系で千葉家庶子により所領を奪われて浪人し、六角屋形に取り立てられたとあります。天文七(1538)年五月に、志那(現在の草津市志那)に所領を与えられ、天文十二(1543)年三月二五日に71歳で死去したと出ています。また、天文十七(1548)年六月一日に幕府から諸国の守護の系譜を提出するよう指示が出た際に六角屋形は千葉刑部少輔の系譜を下総千葉として提出したとも出ています(系譜が残っていたことを意味しているようですが・・・)。

 年齢(生まれが1473年)から見ますと美濃御嵩に隠棲した千葉七郎実胤(1442〜?)の子といっても納得できますし、美濃守護の土岐氏、近江守護の六角氏とも下総千葉家と姻戚関係にあったので、それを頼って庇護を求めるというのも納得できるように思えます。

 天正十年に本能寺の変があり、その政変の際に蒲生右兵衛が安土の織田一族等を伴って日野へ引きこもるのですが、江州の家もその際に移ったのでしょうか?実は江州の家が、代々蒲生氏の支族の館に棲み続けてきたものですから、もしかするとその関係があったのかも知れないです。

江州さん、こんにちは。

 「千葉刑部少輔清胤」についてですが、これまた信憑性については裏付がないので何とも言えませんが、千葉介胤富の子として刑部少輔清胤の名が見える系譜(『千葉氏実伝』)があります。清胤は小田原の陣で千葉一族とともに小田原に籠城し、湯本口で討死したとされています。この家の末裔は一色氏を称しているようです。

 また、近江の千葉家としては、正親町三條家の諸大夫だった千葉家があります。こちらは比叡山の麓のあたりに住んでいた一族のようで、江戸末期の正親町三条実愛の諸大夫・千葉美濃守洪胤は、明治時代になって嵯峨家(正親町三条家改メ)の家令になっています。

[From 相馬介]


[929] 千葉頼胤=千田次郎胤幹?

投稿者:坂東八平氏 [月星] 投稿日:2005/09/03(Sat) 20:05

>相馬介さん
他に可能性が有るとすれば千葉介常胤の弟である千田次郎胤幹が若しかしたら千葉頼胤の正体だったのかもしれません。と言いますのは、幹と頼の字が似ているからです。頼胤の正体が胤幹だとすれば時代的にも無理は無いと思うんですけど・・・。

後、葛西氏と深い関係を持っていましたから、葛西清重辺りの人物に該当する人物が居たかもしれません。

 坂東八平氏さん、こんにちは。

 千田胤幹(六崎胤幹)につきましては、『千葉大系図』にのみ見られる人名であることや、千田庄は当時、敵対していた下総守藤原氏の本拠地であったことなどから、その実在に疑問を感じています。おそらく系譜で胤正の子である六崎胤朝との混同があると思われます。

 なお、常胤の弟としては、小見(小海)胤隆、椎名胤光の両名が知られています。

[From 相馬介]


[927] 千葉頼胤の出自

投稿者:坂東八平氏 [月星] 投稿日:2005/08/26(Fri) 01:00

奥州千葉氏の中でも最古の家柄を誇る長坂千葉氏の始祖である千葉頼胤の出自については、このホームページに有る様に@常胤の七男A常胤自身B胤正の改名C時胤の子の頼胤D五郎兵衛晴胤の息子
の五つに分かれていますが、@ABについては科学的根拠が無く、Cに就いても時代が大きく離れています。
残るはDですが、常胤の五番目の弟に五郎兵衛晴胤が居て、その子が頼胤だとすると時代的には矛盾が無いんですけど、どの系図を見ても常胤の弟に晴胤なる人物は見る事は出来ません。
他に考えられるのは初期房総平氏の一族の者だと言う事ですね。特に私は上総介の一族辺りが臭いと睨んでいるんですけど・・・。

坂東八平氏さん、こんにちは。

 奥州千葉氏の系譜は複雑で、よくわからないのが実情です。ただ、もちろんそれぞれの家に伝わる伝承は尊重しなければなりません。

 現実には奥州千葉氏すべてが下総千葉氏に繋がるかというと、そうとも言い切れない感があります。ただ、それらを証明する術はありません。

 推測ですが、千葉介常胤が給わった奥州の所領は子息たちに配分されますが、現地に千葉宗家の人が行くことはありません。おそらく一族の代官が遣わされた事でしょう。そういった千葉宗家の所領が奥州にはあちこちに散在していたと思います。こういった背景も奥州千葉氏発展の一因だった気がしてなりません。

[From 相馬介]


[926] 古河公方重臣・印東氏

投稿者:相馬介 [丸に並矢] 投稿日:2005/08/22(Mon) 01:29

古河公方・足利家の重臣だった印東家の系譜を見つけました。その系譜(『印東家系譜』:史料編纂所)によれば、平良兼の子孫・平致経の孫に「平将通(四郎権介、左衛門尉)」が「千葉ヲ印東ト改ム」とあって、彼が印東氏初代として記載がありました。その娘は「千葉介常将母」とありました。将通の実在性を含め、このあたりの信憑性は不明です。

 系譜によればその後、子孫の氏定が鎌倉公方足利氏満より偏諱を受け、重臣に連なったようです。また、代々「胤」字を用いていることや、家紋に「根笹(千葉家古紋)」「月星」紋を用いていることから、千葉一族と言う意識があったようです。


[925] 千葉常胤の娘系について

投稿者:工藤祐経系 [追加希望] 投稿日:2005/08/15(Mon) 15:02

千葉常胤娘┐
工藤祐経─┘┐
┌─────┘
└┬祐時(長男)─(─)─伊東マンショ─(─)─祐亨(初代海軍元帥)
 ├祐長(二男)─薩摩氏─(福沢諭吉祖により滅亡)
 └娘(三女)──(─)─────伊藤博文(初代首相)

伊東氏は薩摩守の肩書きから薩摩氏を名のり、祐能、祐氏、祐広ともに薩摩氏ともいう。薩摩氏は鎌倉幕府が倒れると、いったんは後醍醐天皇の新政府に従う。けれども北条高時の子どもの時行が長野諏訪にかくまわれており、彼が兵を挙げると、それに同調する。そして長野県・坂城の北条に城を構えて立て籠もります。京都の後醍醐天皇は村上信貞を信州総大将軍に任命し、攻め滅ぼし、それから後、薩摩氏の名前は出てまいりません。坂城町南側を福沢と呼び、福沢城の跡もある。慶応大学の創立者・福沢諭吉の先祖は信州の領主だったと言われており、長野県で福沢姓(村上信貞を祖)の発祥地は坂城町と、諏訪の茅野と、伊那の方だといわれているそうです。茅野では一番強硬で、鳥居峠の合戦で武田勝頼にくっついていって負け、落武者になって九州へ行き福沢諭吉の先祖になったといっている。


[924] 千葉常胤の娘系について

投稿者:工藤祐経系 [追加希望] 投稿日:2005/08/14(Sun) 16:54

あまり情報の少ない、千葉常胤の息女関係について書いてみます。だいぶ、時代的にずっと下って、以前、話した明治期・海軍大将・伊東祐亨(千葉常胤の娘系)の時代にまで下りますが、実はこれから先がおもしろいのです。

祐亨が海軍大佐で軍艦「龍驤」の艦長時、明治16年12月15日、練習航海中、全乗組員378名中169名が脚気におかされ23名死亡した事件があります。当時、明治政府は海軍ならびに陸軍ともに当時の難病「脚気」の原因究明・克服を最優先としていたらしく、この「龍驤」での事件に対しても、当時、高木兼寛・海軍軍医総監とともに脚気の原因を追求したらしい。この高木という人も、私は確認していませんが、千葉氏のHPに出てくる九州の高木姓の関係者かもしれません。因みに、高木兼寛は日本初の医学博士取得者で、日本医学会の創立者の一人、東京慈恵会医科大学の創設者、露皇帝・ニコライ二世が負傷した大津事件にも、当時、海軍軍医総監をしていた彼が処理にあたったという海軍イギリス医学の元祖です。
 この高木兼寛は脚気の原因を「龍驤」での事件等の調査から食物起因説をとっていた。これに、初代慶応大医学部長の北里柴三郎も当時、着任していた東京大医科学研究所の初代所長という職を投げ打ち、官側と対立するほど食物起因説に同調していた。一方、陸軍ドイツ医学を基調とする当時の森鴎外・陸軍軍医総監や東京大医学部長の青山胤通らがこの食物起因説に猛烈に反対。この論争は日露戦争まで引きずってしまい陸軍は脚気により大量の犠牲者を出してしまう。結局は食物起因説であって、今はよく知られているようにビタミン欠乏の問題であったのだが、第二次大戦後も旧海軍のイギリス医学は公衆衛生学に痕跡を残し、例えば、東京・目黒の旧海軍大学跡地に旧厚生省管轄の旧国立予防衛生研究所(現国立感染症研究所)が立ち、現在でも、ハンタウイルスやらエボラ対策といった最先端の研究施設を国内で唯一、有しているところです。現在は新宿区戸山へ移転。

これらの簡単な説明サイトとしては
http://www.mars.dti.ne.jp/~akaki/igaku02.html

もう一人、江戸期に佐賀鍋島藩家臣・蘭方医・伊東玄朴という人がいますが、シーボルトから医学を学ぶが、シーボルト事件からうまく逃れ、1849年に、玄朴は江戸で鍋島直正公長女貢姫(みつひめ)に種痘を行い成功させ、余った痘苗で約1年間の間に千人余の小児に種痘を施しました。伊東玄朴は種痘所設立に努力し、1857年に幕府の許可ももらう。そして井伊大老に呼び出されたのは、5月7日に神田にその施設種痘所が開設された直後のころ。この種痘所が後の西洋医学所となり東京大医学部の前身という事です。


[923] 和良村史

投稿者:相馬介 [丸に並矢] 投稿日:2005/07/13(Wed) 12:49

Pinoさん、こんにちは。
『和良村史』の情報、ありがとうございました! 早速最寄の図書館に取寄せて拝見しました。貴重な情報がたくさんありました。

 先日、下総介さんより東大史料編纂所に東氏の系譜があって、大坂城に篭った人物がいたとの情報をいただいて、早速、史料編纂所所蔵の「東氏系図」を調べたところ、遠藤胤重の子「遠藤大隈守胤澄」が大坂城に篭っていることが記載されていました。この大隈守胤澄が玄斎なのかもしれないですね。


[922] 三浦一族 貞包新左衛門尉

投稿者:吉富正和 [追加希望] 投稿日:2005/06/30(Thu) 08:07

 

 土屋宗遠 三浦一族の貞包です
 系図を希望の方は、ご連絡ください。

      2005-6-30
吉 富 正 和 68才


[921] 貞包新左衛門千葉胤連に仕る

投稿者:吉富正和 [追加希望] 投稿日:2005/06/30(Thu) 07:56

 

 永禄2年1月11日1559年 千葉胤頼と共に 佐賀県晴気城を攻める。
 続いて5年に 有馬晴純勢と戦い、また 有馬時純勢と丹坂で戦う。
 永禄11年大友宗麟の佐嘉城を攻める。
 天正11年 1 月 17日死去。
 墓は佐賀県塩田町冬野の黒木墓地に在る。
 久間村内では比較的古い自然石の巨大墳墓である。
 最も古く丸に三つ引きを上に彫った物、三浦、少貮、
貞包新左衛門尉の一族である。


[920] 告知 岩手千葉会

投稿者:母体の千葉 [丸に三柏] 投稿日:2005/05/29(Sun) 21:52

岩手千葉会より平成十七年第一回研修会を下記の内容で花泉町で行います。
期  日   平成17年6月5日(日)午前10:00
集合場所  「花と泉」の公園現地集合(http://www.kpc.co.jp/hanatoizumino-kouen/
会  費   2,000円(入場料、昼食代含む)
内  容  「花と泉」と和算家「千葉胤英氏宅」見学

※昼食会場で総会を開催します(現地での会員加入も歓迎します)。


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