千葉氏について

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千葉氏の発生

 延長元(923)年、平高望の五男・良文(よしぶみ)は、醍醐天皇から関東の党賊退治の勅命を受けて関東に下向し、父の遺領のひとつである相模国鎌倉郡村岡(神奈川県藤沢市村岡)に陣を張り、相模国内の賊を討伐したのち、館を建てて住みついたとの伝承があります。これが良文の関東下向の始まりとされていますが、実際は不明。

 伝えによれば、良文は相模国御浦郡・鎌倉郡・高座郡などの未開発地を開墾し、私営田領主である兵(つわもの)へと成長していきました。すでに常陸国には常陸大掾の任にあった長兄・国香、上総国(下総国)には下総介である二兄・良兼、下総国豊田郡には鎮守将軍として奥州に赴任している三兄・良持(平将門の父)といった兄たちが独自の勢力を持っており、良文は相模国を本拠地と定めたとされます。

 しかし、甥の将門が起こした反乱によって長兄・国香が殺され、将門と戦った良兼も病死。その将門も、藤原秀郷平貞盛(国香の嫡子)との戦いの中で戦死し、貞盛は京都にあったため、良文が「氏長者(うじのちょうじゃ)」として関東平氏の惣領となったと伝承があります。ただし、平氏という氏について「氏長者」の存在はないため(源朝臣を下された源氏や王を名乗る「王氏」を束ねる立場にあった源氏長者の包括領域に平氏も含まれていたとも)、系譜上の伝承であろうと考えられます。

 その後、良文は武蔵押領使・下総守・上総介を歴任し、武蔵国や房総半島にまで進出していったと伝えられています。

 良文の孫・上総介平忠常は、長元元(1028)年6月、両総で大反乱を起こしました。これを「長元の乱」といいます。藤原道長が亡くなった直後ということもあって朝廷も動揺しており、朝廷は検非違使平直方(平国香の子孫)を追討使に任命して軍を派遣しましたが、戦いはうまく運ばずに京都に召還されました。朝廷は次に摂関家に仕えている河内源氏の一族・甲斐守源頼信を派遣しました。

 頼信は甲斐国に下って軍備を整えると房総半島へ出陣しましたが、頼信の出陣を聞いた忠常は降伏の意思をかため、出家して頼信の陣に出頭して乱は鎮圧されました。もともと忠常は頼信と個人的な主従関係を持っていたとされ(『今昔物語集』)、飢饉による兵士(農民層主体)の厭戦気分も手伝って降伏したといわれています。

 その後、忠常の子孫は両総、とくに下総国に勢力を拡大していきました。その後、庶流の相馬五郎常晴が叔父の鴨根三郎常房の跡を受け、上総国夷隅郡内に館をおいて「上総権介」を世襲する大豪族となり、下総国千葉庄に移住した一族は千葉を名字地として千葉氏を称しました。

 治承4(1180)年の源頼朝の挙兵には、上総介八郎広常千葉介常胤ら両総平氏は一族を挙げて彼に味方し、鎌倉幕府創設に貢献しました。忠常の弟とされる将常・頼尊(悪禪師)はそれぞれ武蔵国秩父地方、相模国南西部に勢力を広げ、秩父党・中村党を結成して発展しました。

 鎌倉幕府の成立後、千葉氏は幕府創設の功績を認められ、千葉氏は房総半島のみならず陸奥国から薩摩国にまで全国に渡って地頭職を持つ大大名へと変貌していきました。

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