千葉氏の掲示板過去ログ3


[467] 文さん 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/03/15(Thu) 23:01

はじめまして!

知ってる人がいたらレスがあると思いますよ。
でも、ここの人は、12世紀あたりの千葉氏を中心とした人物に関心があるので
幕末から明治時代はちょっとサイトが違うかも。

でも歴史ということでレスがあるかも知れませんね。
私も書き込めることでしたら書き込むと思います。

よろしくね。


[466] 始めまして 投稿者:文潤根 [] 投稿日:2001/03/15(Thu) 11:28

始めまして
私は韓国の文潤根と申します。 私は日本の歴史にとても興味を
持っています。特に幕末から明治維新を経て新しい日本作りに
力を発揮した英雄、知識人に対して研究したい気持でいっぱい
です。私は2年後日本に留学しようと思っております。
その時まで一生懸命に勉強しておかねばなりません。日本の
近代史に対して質問したりした場合お答えして下さるでしょうか。
可能であればメールください。 宜しくお願い致します。


[465] 少々気になったので・・・ 投稿者:宮下帯刀 [丸に並矢] 投稿日:2001/03/08(Thu) 11:53

>片桐為安
 通称は太郎。父は保元・平治の乱で活躍した片桐小八郎大夫景重。元暦元(1184)年6月23日、信濃国から鎌倉に呼び出され、平家によって収公された片桐郷を安堵され、舟山(松川町)に居住しました。

 上記の記述なのですが、信濃片切氏は「片桐」とは称しておりません。それと、片切氏の本貫地は不明なのですが、「蔵人屋敷跡(中川村)」と考えられております。また、「舟山(城)」というのは片切城(南北朝期以降)の別名です。お役にたてば幸いです。

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate


[464] 荒らしには無視作戦 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/03/06(Tue) 05:30

日本の名字は「土地」と結びついてますね。
私も母方の姓(河野)で好きなのは45代前が名乗ってた「柚木」で、嫌いなのは20代前が名乗ってた「内野」。

名古屋の父方は親戚がみんな地元に住んでて服部姓なので場所で区別してますね。

日本はこういう通り名がいつの間にか姓になってしまって混乱していきますね。

そういう意味では先祖の姓を絶対的に守る中国人って凄いなって思います。半島もそうなのかしら?

荒らしって困ったもんですね。
私は絶対的に無視で通します。
私も性格が凄いので喧嘩するとなったら私も一緒に荒らしてしまうだろうと思うので私は1つおとなしく絶対無視で頑張ることにしています?

つい最近3件5つ目の訴訟に勝ったばかりです。
相手はカリフォルニア州。
自分の主張がどの位受け入れられるかな?という試みには喜んで参加しますが
掲示板の荒らしには無視戦術です。

「千葉氏の掲示板」は荒らしが来ないからいいです。


[463] no title 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/03/06(Tue) 01:58

僕のハンドルネーム「横須賀」はただ単に出身地をあしらっただけで、深い意味はないんです。まあ何と言いましょう……僕は地元・横須賀以外ですと、だいたい「横須賀〜」って言われてるんですね。特に遠方の親戚は僕の一家をそう呼びますね。もしかすっと、こいだけでわかっちゃーかもなあ、僕の正体。
僕は方々の掲示板で遊び回ってますんで、名前を見たら90%僕だと思っていただいてかまいません。でも最近あの悪名高い「2CH」でちょっとアホーと衝突してますんで、ちょっとお気をつけて……。

うちは残念ながら、三浦氏とは全然血縁がありません。ただ、うちの先祖が三浦半島に土着したのがおそらく数百年前ですんで、もしかすると一人や二人、三浦氏か足利氏の家臣だったかも知れません。(一応、すっげーうさんくさい伝説があるんですけどね。僕は田舎にありがちな単なる民間伝承だと思ってます。)

三浦氏の一族に「横須賀氏」は確かに存在します。たぶん、今でも子孫の方がいらっしゃると思いますよ。横須賀氏が歴史書に初めて登場するのは鎌倉時代後半期(得宗専制時代)で、北条氏の被官だったと推測されています。今では米軍基地の足下に埋没していますが、横須賀市の泊町には夢窓国師が宿泊した「泊庵」がありました。そこの檀家として出てくる「横須賀安芸前司」が横須賀氏の初見だと思われます。横須賀氏は嫡流滅亡後の三浦一族の中でも、家督を継いだ佐原氏に準ずる勢力を保持した一族でした。


[462] 横須賀氏 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/03/05(Mon) 21:14

ありがとうございます。
思い違いなどご指摘して下さると助かります。

ロスで日本の番組が見られるのは、もう30年を超えると思います。
昔、30年ほど前にロスに来た時「3匹の侍」をやってました。
当時子供だったのでどんな内容か記憶にありませんが。
20年ぐらい前は「おんな太閤記」をやってました。
それから「花のステージ」とかも。
人気のあったところでは石野真子ですね。日本の女の子ってこんなに可愛いの?!とアメリカ人を驚かせたと思いますよ。

昨日は「カバチタレ」の7話を見ました。

「料理の鉄人」は英語でアメリカ人向けに放送しています。
私は見ませんが。
見たってねぇ。あんな凄い料理を家庭で作る訳じゃないし、人が「おいしい」って食べてるのを見る趣味は無いし。

それにしても、日本の姓とか家紋というのはなかなか複雑ですね。
横須賀さんは
名字からすると本来は「三浦」の流れなのかな?と思われ
家紋は「千葉」の流れの「月星」ですか。
姓も紋も都合で変わりますからね。


[461] 服部さんにラブレター 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/03/05(Mon) 18:19

へー、「時宗」はロスでも見れるんですか?  時の流れを感じる……。
それはいいとして、千葉も三浦も亡んだわけではないですよ。
千葉氏のばあい、千葉秀胤が討たれただけで、千葉嫡流はずっとつづいてます(秀胤が嫡子だったかは知りませんが)。三浦も泰村一統は滅びましたが、庶流である「さはら」氏が存続しました。後に北条早雲に滅ぼされる三浦氏はこっちの流れです。
千葉氏のばあい、蒙古合戦に際し九州に嫡流家が移転します。このせいで、。南北朝時代には嫡流をめぐって、後嗣争いが起こります。

くだんの「犬」のエピソードは、鎌倉幕府が倒れた後、千葉/三浦両氏が後醍醐天皇に対面した際、三浦氏(時継か)は千葉氏と対等に扱えと主張したってやつですね。当時、千葉氏は相当な勢力を保持してましたが、三浦氏は今の神奈川県三浦市一帯しか勢力下に収めていなかったそうです。最盛期に比べると、ずいぶん衰退しちゃってたんですね。そんでも千葉氏と対等に扱えと言ったんで、万座の失笑を買ったとか。
三浦氏は鎌倉時代には北条氏の「みうちびと」になってたようです。

でもロスにいるのか。うらやましい。僕は東京湾フェリーに乗ったとき以外、本州から離れたことすらないんで……。


[460] 恥の上塗り 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/03/05(Mon) 11:05

三浦と千葉が一緒に潰れたってのは全く理解のはんちゅうに無かったのです。

だって例の「犬」のエピソードで仲が悪いとばかり思ってたのですよ。

私って単純!


[459] 宝治合戦 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/03/05(Mon) 11:04

ロスでもやっとNHK大河ドラマの「北条時宗」が始まりました。

第1話は「宝治合戦」で北条氏が天下をとった経緯でした。

三浦と千葉は一緒に滅んだのでしたか。。。← (^^; 全然分かってなかった。

時宗のパパの時頼にとって
三浦は時頼の祖父泰時の女婿であり
安達は時頼にとって外祖父になる
という実に複雑な関係だったのですねぇ。


今さら何を?!なんておっしゃらないで!
日本が親戚だらけって実感しましたよ。


[458] 家紋 投稿者: [追加希望] 投稿日:2001/03/04(Sun) 23:05

初めまして!
私の家紋は丸に抱き茗荷です。
奥州千葉一族と関係あるのでしょうか?

宮城県登米郡迫町新田在住 星

星さん、こんにちは!

相馬氏の家中にも「星」家があったようですね。奥州千葉氏の古い一族にも「星」家があったことが系譜(岩手県史収録)に記されています。千葉氏流の星家は、同族たちと同様、おそらく葛西家に仕えていたと思います。登米郡も葛西家の所領とされていますので、何らかの関係があったのかもしれないですね(^◇^)


[457] Hi.Man! 投稿者:Guest [] 投稿日:2001/03/02(Fri) 20:07

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[455] 南信濃で「丸に並矢」を用いている家は・・・ 投稿者:宮下帯刀 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/27(Tue) 18:49

 こんばんは。
少し調べてみたのですが、矢崎家、嵯峨家、武田家、林家等が用いておられるようです。しかし皆郷士クラスであり、系図等は分かりません。
 では。

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate


[454] 遠藤氏、円城寺氏について 投稿者:小花作之助 [追加希望] 投稿日:2001/02/27(Tue) 17:06

はじめまして。
ときどき寄らせてもらっていましたが、質問させてください。

1.円城寺氏について
昔なにかの本で、円城寺氏は千葉一族だけでなく、他姓のものも
含んだ氏族であるというような内容を読んだことが
ありますがそこのところは現在どういうことになっている
のでしょうか。

2.美濃遠藤氏について
文覚こと遠藤盛遠の子孫という説もあるとおもいますが、
奥州葛西氏と千葉氏の関係のように、
東一族でもあるということでしょうか?

小花さん、こんにちは!

円城寺氏については、源姓と思われる「源朝臣」を用いた人物がありましたが、どのような系統の人物であるのかはわかりません(^^;ゞ

遠藤氏については、摂津渡辺党の遠藤盛遠の系統ともされていますが、美濃遠藤氏は一つの流れではなく、様々な遠藤氏があったようです。東氏に従って下総から移り住んだ一族(鎌倉遠藤家)や他地域から移り住んだ一族(和良遠藤家)、諱に「基」という通字を有した一族(鎌倉遠藤家?)、足利持氏に従っていた一族等々・・・室町時代中期には、「基」を通字とする遠藤家の面々は東氏当主の偏諱を受けているようなので、この一族は遠藤氏の重臣として続いていたと思われます。

江戸時代の郡上八幡初代藩主・遠藤慶隆は、東下野守常慶の娘を母としており、東氏の末裔ではあります。慶隆はじめ代々の遠藤家当主は東氏の末裔であることを誇りとし、いずれの藩主も、歌道についての深い教養を有していました。


[453] Σ( ̄Д ̄;)! 投稿者:杉本将監 [丸に梶葉] 投稿日:2001/02/27(Tue) 09:52

 千葉氏のページでもあり、片桐家一門のゆかりのページでもあるらしい様で・・・・・
 高校で同じ生徒会にいた後輩に清和源氏片桐姓の子孫がいました。
 江戸時代、遠州天竜川近くの村にいたらしく、片桐且信の子孫という事ですが、この武将は系図にあるでしょうか・・・


[452] 厳島神社にお参りしました!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/02/22(Thu) 09:56

2/10.11と宮島にいきました!!厳島神社は平安神宮みたいな感じで、堂々とした立派な建物でした!!平家納経も美しい字で法華経?!が宝物館?!に展示されていました!!平家一門の繁栄の願いがこめられて、千葉・田路等名字がかわっても受け継がれているので、今、自分があるのは、平家納経のおかげかもと思いました!!田路家の系図は、関東八平氏と一番始めに書いてあるので、(父は、先人のおかげと言っていたので!!)平氏(家)の分も頑張らねばと思っております!!豊臣秀吉の千畳閣は、軒瓦?!に王という字が金で入り、とっても派手でした!!そして、宮島の旅館?!の奥さんは、宮島を「神の島」と言われていました!!とっても感動しました!!経塚にも登り、平清盛の一字一句経?!が収めてあるらしく?!感動の雨嵐でした!!民族資料館に平清盛の像がありましたが、六波羅蜜寺の模写なので、六波羅蜜寺の方がたれ目でかっこ良かったです!!そして、管弦祭の様子がTVで見れたら嬉しいな〜と思っております!!宮島は海辺なので、私は、大風邪をひいてしまいました!!まだ咳が出るので早く治って欲しいです!! 管理人さん、田路右馬允の手紙の読み下し文を有り難うございました!!2つを比べると意味が分かりやすくなりました!!有り難うございました!!でも紅帯や中紙にはどのような意味が含まれているのか、まだ少し疑問があります!!(代官同志の物々交換?!)田原庄はどこかな〜等、色々考えております!!B’Zのウルトラソウル楽しみです!!期間限定のHPも楽しみですよね!!LIVE−GIMももうすぐ始まるので楽しみがいっぱいです!!d−ffさんの奈良・京都の旅はうらやましいです!!聖武天皇・桓武天皇・行基・空海等の足跡をたどる感じで!!前に、東寺(私も田路=とうじ)に行った時に大日堂に桓武天皇の位牌があったのですが、東寺は桓武天皇の菩提寺?!寺院・神社はすばらしいですよね!!それでは、失礼します!!


[451] こんばんは。 投稿者:宮下帯刀 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/21(Wed) 22:01

 管理人様のご先祖は片切氏と関係があるのですか?うーん。残念ながら片切氏(清和源氏)の家臣としての記録(ほぼ皆無だが)は残されていないですね。座光寺氏(神氏)と関係があるとしたら、おそらく江戸期かもしれませんね。座光寺氏は確か1500石位の旗本だったと思います。

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/


[450] 飯田市でしたかー。私の故郷は松川町です。 投稿者:宮下帯刀 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/20(Tue) 09:42

 おはようございます。私は伊那郡の豪族の姓氏家系研究も志しておりまして、将来何かのお役に立てるかも知れません。「並び矢紋」を用いた家は多いですが、明治期からがほとんどであるようです。
 現在のところ片切氏庶流、宮下家(当家のみ)しか分かりませんが、今度詳しく調べておきます。
 では。

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/


[449] 歴史総合研究連合会 投稿者:杉本 [丸に梶葉] 投稿日:2001/02/19(Mon) 13:45

歴史総合研究連合会のホームになるホームページが完成しました。掲示板を主に活動してます。
 歴史好きな方の論文を審査するという段位審査を儲けております。段位審査するには私自身まだ努力しなければなりませんが、色んな方を交えた審査、および会の活動ができればと思います。
 段位取得といっても公式資格ではまったくないのですが、当会の中での目安であり、有段者は百官名及び東百官から称号を登録して頂く事になっております。
 既に有段者の方もおられます。現在、メールは休止しておりますが、掲示板にて連絡が取れる様にはしておきます。
 百官名とは

  左京、帯刀、左衛門、隼人などの正式な官職名を省略したものです。
  東百官は架空の官職名
 梅干(ほや)、織衛、伊織、左内などがあります。
是非、ホームページの方をご覧いただければと思います。

http://www2s.geosities.co.jp/Milkeyway-Lynx/2463


[448] 家紋の報告をさせて頂きます! 投稿者:宮下帯刀 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/19(Mon) 10:28

 ご無沙汰致しております。
私の家(宮下家)の家紋は「丸に縦矢(並ぴ矢)」です。
何かお知りになりたい際は何なりとお尋ねください。
では。

http://www.interq.or.jp/pure/miyatate


[447] 遠藤盛数について 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/18(Sun) 23:28

郡上藩祖・遠藤慶隆の父・遠藤六郎左衛門盛数は、永禄5(1562)年に信長の美濃攻めの際に討死にしたとされていますが(『寛政重修諸家譜』)、元亀2(1571)年と思われる文書に盛数の名前があるので、この年までは少なくとも生きていたことになり、盛数の正室が長井家に嫁いだのは、遠藤家の安泰を図るためではなかったのかも?『寛政重修諸家譜』の遠藤家の項目は、盛数まではかなり信憑性がうすいのかもしれません。


[446] 奈良(薬師寺など)へいってきました。 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/02/18(Sun) 01:10

d-ffです。連休を利用して、奈良・京都へ行ってきました。
鈴鹿から伊勢街道で明日香に入りました。まず、室生寺へ行ったのですが、数年前に台風のときに倒れた杉の木の直撃を受けて壊れてしまった五重の塔が立派に修復されていました。決して大きな塔ではないのですが、冬の凛とした空気の中に屹立する塔は、優美なものでした。あんなにメチャメチャになってしまた塔が綺麗に復元されていることに感激しました。次に長谷寺へ牡丹の花が綺麗でした。そして、目指すは、橿原考古学研究所付属博物館ですが、なんと残念なことに休館でした、図書室の先生に北辰信仰や妙見信仰についての文献などが無いか聞いてみたかったのですが次の機会となってしまいました。時間が空いたので法隆寺に寄りました。次の日に薬師寺に行きました。平山画伯の壁画は、テレビで見るよりも、ずっと雄大なものでした。この日は、京都に宿を取って次の日に東寺を訪れました。東寺は、我らが桓武帝が建立したお寺です。創建時は、密教寺院ではありませんでした。その証拠に今でも金堂(本堂)には、薬師三尊像が配されています。空海さんにこの寺を与えたのは、嵯峨帝(桓武帝の子どもで、葛原親王のお兄さん)です。ですから、講堂には、もちろん大日如来が安置されています。「あらビックリ、ここの大日如来は、宝冠をかむっているではありませんか!」田路さん、ゴメンナサイ。
ところで奈良前後の時代の北辰信仰ですが、薬師寺・興福寺・東寺など、薬師三尊をこの時代は信仰していますネ。薬師如来の脇侍は、ご存じの通り日光・月光菩薩で、日月です。すると、真ん中の薬師如来は、北極星?????
北(北極星)を尊いとするのは、唐からの移入文化だと思いますが、何時ごろからのことなのでしょうか?
唐の都の長安城は、北限に宮殿を置いています。天子は、南面して臣下に対峙します。平城京と平安京は、同じく北限に宮殿を配していますが、藤原京は、最近の説では、宮殿は、京域の中央に宮殿を置いています。
北極星を信仰する=北に位置するもの=天子=日本では、天皇。
とすると、北辰信仰(妙見信仰)は、もしかしたら、桓武帝を信仰するものではなかったでしょうか???
清和源氏(多田源氏「河内源氏」)は、八幡神を信仰の対象としています。これは、応神大王を信仰するものです。
そんなことを、考える毎日でした。 @_@


[445] ほぉ〜 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/17(Sat) 12:22

徳島の県知事さんですか。

ワタシがテレビを見てた時、
通産省の役人と
資生堂の国際部長さんにいらっしゃいました。

珍しいですよね。


[444] 圓藤氏 投稿者:善知鳥安方 [追加希望] 投稿日:2001/02/16(Fri) 12:32

>圓藤さん

徳島の県知事がそんな苗字だったような…。
西国の方に多いいんですかね…?


[443] エンドウ氏 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/15(Thu) 10:57

エンフジ氏なんて書きましたが
昔の円という字<国構え+員>のエン藤氏さんとおっしゃる
珍しい人が周りにいらっしゃいます。

この名字について何かご存じの方はいらっしゃいますか?

服部さん、こんにちは。

「円藤」さんも遠藤氏に通じているのかもしれないですね(^^;


[442] 全国遠藤氏 投稿者:杉本 [丸に梶葉] 投稿日:2001/02/15(Thu) 09:38

 仙台にも遠藤氏がいますね・・
私の友人に母方に遠藤姓の人がいるのですが、遠藤家と清和源氏新田家とは姻戚関係にあり、その遠藤家は清和源氏新田家一門の家格を許されたとの事です。
 
 ここまで来ると千葉氏と関係ない部分かもしれませんが、東北には千葉氏の一門が多いので何か関係あるのかも・・
 葛西家の家臣 柏山なども・・

 全国の遠藤氏は北面の武士 藤原氏(文覚)の末裔と聞こえますが、どなたか新田家流遠藤家についてご存知の方いらっしゃらないでしょうか・・(ぼそっ)

 すみません。番外編もいいとこで

 確かに東常縁は遠藤家とのつながりはよくしられるので、そうなのでしょうか・・『クロニック戦国全史』という歴史辞典にもチラッと載っていた気がします。

杉本さん、こんにちは。

 仙台の遠藤家からは、宿老になった一家がありました。伊達家ゆかりの一族出身の遠藤基信ですね。

 東家ゆかりの遠藤家としては、明徳3(1392)年に相国寺供養に東師氏に随っている遠藤修理亮顕基ら一族四人がいました。

 延徳3(1491)年、東家に謀反を企てた遠藤但馬守・遠藤修理亮の二人が謀叛の疑いで討たれています(何の本で見たか探しています)。この「遠藤修理亮」とは、相国寺供養に随った顕基の末裔なのかもしれません。また、同じく「遠藤但馬守」とは、時代的に『美濃明細記』の「遠藤但馬守盛胤」であるのかもしれません。そういえば、仙台の遠藤基信も「基」という字を持っていますね(^^;ただし、仙台藩宿老遠藤氏の通字は「信」のようですので、この点では関係はないのかもしれないですね。

 師氏の代(遠藤修理亮顕基ら)から常和の代(遠藤越中守基保)に至るまで、通字を「基」とする遠藤氏があったように思います。また一方で、通字を「盛」とする遠藤氏もいたのではないかとも考えています。この「盛」とする一族は、『美濃明細記』で見る限りなのですが「但馬守」「左馬助」といった、郡上藩主・遠藤家が任官する官途名を用いていますので、何らかの関係にあったのかもと考えております。

 また、遠藤盛数と東常慶・常堯の争いなどについて、東常慶の三百回忌の年月などと考え合わせ、いろいろと考えてみました。


[441] 美濃遠藤氏について 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/14(Wed) 23:42

『美濃明細記』(『大日本史料』に収録)によれば、

遠藤持盛―――盛隆―――――――――――――盛胤
 小太郎     持氏に仕える           小太郎
 但馬守     持氏亡き後、義政に仕える     但馬守
 号周勝伯    美濃に所領を賜る         号素山

 これによれば、美濃遠藤氏は足利持氏に仕えていたとされています。そして、「小太郎盛胤」とは、東氏系図の遠藤八郎左衛門尉盛胤と同一人物かも?号素山というのは、東素山であることを示すものか?ただし、東素山は「東素山消息」のなかで「祖父常縁」としている(ただし『群書類従』本)ことから、東常縁の孫と思われ、遠藤盛胤の号素山とは関係ないか。

 ただ、美濃遠藤氏は美濃東氏の重臣として室町時代中期からその名が現れており、別の流れの遠藤氏があったのかも?いずれにしても美濃遠藤氏は謎の深い一族です( ̄□ ̄;


[440] こんにちは!!いつもお世話になります!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/02/07(Wed) 11:38

こんにちは!!いつもお世話になります!!もうすぐ3連休なので、私達も家族3人で、広島県の宮島(厳島神社)に2/10・11と一泊二日で行く予定にしております!!平家納経を見て、田路家の系図の血の濃い所の人物全員について分かるように、お願いしたいです!!

d−ffさんには、プロとかいって頂きまして嬉しいのですが、プロは、法印さん(主人・孝尚さん{お寺読みでこうしょうで祖父と同じ読み方!!})です!!私は、大日如来命のお寺の子供です!!でも32才!!今年、私は数えの33才で女の厄年の大厄で、法印さんも今年40才で数えの年で41才、大厄の前厄です!!2人そろって、先日、兵庫県柏原町の厄除八幡宮でおはらいをして頂きました!!(桓武天皇=柏原天皇で、同じ柏原がつくので有り難い!!)

私は、20才の時和歌山県橋本市で倒れ(考えると厄年)、それから?、肥大型心筋症で月に一回通院して毎朝、薬を飲むのですが、今年は、大厄なので、心配なのですが、おはらいをして頂いたので、大厄を頑張ってのりきりたいと思っております!!

d−ffさんは、薬師寺にお参りされるのですね!!TVで、玄奘三蔵の像を見ました!!平清盛と行基の像を思い出しました!!すばらしかったです!!寺院・神社・城・古墳・遺跡・考古学?・仏教・密教・宗教などは、霊験あらたかで、楽しくて興味深くて、すべてに意味があって肝心の意味を忘れない様にと思うのですが、一生勉強するつもりで、たまに旅行して、そして、暇さえあれば仏像を拝んで、趣味に没頭する生活が理想で最高なのですが!!(主婦は、料理・育児・掃除等もあるので、うまく組み合わせないとだめですよね〜・・・!!)

いっぱい書きましてすみません!!書きたい(言いたい)事が混ざって(こんがらがって)いつもごちゃごちゃした(後で読むと、私は何を言いたいんだろうという、ややこしい長い文)文になってしまいましてすみません!!

管理人さん、田路・柿屋氏情報のメールを有り難うございました!!(漢文は、難しいので雰囲気で好きなように読んだりするのですが、秀吉公から、田路右馬允(たね?)へのお礼の手紙(感状・田路家は沢山もらっておりますよね〜・・・?!)なのでしょうか・・・?!私は、分かる漢字とポイントで意味を考えていきますので全部の内容を知るにはじっくりゆっくり読まないといけないと思っております!!隠された歴史とか裏がないか・・・?!本当の歴史を本で読みながら、前に系図を読めるようにならないといけないですよ!!と博物館の学芸員さんに言われましたので、頑張って読んでみます!!(漢文は難しい!!)もしかしたらお礼の手紙では、ないかもしれないので!!(読めない時は、 管理人さん教えてくださいね!!よろしくお願い申し上げます!!)有り難うございました!!長い文章をすみません!!それでは、失礼します!!


[439] 芦名氏の三浦介 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2001/02/05(Mon) 00:34

横須賀さん、杉本さん、こんにちは。

芦名氏の三浦介について、文書がありましたので載せてみます。

 『信長公記』

 (天正九年)八月六日、会津の屋形もりたかより御音信、
 あひさう駁の御馬、奥州に而無隠希有之名馬之由候て、
 上せ進上候也、

 『当代記』
 
 (天正九年)八月六日、奥州会津の森高より馬三疋、
 蝋燭千廷進上、

 『異本塔寺長帳』
 
 九年辛己
 ・・・芦名盛隆為名代野沢地頭荒井万五郎ヲ以、信長公エ属
 可奉旨、上京、則八月六日京着、依之盛隆任三浦介、勅宣
 シテ御綸旨ヲ醍醐ノ密教院会津ニ持テ下向、仍為勅答謝礼
 又名代ニ一族金上兵庫盛備ヲ以上京ス、于時盛備ヲ任遠江守、

 『会津四家合考』
 
 為勅使御斎会御再興之段、被仰下候、即去年目出之由申上候処、
 重而被任三浦介之由、御綸旨奉拝領、於末代家之面目不過之候、
 為御祝儀、金子三十両奉進上候、宜被達叡聞之条、可得御意候、
 恐惶謹言、

   八月廿九日     三浦介盛隆
 
    万里小路殿


[438] ちょっと薬師寺へ 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/02/05(Mon) 00:09

田路さん、こんにちわ。d-ffです。
プロの方に大変失礼を致しました、申し訳ございません。
まさに、釈迦に説法でした。 @_@”
ついでなので、妙見神の本地仏は、天台宗寺門派では、吉祥天としているようですが、この前の千葉氏フォーラムでも質問した方がいらっしゃいましたが、いろいろと解釈されているようです。
なんといっても、そのまんま妙見大菩薩といわれるように、密教における星宿の中心的存在ともなっています。
是れも又、空海さんが「宿曜経」を招来したのが元のようです。
話は、替わります。最近、「薬師寺再興」寺沢龍著、草思社を読んで、薬師寺に行ってみたくなりました。小生の持病の京都・奈良に生きたい病が又うずいてきました。薬師寺には、何度か行ったことがあるのですが、改めて再興の苦心を知り再び訪れたくなりました。この連休に京都と奈良に宿を取りましたので。
もちろん空海さんの東寺も寄ってきます。ここも密教の中心道場なのですが、意外と薬師三尊像が安置されて居るんです。でも、仏像配置は、曼陀羅様式ですが。
最近、奈良の薬師寺は、平山先生の壁画の話題で、テレビでよくやっています。これも、ちょっと見たいです。
P.S.
 九曜も密教では、大事なようです。
 おじい様の背中の九曜星は、密教の星宿であったか、我らの九曜紋であったのか。勿論、後者であったと。


[437] 合戦に参加してみませんか 投稿者:田中兵部 [月星] 投稿日:2001/02/03(Sat) 16:55

戦国時代版サバイバルゲーム「戦陣」
*合戦に参加してみませんか

我々戦陣会は戦国時代の合戦をスポーツ化することに成功致しました!!
ゲーム、歴史、スポーツ等を学び遊んできてこう思ったことは有りませんか?「戦場において戦略、戦術を駆使し存分に采配を振るって軍勢を動かしてみたい.....はたまた戦場を駆け巡り剣技、槍働きによって武名を轟かせてみたい」と....この夢を実現したいと思い我々は戦陣という合戦ゲームを考え出しました。
 ではさっそく戦陣の内容をご説明したいと思います。概要としては、まず総大将を中心とした軍団を編成し、一定のエリア内(戦域)において、戦略、戦術を駆使しながら敵軍団の壊滅もしくは敵方の総大将を討ち取ることにより勝敗を決するゲームであります。そしてポイントとなる勝敗の決定方法についてですが、これは総大将、侍大将、兵卒に至る一人一人にある物を身につけさせ、これを切り落とされることで負け(討ち死に)となる方法を考案し取り入れております。この一人一人に命を持たせる事で、上記のルールは成り立ち、戦国の合戦さながらの臨場感を味わう事が可能になったのであります。
 まだまだご説明は足りませんが、この戦陣に参加して、自らの知略、武勇を試してみませんか!ご参陣頂ける事を心待ちにしておりまする!!

(参加、ご質問等のお問い合わせは下記メールアドレス、掲示板までお願い致します) 掲示板 http://www80.tcup.com/8030/senjinbbs.html
  メールアドレス senjinpost@hotmail.com


[436] 歴史総合研究連合会 投稿者:杉本将監 [丸に梶葉] 投稿日:2001/02/01(Thu) 22:25

 管理人さん、お久しぶりです。
他の皆様にホームページの紹介にあがりました。
よかったらご覧頂けたらと思います。
歴史の総合的な話題を扱う掲示板です。

 http://www64.tcup.com/6419/a1a.html


[435] 434の忘れ物!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/02/01(Thu) 12:34

行基の時代に一刀三礼の大日如来を彫った人の主語が、抜けておりました。行基です。大日如来を行基が一刀三礼で作った(彫った)です。(12行目)長い文章をすみませんでした!!


[434] d−ff様、有り難うございました!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/02/01(Thu) 12:21

d−ff様、こんにちは!!d−ffさんと服部 明子さんは管理人さんの掲示板の古くからのお友達なんだろうな〜と思っていつも見ております!!

行基作は正しいという意見に私も大賛成です!!有り難うございました!!私は、とってもとっても嬉しいです!!私も行基作は正しいと思っております!!密教は大日如来といっしょで仏教の一部と、私は思っています!!法印さんは、行基が作ったのだったら国宝だ!!と言っております!!密教については、私は、相愛短大(大阪・浄土真宗)と高野山大学社会福祉科(真言宗・2回生編入)に行きましたので、少しは、かじっているかな〜と思いきや、遊んで過した5年間なので、とっても難しいテーマだと思っているのですが・・・

私は、単純に密教は仏教の一部・ブッダの教えと思っております!!法印さんが昔、行基・法道仙人(奥谷山正法寺自性院の開基のインドの帰化僧の僧?法印さん?)などの年代を調べなさいといっていたので、何でも年代は大切できちんと調べておかなくては、と思ったのですが、仏教伝来(538年?552年?)の頃には、日本に大日経(密教?)は、仏教として仏教に含まれて、いっしょにきたのではないかな〜と想像しております!!空海が中国に行く前に久米寺で大日経を発見していたのと、正倉院文書に大日経の渡来が書いてある様子なので、行基は有名な南都六宗の僧、鑑真・行基と小学校?で習ったので、仏教伝来の頃?から、仏教(密教=大日経)が入り、自性院の事を考えると、法道仙人(純粋なインドの仏教の教えを知っている僧・正法とか自性という言葉は究極の仏教の教えの言葉と思っておりますので!!)が、大化年間に寺院を建て、そこに、行基の時代に仏教の密教の最高の中心尊格の大日如来を一刀三礼で作った。その後、空海は、久米寺で最高の教え大日経を発見して遣唐使に志願した・・・?そしてマンダラを持って帰って、真言宗(仏教・密教)の開祖になった!!

d−ffさんの書かれているとおり、密教は空海以前に伝来していると思います!!私も行基の頃には仏教に含まれて伝来していると思います!!ただ、行基は、仏教(南都六宗)?で、空海は、それを参考に真言宗を作ったと、どちらも大日如来を知っていると思います!!空海は、小さな山寺にある小さなお堂の大日如来の像を見た(自性院の大日如来?もしそうなら、歴史の大ロマンで、有り難いです!!)と本で読んだ覚えがあります!!夢でしょうか?!

法道仙人・行基・空海そして、世界中の僧侶・法印さんはお釈迦様(ブッダ)の教えを崇拝して大切にしてひろめたいなどの色々な考えの中で、仏教(密教・大日如来)を大切に平和・幸せのために頑張られて、今なお、頑張っておられるのだと思っております!!お釈迦様を崇拝している事が共通点!!そして、お釈迦様の教えは、大蔵経(一切経)で、お経全部で、大日経はその中の一部と私は、思っているので、仏教の中の密教・大日経は、大日如来を中心尊格にした尊いすばらしい平和な愛のある最高の教えと思っております!!(家の自性院の本尊は、大日如来{胎蔵界}なので、切っても切れない私の運命!!)仏教のお経や大乗仏典(お経の訳?)には、お釈迦様の尊い教えが哲学のように(私には、難しい言葉で・・・)大乗仏典を読んでも書いてあるのですが、尊い大切なすばらしい教え!!と信じております!!

仏教が伝わり、行基は、大日経の大日如来を知っていて、その頃から、密教も仏教に含まれて伝わっていた!!その後、空海は、大日如来=太陽=真言(密教)宗の開祖になった!!密教は、本当は、行基の時代に仏教で伝わっていた気がします!!そして、行基も大日如来の大切さすばらしさ教えの尊さを知っていたと、空海は、それを参考(知っていて)仏教の教えの中の(しんの教え=密教)大日如来を崇拝して真言宗の開祖になった!!(仏教=仏典で1つになったらいいのに宗派・経典が細かく枝別れしていたりして、でも、寺院・檀家さん等は、お釈迦様(空海・行基・法道仙人など)を崇拝していることは、確実ですよね!!

私の祖父(父の父)は、清と言う名前で弘照という法印さんの名前が有り、兵庫県城崎郡日高町の観音寺を一代で起こしたらしいのですが?、本尊は十一面観音で、素朴でかわいらしい美しい仏像です!!妙見=十一面観音?みたいなのですが・・・?!弘照おじいさんは、田路家の桓武天皇葛原親王の系図を持って、九曜星の羽織?を着て十一面観音を信仰していたみたいなので、すごいな〜と、尊敬するのですが、 管理人さんにまたまた質問で、妙見=十一面観音は本当でしょうか?!いつもお世話になります!!いつもお聞きしたいと思いつつ、つい忘れてしまいまして、お忙しい所すみません、是非、教えてください(亀のイラストと共になんて書くとおこられそうなのですが)。よろしくお願い申し上げます!!


[433] RE:椎名系図について 投稿者:荒法師 [四割木瓜] 投稿日:2001/01/30(Tue) 21:42

こんばんは。
越中椎名氏に関して大変お力添えを頂いてありがとうございます。
>土曜日にちょっと図書館の方へ行って、もうすこし富山県史などを見てきたのですが、ちょっと系譜を書き換えてみました。

私のサイトに引用している系図も更新しておきました。

>「土肥二郎九郎母訴状」の中の「しいなのしん七郎とのヽはん」は、永正16(1516)年8月23日の「椎名慶胤安堵状」を指していると思うので、自分も「椎名新七郎(?)」は「椎名慶胤」であろうと思うのですが、文明19(1487)年6月7日の「奉行連署奉書」のなかにある「椎名虎松」とはいったい誰なのでしょう。。?
>椎名虎松の名が見える文書より4年ほど文明15(1483)年9月17日に「椎名」が越中から京都へ、そして河内へ移って戦死しているので、その椎名の後継者と思ったのですが。。。
>明応7(1498)年夏に畠山尚慶が椎名慶胤・神保慶宗・遊佐慶親に偏諱したとされているようなので、もしかすると椎名虎松=新七郎=慶胤なのかもしれないですね。

たしかにそう言われるとそのように思います。

>もうひとつ、「土肥二郎九郎母訴状」の中の「なかつねのとしよりしんさう」とは、「(椎名)長常の年寄新造」なのかなと思いましたが、荒法師さんはどう思われますでしょう

長常の年寄新造でよいのではないかと思います。この文面からすると、椎名長常は、椎名康胤とは別系であることが判ります。
管理人さまの系譜は的を得ているようです。

私は椎名の系譜について、千葉の椎名胤昭家は椎名小四郎系、越中に在住した椎名道山は、椎名康胤直系であるという論を持っています。サイトにアップロードしたいのですがなかなか出来ません。
 今週末に、某高級ホテル(?)に午後からチェックインして外部からの雑音をシャットアウトし、この論考をアップロードします。ご期待下さい。
ではよろしく

http://siinayasutane.hoops.ne.jp/


[432] 椎名系図所載 投稿者:荒法師 [四割木瓜] 投稿日:2001/01/28(Sun) 18:54

管理人下総さま、お久しぶりです。
千葉にお住まいの、椎名康胤の子孫、椎名胤昭家の系図の一部をホームページに所載しました。
手持ちの史料は、どんどんサイトに所載していけばよいのですが中々体が動きません。
積極的な 管理人さまがうらやましいです。
なお、系図のフォームは、管理人さまのフォームを参考にさせて頂きました。
よろしくお願い致します。

http://siinayasutane.hoops.ne.jp/


[431] 密教伝来の時期? 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/01/26(Fri) 22:06

田路さん、こんにちわ。d-ffと申します。
単純な歴史的興味からのカキコです。他意は、有りません。
管理人さん、内容が不適切でしたら削除下さい。
私が思うには、大日如来は、密教の中心的な仏様です。
密教は、空海さんが招来したもので、平安時代に成ってからです。行基さんは、奈良時代の人ですから、行基さんが、大日如来を作ったということに少し時代的な前後を感じます。
もしかして、空海さんの前に日本に密教(大日如来)を持ち込んだ人がいたのかもしれませんネ。
もしかすると、行基作は、正しくて、大日如来というのが誤って伝来されているのかも知れません。
何故かと言いますと、如来というのは、ブッダ(悟りを開いた後の)を意味します。菩薩というのは、悟りを開く前のブッダすなわち王子のころを顕します。(如来が示現した姿とも言われます。)従って、如来は、アクセサリーを付けていることはありません。菩薩は、王子様ですから、きらびやかにアクセサリーを付けています。ですから、宝冠を付けているということは、如来ではなく菩薩であるということになるように思われます。
仏教の専門家でないので、間違えているかもしれませんが。
単に歴史的な興味と仏教美術的な興味からのカキコです。 @_@


[430] 大日如来の写真を有り難うございました!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/01/25(Thu) 13:09

管理人さん、皆さん、こんにちは!!管理人さん、千葉氏一族の田路の所に自性院(家)の大日如来の写真を載せて頂きまして有り難うございました!!大勢の方に見て頂けると嬉しいです!!行基の一刀三礼の仏像(秘仏)と伝えられているので、仏像に込められている行基の心が見えるような気がするのですが(家にある写真を今、じっと見ていると・・・)宝冠?(王冠?)に菊の紋?が入っているような行基と聖武天皇は仲良しだと思うので・・・昔は、奥谷山正法寺自性院も何かの関係が有ったかもしれないですよね〜!!はっきり行基作と文化財(国宝)に登録されて欲しいのですが・・・(夢が大きすぎるでしょうか?!)お寺の事は、法印さん(主人)の仕事と母方の祖父が言いますので・・・!!でも、こんなにかわいらしい仏像を本堂の厨子に鍵をかけてしまったままなんて、私は、大日如来と同じ気持ちで今も過去も未来(これから)もいっしょにいます!! 管理人さんにお聞きしたいのですが、前に、江洲さんが書いておられた江戸時代の山梨土佐守政胤は、田路家系図で名前を捜している中の政胤と漢字は同じなのですが、家の方は、1420年?頃亡くなっていますので、結構、田路家系図の中では、新右エ門ー新右エ門と同じ名前が続いたりしますので、養子か親戚関係か、山梨土佐守政胤も桓武平氏・・・?!これから、 管理人さんのHPをすみずみまできちんと全部(自分に関係ある血筋の濃い関係の所しか見なかったので・・・!!)見て、研究したいです!!そしてそして、あと一つ 管理人さんにお聞きしたい事が、千葉氏の家紋の月星は、丸が星?で三日月が月?三日月の形がゆりかごのようで、理科で習った月に同じ形はあったかな〜とか満月の中にもう一つ小さい月か太陽か丸い星が隠して入っているような・・・形が難しいのでちょっと悩んでおります!!田路家の旗紋は月星なので、幕紋は九曜重花菱!!月星・九曜星の家紋の家は、全員、桓武天皇が先祖?!(私の父の1番目の妹さんの長男の敏君=神戸大学卒=いとこと、小3で好きになった智君=NTTと同じ読みの聡さんなので・・・中3の担任の国語の先生=福本先生の長男さんも聡君だったかな〜!!色々と個人的な事を書きましてすみません!!鈴木さんにも月星の家紋の事などお聞きしているのですが・・・!!色々書きましてすみません!!) 管理人さん、是非教えてください!!よろしくお願い申し上げます!!


[429] 三浦介 投稿者:杉本将監 [丸に梶葉] 投稿日:2001/01/24(Wed) 22:01

お久しぶりです。管理人さん。
芦名氏の三浦介は自称ですか・・・
どちらにしろ、織田信長は芦名氏の三浦介と大宝寺家の屋形号
を認めており、それまでの間は自称でしたのでしょう・・

三浦介とは頼朝が与えた称号で朝廷は絡まないものだと思いますが、本宗が滅んだら直系に近い有力支族が自称したと考えてよいのではないかと思いますが・・・
個人的に不勉強なところで何もいえませんが・・・・


[428] 「郡上一揆」という映画を知っていますか? 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/01/22(Mon) 23:04

皆様、「郡上一揆」という映画をご存じでしょうか?
江戸時代の郡上八幡を舞台にした映画です。
おそらく、遠藤氏から青山氏に替わってからの時代のことだと思うのですが。小生が夏に郡上八幡を訪れたときから、ポスターなどが貼ってありました。郡上一揆作成委員会なる独立系の映画です。小生もまだ見たわけではないんですが、ちょっと興味があります。丁度今、どこかの映画館でやっていると思います。

d-ffさん、こんにちは!

「郡上一揆」は緒方直人さんが主演されているんでしたか??たしかこの間、何かの番組で宣伝していたように記憶しています。

「古今伝授の里フィールドミュージアム」さんからリンクのご承諾がいただけましたので、ご覧くださいね(^◇^)


[427] 幕張康胤擁護論〜「三浦介」称号問題 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/01/22(Mon) 18:05

幕張康胤が千葉介家を追放し、千葉介を継承した背景には
海上氏や印東氏があると思います。この両氏は鎌倉公方の
奉公衆だった家。だとすれば、千葉一門が公方に味方する
と一番「得をする」のもこの両家。海上氏や印東氏の勢力
のほどは知りませんが、千葉一族の内紛は「下剋上」とか
一個人の野望では推量できないと思います。

あと、「三浦介」の称号問題。
会津の芦名氏は三浦道寸が滅ぼされた後、勝手に(承認なしで)
「三浦介」を称したと読んだ気がします。
記憶が不確実で申し訳ありません。ただ、三浦嫡流家に最も
血縁上近いのは芦名氏でしたから、可能性は高いと思います。
また調べたら報告いたします。


[426] 千葉氏にもっと注目しようぜ! 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/01/22(Mon) 17:53

千葉氏って、その本拠とした下総の歴史があんまりよくわかって
ないせいか(それでも上総や安房に比べりゃ断然資料が多いんです
が……)、何か関東の豪族の中でも「わり食ってる」観があります
ね。千葉氏は頼朝時代から戦国時代まで勢力を保った貴重な武家
のはずなんですが……。鎌倉公方の時代にも、下総守護のみなら
ず侍所の別当(所司?)を務めていたんですが……。
第一、九州の千葉氏が嫡流だって知ってる人も少ないし……。
最近じゃ東ノ常縁だって知らない人が多い。
これはやっぱ、戦国群雄ばかりをテーマにしたがる戦後日本人の
「ダメさ」の反映でしょうか。
でも千葉氏って幸福な一族じゃないでしょうか? 嫡流は没落し
ても、相馬藩や遠藤藩は生き残ったから。三浦氏なんかほとんど
全滅……。小山氏は鎌倉公方に狙われて衰退……。宇都宮氏も改
易に追い込まれていますし。広く繁栄したからでしょうが、まあ
幸運な一族だと思いますよ。

横須賀さん、こんにちは!

下総はじめ、関東地方の中世の歴史というのはあまり脚光を浴びず、小田原北条家が歴史にあらわれるにおよんでから、次第に見え始めますね(T_T)。たしかに東国にももっと注目して欲しい・・・と下総在住の自分は思ってしまったりします(^^;

千葉家、佐竹家、小田家、小山家、結城家、宇都宮家などは、中世当時の日本社会においては、相当実力のある家として世間に知られていたことは間違いないのですが、現代の日本人が勉強する上では、鎌倉時代なら、頼朝が幕府を築き、北条が取って代わり、さらに足利氏が政権を握る・・・織田信長が政権を奪い、秀吉が継承、家康が豊臣家を滅ぼす・・・といったようなうわべだけの流れでしか教えませんし、中身を教える時間というものもありません。オジュケンにも特に必要ないですしね(^^;実際、自分も4年前まで千葉氏について、その存在すらほとんど知りませんでした(^^;

たしかに信長や秀吉などには文献や物語も多いですから、いろいろと研究が進んでいるようです。その反面、文献の乏しい関東は目を向けられることが少ないですね。ただ、関東の中世は中央とは違って室町末期に尾張以西に現れた新興勢力に見ることのできない各家々の古来より伝えられてきた文化など、魅力的な面を多々見ることができますので、こういった点でも新興勢力の織田信長や秀吉にはあまり興味を持ちません(^^;

馬加康胤・原胤房の千葉宗家追放に印東・海上両家が関係していたとするお話についてなのですが、海上氏は禅秀の乱の直後あたりに奉公衆を辞しているとされ、永享の乱では持氏を攻め、持氏の遺児・安王らがこもる結城城をも攻めているようです。その後、京都の土岐家に厄介になっていた持氏の末子・成氏が関東へ下って関東公方となりますが、彼は海上家の所領・下野国天命を没収して印東家へ与えていますので、すでに古河公方家とは対立の関係にあったと思います。武蔵千葉介自胤が臼井城に敗れて退却したにもかかわらず、海上備中守や上総武田家が帰参したというのも、これをあらわしているのではと思いました。印東家は新田岩松家の老僧(軍師か)・松陰が記した日記にも公方の家臣として頻繁に現れてきます。

馬加康胤たちの挙兵については、自分も個人的な野望による挙兵ではないと感じています。

三浦介について、自分も調べてみることにします(^o^)


[425] 前説にも出てこなかったですね 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2001/01/22(Mon) 12:52

管理人さん、早速ありがとうございました。<@>

1月21日放映分の『北条時宗』の前説で、同列だった御家人である北条氏の下に置かれることが取り上げられていましたが、その列の中にも“千葉”は登場させてもらえてなかったですね。やはり鎌倉創世に大きく寄与した御家人千葉氏の歴史的な評価というのは現代では無いに等しいことがいやになっちゃうほど分かっちゃいましたね。(TT)
もっともちょっとこましな歴史書でも「宝治合戦で秀胤が攻め滅ぼされて有力御家人であった千葉氏も没落した」程度の書き方しかされていませんから、まさか千葉が鎌倉の初めから二流に分かれて下総は温存されていたなんて想像もされてないのでしょうね。
厳禁のたらればで申し訳ありませんが、下総と上総の千葉氏が一枚岩で三浦氏が(石橋合戦直後のように)一旦鎌倉を離れて京の前将軍を奉じて房総から捲土重来していたら宝治合戦後の鎌倉史はまた風変わりなものになったことでしょうね。逆に千葉氏自体の歴史ももっと早く終焉を迎えていたかもしれませんが、その分大きく歴史に足跡を残していたかもしれませんよ。(^^;


[424] 421の管理人さんの追加発言に賛同 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2001/01/19(Fri) 18:00

結局、馬加康胤は下総で下克上を演じた唯一の悪者にされてしまったような感じがしますね。馬加系がわずかの期間でバッタリ絶えて、結果として漁夫の利を得た岩橋千葉が執権の原氏に煽てられて下総千葉を継承したというのが実情でしょう。一番の貧乏くじを引かされたのが武蔵千葉だったのですが、自胤にあともう少しの強運があれば千葉介を名実共に奪還できたんですがねえ・・・。本当に歴史ってアイロニーに満ちたものです。

ところで、江戸時代の表を見ていて気付いたのですが、有名どころの幕臣が一軒抜けてましたね。山梨土佐守政胤の子孫綿貫夏右衛門家もご追加して差し上げてください。

江州さん、こんにちは!

たしかに、伝承では康胤は宗家を乗っ取った悪者のような書き方をされていますよね。自分も最初はそう思っていました(^^;

これはあくまで『鎌倉大草子』によるのですが、馬加康胤は原胤房による千葉城攻めには加わらず、千葉城を落ち延びた胤直らが香取郡多古城などに籠った際に、康胤がはじめて馬加城を出陣したとなっています。この康胤の協力に原胤房はよろこび、多古攻めの大将としたとされています。

「原越後守、城を請取、彼寺(土橋の東覚院)を取巻て、胤直に申付ける上臈をまねき申けるは、介殿の御事は成氏公へ御不儀にて討手被遣ける間、上の御心難計候へば不及力、若君胤宣は初より御一所に無御座、何の不儀もおはしまさず、馬加殿あはれに思召候間、いかにもして御命を助け奉り候はんと申、然共胤宣ははや十二日御切腹のよし申ければ、越後守も涙を流しける・・・(胤直一党の自刃)・・・別当東覚院死骸を集め、仏事供養をなし、無常の煙と焼上ける、原筑後守胤茂が沙汰として骨をば千葉の大日寺にをくり納、五輪石塔を立をきける、是は敵ながら普代の主なれば、かやうに吊ける事、情有と諸人感じける」

とあって、胤直は成氏に不義をはたらいたので、我々では力及ばないものの、若君の胤宣はなんの不義もないので、どのようにしてもお命を助けるよう、馬加康胤入道は命じましたが、すでに彼は自刃しており、これを聞いた胤房は涙を流して悲しんだとあります。原氏が挙兵した一因は、円城寺氏との所領争いが絡んでいるともされていますが、原氏の活躍が具体的に見えるようになるのはこの越後守胤房・筑後守胤茂あたりですし、原氏が権勢を握るようになるのは、輔胤を擁立したのちなのでは?とも考えています。ただ、原氏についてはあまり勉強しておらず詳しくないので、ちょっとわかりません(^^;

綿貫家はさっそく追加しておきました。石高三十俵(?)はあとで加筆しておきます。

前説に取り上げられた家々は、もしかしたら頼家のときの合議制政治を行った老臣十三人の家々なのかもしれません。筆頭は北条時政、そのほか北条義時などが列していますが、たしか千葉氏は入っていなかったような気がします。梶原景時追放の際には名を連ねていますが(^^;大河ドラマでも、時頼の妻の実家として、日蓮を庇護した豪族として、元寇で活躍した家としてなど取り上げてくれたらうれしいですね〜〜♪(^o^)


[423] 管理人さんへ 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/01/19(Fri) 16:35

武州千葉氏のこと、ありがとうございました。
千葉氏っていうと、どうしても下総のほうが著名(?)で
武蔵のほうはあまり本にも書かれないんですよね。
おそらく、あなたのご推察どおり、上杉氏の衰退とともに
後北条氏の精力下に組み込まれていったのでしょう。

下総千葉氏に対する考察、傾聴に値するものがあります。
千葉氏はの歴史は複雑で、イマイチよくわかんないのが
実情でしょう。原氏についても、まだまだ研究の余地が
あるように思われます。特に生実公方の実態を知るため
には原氏の研究は重要でしょう。

八田知家の末裔では、常陸西南部に勢力を伸ばした「小田氏」
「宍戸氏」が有名ですね。この両家は鎌倉時代、常陸の守護
を務めていたそうです(佐藤進一先生の「守護制度研究」)。
それ以外ですと、後に毛利氏に従った安芸の宍戸氏がこの
一族です。同国に封じられたほかの御家人ですと、土肥実平
の末裔・小早川氏がいます。ほかはちょっとわかりませんねえ。
でも頼朝が残した大きな「遺産」を感じます。
やっぱ頼朝は「頼朝公」なんですね〜。

横須賀さん、こんにちは!

武蔵千葉氏の末裔の方が記された本があるようなのですが、自分はまだ読んだことがありません。いつかぜひとも読んでみたいと思っています(^o^)

小弓の原氏については、自分はいつごろ、どのような系統で生まれた一族なのか、はっきり把握していません(^^;ページは造ってしまっていますが。。。九州千葉氏の一族で、「多古殿」と称された(と思われる)千田胤継系統と比較的近い一族であろうと推測はしています。または、平安時代末期に房総平氏より分かれた原氏の子孫なのかもしれません。

常陸の有力大名として、小田家は大きな勢力を有していましたね。彼らに仕えた椎名流野手家がありました。また、室町末期の相馬治胤や土岐治綱などは、小田家の偏諱を受けていたのかもしれないですね。安芸には宍戸、毛利、小早川、熊谷、吉川、阿曾沼家など関東発祥の御家人がかなりありますね。安芸国は平家の重要拠点であっただけに、頼朝も重要視したのでしょうかっっ??う〜ん、奥が深いですね(^◇^)


[422] no title 投稿者:染谷 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/19(Fri) 02:50

管理人さんお返事ありがとうございます。
このあいだ、伊豆の修善寺にいき、源範頼のお墓へ
いったのですが、そのときに千葉氏とはどういう
関係だったんだろうとおもっていたのです。
佐倉宗吾朗と千葉氏の関係もしらべて行こうと
おもっています。佐倉、酒々井においでのときは、
ご一報ください、ぜひ、ご案内いたします。

染谷さん、こんにちは!

修善寺はまだ行ったことはないのですが、どっっぷりと温泉に入ってみたいなぁと思っています(^◇^)

頼朝は藤原信頼を烏帽子親として元服し、その一字を受けたとされていますが、範頼はもしかしたら熱田大宮司季範が烏帽子親だったりして。。。などとふと思ってしまいました。

佐倉のことなど、今後ともよろしくおねがいいたします(^◇^)


[421] ちょっと飛ぶけど、海のこと 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/01/18(Thu) 15:01

戦国期の武州千葉氏のことは方々の本を当たってみましたが、
イマイチわかりませんねえ。太田氏や世田谷の吉良氏と並んで
今の23区部の有力な武家だったのに。最後は幕張流の千葉氏と
ともに後北条氏の配下に入って、後北条氏と運命をともにする
ことはわかってるんですが、肝腎の「それまでのこと」がよく
わからない。
話は全然飛びますが、相馬氏や武石氏が陸奥の中でも特に海
(太平洋岸)に近いほうに封ぜられたのはやっぱり「海」と
関係あるんでしょうか? 千葉氏は、海東氏に象徴されるよ
うに、東京湾サイドだけでなく太平洋岸にも海上勢力を有し
ていたと思います。だとすれば、千葉氏は海を通じて相馬氏
や武石氏と「連絡」してたのかな〜、なんて思いまして。

横須賀さん、こんにちは!

上杉政真が生まれたのは1451年ですから、1462年で12歳。
従兄弟にあたる義同もあまり年齢は変わらなかったと思いますので、
政真の叔父にあたる高救は、このころすでに成人していたと思いますよ。時高が隠遁したことによって高救が家督を継いだということでしょうか。

文明9(1477)年の長尾景春と両上杉との戦いの中で、太田道灌は江戸城に「刑部少輔并三浦介」を入れているようです。
また、相模国でも長尾勢と三浦介方が戦っているようで、「相州ニハ三浦介方数ヶ度合戦、当方骨肉候之間勿論候歟」
とあるので、この三浦介は、上杉家と骨肉の間柄ということになり、高救ということになるのでしょうか。
1516年に三浦義同・義意が討たれるまで約40年ありますし、時代的に当てはまると思いました。

芦名氏が「三浦介」を称したのは、織田信長に称号を許された芦名盛隆(??)あたりでしたか?
もしも義同が芦名の出であるとするならば、上杉家と芦名家のあいだに何らかの痕跡が残っているかもしれません。
そういえば、天海僧正も芦名家ゆかりの人物だったとか。

三浦の芦名には、東下野守常和(東常縁二男)が定住していまして、
1487年、美濃で常和の兄・頼数に古今伝授した堯恵が、その足で
三浦を訪れています。ここで堯恵は常和への古今伝授のために
数ヶ月滞在していますので、義同が堯恵、もしくは常和と接触していた
可能性はありますね。
1501年3月1日、実隆のもとに上冷泉為広の推挙を受けて、東下野守常和が
「相模国」から上洛していますので、このときもおそらく常和は芦名にいたのでしょう。

東家と三浦家という、あまり接点の見出せない家同士のことであるにも関わらず、
わざわざ「三浦導寸」が常縁門としているのも、義同と東家が何らかの接点があったという
傍証なのでは、と思いました。ただ、義同が常縁から直接歌道を学んだかというと、わかりません(T_T)

武蔵千葉氏については、千葉介守胤夫妻が東下野守常和とともに歌道に深く傾倒して、
三条西実隆と交流をもっていました。のちに武蔵千葉氏領の一つとして見える「淵江」に、
「東下総守」がいまして、彼も三条西実隆に歌を贈っています。
成田氏の配下に千葉十郎胤忠が見え(武蔵千葉氏かどうか不明)、
志村城主に千葉隠岐守信胤があったとされているように、本流のほかにも一族はあったようですね。
かつての石浜城近辺と思われる今戸神社の氏子さんに円城寺さんがおられました。
武蔵千葉氏には円城寺氏が下総から従っていますので、今でも武蔵千葉氏のなごりを見ることができます。
武蔵千葉氏も上杉家の凋落とともに衰えていってしまったんでしょうね( ̄□ ̄;

自分は、室町末期まで続いた千葉介は、馬加康胤の子孫ではないと思っています。
いうなれば佐倉方面の千葉氏・・・馬加康胤・原胤房らと同調した千葉介氏胤の曾孫にあたるとされる
岩橋輔胤が、岩橋に隣接して、しかも印幡沼の水運に恵まれる天然の要害・本佐倉城に城を築き、
子孫が代々栄えていったのでは?と考えています(^^;

相馬氏や武石氏はちょっとわからないのですが、大須賀氏は陸奥国好島庄(大須賀氏の古い領地)との
関係があったようです(^^;
海に近いところに封ぜられたのは、千葉介常胤が海道軍の大将として出陣したからかもしれませんよ。。。
同じく海道筋の大将の一人だった八田知家の子孫はどうなのでしょう???ちょっとわかりません(T_T)
ただ、千葉氏は佐倉に城を移すにあたって、印幡沼の水運というものを重視していたと思います。
印幡沼から通じる香取海沿岸には数多くの「津」があり、豪族(海上、国分、東氏ら)は
ここに寄港したりする船に関税をかけていました。
同じく、今の霞ケ浦沿岸も同様の津がたっっくさんありました。


[420] No.380&384への回答 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2001/01/18(Thu) 14:45

おひさしぶりです。
さっそくですが、1462年に「隠遁」したらしい「三浦介」は
年代的に考えると三浦時高でしょう。時高の養子となった上杉
高救は当時まだ10代でしょうし、義同道寸とは考えがたい。
三浦氏のばあい、千葉氏ほどではないでしょうが、各地に一族が
分家してましたから、そちらの可能性もありますね。
でも「三浦介」という称号の特殊性を考えると、三浦時高の
可能性が一番高いと思います。時高は1416年生まれだそうです
から、年齢的にも無理がないと思います。
あと、「陸奥入道道寸」ですが、年代的に考えておそらく三浦
義同ではないでしょう。でも「陸奥」って称はちょっと注意する
必要があると思われます。三浦義同が「陸奥守」を称したのは
事実でしょうが、当時は今も福島県会津地方に「芦名氏」が
いました。芦名氏は血統の上で最も三浦の嫡家(相模守護だった
時高の家)に近く、三浦嫡家が後北条氏に滅ぼされた後は
「三浦介」を称したそうです。
だから1462年の「陸奥入道道寸」は芦名氏であった可能性も
否定できないと思います。


[419] no title 投稿者:染谷 [月星] 投稿日:2001/01/18(Thu) 01:25

管理人さんこんにちは、猿楽場の妙見宮は本佐倉城の妙見とは
ちがいます。猿楽場の妙見は、妙胤寺の北方にありました。
それと、妙見と猿楽の関係もしりたいところ
また、源範頼と関わりのあった千葉氏のかたは
いたのでしょうか.唐突ですが、知ってらしたらおねがいします。

染谷さん、こんにちは!

妙見社についてありがとうございました!妙胤寺の北の方にあるのですか。今度行ってみます(^◇^)
秋ごろ、佐倉の方へ行く機会があったので、妙胤寺にも行こうと思ったのですが、どこだかわからず、通り過ぎてしまいました( ̄□ ̄;

 千葉介常胤や境常秀などは、範頼の軍について西へ向かったと記憶しています。頼朝も、千葉介常胤は特に大事にすることという手紙を送っています。

 周防で、九州へ渡る組と居残って留守組を決める際に、常胤が三浦義澄を推薦したのですが、義澄は留守組では功績にならないと言って拒否しようとしています。範頼はなんとか義澄を説得して、三浦を留守としましたので、常胤ら千葉一族はみな範頼軍に属していたと考えられます。


[418] 椎名系図その2 投稿者:荒法師 [四割木瓜] 投稿日:2001/01/17(Wed) 22:03

こんばんは

椎名長常についてご教示ありがとうございました。
 江戸の初期記述されたと思われる「越中四郡古城跡略記」には、椎名道山は若い時子供が無く飛騨の江馬家から養子を貰ったが、実子康胤が生まれたので跡目相続で合戦になったと言います。
もし、椎名長常が飛騨、江馬氏からの養子だったら面白いですね。
私は、人生50年で仮説を提示していますが、可能な限りの仮説を考えてみたいと思います。
http://siinayasutane.hoops.ne.jp/


[417] 越中椎名系図ありがとうございました。 投稿者:荒法師 [四割木瓜] 投稿日:2001/01/16(Tue) 22:28

管理人下総様
 越中椎名の精細な系図、「椎名康胤と松倉城」の掲示板に所載して頂いてありがとうございました。
越中の椎名系図については、多方面からの検証が必要で、とりあえず、「仮説1」を掲載しておりますが、近々に、「仮説2」を提示したいと考えております。

http://siinayasutane.hoops.ne.jp/


[416] 東氏と武蔵千葉氏 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/16(Tue) 01:15

 武蔵千葉氏は、古河公方・足利成氏と結んだ馬加陸奥守康胤と原越後守胤房らによって討たれた千葉中務胤賢入道了心を祖とし、了心の子・実胤、自胤兄弟が武蔵へ逃れたのを始まりとします。実胤は赤塚城に、自胤は石浜城に拠りました。これを助けたのが、東胤頼の血を引く東左近将監常縁でした。

 武蔵に逃れたものの、千葉実胤らは困窮しており、実胤は古河公方と手を打って下総へ帰還しようと計るのですが、これをききつけた千葉介孝胤(孝胤の「千葉介」は幕府非公認)が阻止したため、落胆した実胤は出奔して美濃国へ去っていきました。ただ、実胤は「七郎」、弟の石浜城主・千葉自胤は幕府から「千葉介」と呼ばれているので、自胤が家督だったか??

 自胤は太田道灌とともに千葉介(非公認)孝胤と武蔵国で戦い続け、東常縁も伊豆堀越の足利政知のもとで、古河公方・成氏と戦っていました。こののち、常縁と入れ替わりになるように、二男・常和が関東へ下り、相模国芦名に居を構えることとなります。

 関東では、太田道灌をはじめ木戸孝範、東常和などの歌人が多数輩出されており、京都からも多数の歌人や僧侶が旅をおこなっています。このようななか、武蔵千葉氏も歌道に深く傾倒し、自胤の嫡男・千葉介守胤は、その妻の歌とともに東常和を通じて、時の歌人公卿・三条西実隆に歌の添削の依頼をしました。
 
 その後、三条西実隆の記録に守胤の記述はありませんが、大永3(1523)年、武蔵国淵江から「東下総守胤」という人物が、実隆に和歌を贈っています。東氏の系譜の中で、この当時「下総守」を名乗る「胤」がつく人物は「東下総守尚胤」があるので、おそらく彼のことか?淵江と石浜は川を挟んですぐ近くであることから、東氏の一派は和歌を通じて武蔵千葉氏と深く関わりを持ちつづけ、ともに下総を警戒していたのかも知れません。 


[415] 有り難うございます。 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/01/15(Mon) 23:43

善知鳥安方 さん、こんにちわ。D-FFです。
RES有り難うございます。
そうですか、別人だったのですネ! ちょっとだけ、がっかり。
お言葉に甘えついでに、この掲示板の皆さんで知っている方が
いらっしゃいましたら教えてください。
現在、「正倉院学ノート」米田雄介・樫山和民編著(朝日選書)を読んでいるのですが、正倉院の宝物の中に蓋として、亀(スッポンかもしれない)のデザインに北斗七星が描かれています。
又、続日本紀にも北斗七星が浮かび上がった、亀が出現したことで、年号を霊亀と改元しています。(元正帝「氷高皇女」の即位改元)たしか、高松塚古墳にも星図が描かれていたと思います。
玄武は、たしか北を守って居たと記憶しているのですが。
このように奈良時代には、少なくとも北辰・北斗七星についての
信仰が有ったことは確かです。
そこで、質問は、妙見神と亀について何か関連するような事はないでしょうか?
妙見縁起絵巻には、玄武に乗った妙見神が描かれています。
日本での妙見信仰は、奈良時代くらいまでは、遡れるのではないかと考えたりしています。

d-ffさん、こんにちは!

善知鳥さんのおっしゃられるように、別人のようですね。
井上由美子さんは、ドラマ「きらきらひかる」の脚本もされていました。ひいきのミスチルがテーマソングやっていたので、よく見てました(^_^;


[414] no title 投稿者:御菓子司 千葉家 [月星] 投稿日:2001/01/15(Mon) 15:26

まよさん、こんにちは。
我が家の三代前のご先祖様も黒田家に仕えており、先祖調べのために、 管理人さんの紹介で最近手に入れた「福岡藩分限帳集成」に
西嶋姓の方が9名ほど、記載されています。
メルいただければ、詳しく連絡差し上げます。
千葉直胤。

http://www.chibaya.com

千葉さん、こんにちは!

去年の暮れ、白山から上野まで(その後、石浜神社まで)歩いたのですが、途中、麟祥院に立ち寄りました。ただ時間がなく、中に入ることなく先へ行ってしまったのですが、山門は威厳がありますね(^^;足利学校の山門を思い出しました。


[413] おしえてください。 投稿者:まよ。 [丸に花菱] 投稿日:2001/01/15(Mon) 13:32

福岡の黒田家に仕えていた西嶋家について知っている人がいたら教えてください。

まよ。さん、こんにちは!
このページの管理人の 管理人ともうします。

 千葉直胤さんがお持ちの『福岡藩分限帳集成』は石高や役職まできっちり載せられているようなので、かなり詳しいことがわかると思いますよ(^_^)


[412] 井上氏 投稿者:善知鳥安方 [追加希望] 投稿日:2001/01/15(Mon) 12:48

d-ffさん、はじめまして。
NHKに井上さんの簡単なプロフィールが載っていましたが、完全な脚本家で特にこれといった著作活動はされていないようです。なので、恐らくは別人かと思われます。あまりお役に立てず、申し訳ありません。


[411] だれか、教えてください。 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2001/01/14(Sun) 22:40

謹賀新世紀でございます。d-ffです。

 こちらの掲示板で伺う内容かどうか?ですが。

 大河ドラマ「北条時宗」の作者の井上由美子さんは、
私のファンの井上祐美子さんとは、同一人物or別人?
 井上祐美子さんは、中国の唐時代などテーマにフィクションを
書いていらっしゃる方なのですが?徳間書店から何冊か出しています。「長安異神伝」などなど

P.S.初詣は、近くの武蔵二宮金鑽神社(かなさな)へ行きました。更に、1/7に小学校の時のクラス会で実家へ帰り、定例の安房神社へ
ところで皆さん、”雪”大丈夫ですかノーマルタイヤのd-ffは、ここのところ毎日ドキドキしています。 @_@ :::!


[410] 406の続きなのですが・・・!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/01/11(Thu) 21:38

千葉 胤宗の子の胤良(千葉 新介)から胤清まででした!!どんな小さな情報でもいいのでよろしくお願い申し上げます!!


[409] 妙見 投稿者:染谷 [月星] 投稿日:2001/01/11(Thu) 00:42

今日やっと酒々井の猿楽場の妙見宮にいきました。
なんと山のなかにひっそりと祭られていました。

染谷さん、こんにちは!

酒々井の妙見宮とは、本佐倉城の妙見社でしょうか?本佐倉城の妙見社も、人一人がやっと通れるような細い竹薮の先にひっそりと祀られていました。


[408] 常胤像の件 投稿者:善知鳥安方 [追加希望] 投稿日:2001/01/09(Tue) 23:16

 常胤像の件なのですが、当方早とちりしていまして、あくまで「千葉常胤をイメージした」像との事でした。像の名前は確か「飛躍」だったんですが、県だか市の郷土博物館の前に設置のはずだったと思います。正月に新聞広告の折込の中に、地元の広報みたいなものがあってそれに載っていたのですが…。しかし、写真で見る限り、なかなかの騎馬武者振りでしたよ。ともかく、お騒がせして申し訳ありませんでした。
  管理人様、武石神社への小道、周りが竹薮みたいな感じで暗いので分かりにくいですね。頑張って下さい。因みに初詣は三代王神社へ行きました。

善知鳥さん、こんにちは!

武石神社のほう、頑張って探してみます。ついでに馬加城も撮ってこようかなと思っています(^_^)


[407] こちらはまだ「葵3代」 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/09(Tue) 22:04

こちらはまだ「葵3代」を放送しています。
早く「北条時宗」を見たいです。

高橋氏の「炎立つ」は見てましたが良かったので
今回も期待しています。

何年も前に福岡の元コウ防塁を何ヵ所か見に行きました。
綺麗な静かな海でした。(なのに1ヵ所はゴミが散乱してましたが)
こんな所へ蒙古が押し寄せたのか、と。

時宗ってイメージがいいですね。
兄との確執をどう描くか興味津々です。

多分こちらは2月に入ってからだと思います。

服部さん、こんにちは!

蒙古は北海道の方にも攻めよせているようです。
大陸との交流の玄関口が九州だったので、ここに攻めてきたのかもしれないですね。今度、千葉介頼胤の項目に、元寇の際の地図を舁こうかなと思っています(^_^)
実は自分は頼胤がどのあたりで戦ったのか、まだ地図上で確認していないので、具体的に知らなかったりします( ̄□ ̄;


[406] あけましておめでとうございます!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2001/01/09(Tue) 15:43

あけましておめでとうございます!!旧年中は、お世話になりました。今年もよろしくお願い申し上げます。 管理人さん、御忙しい中、メールを有り難うございました!!皆様の御健康・御多幸・御活躍をお祈り申し上げます!!12/23(去年)に法印さん(主人)と真美(子供)と3人で、鈴木さんに教えて頂いた、葛原親王の館跡と墓(お墓参り)に行ってきました。アパート・マンション・住宅か?!周りは家々で?!どちらも公園の中に?!別々にありました。山(天王山?!)が少しとおく?!に見えて閑静なとても良い場所にあり、先祖がここにいたのだと思うと、嬉しいやら淋しいやらで・・・!!5月(今年)の連休には、こちらも鈴木さんに教えて頂いた、岐阜県上宝村(葛原親王を祭神とする神社がある)と大和町(千葉一族で町おこしをしている町)に行きたいと思っております!!いつも鈴木さんには、沢山
、重要な情報を教えて頂きまして有り難うございます!!心より感謝致します!!1/2に私達家族3人も初詣に行きました。自性院は、3日にお参りして、兵庫県豊岡市の中嶋神社(田道間守が祭神?!)と京都府久美浜町の如意寺(行基開基?!自性院も正法寺の一如意坊?!なので、同じ如意がつく!!)に行きました!!この二つは、父が水ぞうがんで亡くなる(H7?!)前に連れていってくれた大切な思い出の場所です!!今年は、兵庫県朝来町の田路城址に登れたら登りたいです!!そして、妙見菩薩もお参りしたいです!!(真美の私から見た右目の白目のはし(すみ)の方に薄い小さい膜があるので、デルモイドと呼んでいるのですが・・・)私の実の父は、私の結婚式で、私と法印さんの事を「21世紀を担う若者」と言っておりましたので(ビデオを見なおさなければ・・・!!)、父のためにも先祖のためにも子供のためにも子孫のためにも今年も気合いを入れて頑張りたいと思っております!!今後とも御指導のほど、よろしくお願い申し上げます!!前々から私も教えて頂きたい(探している)人物が何人かありまして・・・田路家の系図の中にある名前(人物)で、千葉胤宗からの子孫について教えて頂きたいのですが、胤宗の子・胤良(千葉新介)、その子・忠胤、そして、延々親と子の関係で、何代も続くのですが、国?!胤(千葉小太郎)、政胤(千葉孫二郎・但洲?!福地城主)、廣胤(千葉三郎・但洲?!田路谷館ニ住ス)、豊胤(但洲か但馬?!田路谷城主・千葉三郎?!)、重胤(但馬?!田路谷城主)、寛胤(千葉四郎下総権介従五位下、母・千葉陸奥守正胤女也)、諸胤(千葉四郎大夫刑部従五位下大和守・田路谷城主)、胤和(ここから名字は、田路になったかもしれない・・・兄・胤は秀吉公感状之有と書いてあります。)、胤清について、教えて頂きたいのですが、兵庫県日高町に胤清の子の胤久の墓がありますので、千葉 胤宗から胤清まで、どんな小さい情報でもいいので、ご存知の方がありましたらお手数をおかけ致しますが、メール(tmc@mxa.nkansai.ne.jp)を下さい!! 管理人さんの掲示板であつかましく色々お聞きしましてすみません。今年こそは、田路
家の系図の中の名前、全員について(特に濃い血筋の所)調べ上げたいと思っております!!(21世紀始まったばかりなので、新年始まったばかりなので、気合だけは充分!!みなぎるパワー!!)皆様、御指導のほど、よろしくお願い申し上げます!!

田路さん、こんにちは!
年賀状ありがとうございました!(^_^)
まだB'Zのチケットはとってないですね。
今回はあきらめですっ( ̄□ ̄;
カラオケで歌いまくってきます!!(^_^)


[405] 大河ドラマ見ましたけど 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2001/01/09(Tue) 13:10

明子さん、正月からつまらない駄洒落で申し訳ありません。ついでに当日の帰りに洋菓子屋で買ったのが「ミルフィーユ」でしたが・・・。(^^;
それからご指摘の紋は確かに蜂須賀家のものです。同じものが徳島市内の城址の展示館にあるのを見ました。

大河ドラマ見ましたけど秀胤の「ひ」の字も出てこなかったですね。多分名前どころか苗字さえ出てこないかも知れないですね。原作の高橋克彦氏は「時宗」で秀胤の名前を結構頻繁に引用されてるのですが・・・。「炎立つ」でも千葉胤頼や千葉氏の動向を史実に近い形で書かれていて、ドラマでも忠実に演じられていたように記憶しているのですが、今回ばかりは相手が元寇だけに枝葉末節の描写はカットされてしまうんでしょうね。

そういえば、NHKから出ていますドラマの解説書に一遍上人が宗教者として取り上げられているのですが、伊予の豪族河野通広の子として出ておりました。
畠山重忠の像っていうのはよく雑誌で見かける髭面の偉丈夫でしょうか。それだと何となく雰囲気は出ているようにも思いますが・・・。

右に開いた月星紋もありましたか・・・。下に開いたのもどこかで用いられているかも知れませんね。W(^^;)w

江州さん、こんにちは!

こんかいの大河ドラマは時宗を主人公にして、元寇メインだと思いますので、きっと秀胤や東素暹は出てこないとは思っていましたが、やっぱり出ませんでした(T_T)

元寇のシーンで、頼胤の活躍が描かれることがあればいいですねっ。河野通有の活躍はきっと描かれると思いますよ。


[404] 蜂須賀家紋 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/09(Tue) 12:32

3つ出てます。
左卍紋
桐紋(五三の桐みたいです)
もう1つは抱き柿の葉紋みたいです。


[403] no title 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/09(Tue) 00:48

四国の愛媛県の北条市では河野通清(河野通信の父)の像を建てよう
という話があったそうですが中止になりました。

埼玉でしたか畠山重忠の像が歴史博物館にあるそうですが
中年の畠山重忠ということでイメージが。。。なんですって。

各自持ってるイメージを具現化するってのは難しいでしょうね。


[402] tunetane 投稿者:染谷 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/09(Tue) 00:10

常胤の銅像ができるんですか?
ぜひ、おしえてください。
どうでもいいことなんですが、今度の大河ドラマに
千葉氏がでてくるとおもうのですが、でてこなけりゃ
つまらないですねえ


[401] 1008円って?! 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/05(Fri) 11:09

千+葉=1008円でしたか。
一瞬分かりませんでした。
ふふふ

卍紋は蜂須賀ということでしょうね。

服部さん、こんにちは!

卍・菊などは、蜂須賀家ゆかりなのでしょうね。


[400] 謹賀新年 投稿者:夢雄 [月星] 投稿日:2001/01/04(Thu) 22:12

謹賀新年

遅くなって申し訳ないです
ちょっと、どたばたしてましたので

ただいま、仕事が忙しく手が付けれない状態です
また、暇ができましたら続きをしたいとおもってます

夢雄さん、こんにちは!

お仕事がんばってください!


[399] 千葉山安楽寺へ初詣 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2001/01/04(Thu) 13:20

掲示板にお立ち寄りの皆様、明けましておめでとうございます。
皆様にとりまして、本年からも実り多い新世紀が続きますことを心より祈念致しております。

さて、もともとの不信心者ではありますが、今年は美馬の安楽寺へ初詣に行って参りました。日中はどんよりとした曇り勝ちの天気で、少し季節風が強くて、午後からは時折きつい雨脚となる中での参拝となりました。生憎の天候のため、初詣の人も全く見かけない状況でした。

安楽寺の門前に駐車しますと、早速「赤門」と呼ばれる朱色が少し煤けた大門があり、門柱には「千葉山安楽寺」の表札が掛かり、門扉には九曜紋が白く染め抜かれていました。(この中央の門とは別に離れた位置の左右にも別に門が設えられており、欄には左から「五三の桐」、「卍」、「菊」の紋が入っていました。)客殿と称される建物には左に開いた「月星紋」が各所に配され、ここが千葉上総介由来の阿波千葉氏の総本山だと厳かに認識させられるような佇まいを示していました。

もっとも安楽寺の寺院構造がかなり規模の大きいものなので、威圧感がそう思わせるのかもしれませんが、四国内の浄土真宗80余寺の統括する寺ですから、非常な格式があったんでしょうね。等々と思うと、下総千葉に対して上総千葉の系譜を引く阿波千葉の権勢の有様も意外と大きいものだったんだなと再認識させられましたね。

この安楽寺のすぐ裏手(という表現は適切でなく申し訳ありませんが)に廻り込みますと至心山西教寺があります。こちらは慶長14年(1609)に安楽寺 第10代千葉正宗が三男の了宗を連れて隠居して建てたお寺だそうで、俗に隠居寺とも呼ばれているようです。現在は千葉正顕氏がご住職のようです。安楽寺に比べると一回り小さい寺院ですが、ご住居の方はガラス戸に左向きの月星紋が大きく左右に入った入口となっていました。
月星紋で、上向きが九州千葉、左斜め向きが下総千葉・奥州千葉、左向きが阿波千葉、というようなことで何となく特色が現れているような感じもしますね。

残念ながら、当日安楽寺のご住職千葉昭彦氏はご不在で、お目通りは叶いませんでしたが、例の大河ドラマの初頭で関係する上総千葉との関連もあって、本当に有意義な初詣になりましたよ。

それからもう一つ光暁山・智明院「林照寺」という阿波千葉氏の分家のお寺が同じ地域にあるそうですが、今回は訪問しませんでした。更に、脇町にも安楽寺の分社があり、こちらも4代前に暖簾分けされたそうですが、現在では美馬の本家が統括されているとの由でした。(2代で絶えたようです。)ちなみに、阿波千葉氏のご系譜では名前に「胤」の字が入った人がいないように思っていたのですが、ただお一人だけ「胤亮」と号された方がおられたようです。また、西教寺のご住職の系譜は「正」を通し字にされておられました。
後から知ったのですが、美馬町のホームページに寺町一覧に上記の内容を示した箇所がありました。皆さん一度アクセスされては如何でしょうか。

えっ。お賽銭はどうしたかって。ハハハッ、それは勿論。1,008円ですよ。(^o^)Y

江州さん、こんにちは!

自分は千葉神社にお参りに行ってまいりました。
以前に、鈴木佐さんから教えていただいた、千葉氏代々が眠る「千葉山」に行ったあと、宗胤寺(千葉新介宗胤墓所)、来迎寺(千葉介満胤などの墓石)、大日寺(千葉氏十六代の墓石)、そして千葉神社に行きました。かなり空気が冷たくかったのですが、かつて大日寺があった千葉神社南の公園で夜になるのを待って、ライトアップされた神社を写真に撮ってきました(^▽^)
駐車場についたころ、雪がちらついてきました!

五三桐・卍・菊は、服部さんの言われるように蜂須賀家ゆかりの家紋かもしれませんね。
千葉県東葛飾郡沼南町泉にある相馬氏ゆかりの「龍泉院」というお寺の山門には、真右に開いた月星紋と九曜紋が刻まれた瓦がありました(^▽^)


[398] はじめまして 投稿者:荒法師 [四割木瓜] 投稿日:2001/01/02(Tue) 04:34

はじめまして荒法師です。
荒法師は若輩者で、管理人様のものすごい千葉氏研究の蓄積あるとは知りませんでした。
ぜひ、荒法師のサイトにもリンクを張らせていただきたいと思います。
このサイトの野手氏の項の椎名氏の系譜ですが、千葉大系図からのものなのでしょうか。越中椎名氏の出自ですがぜひご教示賜りたくよろしく存じます。
今後ともよろしくお願い申し上げます。

http://siinayasutane.hoops.ne.jp/

荒法師さん、こんにちは!

椎名氏のついては、千葉県の中央図書館にあった
八日市場市史か匝瑳郡史(一年ほど前に読んだので、ちょっと忘れています)に記されてありました。
それから、椎名氏の末裔の方が書かれた自費出版本も一部参考にさせていただきました。史料名は次回、図書館に行ったときに書いてまいります。参考図書の方にまだ書き入れておらず、申し訳なく思っています(^^;
『千葉大系図』の系譜は、使っている(昔に書いたもの)項目もあるかもしれませんが、あまり信憑性がないため、最近の項目は『神代本千葉系図』を参考にしています。


[397] 始めまして 投稿者:神長 [月星] 投稿日:2001/01/02(Tue) 00:43

始めまして。武田(宮下さんの)の所からきました。千葉氏に関する本格派HPってすごいですね。

去年、ゼミで『中山法華経寺文書』を今年は『香取社文書』の文書読みをしてました。(←去年落とされた)

千葉氏の「妙見信仰」とか聞くと懐かしいです。興味深く読ませてもらいました。

神長さん、あけましておめでとうございます。

ゼミで『中山法華経寺文書』などを読んでらっしゃるんですか?
『香取文書』もとても気になる記述がたくさんあるので、
暇なときは図書館で探したりしています。
法華経寺には妙見社があって、今でも千葉氏とのゆかりが
残っているんだなぁと、感動しました(^▽^)


[396] 謹賀新年 投稿者:善知鳥安方 [追加希望] 投稿日:2001/01/01(Mon) 17:45

明けましておめでとう御座います。
そういえば、千葉常胤の騎馬武者像が
出来るそうですね。

本年も、宜しくお願いします。

善知鳥さん、あけましておめでとうございます。

常胤の騎馬武者像ができるんですか?
お〜、それは素晴らしいものができそうですね(^▽^)
日暮里の駅前にある太田道灌の銅像、かっこよかったですよ〜(^▽^)


[395] 謹賀新年のご挨拶 投稿者:杉本将監 [丸に梶葉] 投稿日:2001/01/01(Mon) 13:02

あけましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いします。初詣・・私は八幡宮(どこか考えていますが)にしようと思います。少し出るのが遅くなりましたが、書き込みが終わり次第行ってまいります。今年も私の掲示板の方も宜しくお願いします。どなたでも大歓迎です・・
歴史総合研究連合会
http://www64.tcup.com/6419/a1a.html

杉本さん、あけましておめでとうございます。

初詣は千葉神社に行ってまいりました。
お守りをひとつ買って、ついでにおみくじをやったところ、
「中吉」でした(^▽^)今年こそいい年になりますように、
とお願いしてきました。


[394] 謹賀新年 投稿者:御菓子司 千葉家 [月星] 投稿日:2001/01/01(Mon) 11:09

謹賀新年 !!
管理人の管理人さんはじめ掲示板の皆様
あけましておめでとうございます。

健やかに、新世紀の幕開けをお迎えのことと思います。
僕は、年末年始仕事していますが・・・・(^_^;)

初詣、そりゃ千葉神社でキマリでしょ。
今年もよろしくおねがいします。     千葉直胤。

http://www.chibaya.com

千葉さん、あけましておめでとうございます。

初詣、千葉神社に行ってまいりました(^▽^)
初詣といっても7日なのですが(^^;
ものすごい冷えていまして、駐車場についたとき、
雪がちらついてきました・・・
神社境内の「ねがい橋」「かない橋」から見る弁天様は
夜になると風情があります。


[393] 謹賀新年 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2001/01/01(Mon) 02:41

あけましておめでとうございます!

 本年もよろしくお願いいたします。

初詣はどこに行こうかなっと考え中です(^_^)


[392] no title 投稿者:龍蔵院 [ヒ・ミ・ツ♪] 投稿日:2000/12/31(Sun) 01:18

少し前に中田加賀守の家系のことでみなさまのお知恵を拝借した者ですが
このたび自伝を出しました。「魔性と神性」というタイトルで中田加賀守
のことは最初の方で触れています。ご一読いただければ嬉しいです。

またホームページを立ち上げることができました。有り難うございました。
ご意見など頂戴できたら幸せです。
http://www5b.biglobe.ne.jp/~MUMENO
です。では御礼まで。

http://www5b.biglobe.ne.jp/~MUMENO


[391] 太田道潅状写し 投稿者:HAZU [] 投稿日:2000/12/29(Fri) 22:46

 太田道潅状が載っている本の情報を某会議室に書き込みました(^^;

                 筈衛from fukushima city

HAZUさん、あけましておめでとうございます!

太田道灌状、その他についての情報、ありがとうございました!早速拝見にあちこち探してみることにします。


[390] 管理人様へ 投稿者:善知鳥安方 [追加希望] 投稿日:2000/12/29(Fri) 22:04

管理人様、レス有り難うございます〜。

武石神社、詳しい地図なら載っていると思うのですが、
本当、分かり難いと思います。県道幕八線(57号)を
八千代方面から来るとしますと、インターの武石大橋
を渡るとすぐに(最近出来た)レッカー屋が見えます。
そこからちょっと行って、右手に農協が見える辺りで
左手側の畑の方を見ますと、奥の森の手前の畑の中に
ぽつんと木が茂っている場所があり、そこが武石神社
です。いかにも「鎮守の森」といった感じですので、
捜してみて下さい。

あ、家紋は「丸に違い鷹の羽」です。それでは〜。

善知鳥安方さん、あけましておめでとうございます!

武石神社については、マ○プルに載っていました。
真蔵院から橋のしたを通るまでの間に、向かって左側に小道があってそこから武石神社へ行けるように書いてあったのですが、どうもその小道がわかりませんでした(^^;
次回、また行ってみます。


[389] また。。。 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/12/29(Fri) 20:43

またパソコンが壊れました(T_T)

コ○○○クのパソコンですが、一年の間に二回も壊れるとは・・・参りました。以前と同様、ハードディスクから変な音がするのでおかしいとは思っていましたが、いきなりフリーズしてしまいました。

作成途中の千葉氏にゆかりの城址、寺院、沼南町の城址、寺院など消えてしまいましたっ。。年末にショック!厄年は最後までたたりました(T_T)


[388] お詫び 投稿者:sadom [家紋不明] 投稿日:2000/12/29(Fri) 00:45

唐突で申し訳御座いません。
仔細は聞いていると思いますが、
私の閉鎖したHPで貴HP系図を載せていました。
申し訳御座いません。
直、基Dateファイル(1.9Mb位だったと思います)はくらのすけ屋敷さんの所にあるはずです。


[387] 倉光氏 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/12/23(Sat) 22:29

わたくしの持ってる本には「倉光氏」は伊藤博文がらみで載っています。

伊藤博文の実家「林氏」は伊予・河野氏の末で、
周防に移り毛利氏に仕えた林淡路守通起に始まるという。

通起に8人の男の子があり
林氏の他、曾和(そわ)・行納(こうの)・門田(かどた・もんた)・土井・倉光の
諸氏に分かれたという。

と出ていました。
倉光氏とはあんまりお目にかかりませんから調べるのは楽かも知れませんね。


[386] はじめまして 投稿者:フェザー [ヒ・ミ・ツ♪] 投稿日:2000/12/23(Sat) 14:17

はじめまして。
最近、祖母の荷物の整理をしていたら家系図が出てきました。
それによると、周作の兄の成道の子孫だそうです。
塚越に養子に行ってからも、その子供がまた養子に行っているため、名字かころころ変わっています。
よってかなりの傍流だと思います。
ちなみに、祖母の名字は倉光って言います。

フェザーさん、こんにちは!
当ページの管理人、 管理人と申します。

成道のご子孫ですか!剣術指南役ですね。
周作がひらいた玄武館道場跡が、神田駅近くにありますよ。。。。ただ、高校の校門の中に説明板と碑があるので、入りづらいです(^^;
ここだったのかと思うと、感慨深いですヨ(^_^)


[385] 鈴木佐さんへ 投稿者:善知鳥安方 [追加希望] 投稿日:2000/12/22(Fri) 12:19

レス有難う御座います。

眞蔵院、昔ここで住職から習字を習っておりました。
当時若かった自分は、有髪の住職に違和感を覚えた
ものです。(笑)

三代王神社も境内で蟻地獄を捕まえたり、神楽を
舞う際に投げる紅白の餅を拾いに行ったりと
今では懐かしい思い出です。現在の神主さんは
小川姓ですが、町内中本当小川姓ばかりですね。

武石神社は、今では小振りながら立派な鳥居が
設けられていますが、子供の頃は全く目立たない
存在でした。土地の人以外が見つけるのは、
困難だったでしょうね。畑のどまん中ですし。

また、いろいろと御教授下さい。では。

善知鳥さん、こんにちは!
当ページの管理人、 管理人ともうします。

夏ごろ、武石神社を探し回ったのですが、ついに発見することができませんでした(T_T)
また探します(^^;


[384] 横須賀さんへ 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/12/21(Thu) 12:57

 三浦道寸と常縁の関係についてご教示ありがとうございます。こちらは岐阜の「東氏歌道血脈伝」に常縁よりから受けた人物として「陸奥入道道寸」とありましたので、時間的なことは調査していませんでした。ただ13年間の下総遠征にかかわらず、最近出された、和泉書院の東常縁によっても何回か関東堀越に来ていますし、また常縁の末子・常和が三浦芦品の浜で寓居したことがあります。そこからの伝承の可能性も強そうですね。
 また、太田道灌との関係は、常縁との接点は文書では、1点だけ残っています。「法華三品奉納和歌?」(今資料がないので正式な名前がわかりません)
むしろ常縁の弟の正宗龍統(京都建仁寺南禅寺住職)とは親密で、江戸館建立の際の額は正宗が描いたことがきはっきりしています。
ただ残念ながら道灌が常縁より古今伝授を受けたということははっきりしていません。
 ただ常縁、関東管領上杉家、そして上杉家家宰・太田家、そして上杉の養子の三浦道寸と室町幕府の線でつながっていますので何らかの伝授が行われても不思議はありませんね。
 また、ご教授お願いします。

 鈴木さん、こんにちは!

 三浦道寸についてですが、『鎌倉大草紙』の中に、文明9(1477)年、太田道灌の指示で、上杉刑部少輔朝昌・千葉次郎自胤とともに江戸城に入った旨が記されていますね。これはどれほど信用していいのかわかりませんが、ちょっと気になりました。

 それから、木戸孝範という人物は幼少から義教に召し出されたのはどうのようないきさつからなのでしょう。。。しかし、すばらしい歌人だったのですね。


[383] 宣胤の件について 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/12/21(Thu) 12:45

畠山城さん、管理人さんへ
例の「宣胤」ですが、この出展はどこで見つけましたか?
私は国歌大観の「雲玉和歌集」から確認し、その研究家の外山先生も千葉か桃井家を推定されていました。
他に資料はございませんか。

 鈴木さん、こんにちは!

 宣胤について、自分も平宣胤という人物が連歌会に出席しているというものを見たことがなくて、非常に興味を持ちました!自分も是非見たいと思っています。

 中御門宣胤については、『実隆公記』に出てきています。権大納言従一位で、法名は浄光。大永5(1525)年11月17日に84歳で亡くなっていますから、嘉吉2(1442)年生まれということになります(『宮廷公家系図集覧』)。娘は今川氏親の妾となって、氏輝・義元らを産みました。嫡男・宣秀(権大納言従一位)の娘は、今川家の重臣・朝比奈泰就に嫁いで、朝比奈泰朝を産んでいます。泰朝は太原崇孚とともに松平家や織田家と度々争っている人物です。中御門家は駿河とは相当深いかかわりにある一族だったのですね。三条西実隆と古今伝授については、『三条西実隆と古典学』(宮川葉子氏著)に詳しく書かれています。

 常縁は文明3(1471)年正月28日から7月25日まで宗祇や大坪基清への講義に費やし、3月には宗祇に古今伝授を行っています。この古今伝授を行った場所は三島ですから、常縁はこのころ伊豆三島にいたのでしょう。宗祇に伝授したのと同じ月に、古河公方勢が三島に乱入して堀越公方をうかがっていますから、常縁はこのころ駿河の今川家のもとにあって、今川家から派遣された援軍に加わっていたのかも知れないですね。

 翌年の10月、宗祇が美濃を訪れて、12月16日から21日まで川手城内で句会が行われている事から、常縁はこのころすでに美濃へ戻っていたのでしょう。文明18(1486)年ごろに常和は三浦の芦名にいましたから、常縁と入れ替わりになっていたのかも???常縁については、文明18(1486)年7月1日、宗祇が実隆邸を訪れた際、「故藤常縁」とあるようで(まだ確認していません)、常縁は文明18年ごろに亡くなったのでしょう。

 そして、永正5(1508)年3月11日、上冷泉為広の推挙によって、「常縁息東下野守常和」が上洛して実隆の邸を訪れました。これより前の文亀元(1501)年7月11日、「氏胤」が「東左近大夫常和」から切紙伝授を受けているので、三浦道寸も常和から古今伝授されているかもしれませんね。

 上洛した常和は、一月半ほどのちの4月30日、実隆邸を訪れて、「明後日」に「下向」することを告げて、短冊を所望しています。そしてその2日後の5月2日、雨が降る中、「東下野守常和」が実隆の邸を訪れたのですが、雨のために延期する旨を告げました。その後、東国へ下ったのちも常和は実隆と連絡を取り合い、歌の添削なども頼んでいるようです。『実隆公記』をもうすこし読んでみると、下総千葉氏との何らかのかかわりも見えてくるかもしれないですね。


[382] 善知鳥さんへ 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/12/21(Thu) 12:41

こんにちは、はじめまして。善知鳥さんは「うとう」さんとお読みするんですか。青森に確か善知鳥神社ってありましたね。棟方志功も版画に描いていましたね。
さて、武石町におすみのこと、私も15年前にいって今はない茅葺き屋根の真蔵院地蔵堂とかを写真撮影してまいりました。いまとなっては貴重ですね。
三代王神社は、武石三郎胤盛の創建と伝承され、「天種子命」を祭神としているようですね。しかしながらどうも三代王の名は馬加康胤のころの名称ではないかと土地の方に伺ったことがあります。
武石氏は本流は宮城県涌谷の涌谷伊達家がこれにあたります。武石の下総系は第1次国府台合戦のころまで在城したようです。その末裔は稲毛浅間神社宮司布施家が相続したとも、猿田神社宮司家・猿田石毛家がそうだいう説があります。
でも何といっても、第1次国府台合戦で里見方として活躍したという伝承からか、里見家家臣・武石勝左右衛門が下総武石の流れと推定されます。その流れが後に富津市に移り住み、江戸期に武石の地に「武石神社」を建立することになるわけです。
なにか参考になればと思って筆をとりました。


[381] はじめまして 投稿者:善知鳥安方 [追加希望] 投稿日:2000/12/20(Wed) 12:02

はじめまして。ページの充実ぶりにただただ驚くばかりです。
当方、武石の地に住みかれこれ20数年…。それなりに郷土に
興味を持ち、過ごしてきたつもりですが、まだまだ分からない
事だらけです。三代王の名前の由来すら分かっておりません。
それにしても、地元に武石氏が一人もおられないのは寂しい
限りです。千葉○胤さんなら近くにおるようですが…。では。


[380] 古今伝授と横須賀の千葉さん 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2000/12/18(Mon) 13:28

畠山城さんへ。
「千葉宣胤」のことはどーもわかりませんねえ。鈴木佐さんの
言うように、別人との混同ではないでしょうか?
それに古今伝授は東ノ常縁から、連歌師の宗祇に継承されてお
り、そっちの系統のほうが主流になりましたから、くだんの人
物は年代的にも1500年以前なのではないでしょうか?
ちなみにあの細川首相のご先祖、細川幽斎は古今伝授の後継者
です。幽斎は常縁の遠い弟子なのですね。

鈴木佐さんへ。
三浦道寸が東ノ常縁に和歌を習っていたことですが、常縁が関東
に赴任していたのが1455〜69であることを考えると、どうも道寸
は直接には常縁から和歌を教わっていないように思われます。
道寸は従来1446年に生まれたと考えられてきましたが(新井城
合戦で死んだ時の年齢から逆算した数字)、どうもこれは道寸の
実父・上杉高救(たかひら)との混同であるようです。というの
も、道寸の伯父に当たる上杉定正が1494年に51歳で死んだとさ
れているからです(とすると、生年は1444年)。ですから、道寸
の生年は1470年前後と考えるのが妥当であると思われます。
ただ、太田道灌は常縁から和歌を習っている可能性があるので、
三浦道寸の和歌に常縁の影響があるのなら、おそらく道寸は
宗祇か道灌に和歌を教わったのでしょう。
まあ地元の人でも、
「討つ者も、討たるる者も、かわらけよ、砕けてのちは、
もとの土くれ」(まちがってるかな?)
を知ってる人はほとんどいなくなってしまいました。京浜急行
が「油壷」まで路線を延長するって話はどうなったのかな?

最後にお口汚しまでに、地元ネタを一つ。
ぼくの故郷なんですが、横須賀に京浜急行「馬堀海岸」なる駅
があり、そこには数年前まで「矢ノ津屋」という軽食堂があり
ました。そこのご主人の姓が「千葉」さんだったんですが、こ
れは千葉一族と関係あるんでしょうか? ちなみにこちらの家
は地元一番の大地主で、駅前の三階建ての豪邸に住んでます。

畠山城さん、こんにちは!

三浦氏について質問なのですが、寛正3(1462)年と思われる3月29日に「隠遁」してしまい、将軍から「早々に帰参あるべし」とされた「三浦介との」とは誰なのでしょう・・?
『続群書類従』の『御内書案』にあって気になったので、質問させていただきました。


[379] レスを頂きました(その2) 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/12/17(Sun) 11:06

風太郎さんより:


1貫=10石か? という話でしょう? 
ちょっと長くなるけど、古語辞典を転記します。

「鎌倉時代以後、武士の知行高の換算の単位。
中世には米1石を銭1貫文とするのが公定であったが、
実際には10石もの収穫のある田地の価格も1貫文であったという」

1560年は秀吉が全国統一する前で、
全国的な商業流通も確立していないから、
度量衡は領主によって少しずつ違っていたと思います。

1石のお値打ちが1貫から10分の1まで目減りした理由は古語辞書には載っていません。

でも土地の値打ちがしだいに安くなっていったと想像すれば、なんとなく話が分かりそうな気もします。

小学生用の歴史入門書(岩波書店)を読むと、
年貢を取る側が有利になるように、度量衡の単位はだんだんインフレしていく傾向はあったようです。

ちなみに、北条早雲が初めて領地をもらったときの単位が気になったことがありまして、
面積から推定して1貫=10石とすれば広すぎるので、
1貫=1石と考えました。


[378] レスを頂きました(その1) 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/12/17(Sun) 11:02

ワイワイグッチさんより:

石(こく)は体積(容量)の単位であって、10斗、100升、1000合。
貫は重量の単位で、1000匁、3.75kgとあります。

新潟県立歴史博物館のBBSで、ka 氏の情報によると、
米の場合は1合≒150g です。

従って1石は約150kg、40貫になります。

石と貫を単に体積と重量として比較する時は、比重が問題になります。

お金に関しては、難しくて、どの通貨をもとに換算したかが問題になります。
石を両に換算して、貫と比較することになると思います。

例えば、何とか通宝3.75kgが何両になるか、
その時の米1石が何両だったか
(本来は1石=1両ですが政府の都合によって、変わります)です。

小輩は縄文人ですので、特に江戸時代のお金については詳しくありません。

蛇足ですが、40年前まで靴の大きさを「文(もん)」で言っていました。
あれは、何とか通宝の直径の何倍の長さであるか、言っていたものです。

例えば、10文は何とか通宝10枚分の長さです。


[377] no title 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/12/16(Sat) 10:29

横須賀さんへ

追伸
 千葉一族ほど一致団結した一族はいませんよ。
妙見菩薩を一族の集合の精神としてもち、他国に離れたも必ず本貫地下総国を忘れない一族です。(ただ歴史はおもしろいという詞だけではないのです。妙見信仰と祖先信仰が強かったのです)
 戦国から江戸時代にかけて、福島相馬にしても、涌谷伊達家にしても、秋田の千葉一族、そして郡上遠藤家も必ず下総妙見と千葉家菩提寺に墓参していました。他の一族にはない全国ネットワークと望郷精神に強い一族だったんです。
常縁の13年の千葉遠征もまさしく、奉公衆としての役目、もあったのでしょうが先祖下総の地への思いというのも無視してはなりません、以後常縁以後遠藤家に至っても千葉と郡上は交流が続いています。今千葉と郡上も新たなる交流が始まっています。
ぜひ、ご認識ください。
 ちなみの「古今伝授の里フィールドミュージアム」のホームページをごらんください。千葉一族の興味のある方ならぜひとも、みてあげてください。千葉一族で町おこしている岐阜県郡上郡大和町のホームページです。よろしくお願いします。

鈴木さん、こんにちは!

岐阜県郡上郡大和町
http://ns.xwns.co.jp/yamato/

古今伝授の里フィールドミュージアム
http://www3.ocn.ne.jp/~kokin/index.html

無断なのですが、掲載させていただきました。


[376] no title 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/12/16(Sat) 10:19

横須賀さんへ
恐縮です。私も従来の千葉家の歴史感をみていると、太田道灌は侵略者のイメージに強かったのですが、千葉宗家にとって、これほどの人物はいないと思って、レポートを書いています。
今、太田道灌そして横須賀さんのお国の「三浦道寸義同」について和歌研究をしています。ちなみに道寸は常縁から古今伝授を受けていることを申し添えます。三浦の人はその文化性を理解されないのは本当に残念です。

さて、鎌倉公方家家臣団の研究も始めております。千葉系統と思われる「神崎」「印東」「安西」などは有名ですが、逆にその末裔については、全くわかっていません。栃木県喜連川藩足利家の家臣団を調査したところ、残念ながら、相馬はおりましたが他はいませんでした。安西に至っては安西能胤のように足利ばんなじに名をつられていますがその事績と墓所についてはわかっておりません。どうぞ、何かご存じであればご教授願います。


[375] no title 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/12/16(Sat) 10:11

畠山城さんへ
こんにちは!私は千葉県で全国にわたる千葉一族を訪ね研究しているものです。さて、私の論文で、雲玉和歌集の論文があります。もしそれをお読みいただけるならばわかると思います。
千葉日報に連載した「千葉氏探訪」に戦国期の和歌特集として
東常縁、大田道灌、原胤隆、千葉氏胤、大坪一族についてくんでみました。一度65回の連載ですが、一度読んでみてください。
千葉日報販売局043−227−0077

ちなみに千葉宣胤ですが、これは正統家嫡男・胤直の子という説もありますが、桃井宣胤と称した説もあります。しかし東宣胤とはきいたことはありません。東尚胤(素山)との違いではありませんか。
戦国期の千葉家の和歌は素晴らしいものがあります。雲玉集を介して「戦国の佐倉歌壇」が成立し、三条西実隆や宗祇・宗長・万里集九と当代きっての文人と交流した千葉一族がわかっています。なお逆にご存じであったら教えてほしいのですが「木戸家」のことです。常縁の子・常和の娘が鎌倉公方家重臣・木戸孝範に嫁ぎ、木戸忠朝、さらに木戸元斎をうみ、後に上杉謙信や上杉景勝に和歌を指南したようですが、東家と木戸家は本当に姻戚関係があったのかということです。どうぞよろしく!

鈴木さん、こんにちは!

東常和の娘が木戸氏に嫁いでいるのですか!寛正6(1465)年に堀越の政知への手紙に見える「木戸実範」の子孫になるのでしょうか?

東氏について、『永享以来御番帳』の永享年中の四番に「藤下総入道」「藤三郎」「藤民部又三郎」「藤民部兵庫助」という名前が見えました。時代的に、「藤下総入道」は「東下総入道氏数」、「藤三郎」は「東三郎元胤」ではないかと思うのですが、「民部又三郎」「民部兵庫助」はどのような関係にあったのでしょうね。「民部」を称する東氏として、文明12(1480)年ごろの走衆に「藤民部中務少輔」とありました。

文安年中には「東下総入道」らのほか、「安東遠江守」「粟飯原下総入道」「粟飯原三郎左衛門尉」も記されていたのですが、「安東遠江守」は東常縁の兄の安東遠江守氏世かなとも思いました。それから、長享元(1487)年に足利義尚が近江へ出陣した際に「東三郎」が従っていました。


[374] 東氏と古今伝授 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2000/12/15(Fri) 11:37

畠山城さま。
ぼくも中世関東史(1455〜90ころ)に興味あるため、千葉氏一族の
東ノ常縁に関心があり、先日も横浜中央図書館で「東常縁」なる
本を借りました。ぼくはまだ「ビギナー」なので詳しいことはわ
かりませんが、どうも東氏は足利幕府の「奉公衆」だったためか
京都二条流の和歌を勉強する家系だったようです。ですから、お
そらく「東宣胤」はその一流でしょう。
また、この三者はおそらく同一人物だと思われます。中世当時は
平氏の流れをくむ者は「平」と文書に書かれることが多かったか
らです。「太平記」の「平高時」=「北条高時」は有名ですね。
千葉氏は平忠常の末裔だそうですから、ちょっと堅い文書や墓碑
銘に名が書かれる際は「平」と銘記していたと思われます。

追伸:ちなみに千葉一門の歌人として一番有名なのは先の東常胤
でしょうが、彼は武人としても有能だったらしく、1455年に足利
成氏と上杉氏が争った時に関東へ下向して、千葉の幕張(馬加)城
を攻撃しています。歴史とは面白いものですね。


[373] どなたかご存じですか 投稿者:畠山城 [追加希望] 投稿日:2000/12/15(Fri) 01:18

はじめまして私も歴史愛好家です。ただいま中世の連歌を調べていまするすみませんがどなたか平 宣胤 か千葉 宣胤か東 宣胤という人物をご存じではないでしょうか?
胤という字から千葉系平氏であると思われますが誰か分かりません。おそらく1500年以降だと思います。どなたかよろしくおねがいします。

畠山城さん、こんにちは!

三条西実隆の日記や公卿の和歌会の出席者には、東氏の関係者をかなり見ることができます。それから幕府の番衆にも名を連ねています。

自分はまだ「平宣胤」「千葉宣胤」「東宣胤」という名前が記されたものを見たことがないので、よろしければ文献など教えていただければ、と思います。是非見てみたいです!宣胤について、これは藤原氏なのですが、中御門宣胤がありました。今川家とゆかりの人物です。今川家の太原崇孚も東氏と交わった一人ですが、室町時代後期に今川義忠の奥方(義元の母)になった寿桂尼は、「中御門」宣胤の娘です。宣胤の妻・朝子の従兄妹が三条西実隆、さらに朝子の姪は実隆の嫡子・公条の妻です。つまり今川義元の母と公条の妻は従兄妹同士ということになります。東素経も駿河にいたことが知られていますので、今川家と深いかかわりを持っていたと思われます。


[372] 千葉一族は関東の要石! 投稿者:横須賀 [月星] 投稿日:2000/12/13(Wed) 18:46

はじめまして。その名のとおり、横須賀出身の一歴史愛好家です。
近年、中世関東の水運史に関心があり、そのため太田道灌や
後北条氏の本を読んでいます。最近は道灌の延長線上として、
千葉一族にも関心が湧いてきました。ぼくが一番興味あるのは、
原氏と武州千葉氏(自胤流)です。
また、ぼくは鎌倉公方の奉公衆にも関心がありますので、奉公
衆だった海上氏と印東氏にも興味があります。
性急に過ぎてごめんなさい。また、メールいたします。

横須賀さん、はじめまして!
当ページの管理人、 管理人ともうします。

自胤と東氏、太田道灌、上杉家、千葉介勝胤など歌道を通じての関係は自分もとても関心をもっています(^_^)
東氏、そこから出た建仁寺の僧侶や歌人たち、公家―歌人―関東諸大名との、私的な交流はとても面白いものがありますね。
奉公衆といえば、守谷相馬氏の一族も古河公方とは奉公衆的なかかわりを持っていました。


[371] 全国の座間さん! 投稿者:越前屋嘉右衛門 [追加希望] 投稿日:2000/12/13(Wed) 00:52

NIFTY・FREKILの野火さんのHPです。

ルーツ座間(座間氏や座間市に関してのページです)
http://www.ne.jp/asahi/zama/nobi/

BBSもあります。沼南町、松戸市、柏市、丸山町、
君津市、富山町、和田町をはじめ、全国の座間さん
情報を寄せて下さいネ!!

http://www81.tcup.com/8111/ktd01704.html

横須賀さん、こんにちは!

座間氏は東葛飾郡沼南町にも名家として残っておられます。
小金高城氏領であった相模国小薗の代官の御家柄なのかもしれませんね。


[370] 1貫=10石? 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/12/12(Tue) 11:47

1560年頃は1貫=10石と読んだ記憶がありますが
正しいところをご存じの方はお知らせ下さい。

私も自分の記憶を正したいので。


[369] 「中田加賀守」 投稿者:龍蔵院 [追加希望] 投稿日:2000/12/11(Mon) 11:19

管理人様、越前屋様

「中田加賀守」について色々ご教示頂き有り難うございました。
龍蔵院です。『小田原衆所領役帳』等まだ原典に触れる機会が無いのですが皆様の情報を自分なりにまとめてみました。

「中田加賀守」
実名:不詳
生年:不明
没年:1590年(天正18年)
「小田原没落の時、加賀守は己が采邑矢上村ヘ落来り同年没せしにより、
同所保福寺へ葬れり」(『武蔵風土記』)
ポジション:
小机衆29名のひとり。
「御家中衆」に属し、小机城にあって吏僚を勤めていた人物。
「この辺(川嶋)より稲毛等をすべて郡代せし」(『武蔵風土記』)
知行、禄高: 
11貫550文 小机 川嶋
3貫870文  小机 矢上之上
計 15貫420文(これってどのくらいランクなのですか?)
家系:川島村(保土ヶ谷)の「旧家;百姓藤左衛門」から分かれ、
「村正にて、中田を氏とす」

なるほど拙家伝承の「三万石の城主」には程遠そうですね・・・
しかし戦国時代にあって上昇志向を持ち悪戦苦闘した人物が
生き生きと浮かびあがってきたように思います。
今後も何かありましたらご教示お願いします。


>ところで臼井氏系図中の「中田加賀守」って?

http://member.nifty.ne.jp/bame/usui2.htm
で見たものです。


龍蔵院(本山派修験宗)
since888


[368] RE:#363 中田加賀守 投稿者:越前屋嘉右衛門 [追加希望] 投稿日:2000/12/10(Sun) 23:20

小机衆29名のひとりである「中田加賀守」に関しては、
管理人氏の書き込みの通りデス。追加すると、

『武蔵風土記』によれば、
川島村(横浜市保土ヶ谷区)の
「旧家は百姓藤左衛門」として、村正にて、中田を氏とす、この辺より
稲毛等をすべて郡代せし、(中略)」
「小田原没落の時、加賀守は己が采邑矢上村ヘ落来り同年没せしにより、
同所保福寺へ葬れり」

↑以上、横浜市緑区誌(1993)より

です。ところで臼井氏系図中の「中田加賀守」って?


PS:当方、家紋は丸に橘です。


[367] 更新日記 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/12/10(Sun) 22:28

『本土寺過去帳』の二十七日上段に
「日保尊位 曽谷千田中務大輔 天正十七己丑四月」
とありました。曽谷と千田を領していた中務大輔。。
これは九州千葉氏の流れをくむ千田氏の末裔かもしれません・・?

曽谷氏という一族は、九州千葉氏の祖・千葉大隈守胤貞と親交があり、その後も曽谷郷(蘇谷郷:市川市曽谷)を領した有力な豪族でした。ただしその出自は不明です。

ちょうど天正期、足利義氏から千田中務大輔への官途状、ならびに子・又太郎への元服状が発給されています。

もしも、この曽谷千田中務大輔が九州千葉氏の流れをくむ千田氏であれば、千田氏は天正末期まで曽谷郷を領地の一部として有していたことになります。


[366] 嬉しいんですけど・・・ 投稿者:ふかのっち [丸に蔦柏] 投稿日:2000/12/07(Thu) 23:51

家紋を追加していただき、ありがとうございます。
でも・・・“蔦”ではなく、“蔓”なんですけど・・・
別に揚げ足を取っている訳ではないんですけれど・・・
気を悪くしたらごめんなさい。

ふかのっちさん、こんにちは!

「丸に蔓柏」紋追加いたしました。すいません(^^;


[365] みなさん、こんにちは 投稿者:杉本将監 [丸に梶葉] 投稿日:2000/12/06(Wed) 12:10

 まずは家紋追加有難うございました。田路さんも私の掲示板に書き込み頂けました事お礼申し上げます。当会掲示板は会員専用ではなく、どなたでもお書き込み頂けるもので、詳細は私の掲示板にてご説明の文を掲載しておきました。歴史や多方面にてご活躍の皆様、多くの歴史愛好者の皆様のご参加を頂けると大変嬉しく思います。
 http://www64.tcup.com/6419/a1a.html


[364] いつもお世話になります!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/12/05(Tue) 11:50

管理人さん、皆さん、こんにちは!!いつもお世話になります!!管理人さん、自性院の大日如来様の写真を(ばんばん−あつかましい言い方を許してください!!)のせてください!!いいつたえどうり”行基”なら、世界に一つのスペシャルですよね〜!!いつも 管理人さんのHPを頼ってしまいましてすみません!!国家安穏・世界平和・最高の仏様!!(大日如来はお釈迦様がまだ王子だった頃の姿をモデルにしている。と「お経がわかる本」に書いてあるので!!)かわいい大日如来(妙見菩薩も同じですよね!!)をたくさんの人に見て頂けるだけでも嬉しいです!!そして、平和の願いでいっぱいになるとお釈迦様も大喜びされると思っております!!いつもお世話になりまして有り難うございます(色々と書きましてすみませんでした!!)!!今後ともよろしくお願い申し上げます!!有り難うございました!!

http://http


[363] 中田加賀守 投稿者:龍蔵院 [追加希望] 投稿日:2000/11/30(Thu) 11:22

「中田加賀守」についてご教示頂きたくどなた様にもおねがいいたします。拙家伝承に何万石の領主とあり、荻窪白山神社あたりから新横浜駅あたりまで支配していて一向宗の襲撃により天正18年に惨殺されたなどとありますがこの年といえば小田原合戦なのですからどういう因果関係があるものなのでしょうか。第一、苗字官職で名前が伝わらないのはなぜなのでしょうか。五里霧中の中でこちら千葉氏HPで関東管領上杉氏や臼井氏との姻戚関係図に登場しているのを見て感激しました。もしやしてお詳しい方がおいでになるのではと一筆取った次第です。ゆかりの場所、古文書等ご教示頂けたら何処なりと足を運びたく思っています。

龍蔵院さん、こんにちは!

『小田原衆所領役帳』に「中田加賀守」について記されていました。実名は不明だそうですが、知行については以下の様に記されています。

一 中田加賀守

 拾壱貫五百五十文 小机 川嶋
 三貫八百七十文  小机 矢上之上

    以上 拾五貫四百弐拾文

「御家中衆」に属し、小机城にあって吏僚を勤めていた人物のようです。


[362] 歴史総合研究連合会 投稿者:杉本将監 [追加希望] 投稿日:2000/11/30(Thu) 11:17

http://www64.tcup.com/6419/a1a.html

皆様、こんにちは。どうやら各地・各家にも襲名されるお名前というものがあるものですね。私は上のアドレスに開設している掲示板で官職名風の人名や氏族関連、律令関連の事、またはその他の事をテーマに取り上げ、皆様と共に自由な書込みをしております。私の解説した掲示板にて歴史の研究会を設置してるのですが、歴史の知識を問う段位試験を設けて認定する作業や有段者に百官名という官職風の名前を称号としてご登録頂く活動をしております。この場の説明でご理解頂くのは難しいのでご興味のある方は是非、いらして下さい。
 こちらの掲示板には多くの専門家がいらっしやるとの事。私の会でこういう認定試験など行うのもおこがましい限りですが、せめてインターネットの中での価値が出ればと思います。
 認定基準も十段制として幅広くしており、段位申請論文にて認定しております。会における段位の趣旨はこのシステムで多くの交流が生まれる事です。これはこの掲示板でもいえる事かもしれません。歴史をお仕事とされてる方や、高い学位を取得しようとされてる方がいらっしゃるとの事、そういう方でもいらして頂ければと思います。また歴史が好きだという方、興味をもって頂ける方でも段位をお送りしたいと思うのですが・・・ただ掲示板にて書込み頂くだけでも結構です。どうかご参加下されればと思います。よろしくお願いします。
追加希望 丸に梶の葉

杉本さん、こんにちは!

丸に梶の葉の紋所、追加しておきましたっ。


[361] 祝40000! 投稿者:しまなみ [橘] 投稿日:2000/11/29(Wed) 06:59

 お久しぶりです。お変わりないでしょうか?
 40000件突破されたとのこと、まことに祝着至極に存じます〜m(_ _)m

 久留島藩の藩士について・・・ですが、わたしも現在修論と並行して調査中です(そんな暇あるの?って話ですが)。
 史料としては『久留島藩先祖書』が刊行されていますが、これは一部分に過ぎません。2冊の内1冊は紛失とのこと。
 そして、前回気になった輪違紋の千葉氏についても今のところ分かりません(・・;)もしかしたら、紛失された方に書かれているのかもしれませんね。
 また、夢雄さんが四国の千葉氏について追っかけてらっしゃるようですが、一応四国は私のフィールドですので、些細でも何かお力添えできれば、と思います。四国に千葉氏が所領を持っていたとは初めて聞きましたが。どのあたりのことなのでしょうか?

 しかし・・・常々思うのは(というか、修論書いてて益々思うのですが)一体、私たちは何のために「歴史」を追っかけてるのかな〜、ということです。
 それを言っちゃ・・・かもしれませんが、単に、歴史的事実を追求するだけでは何の意味もないんじゃないか?こんな事をして一体何になるのか?という疑問がいつも頭にあります。
 それは、その人々によって目的や課題が違うから、答えは一様ではないでしょう。そしてもちろん、その問いに対する自分なりの答えがないでもないのですが、それがこれから書くものに生かせるかどうか、自信はあまりありません。
 何か愚痴っぽくなってすみません。追われっぱなしで少々ブルーのしまなみでございました。謹言。

しまなみさん、こんにちは!

お久しぶりです!お祝いのお言葉、ありがとうございます〜(^_^)
千葉氏が四国に所領を持っていたかどうかはわからないのですが、
四国と千葉氏はけっこう関係が深かったようです。
阿波の粟飯原家や千葉山安楽寺の千葉常清など、歴史に名を残しています。

自分は、歴史は意味を追求するために追いかけるというようなものではないと考えています。(^^;
自分は経済出身ですから、歴史についてそこまで深く考えたことはないのです(^^;

ブルーな気持ちを乗り越えて修論がんばってください!


[360] 家臣の子孫より 投稿者:ふかのっち [追加希望] 投稿日:2000/11/28(Tue) 22:59

すみません、はじめて投稿します。
私の先祖は代々「当主は忠右衛門」と決まっていたらしく、菩提寺である持法院にお墓が多数あります。
こんな時代から深野忠右衛門がいたなんて、子孫も驚きです!
ちなみに私の伯父も忠右衛門です。

追伸:家紋に「丸に蔓柏」を入れて下さ〜い!

ふかのっちさん、こんにちは!

深野忠右衛門といえば、藤ヶ谷相馬氏の重臣ですね!
言い伝えによれば、藤ヶ谷城の南にある藤ヶ谷中上城将をつとめていたとされます。
今でも「忠右衛門」を名乗られるんですね。持法院は彼岸花の季節、ものすごいキレイですよね。紅葉もすばらしいんでしょうか?

※「丸に蔓柏」を付け足しておきました(^ー^)


[359] 掲示板アドレス 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/11/24(Fri) 10:14

 
 掲示板のアドレスは・・・・
 
 http://www64.tcup.com/6419/a1a.html

どうぞ宜しくお願いします!


[358] 武家の八介 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/11/24(Fri) 10:12

 皆様、こんにちは
田路さん、ご無沙汰してます。
 千葉家といえば武家の八介の一つですね。
秋田城介、千葉介、上総介、三浦介、井伊介、狩野介、富樫介、大内介とあり、代代、千葉介の号を伝えた家ですが、八介という総称で普段、あまり意識せずにいたので資料で再確認しなるほど納得してしまいました。また工藤介という家もありますが、八介には入らないのですね。九介になってしまいますし・・・
 関東では八という数字に因縁がありますよね。八州、八館、八平氏、八介・・・・
 どうぞ、私の掲示板にも皆様いらして下さい。
話題らしいものがありません分、ご自由にお使い頂けると思います。田路さん、またメール下さい。こちらもお送りします!
 では、また・・・

http://www64.tcup.com/6419/a1a.html


[357] こんにちは!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/11/23(Thu) 14:23

皆様、こんにちは!!いつもお世話になります!!千葉氏一族の方々は、妙見菩薩?!を信仰されている様子なのですが・・・中には、大日如来を信仰された人もおられないかな〜等思ったりするのですが・・・先日、京都国立博物館の彫刻担当浅沼?!(若い感じ!!)さんに写真で自性院の大日如来を見て頂いた所、電話で、江戸時代のものではないか?!等、おっしゃられたのですが・・・まだ、私は行基にこだわっております!!実物を見ないとわからないですよね〜!!大日如来(胎蔵)と八葉は、九曜の星の家紋と同じ気がするのですが、大日如来と系図をかかえる今日この頃・・・!!

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[356] 4万件おめでとうございます!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/11/21(Tue) 10:25

管理人様 HP4万件おめでとうございます!!これからも千葉氏と千葉氏の血族についていっぱい教えて下さい!!頑張って下さい!!応援しております!!自性院のHPは、1万件だいなので、もっと頑張らないといけません!! 管理人さんのHPで自性院のHPを紹介して頂きまして有り難うございました!!今後ともよろしくお願い申し上げます!!法印さん(主人)に頑張ってもらってたくさんの人に大日如来様を見て頂きたいです!! 失礼します!!

http://http

田路さん、こんにちは!

お祝いのお言葉、ありがとうございます!(^∇^)
自性院の大日如来様についてなのですが、いただいた写真を田路氏の項に掲載してもよろしいでしょうか?


[355] 申し訳ないです 投稿者:夢雄(HN) [月星] 投稿日:2000/11/20(Mon) 23:05

鈴木 佐様
 まだ、調べ初めて間がないので資料が無く、親戚の人たちの話を聞いているところです。
 それで、わかってきたことは系図をさかのぼるのが非常に難しくなってきたことです。
 本家(妙覚寺)が、廃寺になっているという者がいますので地図で調べようとしている最中なんでもう少しお待ち下さい
 その時に次のような話が聞けたんですが本当のことでしょうか?
 (1)四国の千葉氏は、宗家の七人兄弟の末子が四国にあった荘園を管理するために下ってきて始まった
 (2)家紋である月星の星の位置でどの家の出身かわかる
 以上の二点なんですが
  (1)は、いつの時代かわからないので非常にあやふやな話なんですが、否定するだけの資料がないです。
  (2)は、実際に本家の月星の家紋(左上)以外の位置にある家紋があるのは確認しているんですが、この星の位置で七人兄弟のどの家の子孫かわかるということなんです
 しかし、これが正しいとすると私の祖先の出がわからなくなって来るんです・・・理由は、本家と同じ家紋を使っているからです


[354] 353に追伸 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/11/18(Sat) 09:13

”千葉経胤”は、うちの系図の糸へんに一の下にくが3との下にエを書く”経胤”と同一人物でしょうか・・・?!うちの系図には、但洲田路谷城主 千葉介大夫従五位 (等) 天文四年九月但馬出石合戦二打死ス行年三十四才法名玄心とあります!!同一人物でしょうか?! 管理人さんには、前に田路家の系図のコピーを送りましたのでどうかな〜なんて思ったりします・・・!!それから、鈴木さんには、11/10に送りましたので、11/14頃にはついていると思いますので、2人に分析して頂きますと、より確実ですよね!!田路家の系図は、本物でしょうか?!

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[353] 京都でまだまだ勉強したいです!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/11/18(Sat) 08:57

皆様、おはようございます!!京都御所は、広くて閑静、瓦など全部が菊の御紋入りで、住みたくなりました!!うちに桓武天皇皇子葛原親王の系図がある!!と言うと、住めないでしょうか・・・?!庭も美しいので、毎日、公開しておいて欲しいです!!京都市考古資料館で、桓武天皇の頃の瓦や平安京の平安宮の図?!を見るともっと勉強したくなりました!!もちろん血族全員についてです!!鈴木さんに教えて頂いた京都の大山崎町・岐阜県上宝村も行きたいです!!自性院の大日如来様は京都博物館の朝沼?!さんに制作年代と製作者を調べて頂きます!!いいつたえどうり行基か?!自性院の運命の分かれ道です!!それでは失礼します!!

http://http


[352] 秋田の千葉家について 投稿者:鈴木 [月星] 投稿日:2000/11/18(Sat) 00:03

小山様  発信者 鈴木佐
失礼します。こんばんは! わたしも学生時代、秋田の千葉家を探しにいっていました。大館は通っただけですが、よく小阿仁村にはよく行きました。武石一族が結構いるところだそうですね。
秋田には千葉一族の流れが三種類あるようです。
一つは、常陸佐竹一族に従って入った千葉家。
武石家・国分家・真壁家・大和田家など佐竹家臣となった一族がこれにあたりますが、常陸以来の家臣といえましょう。
二つ目は、鎌倉期の宝治合戦以降に奥州・羽州に落ち延びた千葉家。おそらく大館の千葉秀胤も、この流れかと存じます。
三つ目は、今は秋田県に編入されましたが十和田南からバスの乗って大湯温泉。もと南部藩重臣・北松斉の末裔が領していた所ですがここも千葉一族が多いです。これも東北千葉家の中で南部藩に無事、仕えることができた一族です。
いずれにしても羽州の千葉家はこれからの課題といえましょう。


[351] 4万件ありがとうございます〜〜♪ 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/11/18(Sat) 00:00

皆様、こんにちは!

おかげさまでヒット4万件を更新いたしました!
ありがとうございましたっ(^∇^)

BIGLOBEの方が容量10MBに増えましたので、いろいろ
いじくっています。
直さなければいけない部分もあり、気がつき次第直しています。
「千葉氏が守護を勤めた国」地図もはやく直さなければっ。
千葉氏ゆかりの寺社もアップしなければっ。

これからもどうぞ当ページよろしくおねがいいたします。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[350] 讃岐千葉家について 投稿者:鈴木 [月星] 投稿日:2000/11/17(Fri) 23:56

夢雄様  発信者 鈴木 佐
こんばんは! はじめまして、わたしも千葉一族をやっています。3年前に香川県に参り、善通寺市と満濃町にいってまいりました。千葉一族の遺跡結構ありますね。満濃町高篠には、千葉家の勧請した妙見社がありました。
さて、私の調査した結果、讃岐千葉家は、美濃郡上の東氏の流れということですがいかがですか。室町幕府管領・細川高国に従軍し、細川家家臣として、和泉高市城主として、讃岐の方にもわたったとされます。
どうぞ、これが真実のようですが、何か客観的なものをお持ちdしょうか。
ご教授願います。


[349] 初めまして 投稿者:夢雄(HN) [月星] 投稿日:2000/11/17(Fri) 20:40

初めまして!!!
讃岐の千葉家の血を引くと思われる者です
初めて書き込みします
妙覚寺の住職一族に連なる家だそうです
よろしく、これからも覗きに来ますのでよろしくお願いします


[348] 三哲山について 投稿者:小山 寛 [丸に蔦] 投稿日:2000/11/17(Fri) 13:04

はじめまして。
秋田県大館市南部にある三哲山・三哲神社の名前の由来について調べていたところ、千葉秀胤という人物に行き当たり本HPを見つけました。文芸・武芸・医術に長じていたことから三哲と称せられ、氏を弔ったエゾ森という山が「三哲山」らしいです。
このHPの情報量には感嘆しています。なにかお判りでしたらぜひ教えてください。
突然で失礼とは思いますが、よろしくお願いします。

小山さん、こんにちは!はじめまして!

秋田県の千葉氏。。。もしかすると、佐竹氏に従って秋田
へ赴いた千葉氏の流れの人物、もしくは東北千葉氏の一族
なのかもしれませんね。
千葉氏のひとびとは、医学に通じている人が結構目につき
ます。千葉宗家のご子孫も医学に通じ、千葉周作の父親も
医者をしていたとされます。

秋田の大館ではありませんが、庄内藩支配の新徴組六番組
士だった千葉雄太郎長胤がありました。
父は松平大和守の家臣・千葉新六郎忠助といいました。こ
の松平大和守は川越藩主と思われますので、実際に秋田県
と関係していた千葉氏ではないですね。。

まだ情報がないので、図書館で見てみますね(^∇^)


[346] こんにちは!!いつもお世話になります!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/11/16(Thu) 14:18

管理人さん、鈴木さん、杉本さん、染谷さん、皆様こんにちは!!いつもお世話になっております!!関東八平氏 桓武天皇皇子葛原親王からの系図が家にある田路 美奈(とうじ みな)です!! 管理人さん、いつもお世話になっております!!鈴木さんには、管理人さんと同じ系図のコピーを11/10に送りましたので、11/13か14に届いた様子ですので、本当に正しい系図か、”経胤”はうちの系図の田路(谷)城城主(兵庫県朝来町田路)と同一人物か、是非、分析して解明して頂きたい(欲しい)と思っております。系図が全部、確実につながりましたら、 管理人さんと鈴木さんに朝来郡和田山町のカタシマの美味しい洋菓子(ケーキ)の詰め合わせを送りたいです!!明日(11/17)、京都御所の一般公開で御所を見に行きます!!平安時代(桓武天皇)の大極殿・朝堂院跡等も訪ねる予定です!!私の家の自性院の本堂の大日如来は行基の一刀三礼の秘仏と言い伝えがありますそちらも京都国立博物館に写真等を見て頂いて鑑定して頂きたいと思っております!!明日は、本堂の本尊さんに良く拝んでから行こうと思っております!!正しい歴史の解明と調査と本当の正しい姿(社会の姿や形)が、あらわれる日を祈って・願っています!!それでは失礼します!!

http://http

田路さん、こんにちは!

秋の京都、京都御所のご感想、お待ちしております〜♪「千葉経胤」という人物については、九州千葉氏の中にも
いたようですが、早世しているようです。


[345] 初めまして。 投稿者:えもすず@相馬弁保存会 [九曜] 投稿日:2000/11/13(Mon) 23:17

奥州相馬の地に生まれ育った者です。
歴史・国語が専門ではないのですが、
福島県相馬地方の方言についてのホームページを作っていて、
相馬の歴史を載せようかと参考になるものをさがしているうちに、ここにたどり着きました。
ここまで詳しい千葉氏と相馬氏のつながりを見ると、
千葉の方言と奥州相馬の方言が似ているのが納得できます!!
色々と参考になることばかりでした。ありがとうございました。

http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/9974

えもすずさん、こんにちは!はじめまして!

千葉と相馬の方言は似ているのですか!
方言ではありませんが、旧下総相馬郡には特殊な読み方を
する地名があって、「我孫子(あびこ)」「都部(いちぶ)」
「中峠(なかびょう)」「稲荷峠(とうかっぴょう)」
「篠籠田(しこだ)」などなどあります。
「峠」を「ひょう」と読む傾向があるようです。方言も文
化を伝える非常に重要なものですよね(^_^)


[344] no title 投稿者:鈴木 [月星] 投稿日:2000/11/11(Sat) 00:02

管理人さんへ 千葉江州さんへ、発鈴木

千葉さんは臼井の系譜なんですね。わたしも福田豊彦先生がいうとおり、千葉一族ではなくて、本当は千葉と同格な家だったんですね。
管理人さんのホームページにはまだ書いていないけれど、下館に残った忠胤のことは、最近わかってきました。常陸下館から柿岡に逃れて江戸の末期に江戸にでています。
この系統が法務大臣を歴任された臼井日出夫代議士につながります。
系図はもっているのですが、プライベートな関係で手に入れましたので正式に許可を得ないとちょっと難しいです。でも時間の問題ですので大丈夫でしょう。

また良胤の系統が関西に行っているとははじめて知りました。?!

さて下総千葉家を継承した千葉直重の件については、阿波藩の分限帳で調査しました。北条直重ででていました。しかし子は養子で北条から大石、と名をかえ3代目からは伊勢と名乗りました。
調査するとむなしくなります・・・。千葉さんも調査するといいですがむなしくなりますよ。
直重一代で血は絶えます。また千葉邦胤の息女は阿波にはわたっていないようです。

徳島県立博物館の人文課で調査を依頼しておきました。家臣団の調査は現在していませんので詳細は徳島大学文学部に阿波藩の資料があるのでそこで調査するとでてくるという話です。直重の墓所は市内にあるそうですが、徳島大学の資料をみないとわからないそうです。一応報告します。

 鈴木さん

 こんにちは!千葉直重は徳島藩の分限帳に出ているので
すか!大石氏⇒伊勢氏となった。。伊勢氏にもどったわけ
ですか。自分も調べてみましょう。

「江戸時代の千葉一族」というタイトルで、ひとつページ
を追加してみました。鈴木さんから教えていただいた情報
も入れさせていただいています。
「千葉一族の一覧」から入れるようになっております。

安中藩のなかに、「下総同心」として「白井」「真行寺」
「栗原」「斎藤」「鑓田」氏がありまして、こちらも追加
いたしました。栗原氏は粟飯原かもしれないですね。


[343] 染谷さんに 投稿者:鈴木 [月星] 投稿日:2000/11/10(Fri) 01:19

染谷様 夜分すみません。千葉経胤のことですね。時代はいつのことでしょうか。
もし鎌倉初期であれば、常胤のことですね。「鏑矢伊勢宮方記」に経繁(常重)が先祖のことを書いていますが代々常を経という字をしようしています。また恒という字もつかっています。
常を使い出したのは常という発音が中国では「妙見の旗」を意味するそうです。それを意識したのかわかりませんが経と常は同じではないでしょうか。
 なお、酒々井町には日蓮宗・経胤寺があります。常胤の開基と印旛郡誌にはでているようですが調査団が入ったところ、常胤の供養塔は現存していないことがわかっています。
 千葉家ゆかりの作家ですか。椎名誠さんも一人ですね。彼は千葉の幕張の育ちです。椎名千葉家のながれとお聞きしています。
 故人では、千葉家旧臣では伊藤左千夫もその流れらしいです。
不思議にも武蔵千葉家の菩提寺・普問院に葬られています。
 作家だけでなく執筆家・新聞記者まで開くともっとでてくるのですがね・・・?例えば、日本経済新聞社長をつとめた円城寺次郎さんも千葉の庶流の円城寺で成田のご出身です。
 また何かわかりましたら、連絡します。


[342] no title 投稿者:染谷 [丸に並矢] 投稿日:2000/11/09(Thu) 03:54

どなたか、千葉経胤についてご存知のかた
メールください。
それと、千葉氏に関係した、作家をごぞんじのかた。


[341] 星宮神社 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/11/09(Thu) 00:52

http://www.fureai.or.jp/~kyoji-m/bbs2/dengonn.htm

千葉隆典さま:

こちらでは初めまして。
星宮神社もいろいろな系統があるのでございますねぇ。

上記のURLを開催なさっている「そんちょ^ー^さん」お撮りの星宮神社の写真は
実に不思議な写真でございます。
この千葉氏のHPにもリンクさなっていらっしゃいます。

写真を捜してみましたが、どこにあるのか見つからなくて、掲示板のご紹介をさせて頂きました。


[340] いま卒論書いています。 投稿者:よしだたまみ [ヒ・ミ・ツ♪] 投稿日:2000/11/08(Wed) 21:22

はじめまして!初めて投稿いたします。と言いましてもあつかましいお願いなのですが…。
私はいま卒論で「下総地方の戦国末期」について書いてます。
もちろん中心は千葉氏のことになるわけで、後北条氏や家臣団との関係などを論点にしようと思ってます。ところが、参考にしたい文献で、学校にもない!千葉県内の図書館にもない!というものがあって困っています。『枝折』と言う雑誌で酒々井のほうで発行されているようです。(町役場に問い合わせたところ、そちらでは出していないということで、市民団体などで出しているのかと思います。)『枝折』第二編(1994年)に載っている「本土寺蔵『華龍』銘の人物をめぐって」という論文が欲しいのです。どなたかお持ちの方いらっしゃいませんでしょうか?コピーのなどでも勿論いいのです。
国会図書館などに出向けば手に入るのでしょうが、日々忙しくなかなか時間がとれません。
突然のお願いで恐縮ですが、どなたかご協力いただけたら幸いです。もしよろしければメールください。

管理者の方へ趣旨に合ってなければ削除してください。

 よしださん

 こんにちは!はじめまして。この掲示板の管理人、 管理人と申します(^∇^)
 卒論ですか!そろそろ追い込みですね。。。。『枝折』ですか。。県立中央図書館にもありませんでしたか?小冊子もけっこう置いてあったのですが、『枝折』という本はあったかどうか。。。
力になれず申し訳ないです。。。(T_T)


[339] 鈴木佐さん ついに登場! 投稿者:千葉隆典 [月星] 投稿日:2000/11/07(Tue) 20:27

鈴木佐さん 管理人さん 千葉氏研究の皆様こんにちは
久しぶりに私も書かせていただきます。
ついに鈴木佐さんのご登場となりましたね。
千葉氏史跡や妙見社を全国津々浦々、ご自分の足で長年調査研究されて来た鈴木さん。
管理人さんの膨大かつ詳細な千葉氏の情報は凄いですが、鈴木さんの実体験による情報量も凄いですね。
現在全国各地で妙見社を信仰し保存している方々や千葉一族末裔の方々などを詳しく調べ、各種シンポジュームや新聞等で発表されていらっしゃいます。
電子ツールでのご活躍をご祈念いたします。
先般は近くまでおいでいただいてお会いできず残念でした。
今度の秩父での千葉氏フォーラム楽しみにしています。

 千葉さん
 
 こんにちは!鈴木さんにも掲示板のほう、ご発言していただき非常に嬉しいです!(^∇^)自分は千葉氏という一族を知ってからまだ満3年に過ぎません。行った所といえば、相馬野馬追いだけですので、鈴木さんのお言葉は非常に参考になりますね!(^∇^)


[338] 北条時宗卿 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/11/07(Tue) 15:09

 一昨日、鎌倉まで足を運び円覚寺の贈従一位北条時公宗御廟所まで行きました。お寺に入るのに百円、御廟所に入るのに百円かかります。またお抹茶を五百円にて注文でき、お抹茶とお団子が二つ三つついてきます。私もそこでは頂かなかったのですが、どうしても食べたくなり“みのわ”というお店でお抹茶とくずきり、九百円のものを頂きました。銭洗弁天、源氏山公園から下ったとおりにあります。源氏山では頼朝公像の前で写真をパシリッ。
若宮大路へ出るとテレビで見た鎌倉ハムのお店に行列が・・・
 下で会のリンクを張るつもりが忘れたのでここに書きます。
   歴史総合研究連合会
       http://www64.tcap.com/6419/a1a.html
 律令制度研究会
       http://www64.tcap.com/6419/gat.html
 

http://www64.tcap.com/6419/a1a.html


[337] こんにちは 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/11/07(Tue) 15:00

私の掲示板にいらしていただいた方、有難うございました。
ご許可を頂いたので私の歴史サークルについて少し宣伝させて下さい。ただ今歴史の総合研究サークル結成を目指し、一部活動しております。会員制は整えておりませんが、この会をお気に召して頂いた方を会友としてお迎えします。登録は不要で、会友になる為の資格も手続きもありません。会に参加したい、というお気持ちが会友となる資格であってやめるというお断りも手続きも要りません。当会では段位制度を制定し歴史の教養の測定の意味での論文試験が課せられております。当会は法人その他の認可を受けたものではなく、あくまで趣味のサークルであり当会の認定段位も資格、検定試験の様な効力のあるものではございません。
初段から二段までは講座〔無料〕の受講、こちらから送信致しますワード文書をお読み頂いた方で修了された方には無試験で段位認定いたします〔今作成中〕、その他初段〜十段までありますが、七段まで審査対象としております。講座にて段位をとられた後、三段論試にて段位申請論文をご提出頂き、合格を目指すのも作戦ですね。初段以上の合格者には称号登録特典がございます。称号は百官名、東百官よりご登録頂き段位ごとの条件に照らしてご登録頂けます。有段者が増えております。
 段位取得者はワードでの証書の送信で無料登録を致しますが、記念に正式な証書を請求される方は手数料をお支払い頂ければこちらより発送致します。但しご自分のご住所を知られたくない方は正式証書の請求はできません。
 下に当会掲示板のリンクを張らせて頂きます。どうぞごらん下さい。

http://www64.tcap.com/6419/a1a.html


[336] 「99の謎」 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/11/07(Tue) 01:12

千葉さん:

「99の謎」は面白そうですね。
時宗って、良いイメージがありますが
なかなかの政治のうまい人のようでNHKがどう扱うのか興味があります。

「妙見信仰」と星宮神社のお話は再び出て来ましたね。
星宮神社のあの写真は撮った人も驚いていました。


[335] 北条氏ちょっとファンです。 投稿者:d-ff [追加希望] 投稿日:2000/11/07(Tue) 00:22

千葉久さん、こんにちは。D-FFです。
図書の紹介有り難う御座います。早速探してみたいと思います。
ところで、太平記では、かなり悪役の北条氏ですが、小生は、北条氏は、ちょっとファンです。歴代の執政の中では、北条氏が最も公平な政治を行ったと思います。特に北条泰時から後の何代かは、名君が続いたと思っています。よくやり玉に上がる、徳政令も決して悪政とは思っていません。結果として誰も困っていませんもの。嬉しかった人は、沢山いたでしょうけれど。
足利将軍家・徳川将軍家の執政に比べれば、北条執権は、名君ぞろいだとおもうんですが。  
ということで、「北条時宗」楽しみにしています。  @_@

P.S.田路さんへ
 山名氏は、八幡太郎義家の子どもが義国で、その子どもが、
 新田氏の義重と足利氏の義康です。
 義重の子どもが、義範(山名氏)と義俊(里見氏)と義兼(新田氏)と義季(得川 ????氏)です。
 持豊(宗全)は、義範から、11代目にあたります。
「里見義俊から11代目は、南総里見八犬伝の里見義実です。」
 迦葉山 弥勒寺は、大きな天狗のお面で有名ですね。近くに、玉原(たんばら)ラベンダーパークが有ります。


[334] お返事おくれましたっ! 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/11/06(Mon) 23:36

先日まで、友人の仕事を手伝いに、信州に出かけておりまして更新が途絶えてしまいました。
たくさんのメールも頂いておきながら、お返事差上げるのが遅くなってしまいまして、申し訳ありません!
これからお返事させていただきます(^^;


[333] no title 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/11/05(Sun) 02:19

管理人さんへ 鈴木佐
はじめて伝言板をみました。すごいですね。
本当に応援していきます。但し、わたしも千葉日報で他の研究者から「千葉氏探訪」に関して、ねちこい批判や暗闘が人を介して入ってきます。千葉県人の中には足を引っ張る方が多くてたいへんです。
でも、鎌倉国宝館もと館長の三浦勝男先生から、学者はマスターぺーションになるなの詞の通り、なんとか一般の人にみてもらうようにがんばります。
わたしも 管理人さんのホームページにこれから補正すべく部分がたくさんありますのでもし、よかったら、聞いていただけますか。
またお会いした時でもよろしくね。体に気をつけてがんばってください。

 鈴木さん

 こんにちは!先日は申し訳ありませんでした。鈴木さんの知識をぜひとも参考にさせていただきたく思います。補正する部分、訂正する部分はかなりあると思います。実際、自分でもかなりの訂正個所などみつけてはこつこつ直していっています。
いろいろな方に読んでいただけるような、目にやさしい(^^;、内容もわかりやすいページにしていきたいと、今更ながら考えています。


[332] no title 投稿者:鈴木佐 [月星] 投稿日:2000/11/05(Sun) 02:12

はじめてメール送ります。失礼します。
管理人さんには「千葉氏顕彰会」のホームページでお世話になっています。 管理人さんから田路家の話を伺いました。といっても詳細までは聞いていません。
おっと、こちらの自己紹介をします。鈴木佐といいます。県職員の傍ら、千葉一族の歴史顕彰と地域おこし交流活動をしています。
さて、今回、筆を執ったのは少しびっくりしたからなんです。
実は、兵庫県山東町は実際に調査にまいりました。山東はもと旧但馬国磯部荘ですね。しかも千葉常胤の孫・木内胤朝の承久の乱による新恩地ですね。残念ながらなにもなく磯部川を写真にとってかえりました。

しかし、山東の後、 八鹿町の妙見山日光院に参拝したとき驚きが走りました。この妙見は千葉とは関係ないと思って参拝したのですがびっくり。住職の森田先生とはなしたところ、山名家とその四天王が妙見信仰をしたことがわかりました。そして文献をみていたら、なんと四天王の一人で但馬守護代・垣屋家は千葉常胤の弟・椎名胤光の系譜をひく一族であることがわかったのです。
でも帰県してわかったのですが三浦系とか土屋系とか諸説あったり、紀州徳川家に仕えたり、はっきりせず、そのままにしていました。今回のメールをみて本当にびっくりしました。ぜひ系譜に椎名のことがかかれているのでしょうか?
もしよろしかったらメールをくださいね。

また葛原親王を尊敬していますね。とても素晴らしいー。ちなみにわたしは良文信仰の家ですので葛原親王も崇敬しています。親王の塚は京都大山崎に伝承地がありますがいかれたことはありますか。岐阜県上宝村にも葛原親王を祭神とする上宝神社もあります。我が郷土には葛原牧伝承地、葛原親王を祭神とする星宮神社、石の祠があります。
もし東京DLにいく際は、行ってください。県内はご案内しますよ。また岐阜県には郡上郡大和町という千葉一族でまちおこしをしているまちがありますのでぜひ行ってみてください。失礼します。

task@sirius.ocn.nejp


[331] 大河ドラマの時代背景解説本 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/11/04(Sat) 01:12

管理人さん、皆さんこんにちは。
来年のNHKの大河ドラマは北条時宗と蒙古襲来をテーマにしたものだそうですが、当時の時代背景や鎌倉武士の実態、宗教に付いての解説本的な本を見つけましたので紹介致します。
題名は『北条時宗と蒙古襲来99の謎』で森本繁さんという実証歴史作家の方が書かれたものでPHP文庫より出版されておりました。
当時の人々の人間くさい面や、対馬や九州での悲惨さも紹介しておりました。
興味のある方は読んでみてはいかがですか。

 千葉さん

 こんにちは!来年の大河ドラマで頼胤などは出てきますでしょうか(^^;やはり元寇の場面では少弐氏がメインとなるのでしょうか。。。
 元寇では対馬の人々がかなり犠牲となっているようで、大都に連れ去られた日本人三名ほどが、大都見物ののち対馬の戻されたような記憶があります。。元の繁栄ぶりを見せつけたいという意図があったようです。


[330] お知らせ 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/11/01(Wed) 17:34

 私も掲示板を設けました。
前述した私の会のご紹介はこちらでいたします。
また氏族や律令その他のお話はこちらにてもご参加下されればと
思います。特に段位取得希望者募集!またそれ以外にても多くのご来場お待ちいたしております。
 歴史の総合的話題はこちらで!
 歴史総合研究連合会掲示板
  http://www64.tcup.com/6419/a1a.html
 
 上の会発起人の杉本洋平が加盟団体として会内部に設けた律令・氏族関連研究会の掲示板
 律令制度研究会
http://www64.tcup.com/6419/gat.html 


[329] 田路さんへ 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/11/01(Wed) 10:17

 田路様
 
 管理人さんとはもしかしたら年代は何となく同じではないかという感覚でメール上のお付き合いをして頂いております。同じ大学ではありません。今、現役の大学生です。お知り合い?との事でしたが、直接はお会いしておらず、前述した私が作りたいという会にてご理解を頂いた事から会とは関係のない歴史まで色々お話させて頂きました。いくら 管理人さんの掲示板とはいえ、会の宣伝にしてはいけないと管理人さんが会にご理解頂いている事は欠けませんでしたが、知り合いかどうかというお尋ねでしたので、あえてお返事致します。田路さんには今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。
 今、大学の法学部にいますが大学では夫婦別氏問題に入ろうというところです。公私共に姓には係わり合いが強くなりそうです。意味合いは違ってきますが・・・

 杉本さん

 こんにちは!返事がめちゃめちゃ遅くなってしまい、申し訳ありません!
 自分はいま24歳で、大学(経済学部)を出て2年半くらい経ちました(^_^)
法学部。。。自分は「民法」でオーバーヒートしてしまいそうになってしまいました(^^;


[328] (関東八)平氏は、かわいい!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/11/01(Wed) 09:53

管理人さん、いつもお世話になります!!こんにちは!!平家滅亡は、うちのおばあさん(私の父の母)に言わせたら、「戦に負けた意味だと。」私も、そう思います。平氏から安徳天皇?!が生まれたのに、戦で追われて・・・主人(法印さん)に言わせたら私は、「平氏(平家)の死にぞこない!!」らしいです!!おもしろい一家でしょう?! 管理人さん、杉本さんメールを有り難うございました!!又、掲示板に書き込みします!!2人はお知り合い?!ですよね〜!!大学の同級生・・・?!又、書き込みします!!メールも出しますね!!

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[327] 山東町末歳は、一品か粟賀?!の間違い・・・?! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/10/27(Fri) 22:48

すみませんでした!!326の末歳は、多分、一品か粟賀です・・・!!地区の場所は、ややこしいです・・・!! 管理人さん、田路家の系譜の中の人は、宿南先生に私も教えて頂いたのですが、山名政豊の妻や久胤は山名豊久猶子(養子になったという事?!)山名氏は、足利氏が出所なのでしょうか・・・?!何だか、山名氏と、かかわりが深かった様子ですよね〜!!(余談なのですが、私は、兵庫県の生野高校に行ったのですが、大河内(町?!)から、山名君という同級生が通学していたのですが、山名宗全?!の子孫だとしたら・・・超男前で色白で、優しく明るいキップのいい、戦争しても負けそうにない、しんの強そうな、男の子でした!!山名君のイメージが良いので、山名氏もひいきしてしまいます!!)系譜の胤久・胤秀・胤房等から・・・最近までは、城崎郡日高町にお墓があります。本家の管理で、本家は、東京におられます。系譜もうちと本家と2通ある様子です!!久胤がいたなら、兄、寛?!胤もいた感じでその父、政胤も確実にいた気がします!!久胤の子供は、久経(山名五郎)その子は、久長(山名七良五郎)。そして、久経の弟の久行(山名新左衛門)の3人は、山名の名字。寛?!胤の兄の負胤は柿屋次郎で柿屋氏は宿南先生の話だと、山名氏の第一家臣ぐらいの人だと・・・この頃は、山名氏の色に染まってますよね〜!!政胤は、母柿屋と、書いてありますよね!!山名氏と親族だった!!感じです!!そしたら、田路城は、竹田城(出石城・村岡城も・・・?!)と、大の仲良しだったってことになりますよね〜!!ルンルン!!です!!殿様のお友達が、いっぱいいたら嬉しい今日この頃!!私、一回、葛原親王の発願で建てられた沼田市の迦葉山 弥勒寺にお参りしたいです!!先祖が建てたお寺!!行きたい!!見たい!!拝みたい!!私の夢の一つです!!又、遊びに来ます!!失礼します!!

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田路 さん、こんにちは!

平家は滅んだ・・・平家とは平清盛の一門一家一族をあらわしていると思うのです。平氏とは、平姓の一族を大雑把にひっくるめていうことだと思います。
「平家」であれば、1185年に実質的に力を失った。。つまりは滅亡したということになるのでしょう。

「猶子」とは、養子なのですが相続権などを重視せず、家と家との関係強化を目的としたもののようです。柿屋氏が垣屋氏であれば、山名氏の有力な重臣で、但馬国人領主の一家でした。室町時代後期の垣屋続成のころには、但馬守護代となっています(^ー^)


[326] 桓武平氏は生きている!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/10/27(Fri) 11:47

管理人さん、こんにちは!!昨日、京都府綾部市にふるさと歴史教室で、行きました!!安国寺は、古く、足利尊氏(源氏ですよね〜)の生誕地の地で、お墓があり、お参りしてきました。そして、綾部市資料館も行きました!!展示物は、とても充実していました。織田信長・豊臣秀吉の文書?!があり、いっぱいあるんだな〜と、綾部市にも仲のいい人がいたのかな〜等思ったりしました・・・!!古墳の模型等は、朝来町に真似をして作って頂きたいです!!それから・・・私市円山古墳も行きました。見事でした!!市(街)おこしです。朝来町も真似をして、見習って欲しいです!!2人の王様?!のお墓らしく頂上に登りました!!今から1500年?!前に鉄があったのかと、びっくりしました!!鉄剣・鉄ぞく?!等?!書いてありました・・・!!綾部市の帰りに、朝来郡山東町末歳
?!により、発掘をされている所を見ました!!役所か駅か神社?!のあとらしく・・・つぼが2個見えました!!(奈良時代?!)何だか、歴史の姿をはっきりと見ていきたい気持ちです!! 管理人さんに相談なのですが、どんな歴史書、教科書等も”1185,3 壇の浦の戦い 平家滅亡”と書かれがちなので、とってもショックなのですが、せめて、源氏に戦いを仕掛けられた、に、して欲しいな〜と思ったりするのですが・・・兵庫県朝来郡朝来町伊由市場に 関東八平氏の子孫の田路 美奈が生きていますので、滅亡していないと思います!!教科書は、間違っていますよね!!平家は、ほろびてなくなっていません!!関東八平氏の千葉(氏)一族を研究されている 管理人さんに意見を聞いてから、文部省のHPにメールを出そうと思っているのですが・・・!!ちょっと血が騒いで、熱く
なってしまいました!!又、書き込みしますね・・・!!

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[325] 書き忘れ 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/10/26(Thu) 12:36

あっそうそう、毛利頼隆の話をしたのはこの人物、千葉家に養われたのですよね。家紋の話は関係なかったです。急いでいて支離滅裂になりました。頼隆の話と梶の葉の紋の話をご存知の方がいらっしゃらないかお聞きしたかったのです。すみません。

杉本さん、こんにちは!

そうです、毛利頼隆は千葉介常胤に幼少の頃から育てられていたようで、、頼朝と常胤の面会の際に、いっしょに連れてきていました。ここで頼朝と頼隆が面会するのですが、このとき頼隆は、まだたしか二十代くらいだったと思います。しかし、毛利頼隆は八幡太郎義家のお孫さんなんですね!ということは、頼朝の祖父・為義とは従兄弟同士、、祖父の従兄弟が自分よりもずっと年下。。。
この毛利頼隆は無双の豪傑だったようで、宝治合戦のときに三浦氏に属して討たれてしまいました。
子孫は、千葉氏に仕えたものは押田氏になったそうで、森氏になった一族は、織田信長に仕えていた森可成、森長可、森蘭丸(乱丸?)が有名ですね。そして江戸時代に大名となった森忠政は長可・蘭丸の弟です。


[324] 二度目 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/10/26(Thu) 12:20

 家紋追加希望 丸に梶の葉です。信濃国諏訪大社大祝家と氏子が使うものです。私の先祖は毛利頼隆の血を引く家から養子にきました。母方の方の話ですが・・
 下にて研究会と段位称号の話をしましたが、段位の問題と称号一覧がお知りになりたい方はメールを下さい。


[323] 管理人さん、今日は 投稿者:杉本洋平 [追加希望] 投稿日:2000/10/26(Thu) 12:05

 管理人さん、今日は。お誘いを受けた掲示板に参加しにきました。
私は歴史の研究会を作って段位試験を設けました。
そういうものがあればいいなと思ったので・・・
作った私も今は無段位という変な状態ですが、ご興味いただける方はメール下さい。既に段位取得者もいらっしゃいます
ホームページすらできてはいませんが、賛同者募集しております。有段者には証書一応ワード形式で送信しますが、希望者はご住所を記載できる方のみ有料で本物をお贈りします。
特典は称号として百官名〔官職名のうち、官庁名か等級名のみを称す名、左京、右近、隼人、大和など〕か東百官〔架空の官職名で伊織、求馬、要人、梅干〕をご登録頂く等色々・・・
 その意味はと尋ねられると困りますが、文化の継承としておきます。または特にすばらしい方は推薦する事ができます。
 段位称号の使用例は
 山田義男という人がいたとしたら
  四段位取得→監物〔けんもつ〕号申請→
    四段位 山田監物と表記するなどペンネームにしたり、
中には屋号とした人も・・親戚が多いので屋号を作ったとの事。
 どうぞよろしくお願いします。 
 


[322] 千葉氏一族に田路の名字を出して頂きまして有り難うございます!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/10/25(Wed) 22:19

管理人さん、こんばんは(わ)!!321間違えました!!すみません!!千葉氏一族に田路の名字が出ていたので、とっても嬉しかったです!!たくさんの資料と文書(宍粟郡一宮町の田路さん所蔵・・・?!)にびっくりしております・・・!!有り難うございました!! 管理人さんの写真は、いとこの晋平君と、チェッカーズの藤井尚之君に似ています!!お友達は、役場の人に似ています!!今年は、B'ZのMixtureが、流行ったので、私もMixtureになってしまった感じです!!B'Zのツアーが、2001年もあるので、嬉しいです!!私は、神戸をねらっています!!(6/19・・・?!) 管理人さんも今年も、もちろん!!ですよね〜!!絶対、フィバーしましょうね・・・!!それでは、失礼します!!有り難うございました!!

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321番は削除しておきました(^ー^)


[320] 管理人さん、スキャナー写真、超男前ですね!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/10/23(Mon) 21:56

こんばんわのわは、わ・・・?!それとも、はでしょうか・・・?!こんばんわ?! 管理人さんは24歳?!なのにすごく、しっかりとされた顔立ちですね・・・!!いとこの晋平君と家の下の中島ラジオ店さんのやっちゃんと古田猛君に似ています!!(スキャナー写真では・・・?!)超男前なので、系譜を送った事に、安心しました!!やはり、役場の人のようなイメージが、まだあります!!HPに彼女と2ショットの写真を絶対、載せて下さい!!千葉市に千葉胤宗・胤良・忠胤・国?!胤・政胤・寛?!胤等についての詳しい資料がないかな〜等思うのですが・・・?!千葉氏の一族の方(千葉氏が、先祖の方)は、今、何人ぐらいおられるのでしょうか・・・?!今度、田路大和守の系図を見せて頂いて(前に、教育委員会の方に系図を比べて頂こうと、言っていたのですが、のびのびになっています・・・!!)、是非、田路家の系図(譜)と比べて、一致する所を知りたいです!!田路家の系譜は何%の確率で、真実でしょうか・・・?!色々と書きまして、すみません!!又、分からない事や教えて頂きたい事がありましたら、掲示板に書き込みをしたいと思っております!!よろしくお願い申し上げます!!それでは、失礼します!!

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[319] こんばんは!!いつもお世話になります!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/10/22(Sun) 22:56

掲示板にメッセージを入れるのに、少し緊張やらプレッシャーを感じる今日この頃なのですが・・・(新入りなので・・・でも、継続がちょっぴり苦手な面もあったりするのですが・・・) 管理人さんに彼女の写真を見せて下さいと、書きつつ、なななんと・・・!!●●(伏字っ)さんが、彼女ですね!!私、探偵になった気分です!!(写真を載せて下さいね!!ツーショットの!!)写真を見せて下さい!!と、前に私が、書いたりしましたので、今になると、何だか、恥ずかしいような、照れくさいような、ちょっと犬走りにつまづいたような感じがしたりする、今日この頃です!!私の母の名前も昭子(あきこ)です!!主人(法印さん)の母も昭子です!!親近感が、わいてしまいます!!素適な名前ですよね!!田路家の系譜のコピーが、 管理人さんの自宅の方に、無事に届いて、安心しました!!本当かどうかは、神のみぞ知るという感じなのですが、本当なら、田路家も千葉一族!!自分で、HPを作って、桓武平氏と売り込めばいいのですが、横着な所は、父に似たのかもしれません・・・!!(パソコンは、難しいのと、HPの作り方が、分からないので、つい、色んな人々のHPに頼ってしまいます・・・?!人の土俵で相撲を取る?!家族の写真まで送りまして、すみませんでした!!生きた千葉一族の資料になるかな〜と、思ったのですが・・・!!ちょっぴり桓武平氏を自慢してしまいました!!)千葉 胤宗から田路家が(本当に)続いてましたら、とってもとっても有り難い(嬉しい)です!! 管理人さんのHPに、田路家の関東八平氏の系譜を載せていただけましたら、有り難く、嬉しいです!!(本当かどうかが、心配なのですが・・・!!)掲示板の方にたくさんの方が、参加されているので、すごくアットホームだな〜と思っております!!そしてそして、HP開設4周年、おめでとうございます!!千葉氏の歴史的な膨大な資料の数々と、桓武天皇が出所という事を 管理人さんのHPを見るたびに、確認(再確認・再認識)しております!!江洲さん、兵庫県に是非、遊びに来て下さい!!城・古墳・文化財等いっぱいある、歴史の宝庫の県・・・!!です・・・!!それでは、又、掲示板に書き込みしたいと思っております!!それでは、失礼します・・・!!

田路さん、こんにちは!

系譜に関してメールのほう、お出ししておきました。
系譜は室町時代後期まで、掲載させていただきます(^ー^)
ありがとうございます〜〜〜〜〜♪
こんばんはの最後の部分は、「は」ですよ、おそらくっ。


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