千葉氏の掲示板過去ログ2


[318] 後白河法皇の花押を捜しています 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/10/22(Sun) 12:49

もしご存じでしたらお知らせ下さい。
よろしくお願い致します。

服部さん、こんにちは!

後白河法皇の花押。。。法皇や天皇に御判はあったのでしょうか。ハンコを用いていたのかもしれないですね。ちょっと自分はわからないので、ご存知の方、お願いいたします!

そういえば、後白河法皇の真筆と推定される『梁塵秘抄』(今様=当時の流行歌を記した本)の一部が発見されているようですよっ(^_^)


[317] 管理人さん4年目突入だね 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/10/20(Fri) 18:37

管理人さん、いつもながらナイスフォローありがとうございます。江州めの筆不精ならぬかきこ不精でお礼がいつも遅れましてあい済みません。それにしてもとっても秋らしい色合いのホームページにされましたね。

D-FFさんも京都で地震に遭遇されたとのことですが、今回の鳥取西部地震でこちらも震度5弱の大きな揺れにあってしまいました。それでも95年の時の揺れとは大きく違って非常に特徴的な横揺れでしたよ。ちょうど会社の建物の2階で歩行中だったのですが、大きく南側に30cmくらい体が動いて足もとが覚束なくなったので、“あれっ、体の具合がおかしくなったのかな”って一瞬どきっとしたほどですから・・・。体に感じる余震は随分減ってきたようですが、境港の友人も原状回復に躍起になっているとのメールを返してきてくれており、ちょっと安堵しております。

田路さん、はじめまして。(^o^)W
兵庫県の朝来郡ってちょっと奥まったところに位置していますね。江州も関西住いが長いのですが、まだ訪れたことがない場所の一つです。(兵庫県自体が非常に広いので、開けた南側の方しか行ったことがないもので・・・)
下総国を離れて九州肥前国に至る間は千葉系の足跡を辿るのは容易なことではないですよね。阿波国、伊予国、安芸国や豊前国などは海上交通の中継点として千葉系の形跡があるようなのですが、その他の内陸部にはあまり痕跡がなくって(美濃国は除きますけどね)、しかも関係資料もないとくれば、いきおい白紙の状態で手探りに探すしかないのが実情ですね。

そうそう、千葉氏の一族のページで、守護を務めたことのある国ということで表示いただいておりますよね。その中で三河国が色塗られていますが、これって遠江の間違いだと思いますので、またお時間のあるときで結構ですから、三河の右隣を色付けてくださいませんか。<@>

おっと忘れちゃいけない!
管理人さん、ホームページ開設4年目おめでとうございます。これからも充実したこのWEBを維持運営なされることを祈念いたしまして、万歳 Y(^o^)Y

江州さん、こんにちは!

あっ、満3年なんですねっ!すっかり忘れてました(T_T)
ありがとうございます(^∇^)ついに4年目。。。まだまだ千葉氏の数多くの謎は解けません!
現在、市川市の曽谷山安国寺という曽谷氏・国分氏ゆかりのお寺について調べる過程で、国分氏のページを改めている最中です。

 国分氏は他の千葉氏族と違って『吾妻鏡』にほとんど登場しない一族のため、『鎌倉遺文』や『香取文書』などから探すほかないのですが、鎌倉時代前中期に関しては、どのような形で一族が形成されていたのかわからず、一族も多岐にわたっておりまして、とても難しいですね。

 あっ!たしかに三河国の部分に色がついてました(^^;直しておきますねっ。ご指摘ありがとうございました!
遠江国は、琵琶湖に対する浜名湖が由来だったようですね。最近何かで聞きました。

 それではっ!


[316] 村上氏の件 投稿者:しまなみ [橘] 投稿日:2000/10/19(Thu) 02:10

>管理人さん

ご無沙汰しています(−−;)修論の方に忙殺されっぱなしでした(^^)
トップが秋色に変わっててきれいです〜(^−^)
さて、村上水軍の末裔の件ですが、能島・因島系村上氏は毛利氏の船手衆として連綿と幕末まで勤めています。
能島系は武吉の長男元吉系・次男景親系とも一門・永代家老に次ぐ寄組、因島系はその配下で御船手組です。
もともと同格のはずの両村上でなぜ扱いが違うのかよくわかりませんが・・・
来島系村上氏は、豊後森14000石で幕末まで続いていることは周知の通り(?)です。

村上氏・河野氏の情報お寄せ頂ければ幸いです〜m(_ _)m

しまなみさん、こんにちは!
修論、ごくろうさまでした。

トップページのほう、ちょっとあき色に換えてみました(^∇^)また換えてみるかもしれません(^^;
 
 因島系は能島系の配下になっていたのですか。なぜなのでしょう。。。村上家と白井家が江戸時代になっても親戚関係であったのは、ともに「水軍」という親密感があったからなのでしょうか?(^ー^)

 来島系はすっかり陸地に追いやられてしまいましたね。藩士にはどのような家があったのでしょう。。ざっと調べてみたくなりました。


[315] 自性院を紹介して頂きまして有り難うございます!! 投稿者:田路 美奈 [九曜] 投稿日:2000/10/15(Sun) 22:28

管理人さん、こんばんは!!いつもメールを送りましてすみません!!自性院を紹介して頂きまして、有り難うございます!!(涙が出そうになりました・・・!!)掲示板は、良く見ていましたので、こういう形で、(掲示板の方に)強引に登場出来ると(させて頂けると・・・)、緊張しつつも、嬉しいです!!千葉一族のHPは、千葉氏の事が、何でも詳しく、全部細かく分かるので、大ファンです!!すべて分かるので嬉しいです!!(田路家の系図は、千葉 常胤が、書いてありますので千葉氏ですよね!!でも、おばあさんが言うには、田路家は、桓武平氏だと・・・!!桓武天皇皇子葛原親王から始まっているので・・・千葉氏も桓武平氏ですよね!!出所は同じ!!)御友達の御結婚おめでとうございます!!次は、管理人さんですね!!彼女の写真を見せて下さい!!私は、今日、子供とマリオとか解決ゾロリ等の映画を見に行きました!!明日の月曜日に、田路家の系図を送りますね・・・!!大日如来と家族写真も送りますね!!千葉氏と朝来町(田路谷城主)がつながったら、万々ざいです!!千葉 胤宗から福地城、田路谷につながったら、管理人さんに美味しいカタシマのケーキ(甘くなくて・品があり・とびっきり美味しい!!)を送りますね!!(管理人さんのおかげです!!)B’Zの稲葉さんにも、もし、出会えたら贈りたいのです!!もうすぐB’Zのアルバムも出て(12/6?!)、10/20はMステーションに出演ですよね!!TVを見ると、稲葉さんに会える!!キャーキャー!!です!!千葉 常胤はひげをのばされてた感じで・・・?!桓武天皇の血筋なので、瞳は、ブラウンでしょうか・・・?!私は、ブラウン系です・・・?!100分の1は、同じ血が流れているのでしょうか・・・?!又、掲示板に遊びに来ますね!!今日は、少し涼しくなりましたので、お体に気を付けて、楽しい毎日を御過し下さい!!色々と有り難うございました!!おやすみなさい!!

http://www2.nkansai.ne.jp/org/jisyou/

田路さん、こんにちは!

先日お送りいただいた系譜のほう、無事とどきましたっ。
ありがとうございましたっ(^∇^)


[314] けっこんしき 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/10/14(Sat) 00:50

今日は友人の結婚式です(^_^)


[313] 京都も揺れました 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/10/10(Tue) 00:03

管理人さん皆さんご無沙汰でした。
10月6日13時30分京都府宇治市(京都市内より車で20分位)
の所におりました、かなり揺れました。
時間があれば、近くのお寺にお参りでもと思っておりましたが
帰りの新幹線が気になり早めに戻ろうと京都駅に行きました所
大混乱で東京駅着10時40分で2時間ほど遅れでした。

千葉さん、こんにちは!

地震はすごかったようですね。NHKかどこかのテレビ局の震度情報を見ていたら、関東地方まで震度2と出ていました。まだ余震はあるのでしょうか。。。

 東京直下で起こった場合、埋立地が多いですから、大きな被害が出そうですね。。。こわいですね(T_T)


[312] そろそろ。。。 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/10/09(Mon) 00:10

 そろそろ秋風なトップページに換えてみようかと考えています(^ー^)


[311] 今回の地震情報 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/10/07(Sat) 06:29

今回の地震の情報です。

HPの入り口+P波の伝わった時刻+どのように世界中に伝達したか3つ紹介します。

発生時刻 04:31:45.70 からパサデナ(PAS)へ 04:42:49.71 に到着しました
11分4秒で伝わってますね。(地学駄目だったのでこれ以上分かりません。)

http://neic.usgs.gov/neis/bulletin/001006043023.HTML

http://neic.usgs.gov/neis/bulletin/P0010060430.html

http://neic.usgs.gov/neis/bulletin/T001006043018.html

服部さん、こんにちは!

アメリカや他の研究機関で計測された地震の規模と、気象庁が発表した規模がだいぶ違っていたようです。どうやら気象庁の計測した地点は偏りが大きく、誤差がでてしまったようです。


[310] 42才納得できない! 投稿者:門倉 正行 [追加希望] 投稿日:2000/10/05(Thu) 01:59

千葉六党 国分氏の子供が市川市曽谷に領地をもらって
曽谷城なるものをおったてて 統治していたけど
日蓮聖人に感化されて出家 
城の一部を安国寺として・・・ 今でも残っているのに
700年以上続いているのに一言も触れられていない
家のかみさん現住職の姉(;_;)
何処をどうすれば付け加えてもらえるの?

 門倉さん、こんにちは!
 
 曽谷の安国寺は、日蓮に帰依した曽谷教信(日礼)が建立したとされています。曽谷教信はその出自が不明なのですが、お寺のお話をうかがうと、国分氏の流れということになりますね。

 実は国分寺付近の国分氏は、鎌倉中期の時道妻以降、あまり知られていません。教信は時代的に時道妻と同時代の人物であり、このころ分流したのでしょうか。

 曽谷氏からは、九州の千葉氏・下総千葉氏ともにその娘を娶っていて(千葉胤貞妻・妙林院日貞、千葉介貞胤妻・法頂尼)、その関係の深さがうかがえますね。

 関連の寺社については、いま全面的に書き換えていまして、もうすこしお待ちください(^_^)


[309] 山内一豊の妻のことで 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/10/02(Mon) 13:04

D-FFさん、管理人さん、お久しぶりです。
実は情報を流そうと準備していた矢先に、掲示板にて山内一豊の妻の件が取り沙汰されましたね。
郡上八幡のHPに山内一豊の妻が遠藤盛数の娘との話が出ています。
「永禄2年(1559年)遠藤盛数は、東氏を滅ぼし郡上を統一し、八幡山に城を築いたのですが、その3年後に没しています。
盛数が亡くなって嫡子の慶隆がわずか13歳で家督を継いだのですが、八幡城の危機を救うため、数奇なことに、慶隆の母を関城主(関市)永井道利(斎藤竜興の叔父)のもとへ再縁させたとあります。
母とともに永井家へ入った彼女はやがて織田信長に仕官して間もない山内一豊のもとに嫁いだとされています。」
といった内容のことが書かれています。ということで、彼女は遠藤盛数の実の姉か妹に当たるんですね。遠い先祖(千葉六郎大夫胤頼)が持っていた時代の潮流を見抜く目をずっと下った後世の彼女が受け継いでいたなんてとっても面白いじゃないですか。普通歴史の表舞台には登場しづらい女性ながら、山内一豊を操って具現化(百石取りから23万国の国守)したのっていうのは、とっても爽快で豪快なお話しです。

なお、鍵括弧の情報は次のURLにあります。ご覧になってください。

http://www.gujo.com/hachiman//hisoty/index.htm

ところで、永井道利って人物は竜興の叔父となっていますが、ということは斎藤道三の弟って実の弟になるんでしょうか? ってことは、最近まことしやかな説として流布される美濃の国盗り2代説を裏付けているんじゃないでしょうか?<斎藤道三の父が松浪庄九郎で、美濃へ流れて来て斎藤一門の永井氏を乗っ取るところまで実行し、子の道三が美濃守護代斎藤家を乗っ取った上で土岐氏を追い出し、美濃の国盗りを完結したという最近の学説。実に親子半世紀に渡る遠大な計画だったというお話になりますね>

 江州さん、こんにちは!

 慶隆の母が永井長利(長井隼人正)の妻として再嫁したという話は、『系図纂要』の遠藤氏の項目に記されています。一豊の妻(見性院)は元和3(1617)年12月4日に61歳で亡くなっていますから、弘治3(1557)年生まれとなります。永禄5(1562)年当時はまだ6歳で、母とともに長井家へ赴いたとしてもおかしくはないですね。

 山内一豊の母は「二宮喜助殿御女」「二宮一楽斎女」「二宮修理亮俊宗女」「黒田領主二宮長門守入道一楽斎女」とされています。また、一豊の妻は「若宮喜助友興御女」とされていて、「■宮喜助」というように似通っているところから、混ざってしまったのでしょうか?一豊の妻は、はじめこの一豊の母「二宮氏(法秀院縁月妙因)」の側近くに仕えていたようで、そこから一豊へ嫁いだとされています。

 山内一豊は天文14(1545)年生まれで、弘治3(1557)年7月12日、13歳のときに父の居城・黒田城が信長に攻め落とされたため、弟・吉助(のちの修理亮康豊)らとともに姉・与祢(美濃ユカウノ領主・長井源兵衛利直の妻)の娘聟だった「溝口伯耆守」なる人物のもとへ行っていたようです。さらに永禄2(1560)年には尾張国安賀の浅井備中守のもとに身を寄せたとされています。

 こののち信長に仕え、元亀元(1570)年には信長から秀吉へ配属された将校(秀吉の家臣ではなく、信長の家臣の身分のまま秀吉に配属)として名を連ね、越前朝倉家の名将・三段崎勘兵衛を討ち取って信長から称賛されました。

 また、一豊の姉・法雲院妙栄は、美濃北方之城主・藤太郎左衛門郷氏(伊賀守某弟)に嫁いで、安東半左衛門可氏(土佐宿毛山内家租)と深尾和泉重良妻を産んでいます。

 このように、山内家と美濃の豪族たちの間には、密接な関係があったことが見えますね。

 長井道利(隼人正)については、道三の弟という説はありますが、齋藤妙椿の孫・利隆(豊後守)が継承していた長井家の系統で、利隆の孫にあたるともされています。斎藤義龍と齋藤道三との戦いの時は、義龍方に荷担していますが、斎藤龍興が美濃を逃れたのちは足利義昭に仕え、摂津白川の戦いで戦死しました。


[308] 大須賀町 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/10/01(Sun) 00:57

 大須賀さん、こんにちは!

 静岡県の「大須賀町」について、神田に行った時に東京堂書店で地名事典を立ち読みしてきました(^^;

どうやら、大淵村と横須賀村がくっついて「大須賀」になったようです。ただ、横須賀城は大須賀康高(五郎左衛門尉)が城主になっていましたから、あながち関係なかったとはいえませんね(^ー^)


[307] 上門岡 投稿者:千葉 公 [丸に九曜] 投稿日:2000/09/25(Mon) 15:28

私の住んでいる所は、稲瀬の上門岡です
親戚の叔父に確認したところ3代前まで神主を行っていたとの
話でした。ちなみに、家の屋号はナラダノエンキョです。
漢字はわかりませんが、何処からか隠居してきたと聞いています

 千葉さん、こんにちは!

 千葉氏の一族が神主になる例は、関東であれば千葉神社(現在は違います)、寒川神社、稲毛浅間神社、浅草鳥越神社など各地に見ることができます。

 西磐井郡平泉町長島に、屋号が「隠居」とおっしゃる千葉家があります。ここから二戸の分家が生まれているそうですが、所在不明とされていました。

 「ナラダノエンキョ」は「楢田隠居」でしょうか。。「奈良田隠居」なのかもしれませんね(^_^)


[306] 銅像の裏書 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/09/21(Thu) 23:39

管理人さん、こんにちわ。D-FFです。
RES有り難う御座います。
山内一豊の奥さんの出自について、郡上八幡城跡の公園に立つ銅像の裏書によりますと(しっかりメモしてきたわけではないんですが)平成3年頃に見つかった、山内家の文書により、遠藤氏側の文献と一致して確認が取れた。故、銅像を建立したとありました。諸家譜の記述は、遠藤氏側の文献に依存したものと考えられますが、そちらのほうが、裏づけられたと言うことのようです。
この銅像は、山内一豊の妻の顕彰会が建てたものです。

さて、真相はいったい?????  @_@  

郡上郡良い処です。旅行地としては、お薦めです。

D-FFさん、こんにちは!

なるほど、遠藤氏の娘さんだったのですか。たしかに、一豊の奥さんは、美濃土豪の不破氏の養女になったとも聞いていますので(出典不明)、美濃とも所縁の深い人物だったのですね。
こちらでもちょっと調べてみます。


[305] しまなみさんがご専門です 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/19(Tue) 11:20

「河野通信」は伊予の豪族です。

源氏方で義経に従っていましたが、その後、頼朝に従いました。
頼朝と相婿だったので
承久の変で敗れましたが罪1等減ぜられて
奥州に流され没しました。


[304] 稲瀬の件 投稿者:千葉 公 [丸に九曜] 投稿日:2000/09/18(Mon) 15:49

稲瀬の件ですが、私の近所に(中新田)がありました。
それから、河野通信の墓も有りましたが、河野通信と言う人は
どんな人でしょうか?
実家に確認したところ家紋は九曜月星と言っていました。
(中の月は三日月との事でした)

 千葉さん、こんにちは!

 北上市稲瀬町のご出身でしたか。稲瀬町上門岡・下門岡には千葉さんが集まっておられるようですね。

 河野通信は伊予の豪族・河野通清の嫡男で、頼朝挙兵の直前に密書が送られた人物です。

 頼朝の挙兵と時を同じくして、河野通清が伊予国衙の目代(平家方)を追い出しましたが、阿波・備後の平家党が伊予に攻め入って、通清は戦死しました。こののち、通信が挙兵して河野氏の所領を回復し、源義経に従って屋島の戦いなどに参加しています。さらに奥州平泉での合戦にも参加しています。

 通信は服部さんがおっしゃるように、北条政子の妹を妻としていて、おそらく信頼も厚い人物だったのでしょう。しかし頼朝亡きあと、北条氏の専制政治がはじまると、おそらくそれに反抗心を覚えたのでしょう。承久の乱の前には通信の子・通政や孫の通秀は大番役として上京し、西面の武士となりました。西面の武士は武勇に秀でた関東武士10名が任じられる院直属の武力で、院の警固、上皇の身辺警固、盗賊の追捕などが主な任務でしたが、承久の乱では院北面とともに院方の主力となりました。

 承久の乱の直前、通信は後鳥羽上皇の求めに応じて上洛し、城南寺の仏事に武装して参加、さらに承久の乱では通政らとともに京広瀬で幕府軍と合戦しました。上皇方が敗れたのちも伊予の居城に立てこもって幕府軍に反抗を続けました。しかし、幕府軍は数も多く、ついに居城は攻め落とされて捕らえられ、嫡子・通政は首謀者として斬首、一族も所領を没収されました。その中で、通信は命を助けられて奥州平泉へと配流になりました。


[303] 北上市稲瀬 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/17(Sun) 07:22

江刺と北上の境と書かれていましたから
私の母方の先祖が承久の変で流され没した所だとぼんやり考えていましたが
稲瀬でしたら「そこ」です。

山の中に鎌倉時代の壕付きの墓があります。桜と松が植えてあります。
河野通信墓所と宇和の「徳山義翁」氏の碑が立っています。

一遍上人の聖絵にも描かれています。
この絵を参考に司東正雄先生と思いましたが昭和30年代の初めに見つけて下さいまして今はきちんと管理されています。

司東先生は高名な宗教の学者だそうです。
宗教の記事を読んだ時に司東先生のお名前を拝見しました。

ネットの世界は狭いですから、まさかこちらで千葉さんが稲瀬のご出身とは思いませんでした。


[302] 大和町へいってきました。 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/09/16(Sat) 21:47

郡上郡大和町と八幡町へ行ってきました。
千葉氏顕彰会の特別講演を聴いて、是非行ってみたいと思っていました、岐阜県郡上郡大和町へ、講演会のときに頂いた、大和町のパンフレットを握りしめて(実際に握っていたのは、車のハンドル)一路、郡上郡を目指しました、松本から安房峠を越え、高山へ、そして、郡上郡へ。
大和町では、まず、パンフにあった、温泉へ。とてもきれいな温泉でした。それから、古今伝授の里へ、隣が明建神社でした。川を渡って、反対側が、東氏館跡です。一巡りして、宿を八幡町にとりました。郡上踊りで有名な郡上八幡です。
郡上八幡では、江戸時代後半の藩主:青山氏の残映が色濃く、遠藤氏を忍ぶものは、あまり残されていませんが、慈恩寺の屋根に、花菱亀甲紋と九曜紋が上がっていました。又、お城には、山内一豊とその妻と馬の銅像が立っていました。あの有名な、奥方は、美濃遠藤氏の娘だったのですね。
郡上郡は、なんといっても、”水”の綺麗な処です。
とても良い処でした。

 D-FFさん、こんにちは!

 自分もぜひ郡上郡大和町に行ってみたいです!東氏つながりで、京都の建仁寺なども散策してみたいですね(^_^)

 山内一豊の奥さんは、山内家の系譜によると「若宮喜助友興君御娘(見性院)」だそうで、橘諸兄の子孫とされ、若宮友興は浅井家の家臣として近江にありましたが、浅井家内でも高家として尊敬されていたそうです。見性院の母は藤原氏の石河小四郎娘。しかし、『寛政譜』の遠藤氏系譜には、遠藤慶隆の妹として山内対馬守一豊妻が記されていますね。違う人物なのでしょうか。。


[301] no title 投稿者:千葉 公 [月星] 投稿日:2000/09/16(Sat) 11:54

追伸
ちなみに私の住所は書かれているように
岩手県北上市稲瀬町です


[300] no title 投稿者:千葉 公 [月星] 投稿日:2000/09/16(Sat) 11:52

管理人さんありがとうございます。
自分の祖先探しにますます興味がわいてきました。
自分なりにこのサイトを解析しまたご質問いたします。
その時は、また宜しくお願い致します


[299] 十津川郷士2 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/14(Thu) 21:14

十津川の千葉氏について、『十津川郷鐘役由緒家筋書』に「小山手村千葉彈正」「樫尾山村庄屋千葉藤吉」「出谷村庄屋千葉沢右衛門」「上湯川村庄屋千葉政右衛門」などがあるようです。


[298] 質問 投稿者:千葉 公 [月星] 投稿日:2000/09/14(Thu) 11:09

まず最初に私自分の家紋が判らないので家紋は月星ではありません。私は岩手県の北上市出身で現在中国に駐在している物です。
質問ですが、私の地域ではお寺が無く冠婚葬祭は全て神主さんが
行うのですが、この件に関して何かわかりますか?
あと、岩手県の北上市は南部と伊達藩の境ですが、私の直系の
祖先を探すとすれば誰なのでしょうか。

 千葉さん、こんにちは!はじめまして。

 千葉氏のページの管理人、管理人ともうします。
 書き込みありがとうございましたっ♪

 東北地方の千葉氏はその歴史が古く、系譜などもかなりの混乱が見られます。東北千葉氏はもっとも難しいテーマだと思っています。。。(T_T)
ご質問の、千葉さんの直系のご先祖についてはちょっとわからなかったです。ただ、和賀郡へ移っていったという千葉氏について、伝承がメインではありますがこちらに記してあります。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/souke5.htm#yasutane

 北上市は葛西氏の本城とされる寺池城にもほど近く、水沢市・江刺市の、葛西氏に仕えていた千葉一族なのかもしれませんね。北上市稲瀬には屋号「甚助殿」「中新田」という大きな家があるそうで、江刺氏の重臣であった千葉七郎が、江刺氏の没落後に移り住み土着したと伝えられます。屋号「中新田」千葉家は、かつて広い邸内に土蔵・門・殿様用の広間と庭池があったそうで、江戸時代には「御境古人(どのようなものか不明)」をつとめておられました。 北上川のやや上流、東和町中内には「千葉門重郎家」が総本家である千葉家(照井家)があり、花巻城代家老の家柄だったようです。このとき「照井」という氏を賜っていて、照井家の本家でもあるといいます。

 家紋に関しては、家々には必ずあるもの(おそらく(^^;)ですので、ご親戚などに伺ってみられるのもいいかもしれません。ただ、東北千葉氏は系譜が錯綜している上に、家紋も星紋や月紋、柏紋(葛西氏との関係からか)が多く、家紋の面からご先祖をたどるのは難しいと思います。神社には氏子に関する文書や伝承が残されている場合があり、こちらを調べられるといいと思います(^_^)


[297] 染谷さん、ありがとうございました 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/12(Tue) 04:17

http://www.city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/

この天文関係のHPは凄いですね。
1人占めするには惜しいのでこちらにも掲載させて頂きます。


[296] no title 投稿者:染谷 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/12(Tue) 04:15

管理人さんありがとうございました。


[295] 奥が深いのですねぇ 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/10(Sun) 13:47

>神の使いの者がうなぎを首に巻いているという、言い伝えがあり、
>若柴の者は決してうなぎを食べません。虚空蔵信仰の影響とも言われています

奥が深くて今に守られている、というところがいいですね。


[294] 星宮神社 投稿者:そんちょ^ー^ [月星] 投稿日:2000/09/10(Sun) 12:20

こんにちは、ご無沙汰しております。
星宮神社の事が話題になっているのでお邪魔しました。
実は、服部さんが紹介した星宮神社は私のHPで、民話を紹介したページです。
よく見ると写真が心霊写真のように写っていました、気にしないで下さい。
竜ヶ崎市若柴の星宮神社は古い時代に八代の妙見宮から分霊したと言われています。
また、神の使いの者がうなぎを首に巻いているという、言い伝えがあり、
若柴の者は決してうなぎを食べません。虚空蔵信仰の影響とも言われています。
あ、失礼、千葉氏とは無関係でしたね。
これからも頑張ってください。

http://www.fureai.or.jp/~kyoji-m


[293] ネット電話を体験しました 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/10(Sun) 00:34

日本の16歳の男の子とネット電話をしました。
向こうがマシンから掛けてくれまして
私は家庭電話で話しました。

声がだいぶ遠かったです。
それにマシンのディスプレイのバナー広告が動く度に
音声が揺れてしまいました。

で、結局は、お互いに家庭電話と家庭電話でおしゃべりしました。

この技術、まだ<なかなか>のようですね。


[292] 更新日記。。。 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/09(Sat) 17:01

 大須賀氏の歴代当主について、概略がようやくできあがりました。一通り書き出してはみたものの、もうすこし資料がいりそうです(^^;

 このなかで、室町中期の「一族一揆」に参加していた千葉一族のひとり「沙弥誓阿」について、これまで粟飯原清胤とされてきましたが、清胤ではないという説が『千葉氏と足利政権』(山田邦明氏著)に記されています。ほかの一族一揆の人物と思われる人物の中にも「粟飯原」を称する人物がないことからも、粟飯原清胤ではないと考えられます。

 同時代、木内氏出身の人物で「誓阿」を名乗る「木内下総介胤康」という人物があり、一族一揆関連の書状の中に「総州以下」の一揆という文書が見られること、署名の筆頭に「沙弥誓阿」があることから、総州とは下総介胤康=沙弥誓阿であろうと考え、東氏・大須賀氏・木内氏などのページに追加しておきました。


[291] 星宮神社 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/07(Thu) 13:37

星宮神社:http://www.fureai.or.jp/~kyoji-m/minwa/hosinomiya.htm

この星宮神社の写真の白っぽい所、
何か感じませんか?

平貞盛ゆかりの星宮神社です。

ホームの所をクリックして下されば直接行けます。

http://www.fureai.or.jp/~kyoji-m/minwa/hosinomiya.htm


[290] 星宮神社と妙見 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/07(Thu) 08:47

http://city.yokohama.jp/yhspot/ysc/izumo/myoken.html

星宮神社で検索していたら↑こんなのありましたが。

星宮神社ってあちこちにあるのですね。でも美濃市のは見つかりませんでした。


[289] 星の宮 投稿者:染谷 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/07(Thu) 01:20

はじめまして、私は妙見をしらべています
岐阜県美濃市に、星宮神社が
ありますが、これは、武蔵千葉氏が立てたものと
おもうのですが、しってるかたが、いたらおしえてください

 染谷さん、こんにちは!

 妙見信仰はもともと大陸の星辰信仰が伝わってきたものとされています。
そのため、畿内を中心に全国に妙見信仰が根付いています。
決して千葉氏固有の信仰ではないのですが、
美濃国には武蔵千葉氏の千葉実胤が逃れ、その昔、
承久年間には東氏が下っていますので
なんらかの関係があったのかも知れませんね。
神社名鑑などがあれば、そこに謂れが記されて
いる可能性があります。


[288] ズバリです 投稿者:plato [月星] 投稿日:2000/09/06(Wed) 20:20

管理人さん、どうもありがとうございました。

>『十津川郷』という本のP.381に「千葉正中」について載ってい>るようです。
>『和学者人名事典』(だと思います)に、千葉正中の紹介として>上記の内容が記されていました。
>正中については、本姓は田中。通称は金吾、良平、左中、良之
>進。名は義功。

その方、私の4代前の方の兄にあたり、かつ3代前の妻の祖父にあたります。(つまり3代前の方が比較的近親間(法律に反しない範囲内で)で結婚されたため、「千葉正中良平」という方の名前は小生にも伝わっています。

>生国は紀伊国日高郡とあり、明治30年9月25日、72歳で没したと>ありました。

生まれたところが、生活していたところと違ったのか、あるいは嫁さんが「里帰り出産」したのかもしれませんね。

ただ、千葉正中氏の先祖が千葉本宗家につながっているかは、小生も未だつかみかねているところです。

 platoさん、こんにちは!

 千葉正中氏はご先祖でしたか(^^;
『十津川郷』という本に記されているところを見ると、
生活していたところは十津川なのでしょう。

 彼は国学者であったようですので、国学者事典などの本にもうすこし詳しく記されているかもしれませんね。


[287] ありがとうございます 投稿者:大須賀 [家紋不明] 投稿日:2000/09/05(Tue) 21:27

服部さん、管理人さん、いろいろなご意見ありがとうございます。

私は豊橋市の出身で、祖父に以前聞いたのですが昔からずっと
私の家は愛知県に住んでいたようです。この地域は大須賀という名前の人が多く、お盆などにお墓参りなどした時、まわりのお墓を見るとずべて大須賀某のお墓とあり、家紋もまちまちでした。

また、詳しくは知らないのですが、大須賀という名前にも二種類の読み方があるようで、関東の方では ”おおすが” なのですが東海地方ではみな ”おおすか”です。これも、管理人さんが書いていらっしゃるように、2つの独立した家として発展していったためでしょうか。

静岡に大須賀町という町がありますが、この町はこれらの大須賀家と何か関係のある町なのでしょうか? 

よくまとまらないままに書いて、質問攻めで申し訳ありません。これまで、図書館などで調べても全然わからず、この機会に是非
いろいろ教えていただければと思い、欲張ってしまいました。

 大須賀さん、こんにちは!

「おおすが」「おおすか」の違いは、たぶんですが、方言と関係してくるものと思います。

 大須賀町については今はちょっとわからないので、調べてみますね(^_^)ちなみに、家康に仕えた大須賀氏の家紋は七曜だったようです。

 君島氏流の大須賀十郎胤時が建武2(1335)年11月、新田義貞と足利直義が戦った三河国矢矧の戦いで
新田義貞の軍に加わって戦功をあげて感状を受けたと『君島系図』に記されています。これは戦った場所ですので、関係ないかもしれませんが、三河ということで書いてみました(^_^)

 甲斐国井上庄は大須賀氏が「和田合戦」(和田義盛と北条氏との戦い)で得た所領ですが、ここには陸奥国好嶋庄のように大須賀氏の一族が
古くから移り住んでいたようで、『香取郡誌』には、「甲斐井上庄に在るもの胤信より以下十餘世子孫連綿たり、
康高に至り徳川家康に仕え・・・」とあります。


[286] 大須賀家 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/05(Tue) 20:10

 大須賀氏の歴代当主を、大須賀氏のページでご紹介しようかと書き始めることにしました。いつ完成するかはわかりませんがっ。。

 下総の大須賀氏は、松子城主の大須賀氏、助崎城主の大須賀氏と、大きく分けると二つに分けることができます。この二つの流れは、それぞれ独立した家として発展しました。

 しかし、系譜上ではこの二つの流れは錯綜しているようで、古文書のなかからキーワードを拾い集めつつ見ていく必要がありそうで、なかなか難しい一族のようです(^^;


[285] 大須賀康高公 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/09/03(Sun) 01:52

最近山岡荘八の「徳川家康」を読んでいます。

5巻の380ページに「大須賀康高公」のお名前が出ています。
舞台は小牧・長久手の戦い、
秀吉方の秀次+池田勝入+堀+森長可が三河を突く、というシーンです。


数年前に西尾の男の子がいじめに遭って、という悲劇がありましたが
西尾の大河内家といえば西三河の名門で
地元の人だったら大河内家の子供をいじめの対象にはしないと思うけど
ヨソから来た転入組(羽角のデンソー関係者?)の子供達だったそうで
最悪の事態で終わってしまいましたが

「徳川家康」を読んでいると、この大河内家の名前も何度か出て来ます。


大須賀さんは三河のどちらのご出身でいらっしゃいますか?


[284] 紋はいろいろな事情で 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/08/31(Thu) 22:27

1247年三浦泰村が北条時頼に滅ぼされた時
その妹を妻としていた堺右兵衛次郎秀胤も千葉氏の大須賀胤氏に滅ぼされていますね。

紋はいろいろな事情で変わるのでがっかりしなくて良いと思います。
家系書の中に書かれていませんか?


[283] すいません 投稿者:大須賀 [家紋不明] 投稿日:2000/08/31(Thu) 20:59

すいません!

書き込みしている最中に投稿ボタンを押してしまい、最後まで書ききれませんでした。
という訳で、もし、何かご存知でしたら是非教えて下さい。よろしくお願いします。


[282] no title 投稿者:大須賀 [家紋不明] 投稿日:2000/08/31(Thu) 20:51

今晩は!以前からよくこのページを見ていました。
前々から思ってたのですが、私も大須賀という名前で、愛知県の
豊橋市の出身です。

いわゆる三河地方なのですが、千葉6党の中の大須賀氏と関係があるのでしょうか?このページをみて興味が湧き、家系図などを調べようとしたのですが、汚くてよくわかりませんでした。家紋も九枚笹で、千葉氏の家紋には関係なさそうですし、三河大須賀氏の系図を見ると、江戸時代に断絶してましたのでやはり無関係
なのでしょうか?

それと、断絶後の三河大須賀氏はどうなったんですかね?

大須賀さん、こんにちは!

 大須賀氏と九枚笹についての謂れはちょっとわからないのですが、千葉氏のもっとも古い家紋としては、「五葉の根笹紋」というものがあったようです(『上総下総千葉一族』丸井敬司氏著・新人物往来社)。

 服部さんがおっしゃられるように、紋も本家と分家の家紋が少しずつ変わっていく場合、主家から家臣へ与えた場合、奥さんの実家からもたらされたものなど、様々な事情によって変化する場合があります。古いお墓には通称だけではなく実名、本姓(源や平、藤原など)も彫られている場合もありますので、もしおありでしたらご覧になってみてください(^∇^)

 それから、三河大須賀家は、香取郡大栄町宝応寺の『大須賀家系譜』には、

●大須賀通信(太郎左衛門)―信康(五郎)―高康(五郎左衛門尉)―宗常(五郎左衛門尉)―正綱(五郎左衛門尉)―康高(出羽守)

とあります。大須賀正綱の項目には、正綱の孫・忠政に至るまで徳川家康に仕えて数度の軍功を顕す、とあります。通信が鎌倉時代初期の人物、正綱は室町末期の人物であるとすれば、通信から正綱に至るまでは300年ほどであり、系譜のようにわずか4代であるとは思えません。「高康」の項目には、「志津・伊山・榊原等の祖」とあり、下総国の大須賀家と三河の大須賀家は交流が途絶え、数代を略して記されたと思います。つまり、三河大須賀家は、決してひとつの流れではなく、志津・伊山という分家がうまれたと記されているように、系譜にかかれなかった数代のうちには幾流れもの分家が発生していると思います。

 一方、「大須賀宗常」に関して、大須賀氏の一族・君島家に残されている大須賀家の系譜や『千葉大系図』『松羅館本千葉系図』では、

●大須賀通信(小太郎)―信康(五郎左衛門)―宗常(四郎左衛門)

とあって、信康の子として見え、『大須賀系譜』にあるような「高康」の名が見えません。宗常は元亨元(1321)年12月7日の陸奥国好嶋庄八幡宮の供僧職に関する『関東下知状』(幕府が御家人に出す命令書)の中に、「一方預所」として登場する「大須賀四郎左衛門尉宗常」のことと考えられます。

 康永4(1345)年の『造営所役注文』(香取神社の建て替えに伴う分担を書いた文書)の中には、大須賀家の本宗家「大須賀下総前司宗朝」と思われる「大須賀下総前司入道跡」が記されています。「跡」とは、本人がすでに没し、その跡を継いだ子孫の役割分担を示していますので、大須賀宗朝は康永4(1345)年にはすでに亡くなっている事がわかります。大須賀家の本家は代々、北条得宗家(北条家の嫡流)から一字をもらっている傾向にあるようで、大須賀宗朝は得宗・北条時宗から一字をもらっているのでしょう。得宗家とは密接な関わりを持つ存在(半御内人的な存在)になっていたのかもしれません。

 北条時宗は文永6年(1269)3月5日に執権に就任、弘安7(1284)年4月4日に34歳で没していて、大須賀家の本家・宗朝は文永6年から弘安7年までの15年の間に元服をしているのでしょう。そして、奥州好嶋庄の一方の預所である「大須賀宗常」に関しても、おそらくは北条時宗の偏諱を受けているのかもしれません。つまり、大須賀本家とは別の流れを組む大須賀家として幕府から認知されたのでしょう。大須賀宗常は先に書いた『関東下知状』によれば、元亨元(1321)年12月7日ではまだ出家せずにあることから、出家するほどの年齢ではなく、弘安年中に元服したのかもしれません。

 大須賀高康(五郎左衛門尉)の「高」も、最後の得宗・北条高時よりの偏諱であった可能性もあり、大須賀本家とおなじく北条家と密接な関わりを持っていた人物で、宗常の子であったのかもしれません。高康の代に仕えていた北条高時以下の北条家はじめ鎌倉幕府が滅亡したために、歴史の中から消え、志津・伊山という分家を生みながら三河国(遠江国かも?)へ移り住んでいったのでしょう。

 脈絡もなく長々と書いてしまいました(^^;下の系譜は、北条得宗家、大須賀本家、大須賀宗常の各系譜で、千葉・武石・佐々木の系譜は、「宗」「貞」「高」をもつ御家人の参考系譜です。北条家は有力御家人と一族・御内人に偏諱(名前の一字を与えること)する傾向があるようで、千葉・佐々木は有力御家人として、武石・大須賀は半御内人的な存在としての偏諱だったのでしょう。

北条義時――泰時―時氏―時頼―時宗(1251-1284)―貞時(1271-1311)―高時(1303-1333)

大須賀胤信―通信―胤氏―朝氏―時朝―宗朝―宗時―宗信―憲宗

大須賀胤信―通信―信康―宗常(四郎左衛門尉)―?―高康

千葉胤正――成胤―時胤―頼胤(1239-1275)―胤宗(1268-1312)―貞胤(1291-1351)―高胤(????-1336)

武石胤盛――胤重―胤氏―宗胤(1251-1314)―胤継(1272-1331)―高広

佐々木定綱―信綱―氏綱―満信―宗氏―高氏(1306-1373)


[281] 原彦次郎 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/08/31(Thu) 13:17

山岡荘八の「徳川家康」の本を友人から頂きました。
今は5巻目を読んでいます。
秀吉対勝家です。

その中に原彦次郎・越中原森城主の事が出て来ます。
勝家方で、勝家の甥の佐久間盛政の下で戦った人です。

しのはらさんの書き込みに「原」氏の事が出てたので関係無いかも知れませんが書き込みました。

服部さん、こんにちは!

 原彦次郎については、おそらく原勝胤のことと思います。美濃国出身で、はじめ織田信長に仕え、
織田家が北陸を抑えたのち、管理人勝家に配属されて北陸地方を転戦しました。管理人勝家の滅亡後は豊臣家に仕えて、
美濃太田山に三万石を与えられました。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に属したことから、戦後に所領を没収されてしまいました。
出自は、武田信玄の陣場奉行・原昌胤(隼人佐)と同じく、美濃土岐氏ともされています。

 大須賀康高は、娘聟である榊原康政と行動をともにしていることが多く、いっしょに遠江国を守り、高天神城の戦いでも
小牧長久手の戦いでも仲良くいっしょです〜。小牧・長久手では、池田恒興入道や森長可の軍と戦っています。


[280] 家紋〜♪ 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/08/29(Tue) 19:00

どうもご無沙汰をしております、しのはらです。
ROMはしていたのですが・・・(^_^;)

私は地元消防団に所属しておりまして、
今年の夏は2年に1度の町の操法大会なるもので大変でした。
幸い特訓の甲斐有って我が分団は3位入賞を果たし、
以前、消防団に所属していて事故で亡くなられた方のお墓に成績の報告に訪れたところ、
お墓の家紋は九曜紋で埋め尽くされていました(^_^;)
苗字が『原』の一族のお墓だけはある・・・。
親に聞いたところ『原家は昔東京の方へ移り、また後になってから戻ってきた一族だといわれている』とのことです。
天正期に千葉氏が滅亡した後に土着したのでしょうか?
面白い話を聞けたので一応ご報告します。

追伸:遅くなりましたが管理人さん、大事にならずよかったですね。

しのはらさん、こんにちは!

 消防団の操法大会での3位ご入賞おめでとうございます(^∇^)

以前、町内で火事があった際には、放送でいくつもの消防団の召集がされていました。
しかも夜遅くでしたので、タイヘンだなぁ〜〜と思いながら聞いていました(^^;

 原氏については、ちょっとわかりませんが、千葉介直重が阿波に移ったという話がありますし、
もしかしたら扈従していった一族があったのかもしれないですね。


[279] no title 投稿者:plato [月星] 投稿日:2000/08/29(Tue) 00:17

江州さん、管理人さん
どうもありがとうございました。

また何か情報がありましたら引き続きお願いいたします。

platoさん、こんにちは!

 『十津川郷』という本のP.381に「千葉正中」について載っているようです。
『和学者人名事典』(だと思います)に、千葉正中の紹介として上記の内容が記されていました。

 正中については、本姓は田中。通称は金吾、良平、左中、良之進。名は義功。
生国は紀伊国日高郡とあり、明治30年9月25日、72歳で没したとありました。
紀伊国日高郡出身とありますので、ご関係はないかもしれませんね(^^;


[278] 大丈夫ですか。 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/08/28(Mon) 23:12

管理人さん、大丈夫ですか。お見舞い申し上げます。
小生は、講演会の始まる前に、千葉神社で旅行安全のお守りを買い替えまして、無事帰宅しました。チョット渋滞しましたけど。
願い鳥かなえ鳥の小さいのもつい買ってしまいました。
「過ぎたるは及ばざるがごとし」と云いますが、小生の車には、安房神社の交通安全のステッカーと千葉神社のお守り、近所の武蔵二宮金讃神社のステッカー更に金讃神社で購入時に車をお払いしてもらった時のお守り。
付け過ぎですかね!  @_@:

D-FFさん、こんにちは!

御守りのつけすぎは、神様どうしがけんかするなどと聞いたことがありますが、どうなんでしょう?(^_^)
稲毛浅間神社(下総武石氏ゆかり)では車の御祓いをしているようです。先日、黒塗りのクラウンがお祓いを受けていましたよ〜〜。
高台からの眺めは抜群で、幕張のビルも見えました!駐車場もかなり大きかったです。やっぱり神社の紋は九曜紋でした。


[277] 家紋の使い分けはあったんでしょうか 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/08/28(Mon) 13:04

管理人さん、助太刀ありがとうございます。
家紋の件は難しい問題をはらんでいますね。

一般に大名家のような格式のある家では多数の家紋を持っていてTPOに応じて使い分けをしていたとの話を聞いたことがあります。
表紋、裏紋、女紋、とか言っていたように思いますが、公式の場に使う紋、公式に順ずる時に使う紋、非公式に使う紋、功のあった
被官などに下賜する紋などがあったんではないでしょうか。
月星紋と言っても九曜紋や弓張り月に一つ星の紋などがあり、TPOに応じて紋の使い分けもなされていたのではないかなとも思うんです。
徳川家でさえ、将軍家、御三家、その他の分家と認められる家で使用する葵紋は意匠が異なっていたくらいですから、古来からの
格式を持っていたと思われる千葉家がそのようなことをしていても不思議ではないですよね。


[276] やはり十津川郷士でしたか! 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/08/27(Sun) 13:37

platoさん、レスありがとうございます。

十津川郷士がご先祖に当られたんですね。偶然触れたとはいえ、ヒットしてたんですね。
残念ながら、小生の情報も幕末関係の人名辞典のようなもので関係する人物が居たことを知ったのと、かなり古い姓氏辞典で、
千葉氏に関しての分布の中で十津川郷士の記載があったのを覚えているだけで、詳細なことについてはやはり分からないのが
実情です。倒幕運動で十津川郷士が挙兵した件で、その中に名前が見えたのが太田氏の姓氏辞典に載っていたように思い
ますが、残念ながら資料からの書き起しをしておりませんので・・・。

南朝側というのも下総千葉の貞胤が木の芽峠で北朝側に降伏するまでそうでしたから、北朝に下るのを良しとしなかった
一族の人が現実にいて、北陸に逃れた実例もありますので、一部大和へ立ち戻った人がいても不思議ではないですよね。
ただ、千葉周作は奥州千葉の出で幕末頃の人ですから、おそらく時代的にも違うでしょうね。
また、月星紋をご使用ということは戦国末まで生き残った下総千葉氏が使っていた可能性も示唆されているようですので、
千葉氏が滅亡した天正18年以降に大和へ流れてこられたことも推測されますね。実際に千葉重胤に代わって北条氏から養子
として入っていた千葉直重が関東を離れて阿波へ流れ落ちたとの話もあるくらいですから。

それから、千葉の苗字で胤の通し字をご使用になられているのであれば九分九厘下総千葉氏に繋がるのは間違いないでしょうね。

江州さん、こんにちは!
おっしゃるとおり、千葉氏が伊賀守護のとき、下総から派遣されていたと思われる
「平常茂」や「小見六郎」などの名前の代官を見ることができます。

千葉氏の月星紋については、中山法華経寺の妙見堂の紋を見ると「十曜内半月」紋で、
さらに、仙台藩涌谷領主・伊達宗元が千葉神社に千葉氏の紋を尋ねた際には
「御正躰」の左右にある紋は十曜紋と十曜内半月紋だったようで、これがもともとの
千葉氏の紋という可能性があるそうです。
また、室町期の大名家の紋帳には、千葉氏の紋として「月星」」と記され、形は「九曜」でした。
 
ただ、そうなると一般に伝えられている千葉氏の紋はいつごろ全国に広まっていったのか、
奥州千葉氏は比較的早い段階に下総千葉氏からわかれているにもかかわらず、「月星」を
用いる家々が数多く存在しています。もし、江戸時代に家紋を変えていったとしても、
いっせいに家紋を変えていくメリットがあったのかどうか、東北に限らず、ほかの地域でも
同じように家紋をなぜ変えていったのかなど、自分的にはまだ謎を感じてます。


[275] RE:関西圏は情報が少ないですよ 投稿者:plato [月星] 投稿日:2000/08/25(Fri) 21:27

江州さん、はじめまして。

そうです。
うちの先祖は、十津川郷士です。

小生が曽祖父の墓参に十津川村に行って以来、墓守をして下さっていた方からいくつか情報を頂いています。

聞いた情報を集めた限り、以下のようなものがありました。
・桓武天皇の子孫である(当たり前といえば、当たり前)。
・南北朝の頃に南朝側についていた?
・明治維新の頃、勤皇の志士として高野山で挙兵し、天皇側についた。その後京都に移り住み、一族の墓は京都の吉田神社にある。
・集落内の神社で小生より13代前からの家系を記録した木の板を見せていただく。
その中には、常胤(HP上で大々的に紹介されている「常胤」とは別と思われる)、弘胤、淳胤など、千葉氏らしい名前もあり、あながち千葉一族と全く関係なく「千葉」を名乗っているわけでもないようである。
・千葉周作(剣術の達人)が先祖である??
(おそらく嘘ではないかと思うのだが・・・)

もし何か心当たりございましたら、教えていただければ幸いです。


platoさん、こんにちは!はじめまして。
千葉氏のページの管理人、管理人と申します。

 十津川郷士について、いま手許にある史料で調べてみたのですが、そのなかに「千葉平三」という人物がありました。そのほかはわからなかったのですが、すこし調べてみます(^_^)

 千葉周作については、江州さんのおっしゃるように東北出身で、水戸藩や鳥取藩と関係しているので、江戸在でした。

 ただし、その門下生は数千人あって各地で活躍をしており、もしかしたらご先祖様は北辰一刀流にご関係があったのかもしれないですね。


[274] 関西圏は情報が少ないですよ 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/08/25(Fri) 13:28

platoさんはじめまして

私の方も関西圏に足掛け4世紀にわたって居座っている家系なので
すが、ご指摘のように関西圏では千葉に関する情報ってほとんど
皆無ですよね。

家紋も月星とは全く関係も無いものだし、辛うじて臼井家がごく
近くにいることで下総とのつながりがあるらしいとしか情報があ
りません。それでも滋賀から出て京都、大阪、神戸くらいまで分
家していった家があるようです。(室蘭にも分家があるようですが、音信はまったくないですね。)

吉野といえば、更に南に下った十津川郷士に千葉の苗字を持つ家
があったとは聞いていますが・・・。といったか細い情報しか持ち
合わせておりません。鎌倉期から室町初期にかけては伊賀守護で
したから下総から派遣された千葉の一族が関西圏に常駐していた
でしょう。また、美濃には千葉孫兵衛家が鎌倉初期から分家した
とも言われています。そして戦国時代に関東から上方へ仕官のた
め臼井良胤以下多くの一族が出てきていますから、恐らくどれか
に突き当たるのでしょうけれど、記憶や記録がなくなってしまった
今ではどうしようもないですね。

あ、それから鎌倉末期には笠置攻めや千早赤阪攻めで千葉氏も幕
府方として吉野や河内まで出張ってきていますから、その線から
も奈良辺りに落ち着かれた御先祖様がいたのかも知れませんね。

あまりplatoさんには有益な情報ではないでしょうけど、こんな
ことしか書けないですね。 m(_ _)m


[273] 軽傷のようで安心致しました 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/08/25(Fri) 02:39

軽傷のようで安心致しました。

友人の父親が三河花火の仕事をしてまして、
両手首を吹き飛ばしました。

私の夫の父親は薬品の配合を間違えて右手を吹き飛ばしました。


軽傷のご様子でちょっと安心致しました。
事故が大事にならなくて本当に安心致しました。

服部さん、こんにちは!
心配していただきありがとうございます〜〜(^_^)
それほどの重症ではなく、約一ヶ月からの傷でした。
ただ、ヤケドということで、毎日病院通いです(T_T)
早く治したいですねぇ(^^;


[272] 先祖について 投稿者:plato [月星] 投稿日:2000/08/25(Fri) 02:22

我が家の家紋は「月星」です。
4代前までの方が、今の小生の苗字になる以前はずっと「千葉」氏だったそうです。
そこで先祖調べをしようとして、Webで調べても手がかりはありません。なぜなら小生の先祖は奈良県の吉野の山中であり、そのようなところに関係する「千葉」氏は公式にはまったく残っていないからです。
もし何かご存知のことがあれば教えていただければ幸いです。


[271] 両方とも3マイル以内でないと 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/08/23(Wed) 22:47

ケーブル・モデムの方は2年前の今頃は従兄家には入ってました。

我が家は山の中なのでケーブルは望めませんでしたが
光ファイバーが2ヵ月後には来るそうです。

DSLの方は2週間以内に来るそうです。
先週工事していました。
我が家は最寄りの電話局から車で3。5マイル離れているので無理かと思いましたが、大丈夫のようです???


[270] 業界スズメ ”チュンチュン” 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/08/22(Tue) 23:39

D−FFです。

千葉氏顕彰会特別講演、楽しく聴かせていただきました。千葉久さん、はじめ顕彰会の役員の皆様、有り難う御座います。管理人さんにもお会いできました、今後とも宜しくお願い申し上げます。
美濃・やまと町へは、是非一度行ってみたくなりました、次の連休が楽しみです、でも、前に白川郷へ行った時にあそこ通ったんですよ、おしかったなー!
千葉神社の宮司さんのお話は、講談を聴いているようでとっても面白かったです。(宮司さんには、失礼ですが)

服部さん、こんにちわ
アレエッ! アメリカってケーブルモデムが当たり前じゃないんですか?
日本では、ケーブルテレビが余り発達していないので、皆しかたなしに電話回線を使っているので、ケーブルのインフラの発達しているアメリカがうらやましくってしかたないのに。
DSLがどのような回線を使っているか分かりませんので確かなことは言えませんが、物理的にケーブルの方が高速だと思います。但し、ケーブルテレビに加入していて、ついでに、そのインフラを利用してインターネットもつないでしまおうというのが経済的です。
ところで、アメリカの家電メーカー??? アメリカで、テレビを買おうとしたら日本か韓国のメーカーじゃないんでしょうか?日本や韓国のテレビメーカーは、同時にパソコンメーカーでもあります。いったいどこの株をお買い求めになるんでしょう!!!  @_@
業界では、パソコンかゲーム機か携帯電話の三者の戦いと言われています。(最も有力なのが、ゲーム機と見られています。)
アメリカでは、パソコンの普及率が高いので、インターネットは、パソコンが主流ですが、日本では、パソコンがアメリカほど普及していないので、インターネット利用人口は、携帯電話が一番になろうとしています。中でもNTTDoCoMoのiモードが簡易型HTMLを利用していて携帯電話用のホームページが簡単に作成できることから、携帯電話からアクセス出来る、コンテンツが急速に増えています。携帯電話からインターネットを利用するには、WAPというデータ形式の規格が世界標準としてあるのですが、ヨーロッパでも簡易型HTMLが注目され始めています。蛇足ですが、日本と韓国のテレビメーカーは、携帯電話も作っていますよ・・・・・・!

D−FFさん、こんにちは!

先日はどうもありがとうございましたっ。
どうぞよろしくお願いいたします。
あのあと、花火に直行したのですが、その花火のお陰で
手首にやけどを負ってしまいましたーー(T_T)
打ち上げ花火が倒れて直撃してしまったのですが、
幸い、手首と足首だけですみました。。ふぅ。

そのあとは、友達6人に公園や病院に連れて行ってもらい、時間外診療でしたが、自分が病院についたときには
すでに友達が申込書(?)に記入していてくれて、迅速に治療が受けられました。感謝感謝でした(T_T)


[269] DSL vs ケーブル・モデム 投稿者:服部 明子 [松皮菱の尻合] 投稿日:2000/08/19(Sat) 14:03

今日やっとケーブル会社「アデルフィア」からダイレクトメールが届きました。

我が家の存在するマンデヴィル・キャニオンにケーブル・モデムが可能になったそうです。

う〜ん。。。

今頃ねぇ。。。

どっちが良いのでしょうね?

町中は2年前に既にケーブル・モデムが可能で我が家のある山の手がやっと最近可能になったとはと思いきやなんとケーブルはマンデヴィル・キャニオンの皆さんと共有なんですって。

  共有ということはどういうこと?
  説明されても納得がいかない。

  矢張りDSLの方が有利?

さて、ケーブル・モデムのことですが、こんな記事が無料誌に載っていました。

ケーブル・モデムの接続者が来年には5200万人に、という記事です。

 ハイテク市場調査会社のデータクエストによるとテレビでインターネットを楽しむ利用者は2001年には5000万人を超え、テレビ経由のネット接続が今後急増するとの予測をまとめた。
 99年に2700万人だったテレビ経由のネット接続者が2000年には4400万人、2001年には5200万人に達すると予測。
 インターネット・テレビはネット・サービス最大手のAOLが双方向テレビ事業に参入するなど全米で注目を集めている。

また専門家は、

 将来はテレビなどの家電や携帯情報端末などを経由したネット接続がパソコンによる接続を上回ると予想している。

だそうです。

この記事からワタクシに分かることはだったら家電メーカーの株を買わなくっちゃ!です。

DSLとケーブル

どっちが有利でしょうね?
そしてどっちが勝利を納めるのでしょうね?


[268] 我が家にDSLがやって来る? 投稿者:服部 明子 [松皮菱の尻合] 投稿日:2000/08/19(Sat) 11:52

またまた勝手な書き込みです。

US INTERNET という日本の会社の DSL と 料金をご紹介。
日本語です。

http://japan.usinter.net

ここから下の黄土色の枠の DSL に行って料金をご覧下さい。

または1番下のURLからどうぞ。


US INTERNET:

2800 28th Street, #215
Santa Monica, CA 90405

E-Mail:info@usinter.net

電話:310-581-2811
ファックス: 310-581-2831

http://japan.usinter.net/services/dsl.html

ここから直接行けると思います。


[267] RE: 中世相馬氏関係資料 投稿者:HAZU [] 投稿日:2000/08/19(Sat) 11:15

>>相馬氏・千葉氏を主軸とした研究(1965〜1984年ごろ)
>> 23点の論文ほか(略)

 これを略するのはまずいか(^_^;)

 豊田・田代『中世における相馬氏とその史料』
      (東北大学日本文化研究所報告第3号)
 高橋健一 『中世相馬氏の所領形成』(福大史学第5号)
 福島県  『福島県史1−原始・古代・中世−通史編』
 相馬市  『相馬市史4−資料編1奥相志』
 相馬市  『相馬市史5−資料編2史書類ほか』
 福田豊彦 『千葉常胤』
 福田豊彦 『『源平闘諍録』−その千葉氏関係の説話を中心として』
      (東工大人文論叢)
 岡田清一 『平安末期に於ける千葉氏の動向』(史遊会「史遊」第4号)
 小高町  『小高町史』
 千枝章一 『相馬氏の奥州移住について』(相馬史学会会報第59号)
 岡田清一 『鎌倉初期の相馬氏』(東葛歴史研究会「総林」創刊号)
      『中世相馬御厨に関する覚え書』(我孫子市史研究第2号)
 森田洋平 『相馬郡と相馬氏について』(我孫子氏史研究第2号)
 岡田清一 『相馬系図成立に関する一考察』(地方史研究第27巻第5号)
      『中世の相馬氏』(東北福祉大学紀要第2号)
 森田洋平 『相馬惣領家とその所領』(我孫子市史研究第3号)
 湯山 学 『相馬御厨と島津・摂津両氏』(我孫子市史研究第3号)
 岡田清一 『中世相馬氏における散在所領の支配形態』
      (我孫子市史研究第3号)
      『中世相馬氏の基礎的研究』(崙書房)
 豊田・田代『相馬文書』(続群書類従完成会)
 服部 修 『中世相馬氏の支配と鹿島地方』(福島史学研究第35号)
 相馬市  『相馬市史1−通史編』
 岡田清一 『相馬氏と鎌倉北条氏』
      (千葉県史編纂室「千葉県の歴史」第27号)

当然ながら、相馬氏関係の史料の一部でしょうが、史料が揃って紹介さ
れていましたので紹介しました。


筈衛

筈衛さん、こんにちは!

ご紹介いただいた本のうち、参考資料として拝見させていただいたのは、先にご記入いただいた書籍も含めて

 相馬市  『相馬市史4−資料編1奥相志』
 相馬市  『相馬市史5−資料編2史書類ほか』
 福田豊彦 『千葉常胤』
 森田洋平 『相馬郡と相馬氏について』(我孫子氏史研究第2号)
 森田洋平 『相馬惣領家とその所領』(我孫子市史研究第3号)
 湯山 学 『相馬御厨と島津・摂津両氏』(我孫子市史研究第3号)
 岡田清一 『中世相馬氏における散在所領の支配形態』(我孫子市史研究第3号)
      『中世相馬氏の基礎的研究』(崙書房)
 豊田・田代『相馬文書』(続群書類従完成会)
 相馬市  『相馬市史1−通史編』

だけですね。。あとの著書はまだ拝見させていただいたことはないです。中央図書館や大学の図書館をもう少し探せばあるかもしれないですね。
参考にさせていただきますっ!ありがとうございました。


[266] 中世相馬氏関係資料 投稿者:HAZU [] 投稿日:2000/08/19(Sat) 10:32

知っていらっしゃるものが多いと思いますが、少し中世の相馬氏関係の
史料とがありましたので、お知らせします。
福島県教育委員会と小高町教育委員とが共催で行なった福島県文化財保
護指導者講習会の史料からのものです(^^;

相馬氏の基礎研究(主に戦前)
 大森金五郎『平将門の本貫と偽宮』(歴史地理第2巻第9号)
 星野 亘 『相馬系譜考』(史学叢説第2集)
 小比木忠三郎『磐城国相馬郡福浦村大字和泉沢ノ磨崖仏ニ就テ』
       (福島県史蹟名勝天然記念物調査報告書第2集)
 大森金五郎『相馬御厨に就いて』(歴史地理第39巻第1号)
 舘岡虎三 『相馬近世史』
 森 伊織 『相馬略史』
 今野美寿 『相馬藩政史』
 伊東多三郎『相馬藩政確立の過程』(歴史地理第77巻第6号)

在地領主の一事例として相馬氏を研究(1952〜1961年ごろ)
 永原慶二 『東国における惣領制の解体過程』(史学雑誌第61巻第3号)
 豊田 武 『初期の封建制と東北地方』(東北史の新研究)
 西岡虎之助『坂東八カ国における武士領荘園の発達』(荘園史の研究下巻一)
 内田 実 『平安末期『領主制』研究の一視点』(歴史学研究第233号)
 安田元久 『古代末期における関東武士団』(日本封建制成立の諸前提)
 松戸市  『松戸市史』

相馬氏・千葉氏を主軸とした研究(1965〜1984年ごろ)
 23点の論文ほか(略)

隣接分野を含めた学術的研究の拡大(1986年〜)
 18点の論文ほか(略)

(^u^;)ハァハァゼェゼェ・・・ ツカレタ...

筈衛


[265] 特別講演のお知らせ 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/08/13(Sun) 00:04

ご無沙汰しております。
千葉氏フォーラムでは8月19日『千葉氏と妙見祭』と題して
特別講演会を開催致します。
場所は千葉市千葉中央ツインビル14階の商工会議所第1ホールです。
詳しくは、管理人さんの千葉氏顕彰会の紹介HPに掲載して頂いて
おります。
急なお知らせですが、ご都合のよい方は是非お出かけください。

千葉さん、こんにちは!

千葉氏顕彰会ご紹介ページはこちらになっています。http://member.nifty.ne.jp/bame/kenshou.htm
詳細はこちらをご覧ください。


[264] はじめまして! 投稿者:こうじ [月星] 投稿日:2000/08/12(Sat) 00:25

はじめまして!
母方が千葉姓なもんで色々検索をしていたらここにたどり着きました。凄い情報量ですね!!おどろきました(^^)
母方の家系は千葉県匝瑳郡に住んでおり、幕末に佐原のほうからお姫様が嫁いで来たときに千葉姓を一緒にもらったそうです。
家紋は月星で瓦などにも入ってます。少しは関係があるのかもしれないかなあ、なんて思ってます。

こうじさん、こんにちは!初めまして!

以前、やはりお姫様が嫁いでこられたという方に書き込みをいただきました。ちょっと、過去ログの方に見当たらないようです。。。残念(T_T)
佐原のほうであれば、国分氏や大須賀氏ともご関係があるかもしれませんね!
瓦に月星の紋が入った建物で、ぱっと思いついたのが(実はここしか知らないのですが)、県立中央図書館のとなりにある「胤重寺」でした。武石胤重と関係があるとされています。


[263] ちょっとメズラシイ風景 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/08/07(Mon) 22:34

管理人さん
昨日、NHKで、泉水ちゃんを見ました。
ちょっとめずらしかったです。
シドニーオリンピックのテーマソングに泉水ちゃんの
曲がなったようです。

小生も、円暴落は、今のところ無いと思います。ファンダメンタルが依然としてしっかりしているからです。こんなに不景気が長く続いていますが、その間も貿易・経常、共に黒字が続いています。要するに外貨準備高は依然として増え続けています。実感がわかないと思いますが、日本は、どんどんお金持ちになっているのです。

D-FFさん、こんにちは!

ZARDのGet U're Dreamが9月6日に出ますね。
最初のページに、いろいろ追加しておきましたっ(^_^)
昨日、宣伝もやってましたよ〜。
今日はこれから千葉マリンのB'zライブに行ってきます。


[262] かたじけない。 投稿者:しまなみ [橘] 投稿日:2000/08/07(Mon) 15:12

>管理人さん

家紋追加&妙見信仰についてのレスかたじけなく存じます♪
白井氏はやはり房胤の白井氏だったんですね。
白井氏の伊予侵攻について卒論で触れた要旨をここにこの前カキコしてますので、よかったらさかのぼってご覧いただいて、ご意見を賜れば幸いですっ(^_^)

前の2つは経済ネタですね。私も政治学や経済学を勉強しようとあがいてます・・・パックス〜も聞いたことありますよ。
そういえば、極東の二極構造はもう崩壊しちゃったと思っていいんでしょうか?私はロシアが気になるのですが・・・

 しまなみさん、こんにちは!

 白井房胤は天文10(1541)年6月、小原中務丞隆言の指揮のもとで三嶋甘崎・岡村・能島・印之島などに攻撃をかけ、さらに翌年9月には大根島、天文15(1546)年には冷泉隆豊のもとで伊予国平智島・中途島に攻めていますね。河野氏に従う海賊衆が大内家の命に従わなかったために攻めたとされています。三嶋に攻め寄せたときは、大山祗神社の大祝が防戦して、河野氏の命を受けた村上・今岡氏がこれを撃退したと記されていました。

 実は、中国地方には詳しくないのでよく知らないのですが、大友氏と大内氏は仲が悪かったのですか?大内義隆の妹(姉?)は大友義鑑の室で、その子が大内義長だと思ったもので、その仲は良好だったのかな。。と思っていました。この時代、縁戚であろうと打ち倒すのは、今川・武田も然りですから、不思議ではないですね(^_^)

 臼井氏(神保興胤)は、小早川隆景に配属となって、伊予河野氏との折衝に当たっています。隆景は、輝元から河野通宣(?)へ宛てた2通の書状のほかに、みずからが書いた姪っ子の通宣妻への書状をともに届けさせています。

 そういえば村上氏(能島)は毛利家に仕えて萩藩士になったのちも海と関わりを持っていたのでしょうかっ?


[261] 経済ネタ...! 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/08/06(Sun) 01:52

服部さん、こんにちわ。経済ネタですが、嫌いでないので、RESしちゃいます。
円$統合! ということは、日本の通貨が国際的基軸通貨となるのですネ。そうなれば、通貨の相場に毎日一喜一憂しなくてもよくなるのですね。 @_@
そのかわり、ドメスティック的に言う処の”日本”の金融のコントロールがガバメントとしての”日本”でできなくなる、のがデメリットですね。 T_T
でも、アメリカにとってのメリットっていったい何?
と言うのも、未来永劫パックスアメリカーナが続く事が前提です。「おごる平家は、久からず」ですから!

あれ、千葉氏も平家!? まずいことを言ったでしょうか...。


[260] こんな不安記事を読みました 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/08/05(Sat) 21:14

これって、ただのアメリカ側だけの「マスコミ的な」不安記事なのかなぁ?

昨日届いた無料誌の記事によると:

日銀ゼロ金利解除見送りで噂される「ハイパーインフレ」と「ドル円通貨統合」
なんて見出しが出てます。。。

日銀がそごう倒産という大誤算からゼロ金利継続にしたけど
これがアメリカの画策による「ドル円通貨統合」への一歩だ
という噂が出てるそうなのです。

アメリカ側にすれば日本の金融引き締めは困るという訳です。
過熱気味のアメリカ経済を完璧にソフトランディングさせるには
日本の経済が再び戻ることが必要で
それで17日の日銀政策委員会のゼロ金利継続宣言はアメリカの指示だというのです。

今、金利を上げれば潰れる会社はもっと出るだろうし失業率も上がるだろうけど、
ゼロ金利で濡れ手に粟してきた銀行は
このままゼロ金利が続けば
運用先が見つからず<逆ザヤ>で苦しいことになる。

これ以上の財政出動は既に限界にきているし
ゼロ金利なのに実際には資金は回っていない。

実際マネーサプライはバブルのピークの記録をはるかに上回っている状況にある。

そこで、<円>の信任が一瞬でも崩れたらどうなるか?

最悪のシナリオでは金利が上昇してハイパーインフレつまり円の大暴落となり
アメリカはドルの信任によってこれを支えるという名目のもと
ドルは円を通貨統合する構想がある。。。

らしいです。

 服部さん、こんにちは!

 日銀ゼロ金利解除見送りは、財務長官だったかだれだか忘れましたが、ゼロ金利継続を強くもとめたと記憶しています。それに日銀が従ったのでしょう。

 日本の金融再生委員会の委員長など、今日、参議院で質疑がありましたが、これを見ていても質問に対して建設的な発言がまっっっっっったく見られませんでした。首相も然り。質問に対しての答えがまったく成立しないのは、首相はじめいつものことですが、3度同じ質問をしてようやく半歩前に出るという状態で、同じ答弁を繰り返していました。亀井議員は民間の貯蓄があるので、財政赤字でインフレは起こらないというような発言をしていたような気がしますが、そういう認識なんです。ゼロ金利であれば、貯蓄が減り市場に資本が流れるのが普通なのでしょうが、景気の明るさが見えておらず、民間も必要なものだけにお金を使うことから、結局はタンス貯金となって市場に出回らないのでしょう。円の大暴落にはまだ結びつかないと思いますが、これ以上赤字が増えれば国債の信用はなくなってしまうんじゃないかなぁ。なんて思ってます。考えすぎ??

 ドルの信任。。。パックス・アメリカーナがずっと続けば、、、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはすですからねっ。円の信任がなくなればアジアだけではなく世界的にもものすごい影響があるんでしょうねぇ。アメリカもそれだけは避けたいでしょうから、そんなことになる前に何らかの対処をするんじゃないでしょうか。。。なんて思ってます(^_^)


[259] RE: 久留米と久留島 投稿者:HAZU [] 投稿日:2000/08/02(Wed) 22:25

>>系図関係に大変造詣が深いお方ですな。レスありがとうございます。
>>黒川氏や畠山氏ネタでは勉強させて頂いてますよ…フフフ(^^)

 あれ(^^; 見てたの(;^_^A アセアセ・・・

>>さて、折角頂いたレスなのですが、ご紹介された書物は「久留米藩」
>>となっていますが、あれは「久留島藩」の間違いでしょうか?久留米
>>と久留島…似てる(-_-)

 間違い間違い(;^_^A アセアセ・・・

 『久留島藩先祖書』九州史料落穂集G 文献出版社刊   \3000

 こっちだった(^^;
 なお、これらの本の情報は、もともと、次の掲示板に書いたものです(^^;

 家系城郭研究所 談話室
 http://wave.ruru.ne.jp/vampire/f_bbs/vampire.cgi?room=605738

 筈衛

筈衛さん、こんにちは!
Niftyのページでは大変お世話になりました。
いつもいつも質問ばかりで申し訳ありません(T_T)

お書きくださったアドレスのほうから、徳川さんと伊達さんのページを見させていただく事ができました。伊達さんのページは大変重厚ですね。。徳川さんもプロフィールなど、大変気さくな方みたいですね(^_^)


[258] 久留米と久留島 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/08/02(Wed) 16:05

>筈衛殿

系図関係に大変造詣が深いお方ですな。レスありがとうございます。黒川氏や畠山氏ネタでは勉強させて頂いてますよ…フフフ(^^)

さて、折角頂いたレスなのですが、ご紹介された書物は「久留米藩」となっていますが、あれは「久留島藩」の間違いでしょうか?久留米と久留島…似てる(-_-)

>江州殿

私も阿波生まれではありません。純粋な伊予人?ですよ。ただ、先祖が阿波勝浦にいたということだけです。元をたどれば足利氏一族の吉良氏の流れだそうですが…。


[257] 済みません。阿波生まれではありませんので 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/08/02(Wed) 08:30

しまなみさん、レスありがとうございました。
残念ながら江州は阿波生まれではありませんので、悪しからず。
名前の通り近江土着の出なものですから。
系図上では阿波美馬郡の安楽寺の千葉家とは繋がっているはずで
すが、その件と実際に棲息しているだけの阿波つながりなもので
すから・・・。m@m


[256] RE: 私も阿波です 投稿者:HAZU [] 投稿日:2000/08/01(Tue) 20:05


 こんにちは(^^;) わたしにはわかりませんので、本の紹介くらいして
おきます(^o^)

>>12500石の藩領ですが、家臣に千葉氏がいるみたいです。墓石が
>>ありまして、家紋は違輪でした。この千葉氏は出自は不明です。九州
>>の千葉氏一族かな?どなたか詳細をご存知の方は…?

 『久留米藩御家中分限帳』(寛文6年)2冊 鶴久二郎著・編
                           \15000
 『久留米藩旧家由緒書』 久留米史料叢書@ 古賀幸雄編
                            \5000
 『久留米藩の旧家系図』 鶴久二郎著・編        \8000

3冊がでています。見つかるかもしれませんよ(^^;

筈衛


[255] 私も阿波です 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/08/01(Tue) 18:12

こんにちは。久々登場のしまなみです♪

>江州さん
同郷ですね。私は一応生まれも育ちも伊予ですが、父祖伝来の地は阿波勝浦郷です。六男坊の父が伊予に流れてきました。

ところで、私は海賊衆村上氏の研究もしていますので、この間豊後森という所へ調査(旅行?)行ってきました。この森藩は久留島氏12500石の藩領ですが、家臣に千葉氏がいるみたいです。墓石がありまして、家紋は違輪でした。この千葉氏は出自は不明です。九州の千葉氏一族かな?どなたか詳細をご存知の方は…?
あと、妙見宮が領内に建てられています。
妙見信仰って、どのようなものなのでしょうか?

尚々、家紋に橘がほしいです(^^;あと、管理人さんが調べられた大内氏の白井氏って、臼井氏なのですか?

しまなみさん、こんにちはっ!

輪違いの千葉氏は、ほかにもどこかで見たような。。。ちょっと忘れてしまいました(^^;
妙見信仰は古代にまでさかのぼる信仰で、騎馬民族によって伝えられた大陸の信仰です。
北極星を北辰とよび、これを目印に夜の草原を歩いていた民族が信仰しました。
妙見神はもともと農耕・鎮守の神(日本古来の神ではなく、大陸から伝わった神)でしたが、その鎮守神・御霊神という性格から、平将門の怨霊の鎮魂の意味を持って妙見信仰が関東の武士団の中に広まり、妙見神は次第に弓箭神という立場を持つようになっていきました。とくに千葉氏は将門信仰と密接な関わりを持った地域の豪族であり、武士団の団結を保つために共通の信仰=妙見信仰を取り入れたと考えられています。丸井敬司氏の『上総下総千葉一族』(新人物往来社)に詳しく載せられてあります。
妙見信仰は真言宗、天台宗など密教系の仏教ほか、伊勢神宮などとも密接に関わっていて非常に奥深く、興味があります。

家紋に「橘」、了解いたしました。追加しておきますねっ(^▽^)
大内氏の白井(しらい)氏は臼井氏とは別です。大内家の白井氏(伊予に攻め込んだ海賊)はもともと安芸武田氏の被官の海賊でしたが、大内家へ寝返り、その後は陶家に、またその後は毛利家に仕え、子孫は萩藩士となりました。

いっぽう、臼井氏にも大内氏の家臣から毛利家へ移った一族がありますが、直接的な血縁関係はないと思われます。臼井氏(神保氏)は、水軍を統括していた小早川隆景の家臣となり、伊予河野氏との折衝のための使者として派遣されています。幕末の臼井氏には奇兵隊士に名を連ねた人物もありました。

臼井氏・白井氏ともに瀬戸内・伊予河野氏との関わりがありますね。とくに白井氏の場合、村上氏とも姻戚関係にありました。また、臼井氏・白井氏ともに「奇兵隊」に関わっていました。


[254] わかりました 投稿者:はいからさん [追加希望] 投稿日:2000/07/31(Mon) 21:52

江州さん>
ありがとうございます。
ちゃんとありましたね。見落としてました(恥)。

うーん・・・!
千葉中が、千葉氏みたいで、ますますびっくりです!
見甲斐があります!


[253] no title 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/07/30(Sun) 13:31

はいからさん、はじめまして。
この掲示板の居候の一人江州といいます。

佐倉宗吾こと木内惣五郎は紛れも無く下総千葉氏の出ですね。
確かこのHPの中にも書かれていたかと思いますが・・・。
木内氏の系図の中には日本でも珍しく女子の名前も残されており
皇室や藤原氏以外ではあまり例がないと聞いていますよ。
たぶん木内氏の祖である東六郎大夫胤頼の気質を継承してきた
からかも知れませんが。皆さんも薄々お気付きになられていたと
思いますが、管理人さんはきちんと木内氏の項の系図には女性の名
前も載せられていますから・・・。

管理人さん、臼井氏のページ充実させていただいてありがとうござ
います。臼井秀胤以降の系譜も他に例を見ないくらい立派なもの
になりましたね。ところで、間部家の臼井氏は中老が出世の限界
だったんでしょうね。間部家には高崎以来の五家老というのがあ
ったらしく、他氏は昇進しても中老までということだったようです。
間部家の臼井氏は当主が義大夫で、その後継者がトミノシン(代に
よって当てる字が違うようですが)を名乗る傾向がありますね。
ただ幕末頃にはそのような名前を名乗る人物が出てこないのはどう
したことだったんでしょうね。

江州さん、こんにちは!

江戸末期の『分限帳』によれば、
御家老…間部勘十郎(650石)、植田志津摩(600石)
御城代…なし
御年寄…石井策之丞(320石)
御中老…里見内記(270石)、河口市之進(310石)、五十嵐登守(240石)
御中老格…なし
御番頭…小川七左衛門(100石)、奥村一学(400石)、曾我政内(330石)
となっていました。
高崎以来の家臣が上席にいたことは確かのようですねっ。
儀太夫になる人物は、前名として「トミノシン」もしくは「●蔵」という名を名乗っていたのかもしれません。


[252] ごあいさつです 投稿者:はいからさん [追加希望] 投稿日:2000/07/29(Sat) 12:33

はじめまして。わたしは、印旛郡某所に住んでいるものです。
以前から、千葉氏の妙見信仰に、とても興味があります。
そうでなくても、やはり、郷土を築き上げた一族、と
いうことで・・・!
歴史が大好きです。今も、学校で日本史を専攻しています。

このHPに訪れまして、千葉氏って奥が深いなあと、
つくづく感じました。

これからも、勉強したいので、こちらに来ますね。
よろしくお願い致します。

P.S.佐倉宗吾が、千葉氏一族だったんですか・・・!
  地元の伝説的な存在ですので、びっくりです。
  より、くわしい出自がわかったら・・・と思いました。

http://u.y7.net/high-collar

はいからさんさん、はじめまして!

ページの管理人をしています、管理人と申します。
妙見信仰は奥深いですね。とくに、千葉氏だけではなく
伊勢神宮や摂津のほうなど、古代から信仰されているもの、
秩父の秩父氏も信仰していました。朝鮮半島など、
大陸から渡来してきた騎馬民族からの影響がたぶんに含まれているとされます。
まだまだ、妙見信仰を研究するまで達していないため、当ページでは
まだ取り上げていませんが、そのうち信仰面からも見てみようかと考えています(^∇^)
これからも当ページ、どうぞよろしくおねがいしますね!


[251] こんにちは! 投稿者:Minstrel [家紋不明] 投稿日:2000/07/28(Fri) 10:13

実は四街道市に住んでいます。
ですので、下のお話し、けっこうわかります。地名は全部わかります。
城は残っていませんが、城跡があったり石垣だけあったりします。
四街道は、ないようで、結構遺跡のある土地柄のようですよ。

http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/


[250] ”あわ”つながり 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/07/27(Thu) 22:22

江州さん、こんにちわ。 「”あわ”つながり」でしたか! @_@

千葉久さん、沖縄県章の意味、有り難う御座います。
なかなか、粋なマークなんですネ。
千葉県の県章は、確か「千葉」を図案化したものだったとおもいます。小さい頃、海上保安庁のマークと区別がつかなくて、海上保安庁の舟なのか、千葉県の水産試験船なのかずいぶん間違えていました。

考古学関係のホームページを探していたら、昨晩、面白いページが見つかりました。千葉県文化財センターのホームページの一部コピーです。

四街道市内には、中世の城館跡として消滅したものも含め18ヶ所が確認されている。その多くは、市内を流れる鹿島川やその支流沿いの台地に造られています。
この地域は臼井氏一族の山梨(山梨)・鹿渡・小名(小名木)など現在も残っている地名を名字にした地侍がいたと考えられる。
戦国時代中頃は、臼井氏一族は、本佐倉城を本拠とする千葉氏本家と争っていたようです。
その関係で鹿島川沿いに多くの城館跡が残っているのかもしれません。
また、このころ千葉氏は小田原の北条氏の家臣となっており、北条氏と敵対関係にある安房の里見氏が印旛地域に攻め込んできたときに蕨(和良比)城が中継基地として使われたようです。
詳しくは、http://www.echopoint.com/bunkazai2/walk.htm
沼南町泉の石揚遺跡も載っています。


[249] 阿波に棲息してます 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/07/27(Thu) 12:59

久さん、早々とご追記ありがとうございました。

Minstrelさん、私はもう一方の阿波にて棲息しております江州です。
D-FFさんとは臼井つながりでここの掲示板にお邪魔しております。
あまりお役に立てないかもしれませんが、今後とも宜しくお願い致します。


[248] 沖縄県の県章 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/07/27(Thu) 02:21

皆さんお久しぶりです
もうご覧になっている方もいると思いますが
沖縄県の県章に付いては沖縄県のHPにありました。
偶然とはいえ驚きですね。
色から見ると星と太陽かも知れませんね。
『県章:外円は海洋を表わし、白い円はローマ字の
「O(okinawa)」で、沖縄を表現するとともに人の和を強調しています。……』だそうです。
詳しくは
http://www.pref.okinawa.jp/symbol/index.html
をご覧下さい。

千葉さん、こんにちは!
沖縄県の県章は、月星紋によく似てますね!
沼南町の町章は手賀沼などをイメージして
デザインされていますが、ちょっと月星紋に似てるかも。。。?


[247] 県章でしたか! 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/07/26(Wed) 22:43

江州さん、こんにちわ。RES有り難う御座います。
あれは、沖縄の県章だったのですね、知りませんでした。メモメモ!  @_@
県章には、それなりの意味があると思うのですが、沖縄県は、どのような所以で月星紋とおぼしきシンボルを用いているのでしょうか?

月と星のマークを国旗に用いている国は、沢山有ります。月星の紋章は、国際的なシンボルマーク(エンブレム)ですが、沖縄にも何か意味するところがあるのでしょうネ。

Minstrelさん、こんにちわ、はじめまして、D−FFです。
小生も房州生まれなので、安房と阿波の関係には、興味があります。房州は、大和朝廷の東国経略の橋頭堡であったと聞かされて育ちました。
この話題は、服部さんの「236」の書き込みに、ちょっと反射的に反応してしまったカキコです。こちらのホームページの主題ではないんですが.... なにかの御縁です、宜しくお願い申し上げます。  もしかして、妙見神のひきあわせでしょうか。  ~v~ 


[246] はじめまして 投稿者:Minstrel [家紋不明] 投稿日:2000/07/26(Wed) 17:16

四国の阿波と安房の関係を考えていたところで、このサイトに遭遇したのですが、あんまり充実した凄いページなのでビックリしてしまいました。^^
あちこち見させていただきましたが、奥が深いですね。

千葉氏についても、色々興味がるので、また参考にさせていただきます。
また来ますのでよろしく!

http://www.interq.or.jp/pluto/minstrel/

Minstrelさん、こんにちは!はじめまして。

千葉氏のページの管理人の管理人と申します(^_^)
四街道市には、D-FFさんのおっしゃられるとおり、臼井氏と思われる一族が
土着していたようです。ただ、臼井氏は宝治合戦の影響からか、鎌倉期の謂れがうかがえず、
鎌倉末期の臼井興胤が尊氏に従って軍功を挙げたことからふたたび臼井の名が世の中に
出てくることになります。

D-FFさんご紹介のページに載せられている
臼井氏と千葉氏の対立のこともちょっと調べてみますね。


[245] no title 投稿者:江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/07/25(Tue) 08:12

おひさでカキコ致します。

D-FFさんもやっぱりあの放送をご覧になって思われましたか。
上天に星の月星紋のようなマークは沖縄県の県章ですね。私も
あの光景を見て千葉関係のサミットか?と思いましたよ(笑)。

江州さん、こんにちは!
間部家の臼井氏について、分限帳の中に石高が記されていましたので、
臼井氏のページに追加しておきました(^_^)


[244] ??サミットに月星紋?? 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/07/24(Mon) 21:36

沖縄サミットのレセプション会場の看板の向かって右側は、月星紋(上天に星)で左側が、九曜紋と確かに見ましたが?
どうして、サミットに月星紋なのでしょうか? どなたかご存じでは。  @_@

房州生まれですので一言。
「あわ」は、2国で一つの国と聴いたことがあります。阿波と安房で一国というわけです。館山市大神宮に鎮座します、安房神社(名神大社「延喜式神銘帳」・官弊大社「明治官制」・安房一宮・安房郡を神郡として持つ)は、忌部氏の祖神である、天の太玉命を祀っています。忌部氏は、勿論、阿波の国を本官とする一族です。又、阿波と安房の2国を開拓した、太玉命の子供の天富命も併祀しています。勿論、奥さんのアメノヒリトメ命も。(アメノヒリトメ命は、洲崎神社に別に祀られています。昔は、両社を一対としていたようです。又、江戸時代には、安房神社は、洲崎大明神と言われていたようです。)

D-FFさん、こんにちは!

安房は阿波国のひとが黒潮に乗って移住してつくられたという話しを聞いたことがあります。
古代から安房国造・長狭国造というものがあり、それが大化改新で上総国に編入されて、
平群・朝夷・長狭・安房の四郡ができ、さらに養老2(718)年に四郡は「安房国」として独立したようです。
またそれが天平12(740)年に上総国に編入され、天平宝字元(740)年にまたまた安房国として独立しました。
一方、阿波国は「粟国」「長国」の二国であったものが大化改新で統一され、「阿波国」として明治に至っています。
安房国には源氏の荘園であった丸御厨があり、洲崎神社は頼朝も参詣した由緒のある神社ですね。


[243] お帰りなさい! 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/21(Fri) 00:00

ドット・コム企業の墓場ご紹介:

http://upside.com

の右手ちょっと下にある GRAVEYARD に行って見て下さい。
または下記のURLからジャンプなさって下さい。

http://www.upside.com/graveyard/index.html

ずらりと並んでいるのはドット・コム企業の墓石です。
倒産または廃業したネット関連の企業です。

驚くのは殆どが1年もっていないことですね。

1) ドット・コム企業は「薄利多売」が戦略とされ
   ネット企業の取り扱い商品の平均価格から
   経費・仕入れ値段を引くと
   (現時点では)
   収益率が+の企業は
衣料品の製造直販と書籍販売の2つの業種に
限られている事が分かる。

2) 例えば:

食料品では1品売るたびに12ドル、
玩具では4ドル4セント、
医療品では16ドル42セントも「損」をしている。

理由は「薄利多売」戦略のせいだそうです。

もし医療品販売のドット・コム企業が損益分岐点を超える
には12億ドルの売り上げを必要とする、そうです。

3) 結論:「ネット通販は流通経路革命ではない」

マッキンゼー・エコノミストの話によると
「ネットは従来の流通経路にとって代わるモノではなく
むしろ従来の流通経路を補完する流通経路でしかないので
は?」
だそうです。

ネット・ビジネスもまだまだというところのようですね。

以上、アメリカの無料誌からの受け売りでした。


[242] 更新 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/20(Thu) 23:11

久しぶりの更新です。。
今回、間部家中の分限帳を見つけましたので、「臼井」に関してのみ掲載いたしました。
粟飯原氏も独立したページにしようかなぁ。。と考えています。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[241] 軽井沢 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/18(Tue) 21:08

皆さんこんにちは。

しばらく軽井沢に行っておりまして、メールの返送が滞ってしまいました(T_T)申し訳ありませんでしたっ。
軽井沢っていいところです!星野温泉は気持ちよかったですヽ( ̄∇ ̄)ノ

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[240] 白井氏の伊予来襲と河野氏の内訌 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/07/14(Fri) 22:57

>管理人さん

こんばんは。白井氏を調べられたのですか。確かもとは安芸守護武田氏の被官から大内へ移り、毛利の代に没落した海上勢力ですね。伊予にも天文期に何度か来襲しています。

さて、管理人さんのレスにあるように、通説ではそのようになっています。これを来島騒動といいます。しかし、出典が近世成立であり、問題点が最近の研究で浮き彫りになってきたので、私が卒論で検討した結果、河野庶流予州家は既に没落して実体を失っていること、弾正少弼通直と晴通は実の父子であり、その対立はこの天文期に全国的におこる父子対立と共通の原理が認められることが明らかになりました。
特に、系譜の混乱ですが、まず戦国期に河野氏権力に安芸毛利氏が婚姻関係を通じて介入してきます。そして、それまで豊後大友氏と婚姻を結んでいた河野氏を毛利側に引き入れました。結果、河野氏は天正15年に最後の当主牛福丸通直が安芸竹原で病没して滅亡しますが、毛利氏は河野氏の歴史を河野氏の旧臣に編纂させるのです。それが『予陽河野家譜』といわれるものです。河野氏に伝来する史料は乏しいため、河野氏の歴史を知るには専らこの編纂物に頼らざるをえません。そのように毛利氏の権力下に編纂された家譜には、毛利氏の旧敵大友氏と河野氏の婚姻関係が隠匿され、戦国期の当主の系譜関係・出自が改変され、曖昧になったとされています。
そして、来島騒動は、大内氏と大友氏にはさまれた河野氏の内部分裂で、嫡子晴通(通政)を奉じた親大友勢力と、当主通直と私がその庶子と推定する村上通康の親大内勢力の軍事対立であったと推測されます。白井氏の伊予来襲は、敵対する親大友派(忽那氏・能島村上氏)に対する威嚇攻撃であったと考えています。

この論文を今晩校正して明日出版社へ送らねばなりません。今月は教採もあるのに・・・しくしく(ToT)


[239] 東氏 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/12(Wed) 22:52

東氏出身の京都建仁寺住持・常庵龍崇はじめ、最勝院素純、最勝院素経らは三条西実隆ら堂上の公家と交わって、その歌道の伝統を宮中に戻しました。

三条西家は三条家の庶流・正親町三条家の分家で、中流の貴族ですが、東常縁→宗祇と伝えられた古今集の伝統を受継ぎ、すたれていた御子左流(藤原定家の流れ)にかわって歌道を伝えた当代きっての文化人でした。この流れを伝えたものが「古今伝授」とよばれるもので、古今集の講釈、さらに深い意味を追求すべき歌を特別に講義、切り紙による伝授がおこなわれました。

常庵龍崇のもと、建仁寺に入山した人物に九英承菊があり、彼は今川家に招かれて、今川家の子を弟子に迎え、梅岳承芳と名乗らせました。これがのちに今川義元となり、九英承菊は太原雪斎として、今川家の軍師となります。

駿河と東氏の関係も深く、東素経も駿河に生きた人物でしたが、叔父の最勝院素純が亡くなったために京都に招かれて、三条西実隆より古今集の講義ならびに源氏物語の講釈を受けています。そしてそののち駿河へと帰国をしています。

千葉一族の中でも異色の系統である東氏は、当主が下総・美濃の両国を行ったり来たりしており、この点でも特殊な一族であるといえます。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[238] お暇な時にお読み下さい 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/10(Mon) 12:41

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100014_6.html


平家系のお話で申し訳ございませんが。
もし、ご存知でしたら、レスをお願い致します。

http://bbs.c-studio.net/heike_slink/100014_6.html


[237] お騒がせしてました「千葉常胤」のレコード 投稿者:Ken [追加希望] 投稿日:2000/07/10(Mon) 10:28

「千葉常胤」の曲ですが、私のここでの書き込みをご覧になった、千葉市顕彰会の方からご連絡をいただき、テープを送っていただきました。
作詞が、私が毎日事務所の前を通る元千葉市会議員氏でした。

内容はうーん。
何と言いましょうか。
作詞の議員氏の意図は、千葉常胤を、仙台の伊達政宗に奉り上げようという感じの、千葉ナショナリズムを意図した感じですね。
曲は、よくある感じの、和風短調、重いテンポのマーチで悪く言えば軍歌調。
詩は、鎌倉幕府成立に如何に千葉常胤が貢献したかを、七五調で綴っております。

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/

Kenさん、こんにちは!

なるほど。。。さすがにロックやポップスではないですよね(^^;かえって現代調のリズムで歌い上げるのは困難ですね。。


[236] 「乱世流転記」 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/09(Sun) 09:35

集英社文庫の管理人錬三郎著「乱世流転記」を読みました。

房総半島は四国の阿波の人々が移り住んで麻を栽培し
安房から北上して開拓されて行ったと書いてありました。

この小説のヒロインは架空である上総国鶴舞城の小須賀甲斐守英吉(平将門子孫)の娘という設定でした。

時代背景は足利将軍家が没落して下克上が始まった頃という設定です。

ですから主人公伏見剣吾は塚原卜伝に「秘法一の太刀」を授かった、とか。

時代モノとしては面白かったですよ。


[235] お気を付けて 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/07(Fri) 11:44

ありがとうございました。
随分ありますね。

日曜日のアメリカ入国は係官が沢山出勤しているので早く審査が終わりますから良い日をお選びになったと思います。

では Have a nice trip!


[234] 住まば江戸 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/07/06(Thu) 23:57

服部さんへ
「詩は、唐詩。歌は、古今に、住まば江戸。」と言うわけで、小生は、日本をこよなく愛するものです。
(この歌謡は、中国の後漢の初代皇帝の光武帝が、長安が良く、仕事は、警視総監に成りたい、そして、妻をめとらば、陰麗花。と言ったのをもじったものと思われます。)
ドイツと言いますと、シーメンス(現インフィニオンテクノロジー)のエンジニアと会ったことがありますが、英語が単語の発音がほとんどドイツ語でかなり理解できなかったのが印象的です。この日曜日に発ってシリコンバレーに行きますが、日本列島に台風が接近中でちょっと心配です。
博物館やお寺で経典の写経を見る機会が多いのですが、なんといっても、昔の人は、楷書の字が綺麗なのが感心します。心を無にして一心に書くとあんなに綺麗に書けるものなのか、雑念の多い小生としては、理解できません。
国宝に指定されている経典は、中尊寺一切経、竜興寺法華経、慈光寺一品経・阿弥陀経・般若心経、東京国立博物館法華経、根津美術館装飾経、浅草寺法華経、鉄舟寺法華経、太平寺般若経、常明寺般若経、宝厳寺法華経、極楽寺法華経、智積院金剛経、藤田美術館般若経、近鉄法華経、奈良国立博物館最勝王経、西大寺最勝王経、長谷寺法華経他、金剛峯寺一切経(中尊寺経)、厳島神社平家納経。「国宝」芸術新潮編集部編(新潮社)より。こんなにいっぱいありました。この中からお好きなものを3点お選び下さい、それが、その人にとっての三大経です。選ぶ前に、全て見てみたいものです。 @_@  半分くらいは、見たこと有るかな!1/3?


[233] ドイツ移民のチャンス到来? 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/06(Thu) 21:51

DーFFさん:

 ドイツがIT革命に追い付く為にインドから技術者を移民させたいようです。

 でもEC問題に発展するでしょうし
国内の反外国人運動家達からの反発も大変でしょう。
もともとが<アーリア人種優越主義観>がありますし
最近はトルコ人問題がありますから。

 でも<アーリア人種>に限って言えばインドだって広意義的には<アーリア人種>に入るのでしょ?
インドとは限定せず、一応、EC圏外から、とぼかしているようです。

 シンガポールは既にアジアでのトップを確保する為に
インド人を移民させています。

 IT革命の為にアメリカは去年あたりから H1-b ビザを大量に発行しています。
それも20万人とかの単位だったように記憶しています。

バンガローア(日本語表記ではバンガロール)からホントに沢山入って来ます。
続々と。
行き先は当然サンフランシスコというかシリコンバレーです。

 今迄は移民先っていうとカナダが簡単でしたが
ドイツが加わりかけています。
アメリカは H1-b ビザ枠が小さ過ぎて取得出来ない人が続出です。

どなたかドイツ移民に挑戦してみます?


[232] <221>の D-FFさんの書き込みにレスあり 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/06(Thu) 13:45

友人にD−FFさんの書き込みを紹介しましたところ以下のレスを頂きましたので
こちらに掲載させて頂きます。

1999年「没後800年記念・源頼朝とゆかりの寺社の名宝」展で、
慈光寺からは「国宝・法華経一品経」五巻、「国宝・法華経筆者目録」、
「県重要文化財・黒漆経箱」が出品されたのは他の出品同様見事なもの。

残念ながら、直筆の書は東大寺(国宝)、神護寺(国・重要文化財)、
鶴岡八幡宮(国・重要文化財)からの出品があり、他の追随を許さないようである。

慈光寺の所在は、埼玉県比企郡都幾川村西平。
比企郡といえば、例の比企氏。
何やら因縁めいた感じがしてくる。
伊豆に20年の間、絶えることなく物資を送り続けた比企氏。
となれば、慈光寺が頼朝以来の有力祈願寺であったことに、何の不思議さもない。

故に頼朝の書があって、当然と言えるかもしれない。
「何と言っても末尾の花押の美しさに惹かれ」と書く頼朝ファンの気持は、
充分過ぎる程、理解できる。

毎年の年賀状に、自分のサインのように花押を印刷している。

頼朝の花押は、他とは違う魅力があるようだ。
本来なら自分の特徴を出すために、色々考えるようだが、
頼家も実朝も頼朝の花押を変形させただけである。
それだけ、頼朝の花押は「偉大」であり、「魅力」を備えていたものと推測する。

面白い説を拝見した。

「経典で有名なのは、安芸宮島厳島神社の平家納経と平泉中尊寺の一切経で、
三番目は慈光寺」という説。

一方、別の説では「安芸・厳島神社の平家納経、駿河・鉄舟寺の久能寺経、
そして慈光寺の法華経一品経」とある。

これを見た時、厳島神社と慈光寺は両方に入っているからいいが、
中尊寺と鉄舟寺は「わしの方だ」と言い出すのではないかと、
変な心配をしている。

以上少し感想をのべてみた由。


[231] 春日の局 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/05(Wed) 00:12

家光に嫡男が誕生した時
春日の局は折敷3文字紋の産着を着せて
諸公に頭を下げさせた
と聞いてます。

伊予の中世の名家河野の出であるということは
昔の武士の家にはかなりの利用価値があったようですね。


[230] 伊予河野氏の系譜及び末裔 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/07/04(Tue) 23:39

 はいっ!しまなみです。ご質問の件お答えします。

<系譜>
 確かに、伊予河野氏の系譜は混乱しています。それは、河野家の特殊な事情によるものです。混乱というよりは、恣意的に書き換えられたと考えています。宗庶家の対立が主な原因です。とくに顕著なのが戦国期で、例を挙げると 刑部大輔通宣−弾正少弼通直=晴通=左京大夫通宣=牛福丸通直 (−…実子=…養子)と通説ではなっていますが、最近の研究では弾正少弼通直−晴通−通宣−通直とすべて実父子関係であると推測されています。こうした改竄の背景には河野氏当主層の代替わりに問題があったこと、とくに周辺諸大名との関連があります。また、戦国末期に滅亡して史料が散逸したというのも系譜関係を曖昧にした理由でもあります。

<末裔>
 お話の通り、稲葉・林・一柳の各氏は越智姓河野氏の末裔を称しています。家紋も、当初は折敷に三文字を使用したといってますし、諱も河野氏の通字「通」を代々(戦国末〜近世)使用しています。しかし、彼らの存在を純粋な伊予側の史料は数種ある系譜はほとんど記しておりません。逆に、稲葉氏・一柳氏の系譜には、当然祖先に河野氏を持ってきます。
 稲葉氏に至っては父弾正少弼通直と喧嘩して諸国を流浪したという伝承を残していますが、そのような伝承がこの伊予に一切残っていないというのは、どういう理由でしょうか?
 愛媛県歴史文化博物館の石野学芸課長が、そのことについて述べられています。それによると、鎌倉・南北朝期に有力武士の所領が全国各地に散在するが、河野氏もその例に洩れず、鎌倉期に美濃国に地頭として土着していた。稲葉・林・一柳氏らは戦国期に河野氏から直接分かれて美濃へ移住したとするが、むしろ、美濃の在地勢力である彼ら諸氏が、美濃へ根を下ろした河野氏と姻戚関係を結び、伊予河野氏の出自を喧伝した可能性の方が高い、とされています(石野弥栄「鎌倉・南北朝期の河野氏と美濃国−美濃河野氏源流小考−」『伊予史談』283.1991年)。
 つまり、彼らは直接的な河野氏の子孫ではない、と考える方が妥当であるといえます。しかし、全く無関係ではなく、ただ戦国期の伊予河野宗家とは直接的に関係はないが、鎌倉期に分流した河野氏一族の末裔である可能性はないとはいえない、ということです。簡単ながら、現在の研究状況は以上です。 

しまなみさん、こんにちは!

弾正少弼通直−晴通−通宣−通直とすべて実父子の間柄なのですか。大内家中の白井氏を調べていた時、河野氏について少し本を見ていまして、ここには、

「晴通(通政)は与州家出身で、宗家の通直(彈正)は娘聟の村上通康を推して、通政との間に家督争いがおこったものの、家臣団が先手を打って通直を湯築城から追放して通政が家督となり、将軍の偏諱を受けて晴通を称した。しかし晴通もすぐに没し、弟・通宣が継承したが、通宣が幼少であったため、通直がしばらく政務を担当した。」

とありました。一度追放された通直がふたたび政務をとることなどあったのか。。などと考えていました。通宣、通直という人物が何人もいることも不思議に感じていました。これはやはり系譜の錯誤なのでしょうか・・・

稲葉、一柳氏などのことありがとうございました。河野氏は美濃にも所領があったのですね〜(^_^)
所縁があったのですねっ。


[229] 畠山重忠 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/03(Mon) 22:22

私の好きなオトコの1人です。
横浜旭区の没地には来年里帰りの時に行きますが
埼玉県立歴史資料館にも行ってみたくなりました。

40代?の重忠の像らしいですね。
ちょっとイメージ狂うのですが
屋敷跡でしたか。


[228] 就職活動ですか 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/03(Mon) 21:49

大学院生におなりでしたか。
IT系なら引く手アマタの時代でしょうね。
経済系は難しいですか?

さて、林子平は越智刑部少輔通高の裔だそうですね。
豊臣秀頼に仕えた林絵兵衛は4代前の祖だそうで、
伊予の越智・河野グループになるのですねぇ。

伊藤博文も伊予河野氏出身を称しているそうですね。

美濃・稲葉氏は一鉄の父通長が安芸の安国寺に出家したが
武芸を好み伊勢神宮で賊に襲われ退治し勇名を駆せたが
父親の通直は怒って通長を追放。

通長(号は塩塵)は諸国を流浪した後、美濃の土岐家に士官して稲葉氏を称したそうです。

一柳家は通長の弟の宣高が一柳家を興した、とありますが。

しまなみさん、あとお願い致します。


[227] 三万件突破の御礼 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/03(Mon) 12:29

D-FFさん、こんにちは!

ここで皆様にお礼を。
みなみなさまのおかげをもちまして、なんと累計3万件を
突破することができました♪自分でもおどろきです(^^;
いろいろな方々にご覧いただいていることを感謝しつつ、
もっと充実したページ(見やすいページ)にしなくてはと、
いい意味でプレッシャーを感じております。
これから益々充実したコンテンツを作っていこうと考えておりますので、よろしくお願いいたします。個人的に就職活動もがんばりまっす(^^;

しまなみさん、こんにちは!

千葉氏に関係がなくてもかまいませんよ。どんどん掲示板のほうお使いになってくださいっ(^∇^)
河野氏の歴史(特に室町期について)の当主についてなのですが、系譜のほうが混乱しているように思っています。
それから、一柳家や稲葉家、林家は河野氏の裔なのでしょうか?もし同族であるとすると、いつごろ分流したかご存知でしょうか?拙い質問で申し訳ないでっす(T_T)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[226] 「道」です 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/07/01(Sat) 11:53

「通」でなく64代目以降は「道」を使用しています。


[225] 伊予河野氏が・・・ 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/06/30(Fri) 23:18

 >服部明子さま

 御教示ありがとうございました。「坊ちゃん書房」なんて、かなり伊予にお詳しいようですね。通有からの分かれですか。かなり古い段階ですね。やはり通字は「通」ですか?

 >kenさま

 初めまして。いやはやこちらにも伊予河野氏関係ですか。世の中広いようで狭いですね。家紋が丸に主とは珍しいですね。そちらの謂われも気になります。奥様のご実家の家紋は折敷に三文字でしょうか?

 管理人さん、すみません。話が千葉氏から離れているようで・・・


[224] 先般の「千葉常胤」のレコード 投稿者:Ken [追加希望] 投稿日:2000/06/30(Fri) 11:41

下総綜合Ken究所のkenです。
先日、ここで書いたその名もずばり「千葉常胤」という題名のレコードの件ですが、
気になって、今朝、またポスターをしげしげと見ました。
B4くらいのポスターのデザインは「猪鼻城」の贋天守、発売元は「千葉の郷土愛を考える会」、で、「会」の住所は、そのポスターが貼ってある議員の事務所そのものでした。
売ってください、と入って行きたいところなのですが、議員(もしくは議員になろうとしている人かも)と係わり合いになるのもうっとうしく、躊躇してます。

私の妻の母方も伊予河野家の裔です。

(私の家紋は非常にレアな「丸に主の字」)

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/


[223] 方向音痴 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/29(Thu) 00:20

先祖代々の凄い方向音痴なので
北条市河野から西なんて書いてしまいましたが
西に歩いて行ったら「海」に落ちてしまいますね。

すみません。

「東に」です。

(恥)


[222] 我が家は南朝方及び西軍 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/28(Wed) 22:53

空襲で家系図の本物が焼けたそうで写ししか伝わっていませんが
「彦狭シマ」の所が我が家のは「鳴」という字で、
南朝方は「鳴」を、北朝方は「嶋」使用だそうです。

景浦先生のことは湊町の「坊ちゃん書房」の佐伯さん等から教えて頂きましたが
(私のような者が)と思い、ご指導も頂かず10年経ってしまいました。

ウチは50代目が「柚木姓」を称しています。柚木八郎です。
通有の長子が家督を譲られず「柚之木谷殿」と呼ばれて隠居してますよね。
場所は現在の北条市河野から西?に行った熊野神社のある所だそうです。

64代目が大坂に出奔し、石山寺側で堺の浜で討ち死にしています。

65代目が大坂の役で敗れ母を連れ落武者となり住吉村で百姓をして隠れ棲んだと書かれています。
この時に姓を「内野」と変え「松皮菱の尻合わせ紋」に換えたと書かれています。

江戸時代の終わりの40年くらい前に「河野姓」に戻ることを許されたと書かれています。

明治維新の後、回船業を始め「大坂住吉屋」という名で川之江に戻り、
結局は再び大阪に帰ってしまいました。

私が84代目になります。

宇和の徳山義翁氏(聖塚に石碑があります)も84代目だそうです。


[221] 都幾山慈光寺 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/06/28(Wed) 22:06

顕彰会の11月の行事予定A案にあります、都幾山慈光寺についてのカキコです。埼玉県内の神社仏閣の中で小生が一番好きなお寺です。小生にとって、お気に入りスポットNo.1です。慈光寺は、埼玉県都幾川村にあります。比較的近いこともあって何度も訪れたことがあります。
まず、何と言っても国宝一品法華経でしょう。経典で有名なのは、安芸宮島厳島神社の平家納経と平泉中尊寺の一切経ですが、余り知られていませんが三番目は、慈光寺です。
次は、源頼朝の手紙です。頼朝の直筆の本物が見れる数少ない例です。小生は、何と言っても末尾の花押の美しさに惹かれます。
小生として特筆したいのは、境内のそこここにある、般若心経の石盤です、いろんな高名な書家の書いた写経のコピーです。中でも観音堂の傍らの真新しい建物の中にあります王羲之書の般若心経です、王羲之が般若心経を書いたかどうかは不明ですが、此処にあるのは、王羲之の書き残した書の中から般若心経の文字に該当するものを切り張りして、仕立てたものです、チョット違和感があるのですが、なんともこれが見れば見るほど良いのです。
般若心経は、ご存じの通り、ブッダの弟子の舎利子(シャーリプトラ)とブッダの問答を記したものです。仏教の(東洋哲学の)神髄と言って良いでしょう。
住職のお名前は、佐伯明了師とおっしゃいます。(慈光寺 第107世)
蛇足ですが、埼玉県立歴史資料館をコースの中に加えてはいかがでしょうか。慈光寺からほど近い処にあります。ここは、畠山重忠の居館の菅谷館跡の敷地内にあります。畠山重忠について(秩父氏について)の解説が有ります。
あっそういえば、3万ヒットをいつのまにか越えましたね!これはスゴイことですネ。  D-FFでした。 @_@


[220] 折敷に三文字紋 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/06/28(Wed) 00:51

 >服部 明子さま

 初めまして、しまなみと申す者です。大学院にて伊予河野氏の研究をしております。
 207にて<私の母方は・・・とありますが、母方は伊予河野氏の流れなのですか?
 もし、母方のご先祖に関する伝承などありましたら、御教示願いたいのですが。


[219] 私は幽霊 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/26(Mon) 01:09

私もずっと選挙開票を見ています。

私は日本にいた時に転居が多かったので1度も選挙に行けなかったのです。
こちらでは日本領事館に行って手続きしなくてはいけなくて
(だったら何故在留届けを出させるのか納得いきませんが)
とっても大変な場所にロスの日本領事館が引っ越しましたから
当然行ってないです。

在留届けを出しているのですから
日本政府というか日本領事館は
在留届けを出している日本人には自動的に不在者投票出来るように
送ってくるべきと思いますが。


でもワタクシの場合はアメリカ国籍を取得しましたから
今年初めての大統領選挙に参加します。

選挙については私の好きなリバタリアン党は立候補者がいないので
結局は共和党に入れると思います。


[218] 武石さんへ 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/26(Mon) 00:32

武石剛さん、こんにちは!

以前は御本をいただきまして、どうもお世話様でした〜。
お手紙どうもありがとうございます(^_^)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/index.htm


[217] 流石、通ですネ。服部さん 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/06/25(Sun) 21:57

今回、インテルさんへも表敬訪問に行きたかったんですが、日程の調整がつかなくて断念しました。住宅補助については、ネタとしてインテルの営業さんに聴いてみましょう。
又、サンタクララにインテル博物館があって行きたかったんですが日曜日はお休みのようです。替わりに、シリコンバレーの博物館と言えるテックミュージアムオブイノベーションに行ってこようかなと思っています。
アメリカの企業は、こういうところが違うんですよネー。
日本の企業も地元の歴史研究なんかに資金援助をしてくれたりすると良いと思うんですが、ナカナカ!
現在、開票速報をテレビで見ています。これって、妙におもしろいんですよネ。夜更かし確実です。
ところで、今回から在外邦人の投票が出来るようになりましたが服部さんは?投票権は、お有りで???  @_@


[216] 衆院選 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/25(Sun) 14:33

衆院選選挙結果

自民党 233
公明党 31
保守党 7
民主党 127
自由党 22
社民党 19
共産党 20
他    21
―――――――
      480

自民党は単独過半数を取れず。与党三党ではかろうじて269議席を越える絶対安定多数を確保。

武蔵千葉介の「千葉介守胤」夫妻が東常縁の四男・常庵龍崇(京都建仁寺霊泉院主7世。建仁寺262世住持)を通じて三条西実隆に和歌の添削をうけていました。同じころ、下総千葉氏の当主・千葉介勝胤も作倉城下で地方歌壇を形成しており、武士のたしなみとしての和歌が広まっていたのでしょうか。

連歌師や文化人などは、諸大名に招かれることが多く、あちこちの大名領内を自由に移動することができました。領内にあるとき、和歌などを教授してもらうほかに、他の国々の情報をも聞き出していたのでは。。。連歌師は多国籍スパイのようなものだったのかもしれません。


[215] D-FFさん 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/25(Sun) 06:38

6月23日の日経新聞より:


米国半導体大手のインテルがサンタクララの公立学校の先生達を対象に
住宅ローン返済支援プログラムを発表したそうです。

「未来の技術革新は優れた教師による教育から生まれる」ということで地元の
教師の住宅取得を支援するのだそうです。

最長5年間月500ドル支援するそうです。


[214] 千葉真一さんですか 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/06/23(Fri) 00:47

服部さんこんにちは
千葉真一さんは先日、日本のTVに出ておりました。
米国で再婚され、まだ小さなお子さんを紹介されておりました。
昔はアクション俳優として活躍されておりました。
確か大学時代は体操の選手だったと思います。
今で言うかぶり物の先駆となる子供向け番組に出演していたと思います。
日本アクションクラブ(?)を創設されたような気がします。
40代から50代の方には懐かしのヒーローです。


[213] うわあ 投稿者:Ken [追加希望] 投稿日:2000/06/22(Thu) 10:15

すごいページですね。圧倒的情報量、こういう網羅的なの
大好きなんです。
できれば、拙ページからリンクを貼らせていただきたいので
すが、一度、拙ページもご訪問ください。

ところで、
下総に住んでいるのですが、近くに市会議員の選挙事務所が
あり、そこに自主制作のレコードのポスターがたくさん
貼ってあり、A面が「千葉常胤」B面が「千葉の里」という
レコードです。
過去ログきちんと読んでないので、FAQでしたらすみません
が、このレコード聞いたことありますか。

http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/

Kenさん、こんにちは!

「下総総合Ken究所」の方、リンクさせていただきましたのでよろしくおねがいいたします。

市議会議員さんのレコードですか?!千葉常胤。。。千葉の里。。。千葉氏と何らかの関わりをお持ちなのかもしれませんね。そういえば市川市長さんは千葉さんという方だったような気がします。


[212] イメージはつゆ! 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/22(Thu) 00:44

今日はトップを梅雨のイメージに変更!

天文八年卯月十九日に佐々木秀勝が書いたとされる、室町時代の諸家(諸家自体は文明年中の家々)の家紋を集めた『見聞諸家紋』(『群書類従』所収)のなかに「千葉介」として、九曜紋が描かれ、脇に「月星」とありました。これは、九曜紋を「月星」と表しているということなのでしょうか。さらに粟飯原氏の家紋が。。。竹が三本縦に並んでいて、右脇の竹と左脇の竹から、それぞれ三枚の葉がついている紋として書かれています。言うなれば、縦三引き竹葉紋という感じです。
竹の紋については、『妙見寺本千葉系図』(『研究紀要3号』千葉市立郷土博物館)の「幕之次第」のなかに千葉介の家紋として「日月九曜星五根篠」と記されていて、竹(篠)の紋も千葉一族に伝えられていたものなのかもしれません。


[211] サニーとかいう愛称です 投稿者:千葉真一なんていかが? [丸に並矢] 投稿日:2000/06/22(Thu) 00:26

なかなか頑張ってますよ。
最近は香港映画に出演らしいですね。

日本人でアメリカ人受けするのはフジなんとかというNHKで信長を2回演じた俳優です。


[210] またまた、今度こそ収穫の期待できない 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/06/21(Wed) 20:07

次の出張の予定は、今度こそ絶望的な出張にでかけます。
7/9(日)に成田を発って、サンフランシスコへサンタクララ市でお仕事、サンノゼからダラスへまたお仕事。
残念ですが、ロスに立ち寄るスケジュールには成りませんでした。 (T_T)
図書館へ行っても英語が読めない!(古文書は、英語よりもっと読めない。)D-FFでした。
アメリカで千葉氏について調べよーたってダメだわな。
でも、海外で活躍している、千葉氏一族なんて、誰か調べてくれないかな。すずさん頑張れ!オリンピックに出れる裁定が下ると良いと思っています。
結構ゴミなカキコでした。管理人さんゴメンナサイ。 D-FF  ”蒸し暑いです” @_@

D-FFさん、こんにちは!
海外で著名な千葉一族といえば、新渡戸稲造さんでしょうねーきっと!今活躍されている方。。。やはり千葉真一さん、千葉すずさんでしょうか?!ところで、千葉真一さんは本名なんでしょうか?


[209] 凄い収穫ではございませんか 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/21(Wed) 00:30

千葉X胤さんが2軒もいらっしゃったなんて凄い発見ではございませんか。

本物の千葉氏の流れかも知れませんし
どなたかが名家「千葉氏」にあやかって「千葉X胤」を名乗るようにしたのかも知れませんし。

でもホテルからタクシーで、というのはお金掛かりましたね。
ふふふ


[208] 大分にて、収穫無しです。 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/06/20(Tue) 22:13

大分県に仕事でいったんで、別府市立図書館へ行ってみました。(土曜日、雨だったので、観光より、ここは図書館!)
千葉氏関係は、収穫有りませんでした。
せいぜい、大友氏の何代目かの当主の処に母は千葉氏と有ったのと、武石姓の旧家が日田市に有るようだったのですが、日田市史を調べたんですが、何もみつかりませんでした。
ちょっと、ビックリだったのは、鳥栖市の電話帳で、千葉宗胤と言う名前の人が載っていました。
大分の電話帳では、千葉*胤さんが2名みられました。
期待はしていなかったのですが、ちょっとやっぱりがっかりでした。(ホテルから、自腹でタクシーで行ったのに @_@” )


[207] 丸に並び矢 投稿者:服部 明子 [松皮菱の尻合] 投稿日:2000/06/20(Tue) 11:32

矢というのは「武士系」の家という意味と思いますね。
まさか琴や和歌で立とうという家が「矢」を家紋にするとは思えませんね。

あるとすれば「由来」が伝わると思います。

「丸」というのはもともとが「武」の家である、と聞いたことがあります。

丸に矢なんて「武門」ご出身なのでしょう、
と思います。

その丸は普通の○のことですか?
それとも源氏車の車になってますか?
これでも意味が大きく変わってくると思いますが。

鏑矢紋は源頼光系の家だって聞きます。
矢車は伊勢の平氏系の代表紋だとも。

紋から推測していくのは難しいですね。。。
私の母方は姓は江戸時代の終わり近くに河野姓に戻るのを許されましたが
紋の方は「折敷に3文字紋」に戻すのを許されませんでした。
家書を読んでいると先祖の慟哭が聞こえてくるようです。


[206] 城郭研究について 投稿者:千葉市の遺跡を歩く会・あるけー [追加希望] 投稿日:2000/06/19(Mon) 07:07

 再び、おじゃまします。しまなみさん、ご質問の城郭研究について知っていることだけ書きます。
 千葉県内でこれまで発掘された主な城郭の調査結果は、笹生衛・管理人龍司編『千葉県の歴史 中世1 考古資料』千葉県1998年に、集大成されています。
 千葉市内では、なんといっても、生実城(中央区)、とくに高品城主郭部分(若葉区)の発掘でしょう。 高品城は、発掘調査以前は、あまり注目されていませんでしたが、戦国最盛期の本格的な城郭で、千葉と佐倉方面をむすぶ陸上交通路を押さえる重要な城であることがわかりました。佐倉の千葉宗家の嫡男は、千葉神社に参詣して元服するしきたりだったようですが、その際の定宿としたところであり、対里見の重要防衛拠点だったのです(なお小生のHPの画像の中に遠景があります)。簗瀬裕一ほか『千葉市高品城跡 I』千葉市文化財調査協会、1997年。主郭跡にはマンションが建ちましたが、千葉宗家嫡男の数百の随兵が駐屯したであろう広大な郭がまだのこっているほか、ところどころに郭・土塁跡などを見ることができます。
 ほかに最近の研究者の中には、亥鼻城(千葉城)は千葉宗家の城でなく原氏の城だったのではないか、疑っている人がいます。ちなみに千葉宗家が平時、居住した館は、低地の、現在、千葉地方裁判所のあるところにあったといわれています。その一画は明治時代まで周囲を土塁で囲まれていました。
 狭い意味の城郭だけでなく、千葉氏の町づくり、都市計画も研究テーマになっているようです。九州に移った千葉氏の城下町との比較を考えている人もいます。千葉寺、千葉城、千葉神社、千葉山の配置も当然問題になってくるでしょう。千葉城郭研究会の簗瀬裕一さんが『千葉いまむかし』(千葉市)の次号に中世の千葉町について書かれるとのことです。
 なお6月17日に千葉市史研究講座第一回が開かれました。九十九里総合文化研究所の伊藤一男先生が「原一族の台頭と千葉地方」について講義されました。なぜ原氏が生実・千葉を捨てて、佐倉臼井に本拠を移したか、問題提起され、経済・生産・交通の面から、説明されたのが、たいへん参考になりました。申し込み期日はすぎてしまいましたが、第三回め7月29日の講座には、「太平記時代の千葉氏」(講師、樋口誠太郎氏)が予定されています。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.html


[205] 来迎寺の旧所在地 投稿者:千葉市の遺跡を歩く会・あるけー [追加希望] 投稿日:2000/06/19(Mon) 00:55

 管理人さん、みなさん、こんにちわ。慰霊祭・講演会、大成功だったようで、遅ればせながら、お祝い申し上げます。
 ところで千葉隆典 さんのお答えになられた来迎寺ですが、近くに住んでいたので、旧所在地について一言。1945年戦火で消失して轟町の現在地に移転するまでは、千葉神社の東、「道場北町」(この町名も来迎寺に由来)にあったことはご存じと思います。昔はもっと敷地は広かったかもしれませんが、消失直前の時点でいえば、具体的には、現在、公衆浴場のある地点付近です。千葉神社からすぐのところです。公衆浴場の前の道路を隔てた公園付近が、来迎寺の墓地になっていたようです。今から、30年くらい前になりますか、子ども(小生ではありません)が砂場の穴掘り遊びをしていて、骨壺を発掘してしまった、という話があります(^^;)。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.html

あるけーさん、こんにちは!

千葉神社の東ですか。砂場から骨壷とは。。。(T_T)
江戸期など、中世の千葉近辺の地図があるといいのですが。


[204] 来迎寺所在地です 投稿者:千葉隆典 [月星] 投稿日:2000/06/17(Sat) 23:54

管理人さん こんばんは

来迎寺所在地の件ですが、大日寺と並んで有りました。
来迎寺は千葉市稲毛区轟町1丁目、大日寺は轟町2丁目でした。来迎寺は建治2年(1276)、一遍上人開基で千葉介貞胤公建立で貞胤公以下7名の五輪塔が整然と配置されていました。残念ながらご住職ご不在で詳細なお話は聞けませんでした。
釈迦に説法で恐縮ですが、隣接する大日寺は建長6年(1254)、松戸に千葉介頼胤公建立の後、弘安7年(1284)胤宗公によって千葉神社南側に移され、その後現在地なそうです。
大きな五輪塔がなんと16基も威風堂々並んでいました。圧巻でした。
中央区の宗胤寺も含め千葉神社に隣接していた寺々が昭和20年の戦災で焼失、現在地に移ったそうです。
戦災による移転先はこぞって千葉山の方向ですが、そこには重要な意味を含んでいるんでしょうね。興味あります。
千葉神社の周りには多くの寺院が有った為、地名を「院内」と称したと先般、千葉神社松井禰宜様から伺いました。まだ他にも戦災で移転した寺院は有るんでしょうね?。

千葉さん、こんにちは!
来迎寺の場所について、教えていただき
ありがとうございました。

来迎寺は大日寺の隣で、貞胤以来の五輪塔があるのですか。まだ大日寺の縁起については勉強していないので、これから調べてみます。頼胤が築いたという小金城、それから万満寺などはサイクリングがてら見に行こうとは思っているのですが、雨が降ってしまってダメですねぇ(T_T)
明治期の地図があれば、移転した寺院のことや寺域など、もうすこしわかると思うのですが、船橋の古地図はあったものの、千葉のほうはまだ見つからないです(T_T)


[203] no title 投稿者:片野 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/17(Sat) 03:47

お役に立てれば参考までに。僕の本籍地は、大分県安心院町です。ひいお爺さんまでしか分からないんですが、そこに住んでいたそうです。苗字は片野です。家紋は丸に並び矢、島津の家臣だったかもと言う人がいます。もし詳しい方がおられましたら、ご教示下さい。

片野さん、こんにちは!はじめまして。
千葉氏のページの管理人、管理人と申します。

自分の家はじつは千葉氏にはゆかりはないのです(^^;
「丸に並び矢」については、服部さんのお家が用いておられるように、
服部氏ほか、矢作氏や矢野氏など「矢」に関係がある家が用いている場合があります。
『鹿児島県姓氏家系大事典』という本が角川書店から出されているのですが、
ここに載っているかもしれません。こんど調べてみますね。


[202] no title 投稿者:片野 [月星] 投稿日:2000/06/17(Sat) 03:26

初めまして九州出身です。うちの家紋、丸に並び矢だから千葉氏一族なのかな?。薩摩家臣とも聞いたが・・・


[201] no title 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/06/16(Fri) 01:36

>管理人さん

 御教示ありがとうございます。参考になります(non)

得能通綱、よくご存知ですね。彼は『太平記』に土居氏とともに出てきますから、割合知られてるのかな?

 教えていただいた内訌はやはり宗家と庶流家の対立、とみていいのでしょうか?私は西国中心ですので東国の戦乱には疎いのですが、将軍家と古河公方に分かれての対立は、他の領主にもみられるのでしょうか?結局、その争乱の後に千葉氏は分裂しちゃうんですね。なるほど。

 伊予の河野氏は、南北朝での細川氏との対立、室町期に宗家・庶流家が応仁文明の乱での分裂・抗争をへて、戦国期に宗家守護職相伝体制がようやく成立しますが、今度は武田・伊達同様父子対立が発生します。これは、幕府−守護体制の変質と畿内の内乱、そして大内・大友などの周辺諸大名の抗争に巻き込まれるなどが外的要因ですが、分国支配の拠点(いわゆる守護所)が二元的構造をなしていたという内的要因もありました(というのが卒論の内容です)。
 全国的に発生する同族内での争乱は、このような外的要因と、内的要因の両側面があったのではないかと考えております。その具体的事例を全国的に探っている最中であります。無論、西国と東国では全く同質ではないでしょうけど、お話を聞いた限りでは似たような構図が見えるような気がしました。

 またちょくちょくおじゃまします。ありがとうございました。

しまなみさん、こんにちは!

千葉胤直らと馬加康胤の内紛についてその発生の原因はわからないのですが、康胤は胤直の父・兼胤の庶兄とされていて、胤直の系統が家督を継いでいくことに不満があったのかもしれません。康胤は本拠を千葉郷馬加(千葉市美浜区幕張)におき、陸奥守の受領名をもっています。ただ、胤直が幕府の命に従って足利持氏追討をした際には、馬加康胤は胤直・胤宣に従って活動をしています。胤直はかつて鎌倉府の侍所司という府内の重職にあった人物でしたが、京都の幕府の命を重んじる態度をとっています。もしかすると康胤は関東公方を重んじるべきだと考えていたのかもしれません。

持氏が幕府によって自害させられ、いったん制圧されたかに見えた鎌倉府でしたが、持氏の子・足利成氏も反幕府の立場をとり、享徳3(1454)年12月に関東管領・上杉憲忠(持氏と対立した上杉憲実の子)を暗殺したことから、成氏は謀反人とされて追討令が出され、胤直も幕府の命に従って追討軍に参加しました。しかしこのとき馬加康胤ほか、重臣の原胤房が胤直から離反して成氏方となり、千葉胤直らの居城・亥鼻城に攻め寄せたことから、胤直・胤宣・胤賢らは千田庄(香取郡多古町あたり)へ逃れて自害しました。

千葉氏重臣・原胤房については、千田庄内の所領をめぐって千葉氏重臣・円城寺氏とはげしく対立していたようで、康胤―原氏、胤直―円城寺氏という対立構図が以前からあって、これも対立の一因なのかもしれません。

将軍家と鎌倉公方(のち古河公方)の対立は関東・東北の大名たちにとても大きな影響を与えています。室町中期からは幕府の許可もあって、鎌倉公方の管轄が奥州にまで及んでいます。この鎌倉府の干渉をおそれた東北の諸大名は「一揆」を結んで、共同して鎌倉府との交渉にあたることを約束しました。しかし、持氏の自刃後は一揆は意味をなさなくなり、諸大名が覇権を争うという構図が生まれていきます。それから関東の大名も関東公方の影響を強く受け、千葉氏、結城氏、上杉氏はもちろん、佐竹氏の家督争いも関わっています。

ただ、千葉氏の内紛については、そのほとんどは宗家内での対立がもたらしたものです。庶家については、鎌倉時代に国分氏の謀反のようなものが伝えられていますが、こののちは庶家と宗家の対立構図はなく、かえって庶家は宗家の家臣として組み込まれていきました。妙見という一族共通の信仰対象によってまとめられていたのかもしれません。庶流のなかでも「千葉六党」とよばれる相馬・大須賀・国分・東氏など、比較的血縁の近い粟飯原氏・原氏などが宗家を支えていたことが知られています。

千葉氏の内紛
・九州千葉氏と下総千葉氏
→千葉介頼胤が元寇の時のキズで没すると、嫡男・宗胤(千葉新介)が幕府の命で九州に赴くことになり、かわって下総の留守を預かった宗胤の弟・胤宗が千葉介に就任しました。宗胤が九州へ下ったのが建治2(1276)年とされていますが、弟・胤宗が「千葉介」を称したのは弘安3(1280)年以前で、宗胤が九州からの帰国がいつになるかわからない状態となると、一族が弟・胤宗を千葉介として担いだのではないかと思っています。胤宗の生年は文永5(1268)年とされていますので、このとき10歳前後となり、自分の意思で家督を継承したとは思えません。
このあと、九州の宗胤の子・胤貞(大隈守)と、下総の胤宗の子・貞胤(千葉介)が対立関係となり、建武期には胤貞は足利方、貞胤は朝廷について争っていました。胤貞は、奥州の一族・相馬親胤とも手を組み、貞胤の居城・亥鼻城(このとき貞胤は京都にあって留守)に攻め寄せています。

・千葉大介胤直と馬加康胤
→古河公方と幕府の対立によって表面化した抗争。重臣同士の対立も背景にあったか。

・武蔵千葉氏と下総千葉氏
→上の対立から、胤直の弟・胤賢も自刃しましたが、このとき胤賢の子の実胤・自胤は上杉氏のもとに逃れて武蔵千葉氏となり、下総千葉氏と対立していきました。ただ、度重なる戦いに経済的に苦しくなった実胤は出奔して美濃へ逃れ、弟の自胤が家督を継ぎ、のちに武蔵千葉氏は小田原北条氏に乗っ取られました。下総千葉氏も結局は乗っ取られ、両千葉氏はともに小田原北条氏に従属することになります。

一気に書いてしまったので、なんだか
まとまりのない文になってしまいました(T_T)


[200] ツユ 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/06/14(Wed) 00:34

もう、ツユ真っ盛りですねー。雨はヤダヤダ。。
夏が待ち遠しい!!

松戸の本土寺はアジサイと菖蒲がきれーに咲いているそうです。鎌倉の明月院もきっとアジサイでいっぱいなんでしょう。


[199] ありがとうございます 投稿者:若造 [家紋不明] 投稿日:2000/06/13(Tue) 13:10

早速勉強します!
思った以上にたくさんあるので,目移りしちゃって,目がまわりそう・・・。


[198] ご参加ありがとうございました 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/06/12(Mon) 22:36

管理人さん、直胤さん、隆典さん、D-FFさん千葉氏顕彰会特別講演にご参加ありがとうございました。
おかげ様で直胤さんのご紹介の通り、事務局を除き162名の皆さんにご参加いただき大盛況でした。
千葉市美術館講堂は定員150名でエアコンが効かないくらい熱気につつまれておりました。
受付の準備が悪く混乱いたしましたことお詫び致します。
次回よりは今回の教訓を活かし受付や進行をスムースに運ぶように致したいと思います。
又、ご意見等がございましたらMailでお寄せください。

追伸
若造さんへ管理人さんのHP『千葉氏の一族』http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/を一通りご覧になって、ご自分なりにテーマを絞られたら如何ですか。
頑張って下さい。
それから歴史に関するHPが非常にたくさんあることに驚かされますよ。

 千葉さん、先日はどうもありがとうございました!いろいろご好意に甘えてしまいました、すいません。

 会長さんや岡田先生、導師の方々にははじめてお会いさせていただきました。丸井先生、今澤さん、鈴木さんとも久しぶりにお話しさせていただくことができました。

 もうすこし遅く講堂についていたら座れませんでしたね(^^;雰囲気をページに載せようと休憩時間に入り口のあたりからデジカメで撮ろうと思っていたのですが、忘れてしまいました。美術館の外観は撮ってあるので、ページの方に載せてみます。


[197] 教えてください 投稿者:若造 [家紋不明] 投稿日:2000/06/12(Mon) 15:26

はじめまして。
私は,今大学4年の女の子です。
このような所にお邪魔するのは、おこがましいのですが,是非みなさんに御意見を伺いたくて,お邪魔しました。
私は,卒業論文で千葉氏について研究しようと思っているのですが,いまいち自分なりのテーマがつかめません。今まできちんと勉強していればもっと自分なりに問題意識が生まれるのでしょうが・・・千葉氏についても歴史についても超初心者の私に,何かアドバイスなどいただけたらうれしいです。

 若造さん、はじめまして!

 管理人の管理人ともうします(^_^)

 論文のテーマを探すことを難しく考えると文も硬くなってしまいますし、けっこうネタ切れしちゃいます(^^;自分も論文書く時はかなり息切れしました(経済でしたが)。。まずは千葉氏についての歴史の概略だけを見てみるといいかもしれません。そのなかから、なにか興味を持ったことや事件などが出てくれば、そこだけを深く掘り下げていって、興味あるもの三つ四つくらいを掘り下げて、それらを関連づけて論文に仕上げてみるといいかもしれません。自ずとテーマが見えてくると思います。
(↑自分はレポートのテーマは最初に決めないで半ばで決めちゃってましたっ)

 千葉氏の文化面や信仰面(妙見信仰など)の活動は、他の氏族には見られない独特なものがありますので、こちらを調べられても面白いかもしれません。

 若造さんがご興味をお持ちの時代はありますか?なにかご質問があればいつでもお聞きください(^∇^)


[196] 千葉氏顕彰会 感慨無量! 投稿者:千葉隆典 [月星] 投稿日:2000/06/10(Sat) 11:39

千葉一族研究家の皆様こんにちは
先般の千葉氏顕彰会は好天にも恵まれ素晴らしい行事でした。
猪鼻公園での慰霊祭。常胤公遺影を前に導師ご三師の読経による焼香礼拝。小生初めての経験で涙が出るほど感激しました。
午後の記念講演会も熱弁が続きあっと言う間の4時間でした。
このHPをお借りし千葉氏顕彰会事務局各位に感謝申し上げます。
顕彰会事務局長今澤茂夫さん、事務局千葉久さん、鈴木佐さんお世話になりました。有難うございました。
懇親会では今回初めてお会いした管理人さん。千葉一族を探求出来るきっかけを作って頂いた恩人で何時も感謝しております。
慰霊祭用に謹製饅頭を製造された「千葉家」社長千葉直胤さん。家に帰って家族4人で分けて頂戴しましたが美味しいお菓子でした。千葉家のお菓子は逸品です。
今回初めてお会いした大川さん、武石さん、他の皆様方今後とも宜しくお願いします。
あの夜は千葉市内一泊し翌日は事務局鈴木佐さんにご案内を賜り、千葉本宗家所縁の宗胤寺、大日寺、来迎寺、千葉山そして大椎城を参拝して回りました。感激の連続でした。鈴木さんお疲れのところ本当に有難うございました。
郷里岩手県の皆様、全国の千葉一族の皆様、千葉県には千葉本宗家所縁の神社仏閣や城跡等々が沢山現存し大切に守られています。是非お出でになって見て下さい。今年は千葉神社ご開創1,000年記念大祭ですから良い機会かも知れません。

 千葉隆典さん、こんにちは!

 先日はどうもありがとうございました!お会いできてよかったです。史跡めぐりをされたんですかっ。千葉寺、宗胤寺、大日寺、千葉山、大椎城、本佐倉城などそのうち行ってみます。ところで来迎寺はどこにあるのでしょう?興味があります(^_^)


[195] 千葉氏の家督争いについて 投稿者:しまなみ [追加希望] 投稿日:2000/06/09(Fri) 00:08

 しまなみといいます。初めまして。戦国期の伊予について研究しております。
 こちらの掲示板はレベルが高いですね。感服します。そこを見込んで質問したいのですが・・・

 いま私は室町後期から戦国期において発生した全国の家督争いや一族内訌について調べております。そこで・・・
 こちらの名族千葉氏において、室町期から戦国期の間で、一族の内訌や家督争いなどはありませんでしたか?あったとしたら、どのような内容のものだったのでしょうか?どなたかご存知の方御教示頂きたいのですが。

 あと、城郭研究はどのような状況なのでしょうか?特徴・概要など何でも結構です。質問ばかりで申し訳ありませんが・・・
 よろしくお願いします。

 しまなみさん、はじめまして!

 管理人の管理人ともうします。

 伊予は河野氏ですね。得能通綱が一時家督を奪った経緯があったような気がします。

 千葉氏の一族の内訌はずいぶんあります。室町時代の大きな内訌は、おそらく千葉胤直・千葉介胤宣・千葉胤賢らと馬加康胤・原胤房の抗争だと思います。この内紛には、古河公方と京都の幕府との関係悪化が大きく関わっていまして、千葉胤直と馬加康胤(甥・伯父)は将軍家方と古河公方方にそれぞれ分かれて争いました。また、円城寺氏と原氏という千葉氏の重臣筆頭の地位にある二氏の争いもあったようです。

 結局、胤直・胤宣・胤賢は馬加康胤・原胤房らの軍に襲われて、逃亡先の千田庄で自害して下総千葉氏の系統は馬加康胤の子孫が代々受け継いでいくことになります。これに対抗したのが自害した千葉胤賢の子の千葉実胤・自胤で、彼らは母方の実家である上杉家(=将軍家と結びついていた)の庇護を受けて、国府台城(市川市)にこもって下総千葉氏・原氏らに備えました。この胤賢の二人の子が「武蔵千葉氏」の祖となります。

 城郭の研究については、そちらの方はちょっとわかりませんが、県内の図書館には発掘調査結果がおいてありますので、ご覧になるのもいいかもしれません(^_^)室町時代末期には北条氏の支配下に入っていますので、障子堀が残っているかもしれません。高城氏の城、小金大谷口城には発掘調査で障子堀が発見されています。


[194] 私も、よかった !  投稿者:御菓子司千葉家 [月星] 投稿日:2000/06/08(Thu) 15:34

こんにちは。D-FFさん、そしてみなさま。千葉直胤です。
私も千葉氏フォーラム講演会、出席いたしました。今回も一段と
大盛況、160人位の聴取者でしたよねッ? 久さん。
佐々木先生のお話、ウルウルモードでした。管理人の管理人さんにも会えたし、隆典さんともお話しできました。D-FFさんにお会いできなかったのは残念でしたが、ホントよかったです。

東京足立区郷土博物館が1996年に発掘調査した「中曽根城」についての資料が出てきましたので、抜粋だけお知らせします。

1.伝承の中の中曽根城
 足立区本木二丁目・本木東町一帯は、今回堀址の遺構が発見さ れた現場の西隣の中曽根神社を中心に、従来から中世城址の伝 承があったようです。徳川幕府が文政5年(1822)に編集した  「新編武蔵風土記」本木村の項には、村内の小字中曽根に千葉 某の城跡が残っていたと記され、城の鎮守であった妙見社が建 っているとも書かれています。(現在の中曽根神社)
2.中曽根城と武蔵千葉氏
 中曽根城主武蔵千葉氏は、元来下総千葉荘を本拠にした、一族 です。15世紀中頃、千葉氏は亨徳の乱に巻き込まれ宗家と庶 家が上杉氏と古河公方に各々味方し同族争いを起こし、上杉氏 を支持した宗家は滅びました。宗家の遺児である実胤(さねた  ね)・自胤(これたね)の兄弟は、上杉氏の重臣・太田道灌の援助 を得て、武蔵国石浜(荒川区から台東区にかけての隅田川沿岸) と赤塚(板橋区)に軍事拠点を構えて下総国の返り咲きを期しま す。以後、下総国に残った千葉氏(庶家)と区別して武蔵千葉氏 と称されます。その後、自胤は家督を継ぎ、太田道灌の旗下で
 各地を転戦します。結局、自胤は千葉荘を奪い返すことはでき なかったのですが、最終的には当初の石浜・赤塚から本拠地を 淵江の中曽根城に移し、足立区南部に勢力を伸ばし支配地を拡 大します。自胤の後継者守胤もこの城を維持します。この場所 から、自作和歌をとうして公家三条西実隆との親交を深め中曽 根城は殺伐とした戦国の乱世の中で、地方歌壇の一画も形作っ ていました。
 大永4年(1524)小田原北条氏が上杉氏の江戸城を攻略し武蔵国 に進出すると武蔵千葉氏もその傘下に入ります。北条氏のもと で家格を重視され、「千葉殿」の尊称を与えられていたことが
 「北条氏所領役帳」に見られます。これには「赤塚」・「新  倉」 (埼玉県新座市)「上丸子」(川崎市)「上平井」(江戸川 区)、そして足立区内の「淵江」「沼田」「伊興」「保木間」  「千住」「三俣」等の村々、「内野」(大宮市)「大多窪」(浦  和市)の地名が見えます。この中の「淵江」こそが中曽根城の
 所在地です。戦国時代の末期を迎えると家督継承者の戦死,北 条氏からの養子入りにより勢力は衰え、天正18年(1590)に北 条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると共に中曽根城も放棄されたもの と考えられます。城の最後について記述がなく、詳しいことは
 解らないようですが、秀吉軍との戦闘ので滅亡や江戸に進駐し た徳川家康が破壊した可能性は薄いそうです。なぜならば今回 発見された堀址と推定される個所も、土砂が自然に埋まったこ とが断面から解るそうです。 

http://www.chibaya.com

 直胤さん、こんにちは!

 中曽根城についての情報、ありがとうございましたっ。

 武蔵千葉氏の拠点は、荒川沿い、そこからすこし北に上がったところに集中しています。千葉介守胤の歌については、おそらく美濃の東氏との関係があったのだと思うのですが、資料をコピーしてくるのをすっかり忘れておりまして、近いうちに武蔵千葉氏・東氏の項目に載せたいと考えています。下総佐倉の千葉氏も地方歌壇を形成しており、千葉氏の文化面での活動も見るべきものがあります。

 石浜のあたり、今戸には江戸唯一の焼き物である「今戸焼き」の産地でした。その今戸焼きを武蔵千葉氏の旧臣たちが受け継いで茶碗や瓦など伝統品を伝えていました。このあたりの土地は隅田川から流れてきた土ではなく、もともとの陸地であった場所で良質な土が算出されたのでしょう。浅草寺の支院である「待乳山聖天宮」の本来の山号は「真土山」とされています。また、隅田川にかかる白髪橋のほとり、石浜神社にある真先稲荷は武蔵千葉氏との関わりがあると伝えられています。


[193] よかった!よかった! ^o^ 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/06/06(Tue) 00:31

千葉氏フォーラム記念講演会、拝聴させていただきました。
佐々木先生のお話は、聴いていて途中で感激してしまいました。「よかった!よかった!」
岡田先生は、流石、大学の先生は、こうじゃなくっちゃ。と言う感じで、事実を冷徹に見つめる研究報告は、「よかった!よかった!」
歴史の研究は、御両名のような、両極か、でなければ、その中間のいづれかだと思います。佐々木先生のような、研究が無ければ、歴史や郷土の事にだれも興味を持ちませんし、岡田先生の実証的裏づけもかかせないと思います。佐々木先生に育まれた子どもたちがうらやましい気がしました。
又、本地垂迹の質問にお答えになった、御住職と千葉神社の奥様の明晰な回答も感じいりました。
千葉氏顕彰会の事務局の皆様は、大変そうでしたネ。お疲れさまでした。おかげで、大変貴重な時間を過ごすことが出来ました。「よかった!よかった!」
帰りに、駐車券にハンコが捺して貰えるのかとドキドキしていましたが、事務局の方に美術館の印をペタンと捺して貰えて。「よかった!よかった!」
ガソリンが残り少なくなっているのをすっかり忘れて、穴川のインターから、高速に乗ってしまいました、湾岸で渋滞して、ドキドキしてしまいましたが、関越の三芳パーキングまで、どうやらたどりつけて。「よかった!よかった!」
ということで、三芳までは、経済速度で走ってきましたが、人も車もおなかいっぱいとなり、それでは、安心して、かっとば・・・・・  危ない危ない、余計なことをカキコするところだった。思いとどまって「よかった!よかった!」 @_@

先日の講演会、お会いできずに残念です(T_T)
自分は事務局の方々のご好意に甘えて、懇親会のほうにも
出席させていただきました。

懇親会では会長はじめ、岡田先生などともお話しすることができ、千葉隆典さんや千葉直胤さんほか、掲示板やメールなどに書き込んでいただいている方々ともじかにお話しができました。とても楽しく、有意義に過ごすことができました。

直胤さん、先日はわざわざ家まで送っていただきありがとうございました!(^_^)


[192] 千葉山について 投稿者:あるけー [月星] 投稿日:2000/06/02(Fri) 23:50

管理人さん、こんにちわ。
 残念ながら、千葉氏顕彰会に出られないので、ここで、かわりに話題をひとつ。
 千葉氏代々の墓所との伝承がのこる星宮塚をご存じでしょうか?千葉市稲毛区園生町・あやめ台小学校(モノレール「スポーツセンター」駅下車)の近くにあります。昔は、この星宮塚から現在の京葉道路穴川インターわきの園生貝塚付近まで塚群が存在したそうです。そして一帯は「千葉山」とよばれてました。伝承によると、それらの塚群は千葉氏代々の墓所で、五輪塔がたっていた。ところが土地争いに絡んで、何者かが夜半に乗して、五輪塔を大日寺に移したというのです。星宮塚は古墳時代の古墳だ、という見解もありますが、星宮塚からは、平安時代末から鎌倉時代にかけての骨壺が出土しています。ここまではご存じの方もいるでしょう。

 さて最近、考古学者から、星宮塚(千葉山)に関して、ある発見が報告されました(『貝塚研究』5号)。地図でみると、千葉寺、千葉城(亥鼻城)、千葉神社は、1km間隔で一直線に並びます。この直線を北へ一里(約4km)のばすと、まさしく「千葉山」にぴったり到達する、というのです。これは???
 星宮塚は、市街化の進む中、数基の塚が南北に一直線にならぶ形で、現在も残っています。現代の千葉氏一族の方々、機会があったら、ぜひ訪ねてみてください(モノレール「スポーツセンター」駅下車、あやめ台小学校近く)。
なお先日の投稿で、訂正。「幕張町武石台地」→「武石町武石台地付近」でした。m(_ _)m

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.ht


[191] 千葉市武石台地の遺跡 投稿者:千葉市の遺跡を歩く会・あるけー [月星] 投稿日:2000/06/01(Thu) 07:50

突然、おじゃましてすみません。千葉氏顕彰会で武石氏をとりあげるとのこと。ちょっとでしゃばって、情報提供を若干。ご存じのように、武石氏の故地である千葉市幕張町武石台地には、武石城、馬加(馬加康胤の居城)のほか、武石氏関連の城郭、それにともなう社寺・貝塚などが密集しており、けっこうな遺跡めぐりが楽しめます。長胤寺城(武石小次郎入道長胤の居館、土塁一部、貝塚残存)、城山城(土塁、腰曲輪、虎口現存)、大久保城(腰曲輪らしき地形)など。とくに三代王神社は、馬加氏滅亡の際、火をかけられたとの伝承がありますが、斜面の貝塚の貝殻に焼けた痕があり、興味深いところです。

http://geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/

あるけーさん、こんにちは〜(^∇^)

武石城はいまだ見たことはないのですが、以前ご質問を頂いたことがあって、調べてみました。地図で見るとちょうど島のような形になって、小高い丘状になっているようですね。14号などからすぐにつけそうなので、幕張に行ったときなど、寄ってみようかと考えています(^∇^)


[190] 信濃の臼井氏 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/28(Sun) 22:11

松本に仕事に行った帰りに、松本市立図書館に立ち寄ってきました。ちょっと長いですゴメンナサイ。 ^o^
常兼─臼井六郎常安(常康)─常光─光安(信濃臼井氏)といわれている信濃臼井氏について調べてみました。
まず、「長野県姓氏」からです。

【1】南安曇郡穂高町矢原と青木新田の臼井氏は、遠祖は下総臼井(千葉県)の起こる桓武平氏千葉氏流で、結城(茨城県)から信州へ移ったと伝える。矢原堰の開発者弥三郎の家は、代々矢原村(穂高町)の庄屋を務め・・・・・家紋は、柊。青木新田の・・・・家紋は菱井桁。豊科町重柳の臼井氏の初見は、天正七年の諏訪下宮春宮造営帳で、重柳村の徴収代官に臼井下総の名が見える。

【2】東筑摩郡麻績村に、代々忠兵衛を名乗た臼井家が住した。戦国時代、麻績城主服部左衛門清信の家臣で、服部氏滅亡後に帰農したと思われる。遠祖は、桓武平氏千葉氏流。千葉常兼の子常安が下総国臼井(千葉県)に住し、始祖となり、のち信濃の豪族村上氏に随身したと思われる。(本陣の記録)。初代は、永禄二年に没し、松本藩主水野氏の代、忠兵衛定勝が麻績組二三か村の大庄屋となり、云々。(永禄二年は、原胤貞が臼井久胤の後見と成り、正木大膳が、臼井城を陥落させた頃です。)
この文献に依りますと、信濃臼井氏は、二流あった事が分かります。

「麻績(おみ)」と言う地名についてです。千葉の辺りにも、「麻績」という地名がありますので、もしかしてと思い、麻績村誌をひもとくと、「麻績」と言う地名は、全国各地にあり、平安時代以前から有った地名のようです。

臼井光安は、信濃(麻績)に所領を得たと云う確証について、麻績の地頭職について、同じく麻績村誌を見ますと、麻績郷は、麻績御厩で伊勢神宮の所領で地頭は、措かれていません。しかし、承久の変後の新補地頭に服部伊賀守が就任しています。臼井氏は、この服部伊賀守の配下となったようです。寛元四年(1246)北条時頼は、藤原朝臣服部伊賀守に、云々と云う文書が残っているようです。伊賀守の子の服部清信(左衛門佐「尉」、村上氏家臣、麻績氏を名乗る)その子の清正(式部太夫)その子の左兵衛(上杉家臣)と続いたようです。服部氏の家臣の臼井氏は、臼井対馬─臼井与五右衛門と続き後に帰農したと考えられます。鎌倉幕府から、所領を与えられるというのは、地頭に任じられると解釈するのが妥当と思いますが、他の方法も有ったのでしょうか。

最後に豊科町誌です、武田氏支配時代の安曇地方の在地領主(村地頭)に重柳郷:臼井下総とあります。

D-FFさん、こんにちは(^_^)

どうやら信濃臼井氏は永禄年以前にはすでに信州に地盤をもっていたようですね。千葉氏と里見氏との戦いなどで下総が戦乱の地となると、国外へ逃れた千葉一族もあったようです。武田信玄の重臣である原虎胤も、室町中期の下総の戦乱から逃れて甲斐へたどり着いた原一族です。ほかにも室町時代には信濃国に移った原氏もあり、甲斐・信濃と千葉氏はなんらかの接点があったのかもしれないですね。

麻績は古代に麻をつんだ職を持つ人々が移り住んだ土地なのかもしれないですね。信州に限らず関東地方には奈良時代など、高麗人などが移住させられました。その結果、関東地方には騎馬民族の風習などが伝来したといわれています。

新補地頭の服部伊賀守についてですが、自分は官途など詳しくないので断定できませんが、この当時、一地頭職がはたして「伊賀守」という官職に就任できたかは疑問があると思います。村上氏、上杉氏の家臣になったということから見て、室町時代のことなのかもしれません。寛元4(1246)年の文書についてもわかりませんでしたが、時頼はこの年3月から執権となっているので、時代的にはおかしくありません。

これはかなり想像の世界ですが、服部伊賀守は麻績御厩の下司職もしくは荘官として、伊勢神宮より派遣された人物だったのかもしれません。各地の伊勢神宮の御厨には荘官として、伊勢神宮の息のかかった人物が派遣されていました。ただ、こうして下っていく人物は「荒木田」「度会」などの神官の一族が多かったようです。

時代がくだって室町時代、麻績氏は北信濃の豪族に仕え、その配下に、かつて下総から信濃へ逃れてきた臼井氏がついたのかもしれないですね。


[189] 常胤の兄弟は? 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/22(Mon) 23:42

千葉江州さんへ、いえいえ、たまたまですよ。

ところで、常胤の兄弟は?です。小生の手元の資料(鏑木清胤氏著書)では、
千田二郎胤幹「胤隆」・平泉二郎常清・葛西三郎重隆・相馬二郎光胤(光常三田小太郎)とありますが、出典は、不明です。それにしても、二郎が三人は、おかしいですネ。
管理人さん、どうでしょう?お助け下さい。

ついでに、上総氏ですが、
常兼の嫡子の常家を初代とし、
2代:常明「常時」(常家の末弟)
3代:常隆
4代:広常 としています。広常の兄弟は、常範(木内)・親常「常胤」(臼井十郎)・頼次(金田小太夫)
常晴は、常兼の弟で、相馬五郎、上総介としています。
このあたりは、全くよく分かりません、親子兄弟の血縁で見るのか、上総(権)介をどのように継承したかで見るのか、惣領制としてどう継承されたのか?全く不明です。


[188] D-FFさん ご追加感謝します 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/05/22(Mon) 13:03

D-FFさん、早速レスいただきありがとうございました。
やはり千葉系ではなかったようですね。それにしても詳細に調査
なされているのには感嘆いたしました。
話は代わりますが、鯖江藩の臼井義太夫は臼井儀大夫からおよそ
一世紀遅れの人物で孫かひ孫に当たる人物だったんでしょうか。
管理人さんまた教えてください。

ところで、追加して県立図書館で見た大武鑑の中から面白い箇所
をご紹介致します。

鎌倉武鑑/文政三年正月 木邨梅年撰
千葉(九曜紋):律師日胤は胤正の兄との表記がありました。

堺(九曜紋):平 常実(千葉五郎)―堺平太定常―堺平二右兵衛尉常秀(上総介)―埴生二郎時常
「定常は常胤の甥也。佐殿義兵の時伊豆へ至りて御手に従ひしより
以来所所の軍に功有り。堺を以って氏とす。其の子常秀又功有
り、上総介に任ぜらる。孫時常は三浦泰村が反逆に與して討死す。」

甥ということは常実が常胤の弟に当たるかのような記載ですね。

上総(九曜紋):平上総介常隆を初めに上げて、常景、広常、直胤、
常清、頼次の兄弟の代となり、広常以下に八郎良常、上総介定常、
上総権介秀胤とありました。

この堺と上総の系譜を見て思い出すのは、阿波千葉氏の系図です。
平常隆という人物をどこかで見たと思っていましたら、ここだ
ったんですよね。出てくる人の名前もこの中にほとんど含まれ
ておりますし、若しかすると阿波千葉氏の系図はこれを参照し
て作成しているかもしれないですね。となると作成時期は比較
的新しく1800年代前半ということでしょうか。


[187] 梅鉢紋の臼井さん 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/21(Sun) 22:18

千葉江州さん、こんにちわ、D-FFです。
江戸幕府旗本人名辞典(たぶん、八王子図書館のコピー)によりますと。
寛政呈書万石以下御目見以上(寛政11年「1799年」)
臼井藤右衛門房興 禄高:150俵 本国:相模 本姓:清和源氏支流 家紋:丸の内無剣梅鉢 年齢:未56
役職:西丸御広敷御用人 寺:増上寺月界院 屋敷:飯田町もちの木坂下通り
幕士録(文政10年頃「1827年」)
臼井才三郎 禄高:300俵 屋敷:元飯田町 その他:文政5年 作事奉行300俵)
旗本姓名高寄(天保9年頃「1838年」)
臼井采女 筑前守 禄高:300俵 屋敷:飯田町もちの木 役職:御小納戸
とあります、この三人は、血縁者と考えられます。

東京の秋川市(現:秋留野市)の市長などを勤めた、臼井さんの家系の御当主にお会いしたことがあります、御当主いわく、先祖は、武田家の家臣で、家紋は、梅鉢。武田家の家臣は、梅鉢紋を用いるのだと言っていました。
この家系は、こちらのホームページの原氏のページの最後の方に出てきます、八王子千人同心を勤めていた家系のようで、八王子千人同心の資料に見えます。

八王子千人同心について、調べたきっかけは、八王子市歴史資料館で、小生の祖父と同姓同名の人が明治時代に、俸禄を請求した記録が残っていました。結局、単なる、同姓同名で先述の秋川(雨間)の方だったのですが。


[186] 文化文政期の千葉系武士 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/05/21(Sun) 12:22

文化武鑑と文政武鑑を再度調べてきたのですが、次のような事柄
が判明しました。

臼井藤右衛門(梅鉢紋)父臼井藤右衛門 百五十石(御腰物奉行)
文化元年から文化八年まで役職:西丸広敷用人

臼井喜内(梅鉢紋)父臼井藤右衛門 三百俵 役職:御書院御番衆
文化ニ年から文化三年まで、文化三年の役職は西丸御小納戸衆
(若年寄支配)

臼井筑前守房興(梅鉢紋)父臼井藤右衛門 二百俵
文化八年六月から文化十五年役職:小普請奉行(若年寄支配)

千葉金蔵:田安斉匡の近習番衆
文化元年から文化四年まで

千葉武太夫:南町奉行根岸肥前守鎮衛の用人
文化元年にのみ記載あり。この根岸鎮衛はTBSで放映されてい
ました「求馬走る」で田村正廣が演じてましたからご存知の方
もいらっしゃるでしょう。

千葉新左衛門:内藤亀之進政憲(日向臼杵郡延岡藩)配下の用人
文化元年から文化十年まで

臼井勘左衛門:市橋下総守長昭(近江仁正寺藩)配下の用人
文化元年のみ

臼井義太夫:間部詮充(越前鯖江藩)配下の番頭・御城使
文化元年から文化十年まで、文化三年から中老・御城使

臼井登美之進:間部鉞之助(越前鯖江藩)配下の御城使
文化十一年から文化十二年まで

木内多仲:間部鉞之助(越前鯖江藩)配下の番頭
文政元年から文政五年まで

幕臣の臼井家の亨和から文政(西暦1800年代上四半期)に掛けて
の系譜はこのような続きでしょうか?
臼井藤右衛門―─―臼井藤右衛門───臼井筑前守房興
(御腰物奉行) (西丸広敷用人) (小普請奉行)
臼井喜内とは筑前守の元服直ぐ頃の名前か?
(御書院御番衆のち西丸御小納戸衆)
ただし、紋も梅鉢紋で、名前に藤の字が入っているので若しか
すると千葉系臼井氏ではないかも。

また、鯖江の臼井氏は義太夫・登美之進が親子関係のようにも
思われます。

文化武鑑には千葉や臼井の名前が見出されますが、文政武鑑にな
ると木内多仲を除いてほとんど見かけなくなり、文政六年から文
政十二年に掛けては全く認められませんでした。
また、仁正寺藩の用人の名前は「さくさえもん」ではなく、勘左衛
門でした。不正確で申し訳ありませんでした。ただ、勘左衛門は
どうやら文化元年で致仕したためか、以後名前が出てきません。


[185] いつ来てもすごい… 投稿者:くらのすけ [家紋不明] 投稿日:2000/05/21(Sun) 02:40

ええと…こちらでも千葉ちゃん様でよろしいのでしょうか…
(以前伺ったときは一貫して「管理人様」と書いていたような気が…)
ご無沙汰しておりました。

拙掲示板にはご訪問ありがとうございました。こちらは3万ヒットが近いんですね。
このすごさなら当然という気がします。
最近、古河公方など関東圏を調べ始めているんですが、
古河公方家臣相馬氏を調べたときに、こちらに伺いましたが、全然こちらの情報の
レベルに達しません。こちらを参照した方が早そう(いかんいかん…)です。

ところで、お尋ねの美濃遠藤氏ですが、平凡な答えですが「岐阜県史」は御覧に
なりましたか?
私もこれ以上はわかりませんです。すいません。
では。


[184] 千葉氏慰霊祭掲示ありがとうございます 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/05/20(Sat) 05:33

管理人さんこんにちは
ご無沙汰しております
早速、千葉氏顕彰会の内容更新
ありがとうございました。
6月4日亥の鼻公園や千葉市美術館へ
みなさんも、もしお時間がありましたら、
お出かけください。


[183] 5月の遺跡めぐりのご案内 投稿者:千葉市の遺跡を歩く会 [ヒ・ミ・ツ♪] 投稿日:2000/05/18(Thu) 06:29

はじめまして。突然、失礼します。
千葉市(千葉氏でなくてすみません)の遺跡を歩く会では、千葉市若葉区東寺山谷地周辺の遺跡めぐりを行います。この地域は、千葉氏のお膝元であり、千葉神社とも関係の深いところです。東寺山古墳群などのほか、おそらく千葉氏(の家臣)関係のものとおもわれる浅間城址、浜道館跡、原城址(原氏の故地との説あり)、高品城址(時間的余裕あ場合)などの城跡を見てまわります。5月21日(日)10:00-12:00です。ぜひご参加ください。詳しいことは、当会のHPをご覧ください。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/1467/index.html


[182] 満胤ですよネ。 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/17(Wed) 21:33

新田義貞の孫は、満胤ですよネ。
久しぶりに、千葉県立図書館に行ってこようかな!
そういえば、千葉県立図書館の人が3年前くらいに言っていた、千葉県史の再編は、どうなたかな?
だれか、ご存じの方いらっしゃいませんか。
(千葉氏のことが分かってきたので、千葉県史を再編するのだと言ってたんですヨ。)

D-FFさん、ありがとうございます。
またまちがってしまいました(T_T)
早速訂正しておきました〜(^∇^)


[181] no title 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/05/16(Tue) 00:27

D-FFさん、こんばんは!

『千葉大系図』などは、『房総叢書』という分厚い4巻くらいの本の中に収められていますよ。多分、おおきな図書館などには置いてあると思います。千葉県立図書館(千葉市)にはあったような気がします。

新田兄弟と北条時行もいっしょに行動してた時期があるようです。時行のおとーさんは新田義貞に討たれているのに、不思議な感じです。それから、千葉介満胤は新田義貞の孫といわれています。満胤の弟・酉譽上人は、増上寺を建立しました。


[180] 六孫王経基と将門記 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/15(Mon) 22:36

太田は、東武鉄道で、足利の隣の駅だったのに、残念、残念!

新田純弘氏の著書に戻りますが、此の本の中に、六孫王経基が源姓を賜姓されたのは、亡くなる5か月前で、従って、それまでは、経基王と呼ばれていなければいけない。と書かれています。
将門記は、著作年代、作者共に不明な文献ですが、興世王は、**王と記されているのに、経基は、**王とは、記されていません、そこで、源経基は、忠頼と同世代の人ですから、少なくとも忠常の世代以降に書かれた文献であることになります。(ちょっと発見! 常識だった???)
とすると、忠頼や忠常は、他の文献に出てきますので、既知の人物だった筈です、であるのに、将門記に良文・重門・村岡五郎・村岡余五郎などと、良文とおぼしき人物が、全く登場しないのは、なんとも不思議です。


[179] では行かなくては 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/05/15(Mon) 01:59

ふふふ

見破られましたね。

去年足利までは出掛けましたが
太田にはどうやって行くか分からなくてリタイアしてしまいました。


[178] 新田兄弟は仲が良い 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/15(Mon) 01:19

前掲の新田純弘氏の著書からです。
この、本の中でも、脇屋義助については、大変好意的に書かれています。
更に、義貞の子供の、義興・義宗の兄弟(弟の義宗が嫡男)も仲がよかったようです。義助は、この兄弟を良く後見したとのこと。又、義助の子の脇屋義治と新田義興・義宗の従兄弟どうしも仲が大変よかったようです。
群馬県太田市の太田駅前の新田義貞の銅像は、義貞と義助の兄弟の銅像です。


[177] あ、ごめんなさい 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/05/14(Sun) 22:32

貼れませんでした。
ごめんなさい。

服部家ホンヤの「服部家住宅」(重要文化財)です。
下記のURLは「表門」の写真です。

ご自分のHPでアップロードでもなさってご覧になって下さい。
私のHPはなんにもありませんから未公開ということで。。。お願い致します。

この家は織田信長に敗れてから許されて建てた家なので430年経ってます。
現在住んでる当主(ホンヤさん)で13代住んでいます。

今川義元を刺した槍などが5〜6本天井に掛かってます。



http://nagoya.cool.ne.jp/akikohsmith//hattori-house-2.jpg


[176] ここは画像貼れますよね? 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/05/14(Sun) 22:26

<IMG SRC="http://nagoya.cool.ne.jp/akikohsmith//hattori-house-1.jpg">


[175] 浪合記 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/05/14(Sun) 22:22

昨年の秋頃に神戸の旧家で浪合記の親王の記事が発見されたという簡単な新聞記事を見掛けました。

浪合記は徳川家が系図捏造に利用したので今では2流扱い以下になってますね。

ウチも「宗清子孫」と書かれているそうで「宗清関係子孫」なら納得がいきますが
徳川家康との関係でお互いに「操作」したのだろうと思います。

徳川さんは新田さんの4男の流れということで「南朝方」だった、と。
ウチは吉野朝遺臣15党(4名家・7名字・4名姓)の7名字の1つの
服部伊賀守宗純の子孫ということで尾張の津島神社を中心にしてました。

どうやら4名家というのが新田さん関係の家々だそうですね。
桃井さんとか大橋さんとか。


私は新田の義貞でなくて弟の脇屋義助どのが好きでたまりません。
新田兄弟は仲が良いので好きです。

源氏系というか足利家は兄弟仲が悪いので基本的に好きになれません。
尊氏より弟のただよし殿の方が好みです。
単純にただよし殿は南朝に加わったからかも知れませんが。

私は両親ともに南朝方なので。


[174] 服部さん、お初です。 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/12(Fri) 22:49

服部さん、クロック入力有り難う御座います。外部からクロックが入ってきますと、小生D−FFは、動作いたします。
浪合記ですか?
適当な読み物がどこかからか出版されていますでしょうか?
現在、「古代日本、地域王国とヤマト王国」学生社、門脇禎二著の上巻を読み終えて、下巻を読んでいる処です。
読み終わったら、図書館でも行って探してみようと思います。
現住所の埼玉北部・群馬あたりは、新田氏族の名字の人も多くいて、会社の同僚の中にも結構居たりします。
そんなんで、最近は、新田氏にも興味があります。

ところで、このホームページの皆様に質問です。
千葉大系図なるものを一度で良いので、見てみたいと、かねがね思っているのですが、どうしたら、こういった物は、見ることが出来るのでしょうか?出来れば、現代人に読めるように訳が付いていたりすると有り難いのですが。
千葉氏関係の他の系図でも良いので、どなたか教えてください。


[173] デーエフエフさん 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/05/12(Fri) 21:38

「新田」氏は負け組ですから当然大変だったようです。

「浪合記」にはそのあたりのお話が書かれていると思います。


[172] 自己紹介続きです。 投稿者:D-FF [追加希望] 投稿日:2000/05/10(Wed) 22:11

D−FFです。昨日は、突然登場しまして、こちらのホームページの皆様、失礼いたしました。
本日は、続きの自己紹介を致します。
出身地は、千葉県です。南房総(房州)です。現在は、仕事の関係で、三方を群馬県に囲まれた、埼玉県の北端に住んでいます。
祖父以前は、八王子(中野村)の住人だったようです。千葉氏流の臼井氏とは、関係があるのかどうかは、わかりません。どこかに、「丸に違い鷹羽」を家紋に持つお仲間は、居ませんでしょうか?
こちらの掲示板のログでも話題になっておりました、「上総下総千葉一族」を以前に本屋で見つけて読みました。丸井先生の御著書ということで感激して買いました。その本屋で、並んでいたのが、「海のもののふ三浦一族」新人物往来社、石丸ヒロシ(漢字がありません細川モリヒロ氏のヒロ)著です。一緒に買って読みました。千葉諸系図では、三浦氏は、良文−忠通ですが、三浦氏側の諸系図では、色々な説があるようです。
最近買ったのは、「埋み火は、また燃える 新田一族銘々伝」さきたま出版会、新田純弘著です。読んでいて、新田氏(岩松氏)は、義貞より後は、苦労したんだな!と感動しました。
千葉氏も新田義貞に北陸退却の途中まで従っていたと思います。
ところで、D−FFは、ディーエフエフと呼んで下さい。データー型フリップフロップと言う論理演算素子の事です。D−FFは、外部から入力されるクロックパルスに従って、入力データを出力に伝達します。ようするに、ものぐさで、誰かがクロックを入れないと動作しません。そんな私です。
蛇足です、忠常のところに、八幡太郎義家は、頼信の嫡男と有りましたが、頼義の嫡男と思っているのですが???
皆様宜しくお願いいたします。追って質問などさせてください。


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