千葉氏の掲示板過去ログ1

 

[167] チャット上手く行きませんでした 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/05/02(Tue) 01:35

管理人さんこんにちは
チャットルームに入ろうとしたのですが
エラーがでて上手く入れませんでした。
黙って出て行ったのではないのでご了承ください。
やはり古いポンコツPCのせいでしょうか?
遅いので又今度ノックしてみます。

ところでGWなんて忘れておりました。
本日も仕事で先ほど帰宅した所です。


[166] 日本はGWでこちらは天手古舞 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/05/01(Mon) 06:14

GWですから徹夜でテレビもいいですね。たまには。

こちらは4月29日の入国審査に2時間半も掛かって気の毒です。

今日は日曜日ですから係官達は休日返上ということで日給が倍の日ですから大勢出勤しますから入国審査はすんなり終わります。

航空会社にとって日本のGWは書き入れ時ですから日本人さまさまです。


[165] 朝まで生テレビ 投稿者:管理人 [月星] 投稿日:2000/04/29(Sat) 11:40

朝まで生テレビをほんとに朝まで見てしまいました。


[164] no title 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/04/27(Thu) 13:01

早速のレスありがとうございます。

市橋家の拠点西大路はずばり蒲生氏の居城日野城の真横です。
日野城が廃墟となっていたため、城址横の仁正寺に入ったとあり
ました。それから臼井さくさえもんは文化武鑑に載っておりました。

実は私の出の近江千葉は元禄11年から過去帳に現れるのですが
もう一つ伝承で墓は元和年間からその地にあるとの話も聞いてい
るのです。後者は信憑性に欠けるなあと思いつつも根も葉もない
話が残るはずはないのでもう少し調べていきたいと思っています。

話は変わりますが、下総千葉の最期の当主(?)だった重胤の母で
ある東の方は「あづま」と読むようなことを千葉家実紀で見ましたよ。

大学の図書館に日野市史のようなものがあるかもしれません。
つぎに大学の図書館に行った際に探してみますね。

『千葉家実記』はまだじっくりと読んではいないので、
わからないです〜(^^;この間、千葉の方に用事で
行きましたときに、県立図書館ですこしだけ拝見しましたが、
時間がなくて、じっくり読むことはできませんでした。
ただ、「ひがし」については享保11(1726)年10月11日に
千葉権之助(実名不詳)が増上寺(か?)に提出した願書に
「長胤母ひがしと申者新田岩松満治郎御姉ニ御座候」とあることから
ひがしだろうと思ってページに書きました。

この願書は、かつて常陸で重胤が拝領した宍戸百石が
殊のほか荒地である上、家臣がないため開発が困難であることを
願い出、替地を求めて一旦は認められましたが、秀忠・崇源院など
相次いで没したために沙汰やみとなり、その替地を求めて
千葉権之助が提出した文書です。


[163] no title 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/04/27(Thu) 00:06

ちょこっとチャットというものを作ってみました。
いろいろとご利用くださいませませ♪


[162] 市橋家の用人・臼井さくさえもん 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/04/25(Tue) 17:51

管理人さん、ご無沙汰してます。
いつのまにか臼井氏のページもすごくボリュームアップ
されましたね。臼井良胤の上方での仕官先が分かれば、
また面白そうな展開になることでしょうが・・・。
先週今年やっと3度目の連休となりましたので、ドライブ
ついでに県立図書館へ立ち寄ってちょこっと立ち読みして
きました。そこで「臼井さくさえもん」なる人物を見つけ
出してきたのです。

たまたま臼井義太夫の索引を眺めていたときに引っ掛かって
きたのですが、文化武鑑で蒲生郡日野の西大路(仁正寺)
に大名の市橋家が1万8千石を領しており、その用人に
「臼井さくさえもん」なる人物が名を連ねておりました。
この西大路は私ども近江千葉臼井の本拠地から東へわずか
6km寄った場所です。位置関係から言えばそこから半刻も
あれば歩いて勤務できる距離なので、若しかすると近江千葉
臼井から出た人物である可能性も考えられます。(市橋家との
関係を示唆する話は直接聞いたことがないのですが・・・。)

市橋家自体は美濃の出で、源氏を称していますので、土岐氏
の一族に連なる出自かと思われますが、その後越後三条を経て、
元和8年(1620)市橋長政の時に当地へ転封されております。
上記「臼井さくさえもん」は臼井義太夫と同じ頃の元禄期以降
にその役職にあったものと思われます。ということで時期的に
も近江土着後のことになりますので、可能性が示唆されると
いう訳です。ただ、市橋家が美濃を本貫地としていますので、
遠藤家や東家ゆかりの臼井氏が居たのかも知れませんが・・・。

一方、義太夫の仕えていた間部家は文化武鑑では越前国鯖江
(現在の福井県鯖江市)との由でした。その当時義太夫は番頭で
御城使の役にもあったようですね。ご存知のように、福井と
滋賀は隣接していますので、場合によっては「さくさえもん」
がそちらの臼井氏から出た人物の可能性だって否定できません。

時間がなくて、文政武鑑まで見る余裕がなかったのですが、
もう少し市橋家の臼井氏についても調べてみたいところです。
それに滋賀県の図書館に立ち寄って郷土史の冊子を見てみない
といけないですね。やはりご当所の書籍を見た方の情報が多い
はずですから、現地に足を運ばないと正確な情報には入手でき
ないですね。

江州さん、こんにちは。

臼井氏はじめ、白井氏も独立したページとして
扱うことにしました。一族のページで扱うには
文章の量が多くなりすぎてしまいました(^^;
同じ意味で、粟飯原氏も独立したページとして
扱うことになるかもしれません(^_^)

臼井良胤のその後は今のところまったくわかりません。
大坂に下ったということは、豊臣政権の誰かに仕えていたのでしょうか???

「臼井さくさえもん」については文化武鑑に書かれているんですか?今度図書館に行く機会に探してみます。
蒲生郡日野。。。どこかで聞いたようなと思って
調べてみましたら、日野の蒲生家の家中にあった
臼井右兵衛がいました。この右兵衛との関係も
何かあるかもしれません。


[161] 本日の朝刊で見ました 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/04/22(Sat) 23:42

服部さんこんにちは。
私の住む町です。
恥ずかしいというより悲しい(T_T)
不思議なのはあんなことしなくても
当選したと思われるのに何故?
当選したご本人はここ数年地道な活動をして
評価が上がっていたのに残念です。


[160] 更新日記2 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/04/22(Sat) 00:56

「沼南町」のページに桜の名所の写真を
追加いたしましたのでご覧ください(^∇^)
全部で12枚を掲載いたしました。

「臼井氏」の項目について、萩藩大組士の臼井氏を
いくつかピックアップいたしました。
今後、萩藩大組士・白井氏についても取り上げる予定で
おります。


[159] 「白井町」が話題に。。。!?! 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/04/21(Fri) 22:38

すぐに目が行ったのは「千葉氏のHP」のせいですね。

■公選法違反:買収容疑などで白井町議ら8人を逮捕 千葉県警  4月21日 22:19
 昨年4月の統一地方選・千葉県議選の白井町選挙区で初当選した中村光伸県議(52)=当
選後に自民党入り=派運動員の町議らが告示前の1月、別の町議らに現金を渡し投票を依頼し
ていた疑いが強まり、県警捜査2課と印西署は21日、同町議の小野巌容疑者(60)ら8人
を公職選挙法違反(買収)などの容疑で逮捕した。

服部さん、こんばんは。
白井町といえばおとなりですね。
最近、沼南町でも町議選がありました。
定数21に対して24人が争う激戦でしたよ(^∇^)


[158] HP移転しました。 投稿者:飯野 [月星] 投稿日:2000/04/19(Wed) 08:10

 ごぶさたしております。
以前、相互リンクをしていただきました北辰館スクールのHP担当飯野です。
お世話になりまして感謝しております。
 実はこの度、当HPの容量アップに伴い、アドレスが変更になりました。
つきましては誠にお手数をかけて恐縮でありますが貴HPから当HPへの
リンクの修正をお願いできますでしょうか。

 今後ともよろしくお願い致します。

新アドレス
http://plaza3.mbn.or.jp/~hokushinkan/index.html

http://plaza3.mbn.or.jp/~hokushinkan/index.html

飯野さん、ご無沙汰いたしておりました。
リンクのほうは変更いたしておきましたので、
ごらんくださいっ(^∇^)


[157] 丸井先生です 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/04/14(Fri) 01:03

管理人さんこんにちは。
千葉市立郷土博物館長は今井先生ではなく丸井先生ですよ。
遅いので今日はこれで失礼致します。

千葉さん、こんばんは。

丸井先生、失礼致しました。
さっそく訂正させていただきました(T_T)

亥鼻城の桜はいかがでしょう?今年は見に行けませんでした。。
近所では、沼南町にある「今井の桜」は見に行ってまいりました。
白井町の方までずらーーっと川岸に桜が並んでいて見ごたえがあります。
しかも、のんびりとした田んぼの中にあるので、
人も少なく、本当の「お花見」ができる場所だと思いますよ(^∇^)


[156] 春っぽく 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/04/13(Thu) 16:40

FrontPage2000というソフトを使って最初のページを
変えてみました。
まだ使い勝手がわからず、エラーが出たりしてますが、
なんとかアップにこぎつけました。
WORD95とはまた勝手が違うので、ムズカシイ。。(^^;

先日、香取神宮に行ってきましたので、そのとき撮った
写真を、どこかに貼り付けようと思っています。
千葉介満胤の項目かなぁ。。。などと考えたりしています。
ちょうど桜祭りで、ものすごい人出でした。


[155] すばらしいHPですね 投稿者:すうざん [月星] 投稿日:2000/04/10(Mon) 21:33

縁あって、千葉氏の妙見信仰に関心をもっています。
とても詳しくまとめてあって、ただただ感動しました。

すうざんさん、こんにちは!

メールを返送したのですが戻ってきてしまいました。
妙見信仰については千葉市立郷土博物館長の丸井敬司先生
が執筆された『上総下総千葉一族』(新人物往来社)という本に詳しく書かれておりますので、ご覧ください。

トップページだけですが、ちょっと春っぽい感じにしました。


[154] 私もPCに悪戦苦闘の経験者 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/04/02(Sun) 00:06

管理人さん皆さんこんにちはご無沙汰しておりました。
皆さんパソコンを色々といじられておりますね。
実は私も現在所有のGateWay2000には泣かされました。(T_T)
まともに動いたのはここ1年位で当初よりトラブル続きで、お蔭様でBIOSの勉強までさせられました。(T_T)
どなたか画面が紫色になるとおっしゃっておりましたが、私の場合は赤色が無くなって真っ青のモノトーンになってしまいます。
現在調査中です。
ドライバーを入れ直したりしてみましたが駄目でした。(?_?)
皆さんもがんばって下さい。(^_^)V

千葉さん、こんにちは

パソコンの調子は如何でしょう?
こちらのパソコンは順調に動いてます(^∇^)

トップページのデザインを変えようと、FrontPageを買って来て作ってきたのですが、どうもうまくアップできませんでした(T_T)エラーが起こってしまいます。なにかソースが間違ってるのかなぁ?などといろいろいじくっています。

もう桜の季節ですねー。常盤平・六高台という近所の桜通りはもう満開です。14日の夜に友達と夜桜見物などする予定です(^∇^)
いろいろ春めいてきました(^∇^)


[153] 源頼朝像 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/03/30(Thu) 15:21

朝日新聞の2月6日の日曜日の「名画日本史」に源頼朝像について書かれています。

記者は「神護寺」の頼朝像は「違う」ということで見に行ったけど
実物の前に立つと圧倒的な存在感に「ヨ・リ・ト・モ」とうめかざるをえなかった
と書いています。


頼朝像本家:

甲府の善光寺にある木像が本物なのは確かだそうです。
作られたのは正治元年正月13日だそうです。
これは本物だとはっきりしているそうです。

服部さん、こんにちは

善光寺の木造はけっこうゴツイんですよね?
でも武人らしくていいと思います。
正治元年正月ということは、頼朝が亡くなった月ですね。
 ↑うる覚えで違うかもしれません(^^;
亡くなった遺影代わりに彫られたのでしょうか?


[152] ありゃりゃ? 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/03/29(Wed) 00:34

私のうちの家紋は月星じゃないです。
丸に抱き茗荷です。
すみません、しくじりました。


[151] スピーカーも戦死! 投稿者:しのはら [月星] 投稿日:2000/03/29(Wed) 00:32

消防車の、警戒走行時のサイレンの音みたいのがします。
もうだめですね。
おとなしく修理に出すことにします。
画面も殆ど見えなくなってしまったし。

パソコンって、
一年半ぐらいで完全に死んでしまうものなのでしょうか?

しのはらさん、こんにちは。

パソコン、ついに壊れてしまいましたか(T_T)
液晶は普通のモニターよりも10万円くらい高いですよね〜。自分のパソコンはモニター別売りのコンパックのパソコンなのですが、CRTモニターは2万円で買えました。
前まで使っていたNECのバリュースターは、4年くらい前のですけど、一度も壊れませんでしたよー。今も元気に動いて、親のゲーム機になっています(^_^)


[150] 参考になります 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/03/26(Sun) 22:28

最近、マシンを結構1人でいじっています。
そのせいか、不安定で、しょっちゅうシャットダウンを要求されます。

まだ、管理人さんや「しのはらさん」のような壊れ方はしませんが将来そういう日が来るかも。

参考にさせて頂きます。

服部さん、こんにちは。

自分のパソコンは、もともとヘンだったので、
それが遂にコワレタ。。。という事だったようです。
こんどはかなり快調なので、突然のクラッシュや
フリーズなどはおこらなくなりました。
それだけなのに、無性にうれしいっす(^∇^)


[149] ひー、ノートPC故障 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/03/25(Sat) 20:09

どうもお久しぶりです、しのはらです。

なんか画面がワインレッドになっちゃってるー。
修理に出してこないと…。

管理人さんの故障の話を読んだので伝染ってしまったのかも。(ウソ)

それでは!


[148] 簡単外国語学習 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/03/20(Mon) 07:47

http://www.travlang.com/languages/

現地語が70以上収録されているそうです。

旅行会話がらくらくマスター出来ます。



今、行って来ましたが、
まず「 NIHONGO 」に合わせて
次に自分の習いたい国の国旗をクリックするだけで行けます。

これはいいですね。


[147] 1文字変換に3秒? 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/03/19(Sun) 22:10

信じられませんが。。。

でも私も信じられないことをやってました。

メールが壊れた時の連絡用にと無料掲示板を立ちあげたのですが
間違えて入力して掲示板タイトルがアップされませんでした。(馬鹿)

今は無料HPの「更新」に
<!--#filemod-->
で出来るとのことですがどこに付ければ良いのか毎夜苦しんでいます。

千葉さんが「1文字変換に3秒かかってた」などとおっしゃると
そういうこともあるのですか?
とぶっ倒れそうでございましたよ。

ナカナカいろいろあるのですね。。。

服部さん、こんにちは!

文書やメールを書いていると、とつぜんハードディスクがカラカラ言い出して、変換に5秒ほどかかるようになってしまったんです。一度、ソフトを閉じてもういちど立ち上げると元に戻るのですが、またすぐにこの症状があらわれたので、メーカーに頼んで修理しました。
いやぁ、今思うと大変なパソコンでした(^^;
いまはハードディスクも交換されて、利口になって戻ってきましたよ。うれしーーーーー!


[146] ようやく 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/03/19(Sun) 19:00

ようやくパソコンが治りました。
ハードディスクが故障していたようで、
コンパックのカスタマーセンターに連絡したら
すぐに取りにきてくれました。対応はやい!
3日で戻ってきましたが、今回は快調です。。
以前は、1文字変換に3秒ほどかかっていました(^^;
こんなに早く文字が変換されるとうれしいですねぇ。
↑たぶん、これが普通の変換速度なんでしょうけどねっ!


[145] 大変な数の御先祖様 投稿者:御菓子司 千葉家 [月星] 投稿日:2000/03/11(Sat) 18:19

私たちは父母から生まれ、その父母はまた父母から生まれと、これを25代さかのぼりますとナント御先祖様の数は、
33554432人になります。これは僅かに25代、約750年 さかのぼっただけの計算ですが、私たちの命はこんなに大変な数の御先祖様が私たち一人一人の命となってくださっているのです。
日本人は、先祖崇拝の民族です。御先祖祭りは古来より日本人の精神生活の柱で、御先祖供養が強い日本人を作りました。

17日より春の御彼岸です。皆様お揃いで御先祖祭りをするのは
外国にないしきたりで、日本の古代から綿々として今日に及んだ
日本人の知恵です。御先祖祭りは,御家の繁盛を招き御家族皆様
お一人お一人の幸せをお作りくださいます。
御彼岸には、是非おはぎをお供えし御家族皆様で楽しく美味しく
お召し上がりください。

http://www.chibaya.com

直胤さん、こんにちは!

今年はおはぎをお供えして食べましたよ(^∇^)
ただ、お墓参りは留守中に行かれてしまったので、
あとでお墓参りしてこようかと思っています。
鎌倉時代にまでさかのぼれば、3千万人ものご先祖がいるんですね。もう2世代さかのぼれば現在の人口に等しいですねー。冠婚葬祭の祭は先祖を祀ることを示すとか。ご先祖を祀ることはこれらに匹敵する重みを持っていたんですね。


[144] 更新日記@ 千田瀧楠について 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/03/10(Fri) 00:12

 室町時代中期、千田庄において「千田瀧楠殿」が「千葉介殿」に一味同心して千田庄内の大嶋城を攻めたことが『金沢文庫文書』の文書断簡に記されています。

 この「瀧楠殿」は「千田孫太郎殿」の子息とされ、「千田孫太郎」とは、千葉大隈守胤貞の嫡子「孫太郎胤平」のことと思われます。孫太郎胤平は建武元(1334)年12月に、父・胤貞から惣領として家督を譲られており、千葉氏惣領であったことがわかります。

 しかし、こののちの胤平の活躍を伝える文書はなく、かわって数十年後に現れるのが「胤泰」「胤継」といった、胤平の兄弟たちでした。胤継は下総千田庄内に地盤をもった千田氏(多古千葉氏)の祖、胤泰は九州千葉氏の祖であり、千田庄・九州両方に、胤平の子孫と思われる人物がいた形跡はありません。また、諸系譜にも「瀧楠」という名を見ることはできず、子孫も見つけることはできません。

 ただし、『雲海山岩蔵寺浄土院無縁如法経過去帳(岩蔵寺過去帳)』という肥前国岩蔵寺に伝わる過去帳によれば、「当郡代々地頭」として、「常胤 胤政 成胤 胤綱 時胤 泰胤 頼胤 宗胤 明恵後室尼 胤貞 高胤 胤平 直胤 胤直 ■謎 胤泰 胤基」と歴代が並べられています。

 「胤平・直胤・胤直」の継承も文書では確認できませんが、「千田孫太郎殿子息瀧楠殿」が「千葉介殿と一味同心」して千田庄内の大嶋城を攻める企てをしており、千田庄内の勢力(おそらく胤平流から惣領職を奪った(?)千葉胤継か胤泰の勢力)と戦っており、惣領職、千田庄などの所領をめぐる九州千葉氏内の家督争いがあったと思われます。

 「瀧楠」の「瀧」が「胤」であったとすると、『岩蔵寺過去帳』にある「胤直」のことかもしれません。胤貞は胤平に家督を譲った2年後に没しており、もし胤平も早世したとすると、その子息(?)直胤・胤直もまだ幼少であろうと思われ、一応は胤平の家督を継いだものの、胤継・胤泰ら叔父(大叔父)がにわかに所領を横領し、成長した胤直が千田庄において下総千葉介と結んで反乱を起こしたのかも?


[143] そういえば真子さんもおりましたね 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/03/04(Sat) 11:55

管理人さん、いつもながらありがとうございます。

マラソンランナーには真子さんもおられましたね。ただ理恵さん
はフィールド競技のようですから、若しかすると別種目になって
しまうかも知れません。(女子マラソンの弘山さんも有力なシドニー
候補に上がってますから、もしかすると市橋、犬伏と共に徳島県
出身者が3人選ばれるかもしれないと、こちらの方ではとっても
盛り上がってますよ)

それから粟飯原氏の件ですが、守護代はやはり三好氏が台頭して
きておりましたから、序列的にはもう少し下がるかもしれないで
すね。
また、木内氏のことも由良町は淡路島の徳島寄りのところですの
で可能性は考えられますよね。それに天羽は「あまは」と呼んでい
たのですか。初耳でした。

三好氏は足利将軍義植を担いで畿内を席捲しましたけれど、四国
へ追い返された後は義植の後裔である平島公方家(徳島県南に居住)
を立てて復権を目指していましたが、結局逼塞してしまいました
ね。この平島公方家も江戸期になって蜂須賀家の藩政下で続いて
いたようです。

ああ、それから直胤様の写真の件では管理人さんともどもご迷惑を
お掛けしてしまいました。直胤様には直接メール差し上げること
ができましたことを付け加えさせていただきます。どうもありが
とうございました。

江州さん、こんにちは。

粟飯原氏がいつごろ阿波に下ったのか、さだかではありませんが、
もしも細川氏の阿波入部に伴ってきていたとすれば、おそらく、阿波の
豪族の三好氏より序列的には上に位置していたか?と思います。
三好氏は、室町中期に台頭して細川氏家宰の地位を手に入れました。

天正10年に十河存保に属して長曾我部元親と戦って
戦死した「粟飯原平之丞」、天正13年、蜂須賀家政に協力した
大粟山地方の「粟飯原源右衛門」がありました。

平島公方は、蜂須賀家が入部する前は三千貫文を領していましたが、
家政によって没収され100石となり、さらに4代目・足利義次は
足利の家名までも取り上げられ「平島」を称することを命じられました。
ただ、その子孫は学問で身をたて、学問好きな藩主と深い関係を
もっていきます。そして江戸中期、藩主の制止を振り切って平島から
京都へうつり、結局困窮して紀州藩から扶助米を受けることになったようです〜。


[142] お騒が致して済みません 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/03/03(Fri) 18:31

直胤様、ご丁寧にレスを頂戴しましてありがとうございました。

でもお騒がせなことを申したみたいでどうも済みません。

また、メール差し上げたいと思うのですが、お店の方は注文の
アドレスとなっているようですね。そちらの方でも構わないので
しょうか?掲示板にご記入のメールアドレスでは送信できないも
のですから・・・。


[141] 写真の件ですが・・・・ 投稿者:御菓子司 千葉家 [月星] 投稿日:2000/03/03(Fri) 18:06

早速、管理人様の助け船が出ました。いつもながらのハイレスポンス  (^-^) 。
私のような初心者に解りやすく、御教示頂きました。ありがとうございました。貴重な御時間を費やして頂きまして恐縮しています。
恥ずかしながら、私、パソコンの周辺機器が、揃っておりませんので、当けいじ板に表示することがすぐには叶いません。(;;)

江州様、強い関心と御急ぎでしたら、ネガが在りませんのでコピーして郵送致します。其の時は連絡ください・・・・・。
  n-chiba@chibaya.com

http://www.chibaya.com


[140] 千葉一族関係の写真あります 投稿者:御菓子司 千葉家 [月星] 投稿日:2000/03/02(Thu) 12:24

江州様、こちらこそ宜しくお願い致します。
叔父の一胤も御先祖様との絆の証を紛失しましたことを残念に思い、千葉氏の香りのする場所を写真に収めているようです。
当けいじ板に書かせて頂きました他に何点かあります。
江州様はじめ皆様に見て頂く事、何の差し支えありません。
ただ、私パソコン初心者でプリント写真を、けいじ板に表示する方法が解らないないのです。皆様の御役に立つことなら積極的に行いたいのですが・・・・・・。

管理人様たすけて〜       御暇な時でいいですから・・・

http://www.chibaya.com


[139] 阿波神山の粟飯原家 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/03/01(Wed) 13:11

直胤様、はじめまして。
江戸時代初期に臼井から千葉に復した家の出の江州です。
お菓子にまつわるお話を興味深く拝見させていただいてます。
それに写真の件ですが、今もお持ちなのでしょうか?一度拝見さ
せていただきたいものですねぇ。

明子様も触れていただいたのですが、武道家にも玄武館所縁の情
報をお教えいただけたらなあと思いますね。

管理人さん、阿波千葉氏に関しての追記ありがとうございました。
何度も美馬安楽寺の近くを車で通るのですが、なかなか立ち寄る
機会もありません。一度は住職にもお目にかかりたいものだと
思っているのですが・・・。

阿波の粟飯原家のことは以前にも書き込ませていただきました
が、もう少し詳しい情報がありましたので追加させていただきます。

粟飯原家は1351年に下総の千葉家から派遣された阿波にやってき
た旧家です。阿波には天羽家や木内家など千葉家所縁の旧家が多
数ありますが、粟飯原家もその一つということです。1351年は京
で粟飯原清胤が戦死したことが「千葉氏の一族」の項で触れられて
いましたから、案外阿波の粟飯原家も清胤に関係しているのかも
知れませんね。

阿波の粟飯原家は1638年(寛永15年)に別家して神山町に屋敷を構
え、15代を数えるということです。神山町は徳島県のちょうど真
ん中に位置するかなり山間部に入ったところで、こんなところに
も飛び地の所領があったのかとも思わせます。

ところで、最近この神山の粟飯原家の由縁である粟飯原理恵さん
(中学生)が陸上競技で県の記録を次々と塗り替えて話題になって
地元の新聞を賑わせておられます。彼女の新聞上での扱いは市橋
有里さんや犬伏孝行さんの世界的なマラソンランナーと同等で
かなり有望視されていますよ。

天羽氏や木内氏についてはまた情報収集を続けておりますので、
ある程度まとまった時点で書き込みさせていただきます。

江州さん、こんにちは!

阿波粟飯原氏はたしか、室町時代の始め頃に細川氏とともに入部したと
聞いたことがありますよ。代官だったか、守護代的な存在だったかはちょっと
忘れてしまったのですが、細川氏と関わりがあったように記憶しています。

天羽氏については、上総国では「あまは」と読んでいたようなのですが、
それが「あもう」となり、「天羽氏」「天羽生氏」が阿波におられます。
幕末の徳島藩では、討幕派の筆頭家老・稲田邦稙(洲本城主)があって、
藩主・蜂須賀茂韶(慶喜の姉か妹聟)が上洛して留守の間に台頭し、
その討幕派の中に天羽生岐城という人物がありました。

木内氏については、承久の乱の功績により、但馬国磯部庄内の地頭、
淡路国由良庄内20町・筑佐庄20町の新補地頭職となっている「木内二郎」がありました。
この「木内二郎」は時代的にみると東胤頼の子・木内二郎胤朝か?

粟飯原さんですか。そのうち千葉真子さんと一緒に走るような事があれば
おもしろいですねっ!

せっかく今日は暖かかったのに、千葉のほうは明日は
雨らしいです!それもカミナリ交じりの!
カミナリはあまり好きじゃないです〜(T_T)


[138] 千葉直胤さま 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/03/01(Wed) 09:02

レス、ありがとうございます。

江州さまともお話ししましたが、千葉道場の方にもこちらに来て頂けたら、と思います。

そして剣道の事などお書き頂けたら、と願っています。


[137] もうすぐ ひな祭り 投稿者:御菓子司 千葉家 [月星] 投稿日:2000/02/29(Tue) 16:25

3月3日は桃の節句、ひな祭りです。古くは紙で作った人形で体を撫で、身のけがれをそれに写し取り、水に流し身を清めていました。ひな祭りは江戸時代の初めから行われるようになり、当時は紙で作った紙雛を雛屏風に立てかけた簡素なもので、それに草餅・白酒をそなえました。江戸時代も後期になりますと商家のお家繁盛・子孫繁栄を祈るものとして町家で盛んに行われるようになり、ほとんど現在のものと変わらない形式になりました。初めは男女共通の厄除けでしたが、後に幸運・良縁を願う女の子の祭りとなりました。雛祭りとお菓子の付き合いは古く、平安のころから草餅を、室町時代には白酒を供える様になりました。
そして、菱餅・草餅・桜餅・その他の雛菓子と、時代と共に供えられるお菓子もかわってきました。
千葉家(ちばや)でも、お嬢様を初めご家族皆様の平安とご多幸を心より念じながら、菱餅、草餅、桜餅 お作りしています。

日本の歴史・伝統・文化を大切にしておられる、けいじ板の参加者の皆様、是非3月3日雛祭りには、ご近所の和菓子屋で、草餅、桜餅 お買い求めください。  よけいな おせわでした。   
服部明子様 はじめまして、千葉直胤と申します。
北辰一刀流といえば、千葉周作成政。ケンブとは神田お玉ヶ池の周作氏の玄武館道場のことを指すのでは・・・。
私の叔父の一胤が写した写真を思い出しました。徳栄山・本妙寺に、周作氏の立派なお墓があります。
その他には、板橋区の萬吉山・松月院は赤塚城主千葉自胤公の墓。足立区の長勝寺に千葉次郎勝胤公の墓。石出掃部亮吉胤公の墓。中曽根城跡など写っていました。

http://www.chibaya.com


[136] 北辰一刀流の皆さんが 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/02/25(Fri) 09:25

今日、ロスにウチのフライトで東京からいらっしゃったお客さまのお世話をさせて頂きました。

刀が9振りくらい機内持ち込み制限手荷物としてロスに入って来ましたから、税関でちょっと見せて頂きました。

中には日光の4〜500年前の刀(重文だか国宝級だかの機長預かりの大変なモノ)もありました。

ご一行の皆さんは「北辰一刀流」のトウブとゲンブの方達だそうで、ぜひネットで「千葉一族」にアクセスなさって下さい、とお話しておきました。

名刺を見せて頂きましたが、確かに「月星」紋でした。

それで千葉江州どのお持ちの石の写真の話題をさせて頂きました。

天覧試合に出たとおっしゃる方もいらっしゃって、ウチの今日の到着係のスーパーバイザーも天覧試合に出たことがあります、とお話して、中々楽しかったです。

北辰一刀流の門下の方もこのHPにアクセスなさって下さると嬉しいのですが。

服部さん、こんにちは。
ホームページの宣伝、ありがとうございます〜(^∇^)

北辰一刀流のみなさんですか。千葉周作の意思がまだ生きてるんですねー!
坂本龍馬、海上胤平、伊東甲子太郎、、、いろいろな名剣士が出ましたね!トウブとゲンブ。。。ゲンブは玄武館の玄武なのでしょうか?北をつかさどるカメの神様です。妙見神が乗っている亀は玄武でしたっけ?


[135] 阿波千葉家の情報 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/02/20(Sun) 08:25

皆様、昨日の講演会はいかがでしたか。
残念ながら徳島からは参加することはかないませんでしたが、
こちらでは阿波千葉家の情報が手に入りましたのでお知らせ致し
ます。

県の図書館で見ました「美馬町史」に阿波千葉家の系図が写真で冒
頭の部分が掲載されていました。その内容はちょっと予想を反す
るものでした。

まず、桓武天皇の出自であることを述べた部分があって、箇条書
きに歴代の当主が書かれて、千葉彦太郎常重から改まって系譜式
になっている形態になっています。
千葉家歴代の当主も以下の順に並んでおりました。

忠常 千葉上総助
常将 千葉小次郎 従五位
常兼 従五位
常明 上総助
常隆 上総助 広常弟
常清 相馬九郎 常澄子
常重 彦太郎

助は明瞭に助と書かれておりました。また、この家の歴代にはつ
いに胤が入っている人物もおりません。補足の記事の中では上総
の千葉氏は三浦氏と縁族であったため宝治合戦の際に常重は僧籍
にあって難を逃れ、広常の娘婿であった小笠原長清を頼って阿波
に移ったとあります。

わざと上総千葉の秀胤の系譜を隠匿するために旧の上総介の系譜
に摩り替えた形にしているのでしょうか?とても不思議な並びな
ので驚いてしまいました。

江州さん、こんにちは。

阿波千葉氏についての情報ありがとうございました。
広常の弟「常隆」という人物ははじめて見ました。常明は相馬御厨をめぐる文書にある「常晴」「常時」と同一人物でしょう。常清は広常の弟で、源義朝が下司をつとめた相
馬郡に上総権介常澄の代官として相馬郡にいたために相馬を称したのかもしれません。
「九郎」であり、広常(介八郎)のすぐ下の弟でしょう。常隆の存在はわかりません。
たしかに不思議な並びですね〜(^∇^)

広常の甥である伊北常明の子・胤明(太郎)は1221年の承久の乱で活躍しています。
そして、その子・時胤(又太郎)が貞永元(1232)年に地頭職をめぐって賀茂別雷社と論争
を起こしており、常重が常清の子であるとするならば、宝治合戦(1247)のころ阿波まで逃れ得る年齢だったか疑問ですね。

→上総介常晴―常澄―――+―上総新介常景―伊北常仲――常明――胤明――時胤
(上総権  (上総権介  |(伊南新介  (伊南庄司)(次郎)(太郎)(又太郎)
            |       
            +―上総権介広常―娘
            | (八郎)   ‖
            |      小笠原長清―――三好長房――長種
            |      (1154-1242) 
            |        ‖―――――長経――――長忠
            | 中納言国綱――娘    (1179-1247)
             |
            +―相馬常清―――常重
             (九郎)   (彦太郎)

阿波は承久3(1221)年に小笠原長清(信濃守)が守護となって以来、小笠原氏(子孫は三好氏を称す)が領有したようですが、小笠原長清は仁治3(1242)年に没しているので、宝治合戦(1247)のころに彦太郎が阿波へきたとすると、子・長経を頼ったのでしょう。 ただ、長経も宝治合戦の5ヵ月後の11月に69歳で没しており、その子・長忠を頼ったかも?この時期、阿波では三好氏が代官をつとめていたかも?


[134] no title 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/02/20(Sun) 02:35

鈴木さん、昨日はお世話様でした。
ぜひぜひこんどお話を伺わせてください!
よろしくお願いいたします。


[133] no title 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/02/20(Sun) 02:14

今澤さん、千葉さん、昨日はお世話になりました。
久しぶりに千葉に足を踏み入れたという感じでした(^^;
「顕彰会」のご紹介ページのほう、追加や訂正、見直しなど
ありましたら、おっしゃってください!
ご助言、よろしくおねがいいたします!
「上総下総千葉一族」を読ませていただいて、
もういちどいろいろと見直してみます。


[132] あっそれと...もうひとつ 投稿者:新沼安芸守 [三葉柏] 投稿日:2000/02/19(Sat) 11:04

管理人さん,おはようございます。
メールで書き忘れたことがひとつあります。
昨年の夏,大船渡市立図書館で「葛西氏家臣団辞典」という本を
目にしました。これは,葛西氏の家臣の出自,系譜などを載せたものであり,岩手県姓氏大辞典(たしかこんな名前だったような?)のかなりのページでこの本を参考にしていたと思います。
陸奥国牡鹿郡本吉郡気仙郡にまたがる,奥州千葉氏を出自とする
中小豪族を把握するのに参考になるのではないかと思います。
ちなみに出版社名は失念してしまいました。すいません。
それではまた。

新沼さん、こんにちは。

自分は「葛西氏家臣団辞典」を実際に
見たことないので、是非みたいですね。
こんど図書館で検索してみますね!あるかなぁ。
ありがとうございました!


[131] 遅くなりました。 投稿者:新沼安芸守 [三葉柏] 投稿日:2000/02/17(Thu) 21:33

管理人さん,こんばんわ。
1月2日に新沼氏の情報をメールでおくるとカキコしましたが,
遅くなってすいません。わずかですが,メール送りましたので
ご覧になっていただければと思います。ではまた。


[130] 『上総下総千葉一族』発刊記念講演会 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/02/17(Thu) 00:09

管理人さんこんにちは
そして掲示板に参加の皆さんこんにちは
もう目の前に迫っておりますが今週土曜日に行われる
記念講演会のお知らせをさせて頂きます。
千葉氏顕彰会紹介のHP管理人さんお急がし中、制作して頂いております。

『上総下総千葉一族』発刊記念講演会&お祝いの会
1.記念講演会
開催日 平成12年2月19日(土)
受 付 13:00〜
講 演 14:00〜15:30
演 題 『上総下総千葉一族』について
講 師 丸井敬司氏(千葉市立郷土博物館・館長)
会 場 千葉市美術館 11階講堂
入場料 無料
2・ お祝いの会
開催日 平成12年2月19日(土)
受 付 16:00〜
開 会 16:30〜
会 場 かぼちゃわいん(千葉美術館11階)
会 費 5,000円

ご都合の付く方是非お出でください。


[129] はじめまして、御菓子司千葉家です 投稿者:千葉直胤 [月星] 投稿日:2000/02/16(Wed) 12:16

はじめまして、00"02月よりインターネットデビュー致しました千葉直胤(46才)です。以前、千葉久様より当けいじばんに取り上げていただきました、柏市・増尾の御菓子司千葉家の代表です。管理人様の圧倒的な情報量と知識、皆様の熱意には感心させられています。
 私どものような商いをしておりますと、千葉家(や)のお菓子が日本全国をお客様のお供を致します。たどり着いた先様が少しでも千葉氏に関心のあるかたですと、製造責任者(千葉直胤)の名前と店名ロゴの月星をご覧になって、お手紙を頂くことがあります。広島の千葉様・岩手の千葉義胤様・東京新宿の千葉智胤様・等、何代と続く旧家の方々です。またご近所でも柏市増尾のアンズ医院の円城寺様・光ヶ丘の千葉宏胤様・等ご来店頂きお話を伺うこともあります。皆様、千葉一族の血が騒ぐのでしょうね。
 私の家は、黒田藩士(御用所吟味役)として明治維新を迎えます。大宮姓(藩主より拝領の名)から明治になり、元の千葉姓に戻したと聞いています。二代前に、道楽者を出しました。家系図、伝来の品々が、お酒に変わりました。現存する物は酒代にならぬ
古文書ばかり・・・。 私の微力で失われた先祖との絆を手繰り寄せたいと努力してみましたが、思うように行きませんでした。
子供の順胤・私、直胤・遡りますと父、雅胤・麟造・英之介一胤
・大宮賢蔵・大宮文左衛門・と過去帖ではここまでです。大須賀
系に大宮姓がありますが関連は、不明です。 皆様の情報、お知恵をお借りしながら、先祖探しを続けたいと思っています。どうぞよろしくお願いします。
 @居酒屋梅様ご近所でしょうか、よろしくお願いします。
 
 千葉家(ちばや)のホームページできました。お暇な時にでも覗いてください。URLは、千葉家どっと混む です。
  http://www.chibaya.com

千葉さん、はじめまして!
管理人です。
去年の5月の式典でお菓子をいただきました!
お店はうちから20分ほどなので、時間があるとき
ぜひ寄らせていただきますね(^∇^)

そういえば、黒田藩の勘定奉行になられた
千葉さんがおられたようです。室町時代中期、
筑前で少弐氏に攻められて姿を消した千葉胤将
という人物がいましたが、なにか関係があるの
かもしれませんね?!


[128] 興味がありまして 投稿者:磐井郡の千葉 [九曜] 投稿日:2000/02/11(Fri) 07:39

実家の部落十数件すべて千葉家です。
自分の家系や歴史など詳しく知らないし、解ろうとも思いませんでしたが、これから探究したいと思います。

http://www4.plala.or.jp/chibakan/


[127] 修正のお詫び 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/02/10(Thu) 13:04

うろ覚えで書き込んでいますとやっぱり間違っていましたね。
土岐氏の名前で時定、時行の時は光の間違いで、親と子も入れ違
いになっておりました。失礼致しました。<@>

ところで、管理人さんは臼井氏正記をどこでお読みになられたんで
すか?なかなか立ち入ったところの話まで出ているのに興味を持
ちますね。それから、秀胤が千葉臼井家譜を著したのは若しかし
て仕官のために必要にせまられたからでしょうかね?
当時は経歴書代わりに系図などの提示も要求されていたと聞きま
すから、書かざるを得なかったんですかねぇ。洪水で失ったのも
仕官のために著述したのもいずれも真実のように思えてならない
ですが・・・。(^^)

江州さん、こんにちは。
『土岐氏系図』では、土岐光行の妻は千葉介頼胤の娘
ということになっているようで(見たことはないです)。
その子・光定の子「秀成」という人物が「信濃・常陸・
上総の土岐氏の祖」となっているようですね。

一方で、『千葉大系図』では千葉介胤綱の娘が
「土岐光行の妻で光定の母」と記されています。
土岐氏と千葉氏がなんらかのかかわりを持っていたので
しょう。この秀成という人物と関係があるかはわかりま
せんが、光定には「教国」という人物もあったとされ、
その子・康持が上総国浜地の領主となって、「浜」を称し
たとされます。そしてその孫・春利(式部少輔)が東常縁
とともに下総で千葉介康胤と争って、東金城の守備を任さ
れたと伝えられています。そして、春利はすなわち「治
敏」で、東金酒井氏の祖であるともされています。

臼井秀胤が『千葉臼井家譜』を著したのは、隠居してすで
に間部家を辞したのちのことで、間部家では嫡子・儀太夫
が立派に活躍してますから、秀胤はやはり先祖の業績を伝
えるために記したのではないでしょうか。『臼井氏正記』
は印旛郡誌です、たしか(^∇^)。出典を忘れてしまいま
した〜(^^;たしかに当時、経歴書がわりに系譜から由
緒書きの提出が求められていたようで、旧大谷口城主の高
城胤次(政次)もこれを幕府に出しています。あちこち朱
で添削されており、後見人の佐久間安政からいろいろと指
示が出されていたと思われます。

千葉氏にしても、江戸時代を通して「官途状」を旧家臣の
家に発給しています。高城氏は旗本ですが、千葉氏は地位
は高いとはいえ農民です。そういった彼らが官途状を発給
して家臣の家と結びつきを保ちつづけているというのは、
やはり長い間の伝統と、千葉氏・高城氏が大名家として取
り立てられたあかつきには、彼らを召出すという計画があ
ったのかもしれないですね。


[126] 四方山話で済みません 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/02/09(Wed) 13:14

管理人さん、臼井氏のページ拝見させていただきました。
臼井秀胤が冷遇されていたという資料をよく見つけてこられまし
たね。いつもながら感心致します。明暦の洪水の前後に村胤が没
したのは分かりましたが、子の益胤の生没年はまだ不明なんでしょうか?
(ページでは村胤の生没年が益胤のところにもペーストされてました。)
臼井良胤の系譜はどこかに残っている可能性がある訳ですね。

話は戻りますが、例の壱岐守護職の件で、文永の役以前に左衛門
佐胤継の名があり、写本した人が「千葉か」との推測を書き足して
あったようです。時期が1270年前後ですので、千葉胤継という人
物は九州千葉に後世出てきますが、時代的には合致しませんから
千葉系の他の一族に該当者がいるでしょうか?(ちょっと分から
ないですねぇ。)その本にも胤の字があるので千葉系だと早合点し
ているので、もう少し調査の余地ありと結ばれてましたね。

それから、美濃の土岐氏ですが、承久の乱で後鳥羽上皇側に加担
した土岐時定は美濃守護だったのですが、乱後千葉氏の娘との間
にできた時行を後継者にすることで許されたとの話があるようで
す。時行は並み居る兄弟から言えば継承権に一番遠い子供だった
ようですが、千葉氏の後ろ盾の下で土岐氏の継承者となり、以後
斎藤道三によって追放される土岐頼芸まで続いたとされているよ
うですね。

ちょっと古い本をひっくり返していましたら、そんな記事が出て
いました。

 益胤については、生没年などはわかりませんでした。

 臼井良胤については、大坂へ出たあとは、一度だけ父の
もとに便りがあったきり音信不通になったようです。た
だ、子供が二人あったことは事実のようです。

 「壱岐守護職」の「左衛門佐胤継」ですか。文永
(1264)以前だとすると、千葉介頼胤が九州へ下ったのが
文永8(1271)年9月でるから、それ以前のこととなります。
すると、その地には代官が派遣されていたと考えられ(伊
賀国にも千葉介の代官が送り込まれていた)、その代官が
「左衛門佐胤継」なのでしょうか。それから、当時左衛門
佐を称した千葉氏が見当たらず、結局不明です(^^;千葉
氏流ではなくとも「胤」を用いている人物はたくさんいま
すからね。


[125] あ〜っ!和歌が復活している! 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/02/07(Mon) 18:35

ご無沙汰してます。しのはらです。
いつのまにか和歌が復活していたんですね!
定家卿ですか、出典はどこですかね?
それではまた!

しのはらさん、こんにちは。

歌は定家です〜。出典は『新古今和歌集』からとりました。東氏は定家の流れを汲む二条流歌人ですから、ここからとってみました。


[124] 新渡戸家は上総秀胤の子孫? 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/01/30(Sun) 13:13

丸井先生の御本「上総下総千葉一族」からの話題です。

千葉県外の千葉一族の項で新渡戸家は宝治合戦で滅んだ上総秀胤
の孫で東中務丞胤行が庇護した2人のうちの1人が下野へ移り住
んだのが新渡戸家の発祥と書かれていましたね。(うちの伝承で
は2人のうちの1人が阿波千葉家ということでしたが・・・)

真偽の定は分かりませんが、新渡戸稲造の生家についてそんな伝
承があったのも一興です。稲造は「武士道」を英語で著し、今夜の
テレビのプログラムによるとエジソンにまで影響を与えたらしい
のですが、さまざまな武士道が千葉から派生しているのもまた事
実ですから、管理人さんお暇が出来たときで結構ですから取り上げ
ていただけないでしょうか?
(相馬野馬追、肥前葉隠、吾妻鏡、今昔物語等々に武士や兵の話
がでてきますものね)
またまた無理なお願いをして申し訳ありません。

江州さん、こんにちは。

宝治合戦の寄せ手の東素暹は、娘婿・上総泰秀の子の助命をして許されていますが、合戦の翌年、泰秀の子が2歳になると、陸奥国五戸郷鹿内に流すことになり、その護衛として大須賀景氏・国分行泰らが従っていったという話があります。

そういえば、臼井秀胤に関して『臼井氏正記』という文書によれば、水谷家ではあまり厚遇されておらずに藩を辞したそうです。また、江戸に出たのちに仕えた人物は、間部詮房の父・清定だそうです〜。また、秀胤の父は平蔵益胤といいました。


[123] 久様ありがとうございます 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/01/29(Sat) 13:00

久さんいろいろお気遣いいただきまいてありがとうございました。

東京で見つけられなかったので昨日(28日)大阪へ出張した折りに
駄目元で梅田の旭屋書店に立ち寄ったところ、何と新刊の書架の
ところに2冊置かれていましたので、購入致しました。
早速徳島への帰りのバスの中で読んだのは言うまでも有りません。

徳嶋本千葉系図を基に網羅的に氏族を取り上げられてあり、丸井
館長も随分詳細に調査されたものだと感心致しました。千葉県外
の千葉氏の項を起こされていたのですが、さすがに情報が少なく
て・・・。

でも九州の地に奇跡的に情報の詰まった徳嶋本系図が残っていた
んですね。神代本、松羅館本、浅羽本、大系図等々いろいろな
形態のものがありますが、うちのものが手元にあったら更に角度
の変わった情報が得られたのに残念でなりませんね(TT)。

丸井先生の本でも勝胤の項で千葉石を取り上げられていましたけ
ど、幕張系以外の千葉系の家で石の伝承というのはお持ちなんで
しょうかねぇ?
以前管理人さんから勝胤寺の千葉石の画像を送っていただいたんで
すが、大系図に記載されているのと少し様子が違うようです。
ひょっとして他の系統にもそのような伝承やものが伝わっていな
いかなあと思いまして書き込ませていただきました。
(ちなみに私の家には系図は亡失して無いのですが、「それらしき」
ものが謂われも残されず継承しているものですから・・・)

ちょっとミレニアムということで話題提供させていただきました。

江州さん、こんにちは。
柏というところの新星堂にも2冊ほどありましたよ〜!


[122] 「上総下総の千葉一族」 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/01/27(Thu) 22:21

江州さんこんにちは
「上総下総の千葉一族」は丸井先生に伺いましたら、全国の本屋さん数冊づつしか配本されないため、入手するのが難しい状況のようです。
私は近所オークスという本屋さんで偶然に見つけ購入することが出来ました。
増版の予定など今度お会いしましたら伺って見ます。


[121] 千葉家実記立ち読みしましたよ 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/01/27(Thu) 13:12

いつもながらフォローいただきありがとうございます。

> 肥前千葉氏は独自に朝鮮との国交を持っていたようです

野口実先生の本にも書かれていましたね。特に、下総を起点に
して鎌倉の六浦、伊勢、瀬戸内、豊後を経て肥前小城に至る独自
のルートを持っていて、しかも東シナ海にまで及んでいたらしい
との推論があるようですから・・・。

ところで、この1週間は東京と徳島の往復で時間を潰しているの
ですが、暇を見つけて八重洲ブックセンターへ立ち寄ったところ
千葉家実記が置いてありましたので早速眺めてきました。
かなり内容は重くて深さを感じさせるものでしたね。千葉伝考記
や大系図に関連したことや武蔵千葉や奥州千葉に関しても触れて
ある箇所があったのですが、主として下総近辺に限られているこ
とと、臼井に関してはほとんど情報がなかったので、ちょっと興
味が引いてしまいましたが・・・。

ところで、久さんがご案内されていました「上総下総の千葉一族」
はどこに行っても配架されてないですね。もうご覧になられまし
た?


[120] 河鰭さんって? 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/25(Tue) 21:50

「河鰭」さんって、学者でいました。
もしかすると名古屋大学の教授だったような?

藤原?貴族の子孫とか書かれていたのを記憶しています。。。

服部さん、こんにちは。
河鰭さんは内大臣・三条実美公のご子息だそうです。


[119] 来年は常胤の没後800年です 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/01/25(Tue) 13:16

常胤が亡くなったのは西暦1201年でしたよね。
そうなると来年は没後800年目に当りますよね。
顕彰会の方でも何か計画をお立てになられているのでしょうか?
また、別にこんな催し物が計画されているよとか情報ありました
らお教えください。
(何しろ千葉家中興の祖に当たる人物ですから節目の年に何も
ないというのも片手落ちなような気がしますよね。)

自分は会員ではないのでまだわからないです〜(^^;
千葉氏顕彰会の御紹介ページができたら、
なにか載せられるかもしれません。。。


[118] 壱岐の守護はどの系統? 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/01/25(Tue) 13:10

管理人さんフォローありがとうございました。

先日日本史資料の書籍を眺めていたら室町期の各国ごとの守護
一覧があり、その中で前から分かっていました下総、上総、
伊賀と遠江以外に名前が無くて千葉氏?とされていた壱岐の
守護職がごく短期間ながらあるようです。
場所柄から言えば九州千葉かなとも思うのですが、九州千葉は
肥前の守護代の格式ですからそれもないのかなあと想像してい
るのですが・・・。まさか下総千葉が遠い壱岐の守護を兼ねる
というのも不思議ですし、いったいどの系統が守護職に就いて
いたのでしょう。

ところで、今年は千葉琢穂氏こと千葉忠介さんから年賀状はい
ただけませんでした。確か85歳のご高齢なのでどうなされたの
か心配です。

江州さん、こんにちは。
壱岐守護ですか。。。
宗像大宮司氏俊、今川了俊、志佐壱岐守義の3人しかわかりませんでした(T_T)志佐壱岐守は、肥前松浦氏の一族でしょう。
肥前の有力者ということで千葉氏と記されていたのかも?そういえば肥前千葉氏は独自に朝鮮との国交を持っていたようです。


[117] 千葉さんでした 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/20(Thu) 12:21

今日のお客さまには東北アクセントが。。。

それで出身地を尋ねたら「八戸」とのことで
では名字は「千葉氏」ですか?と重ねて尋ねたところイエスでした。

ふふふ

東北地方もひろいです〜(^∇^)
そういえば盛岡藩士に千葉さんはいたかなぁ。。。


[116] 藤原姓千葉氏をご存知ですか 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/01/18(Tue) 13:14

千葉と言えば全部が全部下総発祥の平姓のように思われていますが、
非常に珍しい例ですが、例外があります。

京都に藤原北家の阿野家から派生した公家の千葉家が室町期以降に
存在していたのは御存知でしょうか。「公」の字を通し字として、
家紋は連翹紋であったと伝わります。この家が継承されているかは
現在不明ですが、平姓千葉氏以外にも千葉を苗字とした家が存在
しました。
この阿野家から派生した家でもう一軒下総千葉一門の名称に馴染み
のある家があります。それは風早家です。この風早家はまだ残って
おられるようなことを風聞で耳にしました。

江州さん、こんにちは。

藤原系千葉氏はどこかで見たような気がします。地下要覧みたいな本だったような…それとも、太田亮さんの『姓氏家系大事典』でしたか。。。(T_T)

しかし、阿野氏の流れであればきっと堂上公卿ですよね。地下要覧は違うかもしれません。
阿野廉子の大伯父・公寛(従二位)は上総権介ですが、その子孫でしょうか?この子孫は同じ流れの滋野井家を継承しています。滋野井家が日野氏などの宗家でもあったようです。風早家も閑院流の藤原氏で、参議・河鰭公清を祖とします。最近の有職故実の大家・河鰭実英さんはこの家のご出身でしょう。

風早の名跡は室町時代末期に阿野季時(信濃権介)の玄孫・実種(権中納言)が復活させています。この風早家の家号はどこからついたのでしょう?京都にそういう地名があるのかもしれませんね(^∇^)


[115] 人間界に復帰 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/17(Mon) 00:25

待望の雨の中、家の裏庭で野宿しました。
いつもはとっくにここで書き込みをしている時間迄眠ってしまっていました。

6時半に家の中に戻りました。日本時間午後11時半のことになります。

テントに当たる雨の音って心が休まっていいですね。
寝袋で寝るのって、範囲が限られて、右腕が痛いです。
寝袋は温かくて気持ち良かったけれど、回りが寒くて日本の実家で寝ている感じでした。

夫は再びテントで寝るそうですがワタクシはネットでお遊びして普通の生活に復帰。

一晩付き合ってあげたので良いとしましょう。

こちら(日本の千葉)は最近、ものすごい寒いです(T_T)
この間は雪が降ったり、ミゾレが降ったりしました。
昨日は東京でも大粒のボタン雪が降ったようです。
最近まで暑い暑い言ってたのに、急に寒くなった気がしますよーーー(T_T)


[114] 今夜は 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/16(Sun) 14:37

待望の?雨が降るそうなので
夫が裏庭にテントを張っています。

今夜は裏庭で野宿であります(^^)

こちらは冬が雨季で、去年から未だ<降る>というほど降ってはいないんです。それで皆大喜びしているんです。

私は、別に雨の中で眠りたく無いんですが、1人で寝るのはおばけが怖いので一緒にテントで眠ります。


[113] 大卒ではないです(笑) 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/01/16(Sun) 00:53

管理人さん、私は残念ながら大卒ではありません。(^∇^)
勉強が嫌いなわけじゃないけど、理数系が落第ものだったので…。(^_^;)
でも専門学校(短大)は理数系だったなあ…?

単に百人一首は昔から好きでした。
高校の頃には源平合戦の3対3のチーム戦で、
1人で60枚取って「魔王」と呼ばれた事もあります。v(^∇^)v
おかげで授業の小テストのときにはスペシャル問題を出されてしまいました。
白紙を渡されて「100首全部書け」と。
と、まあそう言うわけでつい懐かしくて…。

長々とどうもすいません。それではまた!

しのはらさん、こんにちは。
自分も算数系はまったくダメです(T_T)

和歌はつぎの更新のときに、イイ感じのを掲載しますねっ♪辞書を片手にちょっと探してます。古今集とかよさそうだけど。。。


[112] カウンター設定完了♪ 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/15(Sat) 01:52

試行錯誤して、やっとトップページのカウンターを正常値に直せました(^∇^)
ふぅ。


[111] このまえはどうもありがとうございました。 投稿者:くらのすけ [家紋不明] 投稿日:2000/01/12(Wed) 00:28

千葉様、こんばんは。
数日前にこちらの掲示板に書き込んでいただきましたが、
忙しさにかまけてお礼が遅れました。すいません。

ところで、あらためて相馬氏の項を拝見いたしましたが、
何時見てもすごいですね。

それでなんですが、家老の岡田氏の系図を見ていましたら、
木幡貞清という人物がいるのに気づいたのですが
高清とか清吉の一族なのでしょうか?
はじめ高清という人は106歳まで生きたと参考にした本に
書いてあったので本当に木幡家というのはあるのだろうか?
とおもったのですが、実在はしていたようですね。
しかし高清の長命はほんとなんでしょうかね?

こちらに来ると何か色々と知りたくなってしまうもので
度々質問して申し訳ありません。


[110] 連続カキコ♪ 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/01/11(Tue) 22:15

連続でカキコします、しのはらです。

タイトルで回っていた和歌は止めてしまったのですか?
この紀貫之の歌って百人一首に合ったやつですよね?
 ↓
「ひとはいさ こころもしらずふるさとは はなぞむかしのかににおひける」
なにも見て無いので何か間違ってたりして。(笑)
ちょうど今なら季節に合ってたと思うのですが…。
すいません、ちょっと学生時代を思い出したもので。 >百人一首

それではまた!

和歌は間違えて消してそのまんまです!
忘れてました(^^;
あそこに画像をはめ込んだり、いじくっていたら消えちゃったんです。。。
新年にふさわしい歌をまた探してのせますね!
百人一首でも、万葉集でも、古今集でも、よさそうなのがあれば載せようと思っているのですが、和歌が思い出せません(T_T)もう辞書に頼るしかないです!
しのはらさんは文学部を出られているのですか?
自分は経済学部です(^^;


[109] カウンタおかしいですねえ。 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/01/10(Mon) 22:29

今晩は!しのはらです。

ようやく風邪が直りました。流行っているみたいなので皆さんもお気をつけ下さい。

…、(゜゜) ここのカウンタ、クラッシュしたのでは無いでしょうか。

それではまた!

しのはらさん、お久しぶりです〜(^∇^)

ことしはかなり風邪が流行ってるみたいですね。
友だちもばたばたと寝込んでいたようです。。。
とくに今年のインフルエンザは解熱剤があぶないらしいです。フェナム系やボルタレンもいけないとかとか。。。
ここのカウンター、直し方がわからないです。
もうちょっといじくってみます。


[108] 6688番 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/10(Mon) 21:34

6688番をゲットしました。
この掲示板のカウンター、壊れてるかもしれません。。。
なんか番号が「00001」のまま変わりません(T_T)


[107] 楽しみにしています 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/09(Sun) 22:21

日本はお正月を過ぎると「初春」のイメージが合いますね。

服部さん、こんにちは。
デザイン変更しましたが、ぜんぜん春じゃないです(^∇^)
かろうじて、若葉の画像を更新の欄に背景として載せてみました!
また気が変わったら変更します〜。


[106] またまたデザイン一新予定。。。 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/09(Sun) 02:07

そろそろページのデザインを変えてみようかとおもってます。
こないだ見たウッチャン脚本の『未来日記3』が
めっちゃ感動したので、そんな感じの
あったかみのある表紙&インフォメーションのページに
してみようかと考え中。。。


[105] こんなのを見つけました 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/08(Sat) 22:29

新聞の謹賀新年のご挨拶の広告にこんなのがありました:

よろい・かぶとの復元・制作・修補
(社)日本甲冑武具研究保存会指定

たちばな甲冑工房

福島県相馬市中村字北町22
0244-37-2212

福島県相馬郡鹿島町広町65
0244-46-5382

甲冑のお店だったら姫路城の裏の「明珍」さんが有名ですが。

相馬といえば、無形文化財「相馬野馬追い」で有名ですから、そこで使用する甲冑関係も手がけておられるのでしょ〜(^∇^)
明珍は、たくさんの流派が生まれたみたいですが、江戸時代には鎧兜の注文が減ってきたのか、甲冑作りのノウハウを活かしたかっこいい置物も作っていました。


[104] あけまして、おめでとうございます 投稿者:月龍庵宗大 [丸に三柏] 投稿日:2000/01/07(Fri) 12:29

 新年明けまして、おめでとうございます。
 ご無沙汰いたしております。月影龍樹改め月龍庵宗大です。
 貴HPの盛況ぶり、何よりとお祝い申し上げます。

 私のHPで歴史サークル弱小同盟「しんぐるす」なるものを立ち上げ、
皆様の参加を募っております。自分で調べあげたことや歴史についてこん
なことを語りたいなどおありになられる方、私どもの会誌にページを持っ
てみませんか?

StudioDAK
http://www02.so-net.ne.jp/~darkpent/

史傳書房
http://www02.so-net.ne.jp/~darkpent/shiden/

しんぐるす
http://www02.so-net.ne.jp/~darkpent/singles/

http://www02.so-net.ne.jp/~darkpent/

月龍庵宗大さん、おめでとうございます♪
葛西氏など、ちょこちょこ見学させていただいております!
また今年もよろしくお願いいたします!
サークル。。。本を出版されているのですか?


[103] 本年もよろしくお願いいたします。 投稿者:くらのすけ [月星] 投稿日:2000/01/06(Thu) 23:17

「今年も…」はもう遅いですね。

千葉氏について貪欲に調査される姿勢には本当に頭が下がります。
(今度は北海道に上陸ですか?)
一つの事にこだわればここまでできる、という典型ですね。

比べることのできないような貧弱なHPを運営している私ですが、
今年もよろしくお願いいたします。

P.S. 相馬庶流の岡田氏は、独立志向の存在だったのでしょうか?
   それとも忠実な重臣だったのでしょうか?

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/index.html


[102] 見つかりました 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/05(Wed) 09:41

手賀沼の南ですね。
「しろい」って読むんですか。


[101] 「未来日記」 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/04(Tue) 22:48

ウンナンのホントコの「未来日記」みて
感動しちゃいました。
いいなぁ、あーいうのは!!

サザンオールスターズのニューシングル「TSUNAMI」は、
かなりいい曲!!(^∇^)
Mr.Childrenのイノセントワールド以来、ひさびさにガツンときました♪♪


[100] 私の住家は白井 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/01/04(Tue) 22:41

服部さんこんにちは
私は千葉県の白井町という所に住んでおります。
詳しくは長くなりますのでMailでお送り致します。


[99] 新年挨拶 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:2000/01/04(Tue) 18:08

遅れ馳せながら新年明けましておめでとうございます。
昨年暮れは公の部分で忙しくしておりまして、HPを拝見する間も
ありませんで、随分とご無沙汰しておりました。
管理者の管理人様を初め、書き込みに参加されている皆様は基より、
本HPをご覧の皆様にとって良い年でありますよう祈念致します。

千葉を苗字となされている方々も関東以北がほとんど9割がたを
占められているのですが、その残り1割以下の東海以西に棲息する
一人としてご挨拶申し上げます。

既に皆様もご承知の通り、千葉といっても奥州千葉、下総千葉、
九州千葉、阿波千葉、武蔵千葉、美濃千葉など紆余曲折した結果
多数派生した訳ですから、私はどこそこの系譜に繋がる千葉ですと
名乗られると横の連帯感も出てきて面白いのではないかと思います
ね。まあ奥州千葉に至っては更に複数の枝分かれがありますから、
それで色分けしていけばご先祖探しにもメリットがあるかも知れま
せん。夢物語のようなことを書き込んでしまいましたが、本年も
皆様宜しくお願い申し上げます。

若しかすると武蔵千葉系臼井から千葉に復したかもしれない系譜の
千葉江州でした。

 江州さん、あけましておめでとうございます。

 今年もみなさんと一緒に、より充実したページにしていこうと思ってますので、、、どんどん書いてください(^^;ご要望もでき得る限り反映させていきます。。。

 千葉氏も古い一族のために全国にちらばり、現在では東北地方にかなり多いですね。しかし、全国各地の千葉氏系の氏族は、そのほとんどが「妙見」を祀る風習を伝えつづけ、さらに「胤」字を名前に用いられている方たちも数多くおられます。800年にもわたって伝えつづけられる妙見信仰だけではなく、「胤」字の重みも立派な伝統のひとつとして位置づけられるものと思ってます。。。
なんかとんちんかんになってしまいましたが、
本年もよろしくお願いいたします(^∇^)


[98] 謹賀新年 投稿者:孫市 [三葉柏] 投稿日:2000/01/04(Tue) 15:00

千葉さん
明けましておめでとうございます。
bbsの書き込みありがとうございました。
本年もどうぞ宜しくお願い致します。


[97] 久どのはどちらにお住まいですか? 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/03(Mon) 23:26

市川ですか?
市原ですか?


[96] あけましておめでとうございます 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:2000/01/03(Mon) 23:19

みなさんあけましておめでとうございます
服部さん勘違い申し訳ありませんでした。
管理人さん千葉氏顕彰会のコーナーを設けて頂く事、事務局長より伺いました。
よろしくお願い致します。
今度改めてMailを送らせて頂きます。
元旦は出勤でしたが何事もなく一安心でした。
午前中で終了し午後には千葉神社に御参りしてきました。
新しい年が皆さんにとって良いとしでありますようにお祈りしております。


[95] あけましておめでとうございます 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/02(Sun) 14:27

みなさま、遅れ馳せながら「 Happy Y2K! 」

千葉久どの:ワタクシの乗っているのは「箒」であります。ふふふ
更に「時刻」は漆黒の闇時であります。ふふふのふ

ホントのワタクシは地上職勤務です。
お客さまからは「スッチーのお姉さんが結婚退社して地上に墜落したのですか?」とよく聞かれます。ふっふっふ

ここのところ12月30日からY2K問題対策で疲れてしまいました。
この業界は人命をお預かりしていますから緊張のせいでしょう。
インド上空は(インドは対策がなされていない、ということで)避けて飛ぶそうです。

でも、大きな誤作動が起きなくて、ホントに良かったです。

ヨソのBBSで 100/01/01 と表示されてるのが結構ありましたが。


[94] no title 投稿者:新沼安芸守 [三葉柏] 投稿日:2000/01/02(Sun) 09:50

はじめまして,そしてあけましておめでとうございます。
昨年からこのすばらしいHPはときどき拝見させてもらってました。非常にパワフルで多岐にわたっているリサーチですね。感服いたしました。
ところで,管理人さんはこれだけの調査をどのように行っているのでしょうか。全国に隠密同心のような人がいるのでしょうか。
(バカなことを言ってすいません。)
実は私の姓「新沼」が千葉介の後裔であると伝えられていること
は以前から知っていたのですが,このHPをはじめて見る時,ま
さか載っていることはないだろうとたかをくくっていたのですが,開けてびっくり玉手箱だったのです。
失礼ながら
管理人さんが参考にされたのは,「岩手県史」ではないでしょうか。もし,他に参考にされたものがあったらご教示いただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。
また,昨年の夏に岩手県大船渡市でわたしが「新沼氏」についてリサーチしたものが若干ありますので,メールででも送らせていただきます。
  それではこれからもがんばってください。

新沼さん、明けましておめでとうございます!
調査というか更新などは、時間が空いているときや、あちこちに出かけたときに
偶然見つけた本などをちょこちょこっとメモってきたり、コピーしてきたり、
みなさんからいただいた資料(本当に貴重なものばかり!!!)や情報をもとにして
いつのまにかこれだけ大きなものになりました(^▽^)
これだけの資料をいただきながら、まだまだ納得いくものはできていないのです。
もうちょっと勉強しないと!って思っています(^▽^)

新沼さんがおっしゃるとおり、奥州千葉氏についての資料はほとんどが
『岩手県史』です。あとは、角川書店(でしたっけ?)から出ている、
岩手県と宮城県の地名家系大事典(といった感じの分厚い本です)を
参考にしています。

新沼氏についての貴重な情報、いただけたら即ページに反映いたします(^▽^)
奥州千葉氏については、かなり奥が深いので、じっくりと攻めていかないと混乱してしまいます…

それでは、これからもよろしくお付き合いください!!


[93] 新年のご挨拶 投稿者:そんちょー [月星] 投稿日:2000/01/02(Sun) 00:45

あけましておめでとうございます。
ご無沙汰しております。お元気ですか?
管理人さんの更新の凄さに驚くばかりです。
さて今年は竜ヶ崎の竜(辰)の年です、
今まで以上に『竜ヶ崎・若柴の散歩道』をよろしく。
皆様のご多幸を心よりお祈り申し上げます。

下記アドレスで年賀状が見れます。どうぞ宜しく!
http://super.fureai.or.jp/~kyoji-m/2000/nenga.htm

http://www.fureai.or.jp/~kyoji-m


[92] 2番のりー―!! 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:2000/01/01(Sat) 14:29

あけましておめでとうございます!
2000年を迎えて、いっこ区切りがついたようです。。。
本年もページともどもよろしくお願いいたします(^∇^)
パソコンも止まらずに無事更新できたようです〜♪
タイトル画像は手賀沼の朝日です。

しのはらさん、おめでとうございます!
一番乗り、これまたおめでとうございます(^∇^)
あとに続かせてもらいましたっ♪

今年は年男で、厄年!!!!
あんまりいいことなさそうデス(T_T)
新年早々ちょっとブルー入ってます。。。
やくおとししなくちゃ。


[91] 一番乗り〜! 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:2000/01/01(Sat) 08:34

あけましておめでとうございま〜す!しのはらです。
われ、一番乗り!ってな感じですね。(笑)
今年もよろしくおねがいします!


[90] 質問 投稿者:M.木村 [月星] 投稿日:1999/12/31(Fri) 20:43

質問です。
私のうちの、家紋は月星なんですが、
月星が家紋の家は、先祖をたどっていけば、
千葉氏なんですか?

木村さん、あけましておめでとうございます!!
今年もどうぞよろしくいらしてください(^_^)

月星は九曜や八曜に月などとならんで、千葉氏の代表紋です。月星は、主に用いているのは千葉氏から別れた、それも比較的有力な家が多いようです。
ただ、すべてが千葉氏ということかどうかはわかりません。家紋も明治期以降、けっこうアバウトな部分があるのかもしれません。

木村氏に関しては、千葉介輔胤の子孫が名乗ったという話もあります。輔胤は千葉介に就任する以前、現在の印旛郡酒々井町上岩橋・下岩橋あたりに館を構えて「岩橋殿」と呼ばれていました。その子孫が木村を称したとされます(事実かは不明)。

 子孫・木村兵部少輔重光は千葉介重胤とともに小田原城にこもって、その落城後は帰農したといわれています。


[89] お世話になりっぱなしでした 投稿者:しうちー [家紋不明] 投稿日:1999/12/31(Fri) 05:49

今年は何かと手助けしていただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。
来年は八世紀以降の歴史を辿ります。テーマは武士。
今年以上にこちらを参考にさせていただくように思いますので
どうかまたお付き合いのほどお願いいたします。
良い年をお迎え下さい。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~shiuchi/hidemokuji.html


[88] 良いお年を 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/12/31(Fri) 02:20

管理人さん来年は次なるステップの年と伺いました。
頑張って下さい。

掲示板に参加されている皆さん、今年1年参加させて頂きありがとうございました。
袖擦り合うも多少の縁とか、旅は道づれとか申しますが、ネットの旅で皆さんとお知り会いになれましたこと、大変うれしく思います。
私は歴史に関しては素人ですが、ともすればありがちな、暗いイメージがなく、皆さんの、明るくテンポの良い会話のようなメッセージをいつも楽しませて頂いております。
来年も管理人さんをはじめ皆さんよろしくお願い致します。
私のPCは3年位前の骨董品のため、元旦の起動は控えさせて頂く積りです。

ところで服部さんは初日の出は雲海で迎えるのでしょうか。
私は飛行機ではいつも寝てしまうので、只の日の出さえ見たことありません。
やはり、雲海もオレンジ色に染まるのでしょうか。
もしそうであれば幻想的でしょうね。
教えてください。

それでは新しい年が皆さんに取って幸せな年でありますように、お祈りいたしております。
皆さん良いお年を!

東北千葉氏末裔と思われる千葉 久より
新年は3日頃より活動開始の予定です。

千葉さん、明けましておめでとうございます!
去年はいろいろと、本当にお世話になりました。
今年よろしくお願いいたします(^∇^)

今年はちょこっとコーナー的に千葉顕彰会のことを載せてみようかと思っています。お暇な時にご助言いただけたら幸いです(^∇^)


[87] 来年は。。。 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/31(Fri) 00:30

もうすぐ2000年です。はやいなぁ、一年。。。

来年1月は千葉一族の整理、東氏・海上氏、千葉顕彰会についてのページをアップする予定です。時間的に余裕があれば、相馬惣領家の詰め、武石氏の歴代、葛西氏歴代の訂正などもやりたいです〜(^_^)

では、来年もどうぞよろしくお願いいたします。


[86] Y2K問題ですか…。 投稿者:しのはら [家紋不明] 投稿日:1999/12/30(Thu) 00:17

御無沙汰しております。しのはらです。
みなさんも2000年問題対策大変ですね。
私も自宅待機を命じられております。←ほんとに起こったら自宅で何するんだろ?

○管理人さんへ
イトーヨーカドー成田店には100円均一コーナーが有るとの事。
いろいろ買って一万円くらい買って行く人もいるそうです。
この頃だんだんすいてきました。

○公津城址について
近所の古本屋で「房総の古城址めぐり 上・下 府馬 清 著」
と言う本をGETしました。
この本に公津城と円城寺さん云々が載ってますね。
管理人さんの記憶に有るのはこの本のことでは?

それではみなさん良い御年をお迎え下さいませ〜!

しのはらさん、こんにちは!
2000年問題、いろいろと騒がれていますね。
実際、どういうことになるのか予想がつかないところが怖いです。。。

100円均一は話題の100円ショップですね。近所のダイエーにもあります。けっこう使えるモノが置いてあるんですよ!重宝してマス(^_^)

円城寺さんについては、たぶんおっしゃるとおり『房総の古城址めぐり』だと思います。その公津城についてのページをコピーしていた記憶があるんですが、たしか円城寺さんの家と公津城が並んで写っている写真があったような。。。

来年もどうぞよろしく!!!


[85] 新年のご挨拶 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/29(Wed) 22:50

今回はY2K問題が引っ掛かっていますので掲示板でご挨拶しておきます。

明けましておめでとうございます

ちょっと早いですが、心より。

服部さん、こんにちは!
今年もいろいろとお世話になりました(^_^)
来年もどうぞよろしくお願いいたします!!


[84] 新刊情報 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/12/26(Sun) 23:24

管理人さん、皆さん大変ご無沙汰しておりました。
クリスマスが終り、もうすぐ正月ですね。
今年は初日の出を見に行く事ができません。
Y2K問題の為、元旦に出社です。
上総下総千葉一族という題の本が出版されます。
著者は千葉市立郷土博物館・館長の丸井先生です。
皆さん読んで見て下さい。
房総の神と仏は最終日に何とか行くことが出来ました。
あれだけの数と目の前で見ると事ができました。
圧倒される感じを受けたのは私だけでしょうか。

千葉さん、こんにちは!
『上総下総千葉一族』、楽しみにしております(^∇^)
あ、発売は明日なんですね。
もう1000年代も24時間を切ってしまいました。
いまになってドキドキしてきました。


[83] 次はお正月!! 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/26(Sun) 14:51

本日は26日。クリスマスは終わってしまいました〜(^∇^)
次は正月。キリスト教から神道へ切り替えが早い日本人です!


[82] 楽しいクリスマスを! 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/25(Sat) 12:26

今日は楽しい?クリスマスですね。
こちらはイブです。

Y2Kは大丈夫ですか?

仕事の方は人命を預かっていますから慎重にも慎重を重ねています。

インドはY2K対策が未だ完了していないとのことで
インドの上空は避けて飛ぶそうです。


[81] ありがとうございました! 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/23(Thu) 01:35

石毛さん、海上氏の資料どうもありがとうございました!
いただいた資料を元にして海上氏の項を発展させていきます。
まだじっくり読んではいないのですが、海上氏の姿がはっきり浮かんできた時に独立したページにします(^_^)
どうもありがとうございました。


[80] 2000年カウンター設置 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/22(Wed) 01:00

2000年になるまでのカウンターを設置してみました。
ちょうど1000年ほど前は、『源氏物語』が書かれていました。
1000年もまえの物語がいまでも名が知られているというのはすごいことだなぁと思いました。

この『源氏物語』がかかれていたのと同じころ、いまのイギリス王室の先祖はまだフランス貴族で、ノルマンディー公をつとめていました。この時のノルマンディー公リシャール2世(善良公)の孫・ギョームが西暦1066年にイングランドに上陸、イングランドの七王国を征服して、ウィリアム1世征服王としてイギリス王室の遠祖となったのでした。

ダイアナ妃の実家のスペンサー伯爵家もイギリス王室の分流であり、首相ウィンストン・チャーチルはスペンサー家とは一族にあたるモールバラ公スペンサー・チャーチル家の一門です。


[79] はたして、千葉氏の子孫なんでしょうか? 投稿者:椎崎 [追加希望] 投稿日:1999/12/20(Mon) 23:46

はじめまして、こんばんわ
千葉氏の子孫かどうかわかんないんですけど
私の名前は椎崎賢司(フルネーム)です。
生まれたのは福岡県で本籍は同県の大牟田市なんですけど
父の転勤でずっと関東にいました。
最近、福岡に都合があって引っ越しました。
祖父の話では先祖は四国の方にいたとか・・・。
小さいころ系図を見たことがあるんですが、
それだと、ずっと先をたどると椎崎から藤原に
なってたような気がします。
平氏の家臣だったという話も聞きましたが
千葉氏ではないかもしれません。
私にもはっきりしたことはわからないので
もしそういうことに御詳しいのでしたら
教えて頂ければ幸いです。
(P・S:家の家紋は違い鷹らしいです)

E-Mail:JZI04271@nifty.ne.jp

椎崎賢司


[78] お返事ありがとうございます 投稿者:篠原一昭 [家紋不明] 投稿日:1999/12/17(Fri) 23:15

しのはらです。こんばんは!
管理人さん、詳しい情報ありがとうございました!

う〜ん、九州系なんですか、九州は水が肌に合わないんでちょっと…。
って違うか。別に私自身の事ではないんですよね。(^_^;
私、筑後・肥前のあたりの水だめなんですよ。ジンマシンが出るんです…。

私もチョコっと情報仕入れました。
親に聞いたところでは円城寺さんの家が城跡だとの事。
公津城、と呼ぶらしいです。
千葉氏と関係有るかは知らないそうです。
苗字だけで言うなら曾祖母は伊達さんとの事、納得。
ちょっと残念。

また、よろしくお願いします。

しのはらさん、こんにちは。
円城寺氏は九州千葉系の重臣だったようです。九州に渡った円城寺氏もあり、下総の多古千葉氏(九州千葉氏系統)の重臣にも名があります。ただ、多古千葉氏も発展しませんせず、室町時代のはじめ頃に千葉の本宗家に仕えたようで、重臣になりました。
その本宗家も15世紀には内乱で分裂しまして、円城寺氏の本家は滅ぼされます。

円城寺さんの裏山が城跡とする本があった気がするんですが、なくしてしまいました(^^;公津城ですか。千葉介勝胤の子の久胤が公津城にはいっていたとされます。

そういえば、公津のヨーカドー・ラオックス・ユアエルムが合体した店ができたそうです!行ってみたいです(^▽^)


[77] Mr.Children新曲 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/17(Fri) 01:23

17日からMr.Childrenの新曲がラジオ解禁だそうで。。。
ラジオの前で粘ってようと思ってます。
すでにB'zの新曲はオンエア中らしく、ダブルゲットできたらいいなぁ。


[76] こんばんは。 投稿者:浦上 萌 [月星] 投稿日:1999/12/14(Tue) 23:07

はじめましてー!
突然ですが、勝手にリンクさせていただきました。
私のサイトはかなりアヤシイ所ですが、御了承下さい
ますよう平にお願い申し上げ奉る。

PS 深谷上杉家について詳しいサイトはないでしょうか?
   御存知でしたらぜひ教えてください。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~m-kichi/index.htm

浦上さん、はじめまして!
リンクの件、了解しました!

深谷上杉氏について。。。
いまのところ、上杉氏についてのサイトはあまり見たことがないです。リンクさせていただいてる「諸家系譜」というページにあるかもしれません。

それではっ!


[75] はじめまして! 投稿者:篠原一昭 [家紋不明] 投稿日:1999/12/13(Mon) 22:39

はじめまして! 篠原一昭と申します。
ネット上を戦国武将の名前で色々探索していたところ、
このすばらしく情報の蓄積されたHPに行き会いましたので、
ひとつご挨拶をさせていただきます。
千葉氏の一族ですか、私の祖父の実家・千葉県成田市下方の家が確か、
苗字が「円城寺」だったので私も末裔の1人かもしれませんね。
鎌倉〜戦国末期はとても好きなので、またちょくちょく見学させてください。
それでは、長くなりましたが失礼しました。

篠原さん、はじめまして!管理人の管理人です。

円城寺さんですか!成田の下方。。。たしか、円城寺氏の城跡があったような気がします。違うかもしれません(^^;円城寺氏についての文書などが集まらなくて、あまり充実した内容がアップできません。もうちょっといろいろと探してみますね。

ただ、円城寺氏は室町時代のはじめ頃にはすでに千葉氏(はじめは九州千葉氏系の重臣?)の重臣に名を連ねていますので、このころから活躍していたと思います。

それでは、よろしくおねがいします!


[74] no title 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/12(Sun) 01:32

 そろそろ中世相馬氏も一段落つきそうなので、「千葉一族」の整理をはじめようかなと思っています。いろいろ間違っている部分もあるようですので、まとめてきれいにします。あと、直接リンクができるようにしたいと考えてます(^∇^)

今日はホントにふたご座流星群は見れるんでしょうか?ぜんぜんニュースになりません!☆==


[73] すいませんでしたー・・・ 投稿者:sibata [丸に並矢] 投稿日:1999/12/06(Mon) 20:17

Word2000で編集したページを書き直しています。順次アップしていきます(T_T)
とりあえずトップページのデザインを変更しました。

Word2000でページを作ろうとすると自動的にXMLで文章が書かれてしまうようなので、さっぱりわからないです(T_T)
別にこれで書いてもいいんですが、ファイルの大きさが2倍以上になってしまうので、こういった単純なホームページ作りにはむいてないようです〜。結局、Word95を入れなおして、書いていたものを書き直す羽目になっちゃいました…。サイアク〜。

※ご来場、累計20.000人を超えました〜♪どうもありがとうございました!


[72] 大変そうですね 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/12/05(Sun) 14:02

それでなかなか完成しないのですか?
お待ちしていますが焦らないで下さい。

すいませんーー!直したページから順次アップしていきます(T_T)


[68] 葛西晴信のこと。 投稿者:女川十郎五郎胤永 [丸に三柏] 投稿日:1999/11/26(Fri) 21:46

またしても早速の御解答、恐れ入ります。
晴信の没落前後の動向について分からなくて
困ってます。砂金のお話は文献で最近知りま
した。管理人様のおっしゃる通り、何らかの工作
を試みたのでしょう。利府に砂金を集めている
点ですが、利府は確か葛西氏の領外ですよね?
ということは、どういうことでしょう?利府城主
は国分氏とご指摘の通り、伊達氏に仲介を依頼し
てのことでしょうか?
8月6日に晴信宛ての浅野氏の使者が洪水のため溺死
しているんですが、もしかしたらこの使者は砂金の
件も多少は絡んでいるような気がします。
下記の日程の中で7月22日から28日の内容ですが、
これはどの史料を使っておられるのでしょうか?
宜しかったらご教示頂けると幸いです。
一揆の原因はおっしゃられる通りやはり仕置による
在地の武士達の特権が剥奪されて先祖代々の所領から
追放された悲しみと恨みがあったことは想像出来ます。
私も始めは「主家再興」の運動だったんじゃないか、と
思っていましたが、最近はそれを修正しました。
では、宜しくお願い致します。 恐々謹言

非常に遅れまして申し訳ありません(T_T)

利府はもともと留守氏の居城で、このときは留守政景が城主を務めていました。このとき、なぜ弟の国分盛重に対して使者が遣わされたのかはわかりませんが、盛重はおなじく兄・政景の所領である「松島高木郷」に出張中であることが文面からわかります。晴信自身、盛重と個人的なつながりを持っていたのかもしれません。そのつながりを通して、政宗になにかを申し入れようとしたのかもしれませんね?(^^;

22日から28日までの事柄については、『岩手県史』からちょこちょこ抜いてますのでご覧ください。


[67] 管理人様有り難う御座います。 投稿者:女川十郎五郎胤永 [丸に三柏] 投稿日:1999/11/26(Fri) 00:22

早速の御解答有り難う御座います。
現在、葛西・大崎の没落について調べていまして。
そうですか、一万は無理ですか・・・。一揆があった
時は4万とも5万とも言われてまして、その中には
葛西の旧臣達が多かったんで、もしかしたら2万程
は動員出来るのかなあと思っていました。
「葛西記」では800とか1500とか記載されていてこれが
何の数字なのかわからなかったんです。
さて、管理人様は葛西氏の秀吉軍迎撃戦をどう考えてますか?
僕はあまり信用できないと思ってます。では。

葛西氏の迎撃軍…秀吉の奥州仕置は小田原攻めの延長上にあったと思われます。そういえば、迎撃戦のおはなしは、葛西真記以外からはみられませんね。ただ、晴信は大原飛騨と千葉甲斐に1,500余人を率いての出陣を命じており、これが迎撃の軍だったのかもしれません。

7月5日:小田原城陥落。
7月22日:政宗、葛西式部重俊入道流斎に翌23日「関白殿」に迎えを出すよう促す。(伊達家が奥州出羽御仕置を担当)
7月22日:政宗、葛西氏の重臣・富沢日向に上記と同じような書状を発給。
7月24日:晴信、「関白様」が会津へ御下向される由は必定のことか、政宗に質問する。
7月26日:晴信、「小野寺源五郎殿」に具足3領、大崎義隆よりの太刀を授ける。
7月28日:大原飛騨守ら、葛西晴信のもとへ集結し、大原飛騨守・千葉甲斐守ら東山勢千五百余人が桃生郡深谷に出陣。
8月6日:秀吉、白河城に到着。
8月9日:秀吉、会津黒川城に入る。会津は秀次、白河周辺は宇喜多秀家に検地が命じられる。
8月10日:秀吉、自分に従わない領主(大崎義隆・葛西晴信・石川昭光・和賀信親などなど)を改易。
8月13日:秀吉、会津を出発して帰路につき、浅野長吉、奥州北部の検地を命じられ、南部信直の案内で北上。
8月17日:浅野長吉、磐井郡平泉に侵攻。〜18日まで駐屯。
8月17日:蒲生氏郷、会津黒川城に入る。
8月20日:浅野長吉、稗貫郡湯本に侵攻。〜9月末まで駐屯。
    
 本吉郡大籠郷の「首藤伊豆殿(首藤利通)」に宛てた天正18年7月29日葛西晴信発給文書(上記7月28日のことを記す)では、「今度利府表出張之所、盛重以下衆、松島高木郷出張之由、就中は東山大原飛騨守及千葉甲斐守以下、東山勢千五百余人桃生郡深谷打可出候之次第、其許砂金之儀、早々利府寺崎民部少輔改可被渡、…」「大原飛騨守以下之輩、昨日より被参候、依而貴所も、相続同道可被成候…」などとあり、葛西晴信は首藤利通に命じて大原飛騨守と千葉甲斐守1,500余名に引き続いて出陣するよう命じています。さらに、寺崎民部少輔に命じて、利府城の国分盛重(政宗の叔父)に砂金を送って何かの相談をしている様子が見られます。しかし、8月の浅野長吉(のち長政)による磐井郡の通過や、稗貫郡への駐屯はわずかに2,3日の行程で、さらに戦いの形跡はないですね。長吉は南部信直に案内されて進んでいることから、浅野勢3,000騎にさらに南部勢も加わっていた大軍であったと思われ、葛西氏は戦わずに降伏、もしくはすぐに鎮圧されたのかも知れないですね。晴信は政宗にしきりに秀吉のことを聞き込んでいることなど、あまり詳しい情勢を知らなかった様子が見え、いろいろ考えている間に秀吉に攻められ、所領を没収されてしまったような感じがします。

 大崎葛西一揆は木村氏の暴政と主家再興が目的とされる説もありますが、木村氏の家臣・兵士の少なさ(各部将が守る館には3〜30名前後しかいない)をついて、葛西氏の旧臣が「失職」の不満から挙兵したのかもしれません。この一揆には晴信自身は参加しておらず、一揆も主家再興を目的としたものではないようです。さらに伊達政宗は、黒川郡大谷村に蟄居する晴信に「…此節、葛西辺に流落せらるに就きて、葛西殿より旧臣等へ下知せられ、一揆退治の事を励まるるに於ては、身上之事、京都へ執達に及ばるべし…」というようなことを言っていたようで、晴信に流浪する旧臣を糾合して一揆鎮圧の協力を要請していた部分もみうけられます。葛西一揆の時は、伊達家の正規軍の前に数日で鎮圧れていることをみると、そのほとんどは農民や雇い兵など臨時で駆り出された兵で構成されていたのかもしれないですね。


[66] はじめまして。 投稿者:女川十郎五郎胤永 [丸に三柏] 投稿日:1999/11/25(Thu) 04:34

はじめまして。奥州葛西氏を調べてるものです。
葛西晴信の事を知りたいのですが、分からないことが
多くて多くて・・・。
晴信の時の軍事力ってどの程度のものだったんでしょうか?
一万から二万くらいは動員できたんでしょうか?
誰か教えて下さい。では。

こんにちはー(^_^)
『葛西真記録』による秀吉の奥州侵攻に抵抗した葛西氏の陣立。
@深谷荘和淵村出陣(800余騎)
●大将 千葉左馬助胤元(登米郡西郡城主)
●大将 千葉十郎五郎胤永(桃生郡女川城主)
及川紀伊守頼貞(登米郡鱒淵城主)、千葉修理亮胤則(登米郡狼河原城主)、岩淵遠江守経平(東山郷藤沢城主)
千葉新左衛門尉武虎(東山郷黄海城主)、及川美濃次郎頼兼(東山郷津谷川城主)、菅原左近将監重国(本吉郡山田城主)
米倉右近行友(本吉郡津谷)、峯岸数馬有盛(本吉郡津谷)、三条小太夫近春(本吉郡小泉城主)
寺崎伊予守祐光(桃生郡寺崎城主)、飯野但馬守正秋(桃生郡飯野城主)、嵯峨舘左近、水戸部九郎、
箕輪田弥惣右衛門、歌津右馬、亀卦川三郎左衛門、及川隠岐入道

A桃生郡中津山香取(1,700余騎)
●大将 千葉飛騨守胤重(東山郷大原城主)
●大将 及川掃部頭重綱(気仙郡蛇ヶ崎城主)
●脇頭 千葉九郎三郎胤時(東山郷奥玉城主)
鳥海美濃守頼勝(東山郷鳥海城主)、千葉右馬助吉胤(東山郷上折壁城主)、千葉遠江守胤宗(東山郷下折壁城主)
千葉修理亮家胤(東山郷清水馬場城主)、熊谷主馬亮為安(本吉郡気仙沼城主)
安部四郎左衛門重時(本吉郡唐桑城主)、横田佐渡守常冬(気仙郡横田城主)、人首権太夫(江刺郡人首)
伊手隼人(江刺郡伊手)、摺沢将監、寺沢丹後、岩淵対馬、矢作内膳、上有住左近

B栗原郡高清水森原山出陣(1,500余騎)
●大将 千葉甲斐守胤勝(東山郷薄衣城主)
●脇頭 千葉大膳亮胤村(東山郷長坂城主)
昆野小次郎定住(東山郷千厩城主)、柴股大学義武(東山郷釘子城主)、笹町新九郎経尚(東山郷西釘子城主)、
岩淵壱岐守経道(西磐井郡赤萩城主)、千葉左門胤連(流郷日形城主)、千葉彦九郎久胤(流郷富沢城主)
及川主計正頼通(流郷男沢城主)、蝦島蔵人盛永(流郷蝦島城主)、砂小田帯刀、升沢滝口太郎、金成右近大夫
畑村対馬

C寺崎城から佐沼城に居城を移して篭城(700余騎)。
●大将 葛西左京大夫晴信
●一門 葛西式部少輔信政、葛西民部少輔信国
●宿老 及川越後守、青梅尾張守
●家老 赤井播磨守、福地下総守、門田丹波守、末永筑後守
●侍大将 千葉三河守胤虎(岩谷堂城主)、千葉兵庫助胤元(岩谷堂嫡子)、柏山摂津守胤道(百岡城主)
柏山千葉若狭守胤衡(百岡嫡子)、本吉千葉大蔵少輔胤政(清水川城主)、本吉千葉常陸介胤遠(清水川嫡子)
高田壱岐守胤冬(高田城主)、長部藤右衛門正行(長部城主)、及川掃部頭重綱(蛇ヶ崎城主)
●近習 富沢日向守、寺崎石見守
●武将 浜田彈正、摺澤出雲、築館筑前、上沼備中、武鑓典膳、金田豊後、柳津三河、馬込四郎兵衛、小山九郎
今泉左門、赤崎右近、安倍四郎兵衛、手塚庄蔵、二関平蔵、及川淡路、菅原左近、大貫丹藏、千田要人、佐藤重見
小野寺藤三、須藤弥兵衛、可野助市、矢崎又太郎、下河原丹治、白石求馬

 1〜4までの兵士の数をあわせると4,700余騎、これらは登米郡・桃生郡・本吉郡・気仙郡・江刺郡・西磐井郡・栗原郡(牡鹿郡は抜けてるみたいです)の7郡、おそらく葛西氏の全領域から集められた軍勢とおもわれることから、葛西氏の動員数は4,700余騎くらいだとおもわれます。ただ、これが馬上の侍の数なのか、全軍の侍数を示しているのかはわかりません。ここの深谷に出陣した軍団の大将の一人に女川十郎五郎胤永の名が見えます。

 もうひとつ、江戸時代成立の『大崎葛西陳割之覚』によると、大崎氏・葛西氏の武士の名が連々と書かれ、

薄衣殿勢大将として50騎、先陣〜7陣までの総勢は750騎、
千葉伊豆守成胤(薄衣甲斐嫡子。深谷で討死)の手勢として30騎・400人
大原美濃守光胤(大原飛騨守嫡子。深谷で討死)の手勢として20騎・490人
千葉左衛門尉有胤(気仙浜田安房守嫡子)の手勢として60騎・300人
千葉左衛門尉胤則(江刺柏山清晴公嫡子)の手勢として30騎・500人
千葉九郎定胤(水沢小山城主・深谷で討死)・大炊亮資胤(定胤嫡子)の手勢として50騎・700人
千葉日向守長胤(三迫城主・深谷で討死)・因幡守景胤(長胤嫡子)の手勢として60騎・800人
千葉大膳大夫英胤(本吉城主・深谷で討死)・平五大夫雅胤(英胤嫡子)の手勢として68騎・900人
後陣に、葛西晴信の手勢から9騎(岩瀬重忠・熊谷直光ら)・兵士数は不明。
桃生・牡鹿両郡の勢:48騎・兵士800人

となっており、馬上は1,175騎、兵士は記されているだけで4,890人、さらに晴信の手勢も含まれると馬上は1,200騎、兵士は5,000ほどになると思われ、あわせて6,200くらいだと思います(江戸期の文書のため信憑性は疑問)。

 木村吉清が大崎葛西氏の旧領を安堵された石高は30万石であったとされています。大崎氏は5郡、葛西氏は8郡の領主であり、あわせて13郡。単純に計算して葛西氏は約18万石の領主であったとして、1万石につき250人の動員とすれば、4615人の兵力となります。たぶん葛西氏は約5,000人の兵士を徴発でき、配下の大小領主は1,000人ほど?ですから、たぶん万を越える軍勢は動かすことはできなかったと思います。


[65] 更新日記10〜笹川・稲村公方と奥州内乱〜 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/24(Wed) 00:42

 室町時代中期の奥州は「奥州探題」の吉良氏・斯波氏の支配下にありましたが、吉良氏が没落することによって斯波氏(大崎氏)が奥州の実権を握る形になっていました。しかし、明徳2(1391)年の暮れ、陸奥国・出羽国は鎌倉府の管轄に加えられる事となりました。これは奥州探題が有名無実な存在になって、奥州をまとめる存在がないこと、さらに幕府と鎌倉府の間にあったしこりの解消を図る幕府の策であったとされています。これ以降、奥州諸豪族はもちろん、大崎斯波氏も鎌倉に館を持つことを強制されたようです。しかし鎌倉公方・足利氏満は、そのまま斯波詮持に奥州支配を任せており、応永5(1398)年12月まで詮持に宛てた奥州の政治に関する文書が遺されています。

 しかし、応永5(1398)年11月、氏満が40歳で没し、嫡子・満兼が鎌倉公方に就任すると、この支配体系は変化していきます。満兼は就任当時は父のやり方を引き継いでいましたが、翌年、陸奥国政は自らの宰領であるとして斯波詮持の支配を否定し、弟の足利満直・足利満貞を陸奥国に派遣しました。この満兼の行為に詮持は猛反発し、このために満直・満貞は陸奥内陸に入ることができず、安積郡笹川郷(福島県郡山市)と岩瀬郡稲村郷(福島県須賀川市)にそれぞれ落ち着き、満直は「笹川御所」、満貞は「稲村御所」とよばれることとなります。

 両公方は奥州支配を強引に押し進めようとしたことから、伊達政宗・芦名満盛らが挙兵しました。鎌倉公方もこの叛乱には手を焼き、新田岩松満純や関東管領・上杉氏憲を派遣してようやくこれを鎮圧しました。しかし、豪族たちの鎌倉府への不満は高まる一方で、奥州各地で豪族たちによる「一揆」がつくられ、両公方に頑強に抵抗しました。相馬氏も奥州の海道五郡(行方郡・岩城郡など)の一揆に加わり、両公方に対する取り決めを約しています。

 同じころ、関東では内紛がおこっており、応永23(1416)年10月には上杉禅秀(氏憲)が足利持氏に対して叛乱を起こして滅亡。さらに永享10(1438)年8月、幕府寄りの関東管領・上杉憲実が持氏と争い、幕府の援軍とともに足利持氏を攻め滅ぼしたのでした。これを「永享の乱」といいますが、このとき足利満貞(稲村公方)も持氏と同じく鎌倉で自刃しています。さらに永享12(1440)年3月におこった「結城合戦」のさなかの6月24日、石川氏・蘆名氏らによって、笹川公方・足利満直は攻め殺されました。

 これら関東での内紛、両公方の滅亡によって、奥州に対して支配が及びにくくなると、地縁的な連合=一揆は意味を為さなくなり、諸豪族たちによる勢力争いが激しくなり、奥州は群雄割拠の時代になっていきます。


[64] 更新日記9〜相馬胤弘と新田岩松氏〜 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/24(Wed) 00:40

 胤弘の代に、千倉庄を知行していた新田岩松氏が内紛によって滅亡したとされています。新田岩松氏は、鎌倉初期の相馬2代当主・相馬五郎能胤の娘・土用御前と新田岩松時兼が結婚したときに、土用御前が持参した陸奥国千倉庄を所領として継承。その後は相馬氏と行動をともにしていたようで、建武3(1336)年3月3日、南朝方との戦いで光胤が率いた人(おそらく一族)を列記した『相馬光胤着到状』には「新田左馬亮経政」が記されています。この経政と岩松時兼の系譜は不明ですが、岩松氏の通字「経」や「政」を称していることから、その子孫と考えられます。

 伝承では、千倉庄を含む真野郷を領していた「新田蔵人義政」が応永20(1413)年、嫡子・専千代(義時)に家督を譲って病死。その家老4人が真野郷押領を企てて専千代を暗殺し、家老以下が相馬氏に降伏して真野郷は相馬氏に帰属し、真野郷は「北郷」とされて、桑折氏の所管になったとされます。「新田蔵人義政」という新田岩松氏出身の人物は実在したようですが、彼が活躍したのはこの伝承の80年も前であるうえ、新田義貞とともに越前国金ヶ崎で戦死していることから、真野郷の義政とは別人と思われます。

 このように、千倉庄での新田氏滅亡の伝承は物語風のために信憑性に欠けており、実際には何があったかは不明です。相馬氏が新田氏を攻め滅ぼした可能性もあります。そして、新田岩松氏に受け継がれていた「左馬助」を称する「新田左馬助」は、室町時代には南部氏の一族として代々活躍しているため、千倉庄から脱出した岩松氏は南部氏に仕えたのかもしれません。


[63] 更新日記8〜相馬憲胤と相馬岡田氏〜 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/24(Wed) 00:40

 憲胤の代には、嫡子にだけ所領が継承される形式=嫡子単独相続が確立していたようです。これは戦乱期に入り、所領の分散を防ぐ目的と、惣領家による庶家の統率によって全体的な力を強めようとする意図があったのかもしれません。とくに相馬岡田氏は、相馬宗家とは「一族」ではあっても、宗家から知行を安堵されているわけではなく、みずからも「惣領」を称しているように、相馬宗家とは主従関係にはありませんでした。相馬岡田氏は鎌倉時代初期に相馬惣領家から分かれた、もっとも古い相馬一族です。

 相馬惣領家が室町時代に入った直後に下総国相馬郡の支配権を失った一方で、岡田氏は康暦3(1381)年時点で下総国相馬郡の所領(泉村上柳戸・金山・舟戸・増尾・薩間)をまだ保っていました。このことからも惣領家とは一線を画した支配体系を持っていたことがわかります。しかし、岡田氏も明徳3(1392)年には相馬郡を失っていたようで、康暦3(1381)年から明徳3(1392)年の10年の間に相馬岡田氏になにか事件がおこったのかもしれません。

 岡田相馬胤家の嫡子・胤繁(五郎)は、康暦3(1381)年5月24日に「嫡子鶴若丸」にあてて譲状をしたため、その後の活躍は見られませんが『相馬文書』に明徳3(1392)年2月18日、「相馬胤重譲状」が見ることができます。この「胤重譲状」とされる書状には署名はなく、花押のみが記されています。そして、譲り主は文書から「浄賢」という人物であることがわかります。しかしながら、この花押は「相馬胤繁(系図では胤繁=胤重)」のものとは明らかに異なるうえ、胤繁の父・相馬胤家のものと全く一致します。さらに、「孫」鶴若丸に譲る旨が記されていることなどから、「浄賢」とは「胤家」が出家した号であると考えられます。おそらく胤家は、胤繁が早世したため幼い嫡孫・鶴若丸を補佐したのでしょう。そして下総国相馬郡の所領は胤繁の死により、闕所として幕府に没収された可能性もあります。

 永徳4(1384)年正月27日、相馬鶴若丸は憲胤を烏帽子親として元服し、「相馬小次郎胤久」の名乗りを与えられました。これは相馬胤家(入道浄賢か)が孫の烏帽子親に憲胤を依頼したのかもしれません。そしてこれ以降、相馬岡田氏は「相馬」ではなく「岡田」を自らの称号とするようになり、応永元(1394)年2月1日には憲胤から「岡田宮内大夫殿(岡田胤久)」に宛てた「知行安堵状」が遺されていることからも、岡田氏が相馬惣領家に従属する立場に変わったことがうかがえます。

 岡田相馬氏はこののちも惣領家を支え、室町後期には小高郷大将・一門筆頭として活躍。江戸時代には「副大将」の家柄となります。幕末・明治維新の戊辰戦争では、岡田泰胤(監物)が相馬中村藩兵を指揮して白石城に戦っています。


[62] しし座流星群 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/20(Sat) 08:19

18日の夜は夫が徹夜で「しし座流星群」を見ようとして午前3時半まで起きていたのですが
結局は駄目だったそうです。ご苦労さま。

東部は「DUD」中西部は「SPECTACULAR」だったそうです。
東部は「がっかり」中西部は「見事な迄の天体ショー」ということです。

中西部では「FIRE BALL」も見られたのですって。
火の玉まで。
中には怖がった人も出た、と聞いています。

だから夫は(じゃぁ、西部はもっと凄いだろう)と思ったけど実は昨日こちらは午後3時
頃から霧が出て来て、それも雲の中に入ったような感じの、濃い霧が出ていたのです。

これで今年の天体ショーは終わりと思っていましたが
双子座流星群ですか?楽しみにします。


[61] しし座流星群 ☆== 投稿者:シバタ [丸に並矢] 投稿日:1999/11/19(Fri) 01:52

17日から18日夜にかけて、獅子座流星群が見れた!らしいのですが、千葉の方はダメでした。。。
印西町にある日本医大にちょこっと行ったのですが、雨まで降ってきてしまったので、どうしようもなかったです(T_T)
次は12月半ばに双子座流星群があるとか。これはゲットしたいなと思ってます。


[60] 4486番でした 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/15(Mon) 22:47

くらのすけさん:

初めまして。
「千葉氏」のこのHPは本当に凄い量ですよね。

服部さん、こんばんはー(^-^)
4486番おめでとうございます(?)
ガンバッテもっと充実した読みやすいページをつくろうと思ってますので、長い目で見てやってください〜(*^o^*)


[59] おくれました。m(__)m 投稿者:くらのすけ [家紋不明] 投稿日:1999/11/15(Mon) 00:33

管理人様、はじめまして。こちらでは初カキコさせていただきます、
くらのすけです。

先日は、私のほうの掲示板に書き込んでいただき、ありがとうございました。
ついこちらに挨拶にくるのを忘れていました。すいません。

こちらのサイトは、すごく内容が濃い上に、ビジュアル的な面でも勉強になります。
そのうち地図とかを駆使して見たいと思っているのですが、まだコンテンツをなんとか
するのが精一杯で・・・。

では、これからもよろしくお願いいたします。
では、これにて。

http://www.page.sannet.ne.jp/kuranosuke/index.html

くらのすけさん、御来板ありがとうございます〜(^-^)
このページも大きくなってきまして、管理が行き届いてません!いま相馬氏について主に追加しているのですが、これのきりの良いところ(相馬義胤あたり)でいったん相馬氏は休憩して、手つかずの部分、武石氏や秩父党、鎌倉党の方も手がけようと思っています。


[58] 4444 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/14(Sun) 23:57

4444人目の来訪者でした。4の4並びを見てしまいました。縁起ワルワル(T_T)


[57] 相馬家・千葉城などなど 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:1999/11/11(Thu) 12:57

相馬家の情報更新も拝見させていただいてます。
相馬家というのも常に一本筋が通った行動を執ってきた経緯が何
となく見えてきますね。
九州千葉の胤貞に味方して南朝側に立っていた下総千葉の貞胤を
攻める話も出てきますが、その当時も千葉城と呼んだんでしょう
か?亥鼻台にある館も当時のカテゴリーで城と呼べるほどしっか
りした構造物だったのかなあと思いながら読ませて戴いてます。

 この千葉城については、「千葉楯」「千葉城」と呼ばれていて、おそらく防御能力を持った構造物であったと思います。相馬氏の鎌倉末期の動向や奥州下向の時期など、伝説的要素も多く、難しいデス(^_^;


[56] 更新日記7 〜相馬光胤更新分〜 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/11(Thu) 00:43

 親胤の弟・光胤(弥次郎)は建武2(1335)年11月までは「松犬」とされ、翌年2月には「弥次郎光胤」となっていることから、光胤はこの間に元服をしていることがわかります。おそらく重胤は鎌倉へ向かう直前12月、もしくは鎌倉で彼を元服させ、その後朝廷方に備えるために小高城に返した際、「惣領代」として一族の統率をはからせたと思われます。

 4月16日、鎌倉で父・重胤が北畠顕家と戦って自害し、5月24日には小高城も顕家によって攻め落とされ、光胤ら一族数名が戦死しました。城を囲まれる直前の20日、光胤は甥・松鶴丸を養子として所領を譲る旨の譲状をしたためています。この譲状には「光胤又存命不定之間」「公私不遂本望者、僧仁なりて各の後生を可訪也」などと死を覚悟した文が書かれており、光胤は譲状を書いた直後に、松鶴丸以下一族のほとんどを城から逃がして被害を最小限に、さらに父の「京鎌倉御方雖聞及劣軍之、各々■■■■■不可有二心、爰有二心於一族等、任連御下文之詞可討取者也、合戦習雖弱一旦之■■■終期者歟、加之遠国間、敵等構虚言、可得心■■■捨一命各々恥家疵、可欲揚弓箭名後代者也」という言葉を忠実に守ったものと思います。


[55] 更新日記6 〜相馬松鶴丸の生まれ〜 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/11(Thu) 00:43

 親胤の嫡男・松鶴丸は、正中元(1324)年生まれとされていますが、松鶴丸の祖父・重胤がしたためた、建武2(1335)年11月20日の『相馬重胤譲状』のなかで「二郎子なくしてあとたえぬへくハ、二郎か跡をも松犬知行すへし」とあるように、「二郎=親胤」に子がまだないような書き方がなされており、それ以前も以後も、重胤が「松鶴丸」に触れた書状は残っておらず、重胤・親胤留守の間の小高城の守りについてはもっぱら次男・光胤に対して指示をしていることなどから、「松鶴丸」は建武2(1335)年11月20日の時点で生まれていなかった可能性があります。「松鶴丸」の父・親胤は、同年11月下旬から12月上旬にかけて下総国千葉城を攻めており、「松鶴丸」は建武2(1335)年末から翌年5月の間の誕生とも考えられます。


[54] 更新日記5 〜相馬重胤の奥州下向〜 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/11(Thu) 00:42

 相馬重胤の奥州下向は元享3(1323)年4月21日とされています。しかし、長崎思元との領地をめぐる相論の中で、『相馬重胤申状案』には「今年元亨元十月打渡之刻、重胤以下総国相馬郡居住」とあるように、元亨元(1321)年10月の時点で、重胤は下総国相馬郡に在住していたことを主張しています。一方、これに対した元亨2(1322)年『長崎思元代良信申状』によれば「爰重胤任雅意、去年元亨元年十月以数多人勢押入■■■作毛、追捕民屋、致押妨狼藉之條、希代之所行也」とあるように、10月には重胤は小高にあって濫妨をはたらいたことが記されています。これらの文書はそれぞれが提出した文書であるため、内容の真偽は不明ですが、長崎思元が申状の中で重胤のことを「小高孫五郎重胤」と呼び、元亨2(1322)年7月4日『関東御教書』の宛名が「小高孫五郎殿」となっていることに加え、『相馬重胤申状案』で重胤は、自分は下総にいたんだとわざわざ主張していることも逆に奥州にいたことを暗示させるような気がします。

 また、重胤の妻は陸奥国三春庄の田村三河前司入道宗猷の養女・藤原氏女で、重胤が下総相馬郡に住んでいた頃に田村氏と交流があったとは思えず、結婚は重胤の奥州下向後のことと思われます。重胤の嫡男・親胤は元弘3(1333)年の時点で元服しており、彼の母親が田村入道の娘であるとするならば、重胤は正和年間(1312-1317)ごろの生まれなのかも知れません。すると、重胤の奥州下向もそのころか、それ以前かと思いました。


[53] 更新日記4 〜相馬氏の惣領家〜 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/11(Thu) 00:41

 相馬氏の胤氏・師胤・胤実・胤門ら兄弟による所領をめぐる争いについてアップしました。彼らの父・胤村が急死をした(?)ために、『譲状』を遺さなかったことから、師胤が「当腹嫡子」として所領の大半を継承するとした胤村の遺言状を偽造したと思われ、これに対して、長兄の胤氏との間で相論が起こります。

 胤氏はすでに「左衛門尉」という官途を持ち、その子・師胤(五郎)も「左衛門尉」に任官している一方、胤氏の弟の師胤の系統は、師胤―重胤と無位無官であり、このことから、鎌倉幕府側では、胤氏系統を「惣領」と認めていたと思われます。『永仁二年御配分系図』は奥州の所領の配分を定めたものと思われ、胤氏の所領の多さが群を抜いていることがわかります。胤氏はおそらく相馬氏の本拠地である下総国相馬郡内にも多くの所領を持っていたと思われ、子孫は下総相馬氏として活躍しています。本拠を領していること、左衛門尉への任官、所領の多さなどから見て、胤氏系統が本来の惣領であったことは間違いないと思います。

 しかし胤氏の子・師胤(五郎)は、鎌倉末期に所領三分一を収公されていた上、下総相馬氏は南北朝の戦いの中で朝廷方に味方し、室町幕府成立後はほとんどその姿を見せなくなります。かわって、奥州に下った師胤(五郎師胤の叔父)の子・相馬重胤系統は、一貫して足利方に味方していたため、その勢力を拡大し、奥州相馬氏が実質的な惣領家となっていきました。


[52] 残念ですね 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/10(Wed) 09:57

頼朝展、見られないのですか?
国宝も沢山出品されていて今年こその機会と思いますが
時間が無ければ仕方ないですね。

私などは絶対行けないのですから。
距離的にも。


[51] 20日欠席です 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/11/10(Wed) 00:05

管理人さん20日の講読会出席ですか。
私は残念ながら地元の主催する県外研修で静岡県三島市に行く為、欠席です。
服部さんが紹介されておりました、講読会主催で26日に行われる神奈川県立歴史博物館の「源頼朝とゆかりの寺社の名宝」展の研修旅行も時間が取れそうもない為、欠席です。
12月は何とか時間を作って行きたいと思います。


[50] 展示会休館日訂正 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/11/09(Tue) 00:30

7日にお知らせいたしました。
千葉市立美術館の休館日間違っておりました。
休館日は月曜日です。
お詫び致します。
タイトルも件と書いた積りで県となっておりました。
重ねてお詫びいたします。

訂正させていただきました〜(^_^)


[49] フォーラム特別講演変更の件 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/11/07(Sun) 23:56

11月6日に行われる予定でした小笠原先生の特別講演が急遽変更になってしまいました。
お身体の調子が良くない為、大事を取られたようです。
せっかくお出で頂いた方には申し訳ございませんでした。
先生には早く元気になって、今度こそ是非講演をして頂きたいと思います。
当日は急遽、千葉市立郷土博物館・館長の丸井先生に
『妙見信仰と千葉氏嫡宗権の成立』という題で講演して頂きました。
当日はおかげ様で100名近い人が参加され、用意した椅子が足りなく急遽新たに用意する程でした。
当日行われました、千葉市立美術館では11月2日〜12月12日の間『房総の神と仏』という展示会を催しております。
非常に内容が充実しているとの事です。
是非皆さん美術館を訪れて見てはいかがでしょうか。
入場料は大人千円です。(休館日は日曜日です)


[48] 千葉すず 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/05(Fri) 08:33

「千葉すず」さん:

珍しくワタクシから「千葉一族」系の話題を1つ・2つ。

94〜95年頃、千葉すずさんがウチの会社のフライトでロスに戻って来ました。
留学生に必要な在学証明書を忘れたとかで入国審査に引っ掛かってました。

すらっとした明かるい奇麗なお嬢さんという印象を受けました。


そして今日、同僚とおしゃべりしていましたら、千葉すずさんの噂が出ました。

その同僚の子供達は千葉すずさんに泳ぎを教えて頂いていたそうです。

何が凄いか、っていうと、子供達が泳いでいる下に潜って、一緒に泳いで、フォームの間違いを指導してくれたんだそうです。

千葉すずさんの悩みは肩幅が広い事。
すぐに「千葉すず」だとバレてしまうこと、とおっしゃっていたそうです。


[47] フォードのコマーシャル 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/11/02(Tue) 11:25

今晩9時に例の2分間のコマーシャルを放送するそうです。

歌ってる女の子はシャーロット・チャーチです。


[46] 特別講演参加大募集 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/11/02(Tue) 00:49

管理人さんこんにちは、先日はMailありがとうございます。
今日はもう一度特別講演のお知らせをさせて下さい。
そして、けーじばん2に参加されている皆さんお久しぶりです。
先日お知らせいたしました、千葉氏顕彰会の特別講演への参加者枠がまだ残っております。
事務局長より特に参加希望の葉書なしでの参加を了解頂きましたので、是非皆さんに参加して頂きたいと思います。
繰り返しになりますが以下の通りで行いますので宜しくお願い致します。
講演は参加される方が楽しく興味を持てる内容で毎回好評です。
記念講演会
期日:平成11年11月6日(土)時間午後2時〜午後4時30分
会場:千葉市美術館講堂(11階)(JR千葉駅より10分位です)
第1部「平良文と千葉氏武士団の創立について」
講師:小笠原長和氏(千葉大学名誉教授)
時間:午後2時〜午後4時(参加費:無料)
参加方法:自由参加(定員150名)
第2部「千葉氏に関するフリートーク」
講師:小笠原長和氏他
時間:午後4時〜午後4時30分(参加費:無料)
参加方法:自由参加
親睦会も会費3千円ですが参加は自由です。
千葉市美術館は中央区役所と同じ建物内にあります。

千葉さんこんにちは!
20日行けそうですので、宜しくお願いいたします。
6日の講演会のことが、京葉新聞に載ってましたね(≧∇≦)


[45] 頼朝展ご案内 投稿者:服部 明子 [松皮菱の尻合] 投稿日:1999/10/27(Wed) 00:36

「源頼朝とゆかりの寺社の名宝」

場所:神奈川県立歴史博物館(JR桜木町駅下車)
日時:10月23日ー11月28日
目的:源頼朝没後800年記念事業の一環として

出品:伝・源頼朝坐像
二階堂永福寺の出土資料など国宝13点
その他重要文化財35点
及び52点

入館時間:午前9時半ー午後4時半
入場料 :一般800円
休館日 :毎週月曜日と11月4日と24日
電話 :045ー201ー0926

服部さん、こんにちは。
永福寺の遺物などが出展されるそうですね。
二階堂の地名としてしか面影はありませんが、
相当大きなお寺だったようですね。


[44] 更新日記その3 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/26(Tue) 00:38

相馬胤綱の娘3人(足助尼・摂津大隅前司妻・島津下野入道妻)についてと、
相馬師胤について更新しました。師胤については、ちょうど所領をめぐる
内輪もめの時期で、書状の内容が錯綜しています。
薩摩の島津氏と相馬氏の関係も根深く、南北朝時代の九州北朝の雄・島津貞久の
祖母は相馬胤綱の娘であり、彼も相馬郡内に所領を持っていました。その所領は
島津総州家に伝えられていきましたが、その後どうなったかは不明です。


[43] おめでとうございます! 投稿者:服部 明子 [松皮菱の尻合] 投稿日:1999/10/21(Thu) 14:28

2つに合格なさったのですか。
良かったですね。

どうもありがとうございまっす(^-^)
でも、DTP認証のイッコだけです。
こないだ、夜中の手賀沼公園(沼南町のページ参照)に行ってみました。夜景もキレイでやっぱイイとこです(≧∇≦)


[42] 更新日記その2 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/20(Wed) 09:50

相馬氏の惣領家・相馬胤綱と相馬胤村父子をアップしました。
まだ外側だけなので、そのうち内側も埋めていこうかと思っています。

相馬胤綱の妻・相馬尼(天野政景の娘)、長男の胤継(二郎兵衛尉)、
胤継の弟・胤村(五郎左衛門尉)の間で惣領をめぐる争いがあったようで、
相馬尼は胤継を義絶して惣領代として権力を持ち、実家の天野家とともに
一時的の相馬家を宰領していたと思われます。

結果的に胤村が相馬惣領家を継いでいく形(胤村が惣領であったかどうかも実は不明)となりますが、
胤綱の死後は、相馬氏の家督が明確でなく、混乱していた時期があったこと
が察せられます。相馬氏の所領をめぐる争いは、胤村の子どもたちの間でも
起こっており、下総相馬氏と奥州相馬氏の分裂を招くこととなります。

JAGAT(社団法人日本印刷技術協会)主催のDTP(Desktop Publishing/Prepress)認証試験に合格しましたぁ〜〜(^-^)
コンピュータで本などの編集をする資格です。。。


[41] 更新日記その1 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/17(Sun) 20:00

 「千葉氏の一族4」の白井氏・神保氏の項目と「臼井氏」の萩藩臼井氏の部分に加筆しました。加筆した部分は、萩藩の白井氏・神保氏・臼井氏ですが、白井氏に関しては、http://www2s.biglobe.ne.jp/~bame/ichizoku5.htm#siraiをご覧下さい。

安芸白井氏に関する書状がみえるのは、白井親胤(縫殿助)の代からで、それ以前は不明です。
臼井氏・神保氏はもともと同族であり、長門の臼井・神保両氏は平安末期から室町末期までの400年もの間交流をたもっていたことがわかります。


[40] 御礼 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/13(Wed) 19:23

服部さん、千葉さん、江州さん、みなさま、激励ありがとうございました!
またまたガンバッテやっていきます(≧∇≦)

ポストペットのポスペパークに入会しました。
友達に誘われて、面白そうなので入ってみました(^^;
14日あたりにイベントがあるようなので、ちょいとタノシミです(*^o^*)


[39]  投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:1999/10/12(Tue) 13:01

管理人さん、遅れ馳せながらWEB開設2周年おめでとうございます。
3年目に入られて御決意のほど読まさせていただきました。
随分そちらの方の史学会も活動をなされている旨を久様の文章からも拝察致します。

15日には神田まで出張に出ていますが、日帰りなので久様御紹介の銀座のパレードまでは時間の関係上難しいかも知れませんね。もし時間が許せば見てきたいと思います。


[38] 千葉氏フォーラム 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/10/11(Mon) 23:42

管理人さん2周年おめでとうございます。
これからも頑張って下さい。
本日は千葉氏フォーラム記念講演会のご案内をさせて下さい。
内容は以下の通りです。
お時間のある方、是非ご参加下さい。
期日平成11年11月6日(土)
1.記念講演会
時間午後2時〜午後4時30分
会場千葉市美術館講堂11階
第 1 部 …演題「平良文と千葉氏武士団の創立について」
 講 師 :小笠原長和氏(千葉大学名誉教授)
 時 間 :午後2時〜午後4時
参 加 費:無 料
参加方法:自由参加(先着順、定員150名)
第 2 部…演題「千葉氏に関するフリートーク」
  講 師 :小笠原長和氏他
時 間 :午後4時〜午後4時30分
参 加 費:無 料
参加方法:自由参加(先着順、150名)
2.親睦会
会場:カボチャワイン(千葉市美術館11階)
時間:午後5時30分〜午後7時30分
会費:3,000円
申し込み方法:往復葉書に住所・氏名・電話番号と講演会・親睦会参加希望を明記し、下記までお申し込み下さい。
〒260-0018 千葉市中央区院内2-11-9今沢方
千葉氏顕彰会事務局
定員になり次第、締め切らせていただきます。
尚、当日入会の受け付けも致します。
年会費5,000円 ( 供養料、機関紙の発行等を含む )


[37] 2周年おめでとうございます 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/11(Mon) 12:58

早く2万人突破しますように!


[36] 2年目です。 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/10(Sun) 20:44

おかげさまで、開設2年をむかえました。
累計で18,000人の方に見ていただきました。
ますますがんばっていきますので、よろしくお願いいたします(≧∇≦)


[35] お祭り情報です 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/10/05(Tue) 22:24

ご無沙汰しております。
千葉氏とは関係ありませんが、職場が近いのでお知らせ致します。
10月15日17時より大銀座祭り光のパレードが行われます。
何とか銀座ではなく、東京都中央区銀座です。
銀座1丁目から8丁目までの中央通り(通称銀座通り)と土橋通りで時計回りにパレードが行われます。
25年以上続いております。
資生堂銀座や銀座三越他一流店が競って山車を出しますので、華やかで見ごたえがあります。
私は毎年仕事に追われ隣の町内で音だけ聞いております。
今年は残念ながら出張で音も聞けません。
時間の許す方は一度見てはいかがでしょうか。


[34] 相馬岡田氏について 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/02(Sat) 23:30

相馬岡田氏について、疑問に思っていた部分の資料が
見つかったので、次の更新時に直しておきます(^-^)
どうもわからないので(?)を付けている人物についてです。


[33] 千葉家実記ですか 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:1999/10/01(Fri) 12:56

管理人さん、こんにちは

茨城の方は大変なことになっていますね。臨界に達してかなり中性子も出たことでしょうが、もっと深刻な状態にならなくてまだしも良かったなと思いますね。それでもかなりの人が被爆してますから、当分そちらの方は放射能汚染で問題が続きそうですね。

千葉家実記とのことですが、内容は編年体のものになっているのでしょうか?(まだ御覧になっていないので分からないですよね。)名著出版っていう会社も展望社のように随分ディープな歴史ものを扱われる出版社ですね。2万円ともなると少し手が出難い値段です。

茨城の事故は、3年ぶりに増殖炉か何かの燃料を作っていた最中の事故とか。新聞まだ読んでないのでわからないんですが、そうとう大きな事故だったようです。中性子はたしか原子よりも小さくて、防護服をすり抜けて人体に影響を及ぼす。。。とか???う〜ん、科学はむずかしいですね(TwT)

『千葉家実記』は5章(7章だったかも)くらいに分けて書かれた、950ページほどある、ものすごい奥の深そうな本のようです。白井・鏑木・円城寺氏について記された章もあるようです。円城寺氏はむずかしいですよね〜。


[32] 授業料納めていますものね 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/10/01(Fri) 00:28

>でも\20,000もするので、大学の図書館に頼もうカナと思ってます(`∇´)

いい大学ですねぇ。。。
学校のこういう利用の仕方知りませんでした。(^^; 

去年大学は卒業したんですけど、卒業生は図書館を利用できるし、本も頼めちゃうんです(^-^)けっこう使えます。
一回しか頼んだことないし(学部の本。。。)、ちょいと緊張するかも(^_^;


[31] ローカル誌から 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:1999/09/30(Thu) 12:57

管理人さん、こんにちは

今徳島新聞の連載小説で「ばさらばさら」と題する室町中期の事を取り上げた小説が連載されてます。話の下りが義教の還俗のところに差し掛かっているのですが、義円と呼ばれた彼が最初に還俗して名乗ったのが義宣だったようです。
籤将軍とも呼ばれ、後に赤松氏に殺された将軍義教を巡って小説は展開していくようですが、公方からの偏諱の件で、千葉介胤直の名が宣胤としている資料が見えたり、彼の嫡男が胤宣と名乗っているのと将軍義教こと義宣と関係があるのかなあと、少し首を傾げながら毎日目を通しているところです。
以前お送りした資料の中で胤直が高野山へ参拝に行ったことが触れられているものがありましたから、ちょうどその頃のことかなあとも思ったりしています。

江州さん、こんにちはーー。
将軍が名前を変える以前に偏諱を与えた例として、
・足利成氏→足利義成(のちの義政)
・足利高基→足利義高(のちの義澄)
・伊東尹祐→足利義尹(のちの義稙)
・細川藤孝→足利義藤(のちの義輝)
というものがありました。

義教がくじ引きで将軍に選ばれると、鎌倉の足利持氏(義持の養子に願い出ていましたが、失敗)が怒って京都との間で紛争が絶えなくなります。
義円が還俗して義宣を名乗ったのが応永35(1428)年3月で、その翌年3月に将軍宣下とともに義教に改名、「よしのぶ=世忍ぶ」に通じることを嫌ったためでした。そして赤松氏に討ち取られたのが嘉吉元(1441)年6月25日です。胤宣は文安元(1444)年生まれとあるので、義教の死後に生まれたことになり、義教からの偏諱ではないと思います。
ただ「宣胤=胤宣」や「賢胤=胤賢」みたいに「胤」字が前後して書かれる人物はこの時代に集中していますね?なにかヒ・ミ・ツがあるのでしょうか?
高野山については、千葉氏は下総国に高野山の使者専用の宿舎をこしらえていましたね。

そういえば、朝野雅文さんという方が書かれた『千葉家実記』という本が名著出版社から出されたそうです。でも\20,000もするので、大学の図書館に頼もうカナと思ってます(`∇´) 


[30] 工藤氏と千葉氏 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/09/30(Thu) 00:06

久々に更新してみました。
工藤祐経と千葉介常胤のあいだで婚姻関係があったようです。(伊東氏参照)
祐経と常胤の娘のあいだに生まれた祐時が、日向の伊東氏の祖ということです。

この間、友達と夕方から夜にかけて幕張にぶらりと行ってきました(^_^)
あそこの夜景はピカイチです!もう海風はすっかり冷たくなって、秋って感じデシタ(^_^)
幕張は室町時代中期、千葉介康胤(前名は馬加陸奥守康胤)の居城があり、美濃国の千葉一族・東常縁と争っています。


[29] 三浦姓 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/09/29(Wed) 23:26

青森県五戸町では住民5000人の内2000人が「三浦」姓だそうです。

フジテレビの「行旅死亡人」の番組で言ってました。

こんにちは〜。
五戸というと。。。南部氏の所領の一つですね。
南部氏は武田氏と同じ甲斐源氏です。たしか甲斐国巨摩郡南部牧の管理をやっていた家(だったかな?)で、所領を奥州に与えられた南部光行(だったかな?)が奥州でも馬の経営をやった際に、一戸から九戸まで牧の出入口を作ったそうです(記憶があいまいなんです(^^;)
ここと三浦氏の関わりは・・・わかんないです〜(T_T)
でも四割が三浦っていうのもすごいですね。町長選挙やったらみんな「三浦さん」かも。困っちゃいますね(≧∇≦)


[28] 恐怖の大王9月説 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/09/27(Mon) 21:30

千葉ちゃんさん:

恐怖の大王7の月「9月説」は台湾大地震のことだったのでしょうか?
とんでもない事になりましたね。。。

う〜ん、どうでしょ。。恐怖の大王が地面割ってやってきたって感じですね。。。でも、ケータイで生存が確認されて救われた方もいたようです。自分のケータイはいつも電池が少ない状態になってるので、夜中は充電しておこうカナ・・・なんて思ってます(^^;


[27] 秋になりました 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/09/25(Sat) 23:30

ちょっと秋風にページを変更しました。
首を寝違えて、ちょっと痛いです(^^;
明日は、近所の高校の学祭に行ってきます〜。。。

三浦氏は奥が深いです・・・ガンバッてアップします!


[26] no title 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/09/20(Mon) 23:45

ダイエーが優勝するんでしょうか?
優勝すればダイエーが安くなる=秋モノが安くなる=うれしいですねぇ(≧∇≦)


[25] 難しいことばかり言って済みません 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:1999/09/20(Mon) 13:12

管理人さん、こんにちは

毎度毎度無理難題を言って申し訳ありません。
ところで、三浦氏のページを見させていただこうと思ったのですが、URLが一致されていないのでしょうか?エラー表示になってしまい、見れませんでした。恐れ入りますが、リンクのご確認をお願い致します。

臼井氏のホームページで久胤が甲州出兵に参加した際の功で氏直から仏像を拝領した話がありましたが、そう言えば、家にも分不相応な仏像がありますよ。30cmくらいの高さのわずかに金箔が施されたのが分かる作りで、近所の寺の住職がたまたま家に来た時に目敏く見付けて、住職の寺の本尊よりも立派なので是非とも譲って欲しいとか言っていたそうです(勿論譲ってはいませんが)。
作られた時期などは門外漢なので全く分かりませんが、江戸前期から確実に家に存在していたことは確かなようです。

江州さん、こんにちは。
三浦氏のリンクは張り直しておきましたので
ご覧下さい(^^;
でも、まだ全然できてませんので、、、


[24] 臼井儀大夫の項拝見しました 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:1999/09/19(Sun) 09:42

管理人さん、こんにちは
下総臼井氏のWEBページ拝見させていただきました。

甲府宰相の将軍後継で活躍した間部詮房は一躍大名になりましたから儀大夫にも汚名挽回のチャンスが到来したのでしょうね。
ところで、臼井秀胤の項で水谷家の改易の件で、当時の水谷家当主は勝美で、彼が死去した際に親族の水谷勝阜(かつおか)を末期養子に仕立てたものの、幕府には認められずに改易となったと書籍には書かれてありました。
結局幕府も水谷氏の功績を認めて亡き勝美の弟を取り立てて旗本にしたとありました。播州浅野家よりもずっと以前のことでよかったのかも知れませんね。それ以降だとそのまま潰されていたかも知れませんから・・・。

話を転じますが、水谷家の当主は備中松山の初代は勝隆で、二代目は勝宗でした。この二代の間に治水工事や新田開発を活発に行って、表5万石ながら実質十万石に近い非常に裕福な藩だったようですね。それでも何度か高梁川の氾濫に遭ってますので復旧は大変だったでしょうが。
私の家がここ関わりだったとすれば、二代目当主から戴いたかもしれない「宗」の字を代々通し字にしていたのも納得いくのですが、そうなると元禄十年以前に没した千葉宗仙の墓が備中にあってもおかしくないので、一度探しに行ってみる必要があるなあと思っています。(でも時間と先立つものが無くては(^^;)

また、話は変わりますが、千葉の系統は胤○、○胤で何か使い分けをしている傾向はないでしょうか?胤が先にくるのは一族で、当主は後にくるとか。何と無く本宗には○胤が当主名のような感じがするのですが。分かりましたらお教えください。(私のところの千葉が出た、あるいは逆に千葉から出た親戚の臼井家は近江移住後4代の間全て胤○を名乗っていますが、何か脈絡があるのか知りたいので)

久様、記念講演会は非常に興味を惹きますね。
千葉氏との密接な出会いはやはり福田豊彦先生の人物叢書「千葉常胤」でしたから・・・。
東京への出張でタイミングが合えば良いのですが、遠方のことでたぶん行けないと思いますので、また詳しいことや会の様子などを管理人さんにお願いしてアップしていただければ有り難いのですが。宜しくお願いしますね。

江州さんこんにちは。
宗家が○胤というように、胤があとにつくのは、鎌倉時代から室町中期にかけては、時の権力者からの偏諱によるためと思います。そして庶流は宗家から「胤」の書出を受けているのかもしれません。ただ、室町中期の関東の争乱の中で、公方家からの偏諱は消滅していきました。兼胤の嫡子の胤直の系統は胤が先につくようで、一種、公方家からの脱却のような意味があったのかも?それ以降の馬加康胤系は「長男(庶長子も含めて)」が○胤という名前がほとんどのようです。良胤・邦胤兄弟については、双子なので○胤なのかもしれないですね。ほとんどカンなんですが、うーん、むずかしいです。
千葉介時胤 →北条泰時か?
千葉次郎泰胤→北条泰時か?
千葉介頼胤 →九条頼嗣か?
千葉新介宗胤→北条時宗?
千葉介胤宗 →兄か父から一字書出をうけるか?
千葉介貞胤 →北条貞時?
千葉新介一胤→別名を高胤ともいっていたようで、北条高時からの偏諱?
千葉介氏胤 →足利尊氏?
千葉介満胤 →足利氏満か?
千葉介兼胤 →足利満兼か?


[23] 絵巻購読会記念講演 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/09/18(Sat) 15:31

管理人さんでしゃばって申し訳ありません。(^^;
本日購読会に行ってきました。
10月23日に行われます記念講演会の詳細をお知らせ致します。
本日、渡された内容をそのままお知らせ致します。
1.記念講演会…期日:平成11年10月23日(土)
〔第1部〕
演題:『源平闘諍録』の発刊にあたって
講師:福田豊彦氏(国立歴史民族博物館名誉教授)
時間:午後1時30分〜午後3時30分
会場:千葉市美術館講堂
〔第2部〕
演題:フリートーク(千葉氏に付いて)
講師:福田豊彦氏 他
時間:午後3時50分〜午後4時30分
会場:千葉市美術館講堂
2.懇親会
会場:千葉市美術館11階レストラン“カボチャワイン”
時間:午後5時30分〜午後7時30分
会費:3,000円

※記念講演会及び懇親会への出席申し込みは、往復葉書で住所、氏名、電話番号を記入の上、記念講演会、懇親会の参加希望を記入し〒261-0012千葉市美浜区磯辺8-10-5黒島方絵巻購読会事務局へ。(案内を返信してくれるそうです)
尚、記念講演会は会員、非会員を問わず無料だそうです。
申し込みが150名を超えた場合は抽選だそうです。
以上皆さんぜひ参加を!!

千葉さん、お久しぶりデス(^^)
10月23日でしたか!すっかり9月だと思いこんでました。
どうもありがとうございました!
混乱するといけないので自分の文書は消しておきます。

土曜日も学校なものでなかなかいけないのですが、
10月23日はがんばって行こうかと思っています。
宜しくお願いいたします。。。


[22] 絵巻購読会お知らせの訂正 投稿者:千葉 久 [月星] 投稿日:1999/09/18(Sat) 01:10

千葉 久ですお久しぶりです。
管理人さん記念講演は10月23日です。
それから記念講演参加費ですが、会員向けに出された文書の為、無料となっておりますが、第2部だけの参加の場合、無料なのか確認してお知らせ致します。
一昨日より仕事で京都、大津、金沢と行って来ました。
大津市の石山へ行ったついでに石山寺をお参りしてきました。
本堂は改修中で見る事ができませんでした。
1200年以前に開かれた由緒あるお寺である事と紫式部が源氏物語を書き上げた所として有名なお寺でした。
源氏の間として見る事ができました。
あと、印象的だったたのは毘沙門天像です。
以上ご報告まで。


[20] 臼井儀大夫のこと 投稿者:千葉江州 [丸に州浜] 投稿日:1999/09/16(Thu) 13:34

間部家といえば甲府宰相の家老に抜擢された能役者の詮房ですか。
後に主君が将軍になり、詮房自身も大身になりましたね。臼井秀胤はそれ以前に運良く浪浪の身から仕官したということでしたが、秀胤の子孫達もそのような幸運に恵まれて幕末まで全うできたということですね。
管理人さんもよく資料をお見つけになられましたよ。(拍手、拍手)
私の方は最近とんと伸展がありませんので、何の御連絡もできないでいます。残念なことです。(TT)

江州さん、こんにちは。
儀大夫のこと、ちょっと掲載してみました(^^;


[19] no title 投稿者:管理人 [丸に並矢] 投稿日:1999/09/14(Tue) 10:30

江州さん、こんにちは。
間部家の記録の中に、「臼井儀大夫」の記載は結構ありました。
どうやら留守居役や組頭、中老と並んで書かれる場合もあったようですが、
家老にはなっていないようです。宝永7年頃、「永遠慮」を命じられて
いますが、なにか大役を滞りなく勤めたことで許されています。
幕末には臼井家は京都の治安を守るために差し遣わされていました。


[18] no title 投稿者:石毛正明 [梅鉢] 投稿日:1999/09/10(Fri) 21:45

管理人殿
早速ご返事をいただき有難うございます。近隣図書館に海上一族の資料がないということですが、膨大な資料ですのでご住所がわかればお送りしたいと思います。
千葉県内で、郡名と町名に千葉一族の名称が残っているのは、東氏から分家した海上氏だけだと思います。海上郡(かいじょうぐん)海上町(うなかみまち)と読みます。

石毛さん、こんにちは。
海上頼胤(信濃守)に関する文書を見つけましたので、
アップしてみました。


[17] アメリカ永住権応募要綱 投稿者:服部 明子 [丸に並矢] 投稿日:1999/09/08(Wed) 23:13

10月4日から11月3日までの必着で5万人にアメリカの永住権の当たる抽選会が
行なわれます。

日本からも毎年数百人が当たっています。
発表は来年4月から7月の間に当選者へ。10月から手続き開始。
当選者は5万人だけではなく「倍以上」なので
5万人になったところで打ち切りとなりますから
早いもの勝ちです。

応募規定:

応募封筒は横が15センチから25センチ、縦が9センチから11センチの間の物であるこ
と。
封筒には左手上に名前と住所の上にJAPANと記入のこと。
これは出身国別に応募を分ける為でしょう。
それで「JAPAN」は封筒の表に2回書くことになります。

宛先は日本出身者用が:
DV-2001 PROGRAM
National Visa Center
Portsmouth, NH 00210
USA

応募用紙のサイズは8。5インチX11インチ(20。5センチX20センチ)

1)氏名: Hattori, Akiko(名字の下にアンダーラインを引くこと)

2)誕生日:25, December, 1969 (日、月、年の順番)←嘘800!
誕生日の下に誕生場所: Nagoya City, Aichi, Japan (市、県、国の順番で)

3)誕生地と出身国が違う場合記入。もし同じであれば N/Aと記入

4)配偶者や子供の情報(姓の下にアンダーライン)

Yamada, Taro 25, June, 1960 Kobe City, Hyogo, Japan

苗字、名前、誕生日、月、年、誕生市、県、国名の順で。

5)住所

1-2-3 Hikoma, Nagoya City, Aichi-Ken 456 Japan

6)写真貼付(6ヵ月以内の撮影の物。37ミリ四方で裏に応募者の名前を
活字体で記入しておくこと。セロテープで貼付のこと)

7)署名(筆記体でサインすること

以上

http://www.so-net.ne.jp/vivre/ascii/officefree/02/HealthCheck/index2.html


千葉氏トップ千葉氏の一族平良文の子孫千葉氏顕彰会リンク集

Copyright(C)1997-2006 S-Shibata. All rights reserved
当サイトの内容(文章・写真・画像等)を無断で転載することは固くお断りします。